ドシュトフロムンド戦記~少年と精霊と大地の果て   作:nocomimi

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世界の終わりの幻

リナハは目を開けた。

 

顔を上げると、周囲には白い霧が立ち込めているように見える。

 

水の中に沈んだはずなのに、寒くはない。かといって暖かくもないが。

 

立ち上がると彼女は改めて周りを見回した。

 

途方もなく遠くの向こうまで茫漠として何もない空間が広がっている。山や木々さえ見えない。

 

ふと恐ろしくなって寒気に襲われ、彼女は思わず自分の肩を両腕で抱いた。

 

空を見上げても、太陽も月も星も見えない。それなのに、光がどこからともなく射してきている。

 

死後の世界?

 

それに気づくと彼女はしばらく茫然としていた。

 

死んだんだ。うち、死んだんだ。

 

楽しいことは、少しだけだった。殆どは辛かった。苦しかった。だけど、終わったんだ。

 

本当は経験したいこと、やりたいことがたくさんあった。でもできなかった。

 

彼女は俯いた。だが不思議なことに涙はそれほど出てこなかった。

 

---リナハ----

 

どこからか呼びかけるものがいた。彼女は顔を上げると声のした方角を見た。

 

また聞こえた。女性の声だ。

 

初めて聞く声だ。だが彼女の名を呼んでいる。

 

ふと目を上げると、シルエットが見えた。

 

少女のように見える。細く華奢な体格で、ケープを纏っている。

 

目が慣れてくると見えてきた。短い髪。端正な美しい顔。だが、その顔にはあまり表情というものが見えない。

 

「誰?」

 

リナハは尋ねた。するとその少女は答えた。

 

「私はファイ」

 

リナハは不思議に思った。体格からするとリナハと年齢は大差ないように見える。だがその少女の声は落ち着いており、風格すら感じさせる。いや、というより、年齢を超越した雰囲気を纏っていた。まるで数百年生きているかのような老成ささえ漂わせている。

 

「あなた...もしかして...女神さま?」

 

リナハは聞いてみた。

 

「私はハイリアに仕える者の一人に過ぎません」

 

少女は答えた。そして尋ねた。

 

「リナハ....あなたは自分がどこにいるのかご存じですね?」

 

「待って」

 

リナハは言うと、尋ね返した。

 

「どうしてうちの名前知ってるの?」

 

「ハイリアは全ての人の名をご存じだからです」

 

その少女は答えると、周囲を指し示した。

 

「あなたの魂は今幽界にいます。あなたの肉体は物質界にありますが...」

 

「やっぱ、うち死んだんだね」

 

リナハは呟いた。失望と諦念が胸に込み上げてきた。その少女は答えた。

 

「現在の状態は正確には違いますが...あなたの肉体はいずれ滅びます」

 

「やっぱ死んだんじゃん」

 

リナハが言うと、ファイと名乗った少女は手招きした。

 

「こちらに来なさい。見せてあげましょう」

 

すると不思議なことに、リナハは自分が天に向かって急に上昇していくのを感じた。思わず恐怖が込み上げ、彼女はファイと名乗った少女の腕にしがみついた。

 

しばらく上昇すると、リナハは自分が地球を遥かに見下ろすところまで来たのを知った。

 

青い地球の上に白い雲がかかっている。目を凝らすと山脈や緑の平地が見える。

 

「リナハ、あなたは生前悪いものを受けました。ですが、これからはハイリアのもとで慰めを受けるでしょう」

 

生前?悪いもの?

 

リナハは思い出した。

 

母は気まぐれだった。リナハをしきりに可愛がり愛撫したかと思えば、突然叱責し折檻する。

 

子供には到底背負うことのできない大人の悩みごとについて延々と語り、慰めを求めてくる。

 

それなのに、リナハの訴えることには少しも耳を貸さなかった。

 

そして、急激にあることの記憶が蘇り、彼女は思わず目を閉じて顔を覆った。

 

伯父から受けた筆舌に尽くしがたい屈辱。

 

こちらを見る目つき。触ってくる手つき。言葉遣い全て。

 

リナハは啜り泣き始めた。

 

だが、ファイと名乗った少女はリナハの肩に手を置いて言った。

 

「しかし、あなたはハイリアを知っており、ハイリアもあなたを知っています。ですから、あなたの肉体は滅びますがあなたは幽界から私たちのところに来ることが許されます。そこではあなたの涙は拭われ苦しみは忘れ去られます」

 

「それって...天国....ってこと?」

 

リナハはまだすすり上げながらも、顔を上げて尋ねた。

 

「天国と人は呼びますが、それはハイリアと私たち精霊との永遠の交わりのなかにともにあるということです」

 

「本当に?」

 

リナハはすすり泣くのをやめた。その目が輝いた。

 

だがすぐに彼女は思い出した。

 

フロウはどうなるのだろう。フロウのことも忘れてしまうのだろうか?

