その老人ホームには、奇怪な老人が一人いた。
「あ、またあの人」
「不気味ね……今日もあそこで何か描いてる」
その老人ホームはこの辺りでは一番大きく、そして一番評判が良いことで有名だった。
住宅街から徒歩数分も離れていない、山のふもとにあるその建物は介護用の施設というより貴族の屋敷のような立派な建物だった。清潔感がある白を基調とした建物で、大通りに面した道から覗けば手入れが行き届いた芝生とベンチ、そして広い駐車場があり、その周りをぐるりと大きく一周囲むように鉄製の柵が備えられている。
施設に勤める職員も皆親切で優しく、痴呆や足が動かなくなった老人達の世話を一生懸命やってくれると、この施設に親族を預けた子供や孫達からも大評判だった。
ただ、この老人ホームには、数年前から奇怪な老人が一人いた。
「…………」
パジャマ姿で頭頂部は禿げ上がっている。目元にはほくろかおできかも分からない大きな黒点がぽつんとくっついており、そして顔中には深い皺が刻まれた。
彼は朝の7時、施設から抜け出してこの駐車場に一人でやってくる。
その足はおぼつかなく、触れただけで倒れてしまいそうなほどふらふらと頼りない。風が吹けばパジャマ服が揺れ、皮と骨だけと言えるような瘦せ細った体が見えてしまう。
針に刺されただけで死んでしまうかのような老人は、駐車場にやってくるとその辺に落ちていた小さな石を拾い上げた。小さなコンクリートの破片のような石を、細い骨にしわくちゃになったビニールを無理やり覆いかぶせたような指で拾い上げると、彼はそのまましゃがみこんでコンクリートの地面に石をあて、何かを書き始めた。
しゃがみこんだままがりがりと音を立てて、書くというより削るように地面に何かを書き込み始める。
その様子は、通りに面した道からよく見えた。登校中の小学生、犬の散歩をしていた主婦、これから仕事に赴く為に出勤する男が乗った車からも。
老人が地面に何を書いているかは誰もわからない。石は削れて白い粉となり、それがコンクリートの地面に現れる。
一見すると老人が書き続けてるそれはただの数式のようにも思える。
法則性はなく、1から10の数字を乱雑に書き連ねたかと思えば、子供が作ったような、この世にはない奇怪な文字か、あるいは記号か。それすらもわからない模様を複雑に乱雑に書き連ねている。
なのに、老人の手によどみはない。
さっきまでは石を持つ指も見てる自分達が不安になるぐらい不気味に揺れていたのに、文字を書き始めた途端その揺れはぴたっと止まり、力強く文字を書き始める。
男は雨の日以外はいつも毎朝、その謎の行為を止めなかった。
雨の日は地面が濡れて文字が書けないので、その日だけは老人は外に出てこない。
けれどそれ以外の時は必ずと言っていいほど駐車場に現れては文字を書き続けている。もう何年も。
「職員さん、止めないの?今日気温、35度超えるって」
「止めてもやめないらしいのよ。それに、ある程度書き続けると満足してやめるから放置してるんだって」
その日も、老人は地面に文字を書いていた。
そして、おそらく老人にしか理解しえないであろうその数式は100行以上にも渡って書き続けられ、やがてその落書きの末は小学生でも分かる数字の羅列でいつも終わる。
20260804
これは余談なのだが。
その老人は見た目100歳を超えると思えるほどのよぼよぼで、意思疎通もまともに取れない、その上食べ物も流動食しか摂れない男なのだが。
彼の年齢は実はまだ40代であることを知る者は、この辺りには皆無だった。