 

「見なさい」

 

ファイと名乗った少女は言った。

 

リナハは顔を上げた。見ると、遥か眼下に見える地上がみるみるうちに拡大されて見えた。彼女は再び恐怖を感じてファイと名乗った少女にしがみついた。

 

「これから世界が辿る運命をあなたに見せましょう」

 

ファイが言う。訳が分からず、リナハはファイの横顔を見た。だがそこからは何の表情も読み取れない。

 

だが、遠くから轟音が聞こえてきてリナハは視線を地上に戻した。そして彼女は目を見張った。

 

空から地面に向かってとてつもない大きさの水の塊が落ちていく。まるで山脈が丸ごと落ちていくようだった。

 

幾つもの水の塊が地上にぶちまけられる。視線を移すと、海も溢れていた。浜辺の村落が一瞬で高波に呑み込まれていく。

 

やがて大水は都市部にまで到達した。背の高い塔や城が、それを上回る凄まじい大波によって席巻され、崩壊していった。

 

「あなたはこのことが起きる前に幽界に迷い込んだのです」

 

ファイは言った。リナハは目にしたことが信じられずに呟いた。

 

「ど...どういうこと?世界が無くなっちゃうってことなの?」

 

「再出発する、ということです」

 

ファイがリナハの顔を見て答えた。だが彼女はまだ信じられなかった。

 

「再出発....って...だって...だって.........」

 

リナハは口を両手で押さえながら言った。

 

「だってあれじゃみんな死んじゃうじゃん。人間だけじゃなくって生き物たちも.....」

 

「致し方ないことなのです」

 

ファイと名乗った少女は答えた。

 

「世界は取り返しのつかないほどに汚されてしまいました。人の心から始まり、その汚れは自然界にまで浸透してしまったのです。こうする以外に回復の方法はないのです」

 

リナハはそれを聞いてもまだ口を手で覆っていた。驚愕と畏れで震えが止まらない。

 

「ですが、案ずることはありません。ハイリアは心にかなう人達を既に逃れさせました」

 

ファイが言う。

 

「彼らは時が来れば地上に戻り、世界を再建するでしょう...そして、願わくば、今度は正しい形で」

 

リナハは再び少女の顔を見た。「再建」という言葉には、だが、リナハにとっては希望の音色が感じられなかった。

 

「ねえ...ひとつ聞いていい?」

 

リナハは遠慮がちに尋ねた。ファイは黙ってリナハの顔を見た。

 

「フロウは...ギルモおじさんは...どうなるの?」

 

それを聞いたファイは前を向いてしばらく沈黙していた。リナハは重ねて尋ねた。

 

「うちの名前知ってるんだったら...女神さまはフロウのこともギルモおじさんのことも知ってるはずだよね?」

 

「知っています。ですが....」

 

ファイは少し間を置いて答えた。

 

「人の運命については、その人のものを告げることしか私たち精霊には許されていません」

 

「ねえ、きっとフロウとギルモおじさんは、その...『心にかなう人達』に入ってるんだよね?そうだよね?」

 

リナハは構わず尋ねた。だがファイは沈黙していた。

 

「だって...フロウはうちを守ろうとしてくれたんだもん。ギルモおじさんだっていい人だし」

 

だがファイと名乗った少女は答えなかった。

 

「ねえ、何とか言ってよ。知ってるんでしょ?意地悪しないで」

 

それでもファイは答えなかった。リナハは俯いた。

 

「わかったよ、もう」

 

その瞬間だった。リナハの脳裏にある考えが浮かんだ。

 

さっき、地上の近くの様子を見ることができたんだ。きっと、フロウたちのこともここから見えるはずだ。

 

彼女は精神を集中すると地上に目を凝らした。

 

昔寺子屋で見た王国の地図を頭に浮かべる。やがて、眼下の広大な地形から、ラネール、オルディンそしてフィローネの三つの地方からなる王国の地形と一致する場所が見つかった。

 

リナハはフィローネに目を凝らした。南西にフロリア湖があるはずだ。

 

陽光を浴びて輝く水面が見える。あそこだ。

 

その周辺にさらに目を凝らす。白く丸い水面から、大木までの間にある細い路地が見えてきた。

 

路地を辿る人影が見える。ここまで来ると、ハッキリとは見えない。

 

だが、その人影は四つあった。

 

間違いない。

 

顔を上げると、リナハはファイと名乗った少女を見た。

 

「ねえ...洪水っていつ起きるの?」

 

ファイは答えた。

 

「ハイリアが定めたときです。全てはハイリアの手の中に委ねられています」

 

「ねえ、ファイ...待ってもらえないの?まだあの四人がいるから...知らせなきゃ!」

 

だがリナハの言葉にファイは首を振った。

 

「リナハ、これはハイリアの多くの計らいにより決まったことです。ある人達は選ばれ、別の人達は選ばれずに残ります。しかし、全ての人はいずれ生前に受けたもの、行ったこと、そして信じたことに応じてハイリアの前で裁きを受けます」

 

ファイは静かに続けた。

 

「あなたはハイリアのもとに迎えられます。別の人の運命はその人に属する事柄です」

 

「待って!....だって、フロウは...フロウは....」

 

リナハはファイにしがみついた。

 

「フロウはうちを助けようとしてくれた!うちはそれを知ってて、フロウを置き去りになんかできないよ!」

 

だが、ファイと名乗った少女は沈黙していた。

 

「置き去りになんかできないよ...だって...生まれて初めて、うちを守ってくれたひとだもん」

 

リナハは目に涙を溜めて俯いた。

 

「うち......せめてここにいてフロウを見守りたい。だって、きっとフロウもうちのことを心配してると思うから。さよならなんかできない。絶対にできないよ」

 

「リナハ...あなたは進むか留まるかを決めなければなりません。あなたの行く先はあなたが選択することができます。ですが...」

 

ファイはリナハの肩に手を置いた。

 

「あなたは永遠にここに留まることになるかも知れません。それでもよいのですか?」

 

それを聞いたリナハは目を見開いた。そしてしばらく考えた後で言った。

 

「それでもいい」

 

リナハは相手を見据えた。

 

「それでもいい。私、ここにいてフロウのこと、ずっとずっと見てる。うち、あいつのためにそれぐらいしかできないから」

 

それを聞くとファイは再び前を向いて沈黙した。長い時間が流れたような気がした。

 

* * * * * * * * * * * * * * * * * *

 

やがてファイはゆっくりとリナハのほうへ向き直った。

 

「……リナハ」

 

その声は、先ほどまでの無機質な響きとは違い、わずかに揺らぎがあった。

 

「あなたは留まるという選択をしました。これはあなたの自由意志によるものです」

 

「うん。わかってる」

 

ファイはリナハの瞳をじっと見つめた。その瞳の奥にあるものを確かめるように。そしてファイは静かに目を閉じた。

 

「では、あなたの選択を、尊重します」

 

リナハは顔を上げた。

 

「じゃあ……ここにいていいの?」

 

「はい。あなたは留まる者として、この幽界から地上を見守ることができます」

 

「……ありがとう」

 

ファイは首を横に振った。

 

「リナハ、あなたが留まることで、別の道が開かれる可能性があります」

 

「別の道?」

 

リナハは当惑して尋ねた。ファイが答えた。

 

「その道が開かれるかどうか、私には分かりません。しかし私はこれからハイリアのもとに参ります。このことをどう扱うかについて、その判断を仰ぐために」

 

「女神さまのところに行くのね」

 

リナハは言った。そして懇願した。

 

「ねえ、ファイ。どうか女神さまに伝えて?フロウとギルモおじさんを助けてって」

 

「伝えましょう」

 

ファイは答えると、ケープをはためかせてふわりと浮上した。

 

「ありがとう、ファイ。本当にありがとう」

 

リナハは相手を見上げて礼を言った。

 

「それに....女神さまにも伝えて?うちみたいなただの子どもの祈りを聞いてくれて、ありがとうって」

 

ファイはリナハの顔を見下ろした。その顔にはやはり表情というものがなかった。

 

「あなたの祈りは確かにハイリアに伝えられます。わたしたち精霊、そしてハイリアもまた、ある『掟』のもとにあるからです」

 

ファイが言う。リナハは聞き返した。

 

「『掟?』何なのそれ?」

 

「その『掟』とは..... ........です」

 

ファイが言う。リナハには聞き取れなかった。

 

「よくわかんない。なんて言ったの?」

 

だがファイはそのまま上昇していった。リナハは再び、霧の立ち込めた平原に取り残された。そして、彼女の意識もまた薄れていった。

 

意識が薄れていくなか、彼女の脳裏にファイの言葉の聞き取れなかった部分だけがいつまでも反響していた。

 

まるで、人間には理解できない周波数で語られた言葉のように。

 

そしてリナハは静かに倒れ込むようにして幽界の白い大地に身を預けた。




ちょっと冬休みに入ります!再開は1月5日を予定。皆さまよいお年を。
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