カーテンの隙間から差し込む朝日が、これほど恨めしく感じたことはない。
昨夜、絶叫の果てに泥のように眠りについた景太だったが目が覚めても現実は何一つ変わっていなかった。
アラ「おはようございます。ケータくん。実に清々しい朝ですよ」
枕元では、すでに身だしなみを完璧に整えたアラスターが、軽快なジャズの音色を微かに響かせながら優雅に立っていた。その手には、どこから持ってきたのか赤いコーヒーカップが握られている。
景「おはよ……」
景太の声は消え入りそうなほど細い。
枕に顔を埋めたまま、昨日の光景がフラッシュバックする。フリル、レース、そして世界中に拡散された自分の「泣き顔」。
SNSでは「奇跡の美少女」の正体探しが過熱し、どこの誰が漏らしたのか、ついに「さくらニュータウンの天野景太」という名前までが特定されてしまった。
ピク「そりゃ、落ち込むわよね。あんな醜態晒したら。今やあんた、ネット上じゃ時の人よ。海外の有名セレブまでが『この子を私のブランドに!』なんて呟いてるんだから」
景「……放っておいてよ。もう一生、外に出たくない……」
重い体を引きずって着替えを済ませたものの、景太の瞳からは完全に光が消えていた。そんな絶望のどん底にいる彼を呼び戻したのは、階下からの母親の声だった。
景母「ケータ! お友だちが来たわよ」
景「……友達?」
怪訝に思いながらリビングへ降りていくとそこには心配そうな顔をした文花と、その傍らで宙に浮くウィスパー、そして少し緊張した面持ちの少年マオが立っていた。
景「二人ともいらっしゃい。……どうしたの、そんなに改まって」
マオ「おはよう、ケータくん。今日は……君たちに、どうしても話しておきたい大事なことがあって来たんだ」
マオはいつになく真剣な表情をしていた。景太がアラスターと共にソファに腰掛けると、マオは真っ直ぐに二人を見つめた。
マオ「君たちは、僕のこと……聞いたことがあるはずだよね」
アラ「ええ。妖魔界の頂点、エンマ大王の息子。実に、実に興味深いお方ですね」
アラスターが影の中からじろりとマオを見つめる。その瞳に宿る不敵な光に、文花が少しだけ身を引いた。
景「アラスター、一旦落ち着いて。……マオくん、それで、話っていうのは?」
マオ「……自分がエンマの息子だって聞いた時、最初は僕も信じられなかった。でも、小さい頃から他の人には見えないものが見えたり、不思議な感覚があったりしたんだ。それを考えると、納得するしかなくてね」
マオは一度言葉を切ると、ポケットから一つの古い装飾が施された鍵を取り出した。
マオ「それでね、今朝変な夢を見たんだ。……ケータくんとフミちゃんと一緒に、どこかへ出かける夢を」
マオの話によれば、夢の中の三人はおおもり山の奥深くへと向かっていた。そこでマオが昔から持っていたそのカギを使い、妖怪たちが住む異世界へと旅立つ内容だったという。
ウィス「それは……! まさか、妖魔界への扉を開く伝説のカギではございませんか!?」
マオ「夢を見てから、どうしてもそこに行かなきゃいけない気がして……。確信はないけれど、僕たちの運命がそこで動いているような気がするんだ。だから、二人にも一緒に来てほしい。できれば……フミちゃんのオバケと、ケータくんの悪魔たちと一緒に」
マオの真っ直ぐな瞳に、景太の沈んでいた心に少しだけ熱が灯った。世界中に女装がバレたという絶望も、友の危機、そして世界の異変を前にすれば、今は横に置いておくしかない。
文「当然、私も行くわ! 私の妖怪ウォッチが、昨日からずっと変な反応をしてるの。きっと何かあるんだわ」
景「……そうだね。オレも行くよ。マオくんがそこまで言うなら、放っておけるわけないし!」
二人の快諾を受け、アラスターが愉快そうにステッキを回した。
アラ「改めて自己紹介を。私は『アラスター』と申します。以後、お見知り置きを」
ピク「あたしは『ピクシー』。ま、あんたがエンマの息子ってんなら、少しは面白いことが見られそうね」
ウィス「そして私が、文花様の敏腕妖怪執事『ウィスパー』と申します! うぃす! マオくん、その夢はただの夢ではありません。恐らく、私たちの知らない場所で妖魔界に重大な異変が起こっている証拠です!」
アラ「『時は金なり』と言います。あだ花を咲かせる前に、現地へ行って確かめてみましょう」
全員が力強く頷いた。マオは安堵したように微笑み、おおもり山の方角を指差した。
マオ「夢で見たのは、おおもり山の神社の、もっと奥に行った場所だ。大きな、大きな木があった」
景「……それって、御神木のことだね」
文「あそこなら、全ての始まりの場所だわ……!」
ピク「ヨシ! そんじゃとっとと準備して出発! 世界中に名前が売れた有名人さんも、今日ばかりはヒーローに戻ってもらわなきゃね」
景「ピクシー、余計なこと言わないでよ……!」
少しだけいつもの活気を取り戻した一行は、不穏な空気が漂い始めたおおもり山へと向かって走り出した。
現実の世界と妖魔界。その境界が揺らぎ始めていることに、彼らはまだ気づいていなかった。
おおもり山。その神社の右側にひっそりと佇む古い鳥居の前に、彼らは立っていた。
辺りは昼間だというのに木々が深く重なり、静謐というよりは、どこか現実離れした奇妙な空気が漂っている。
マオ「ここだ……。夢に出てきた場所、間違いなくここだよ」
マオがポツリと呟き、鳥居の向こうを見つめる。その瞳には、自分の血筋に対する確信と、未知の世界への不安が入り混じっていた。
マオ「夢の中の僕は、この先にある御神木から、妖怪たちが住む世界に行っていたんだ」
文「……御神木から? そんなことが本当にできるの? ウィスパー」
文花が隣に浮遊する執事に問いかけると、ウィスパーは仰々しく人差し指を立てて胸を張った。
ウィス「うぃす! マオくんの仰ることは、まさに真実でございます。そこにあるのは『妖怪エレベーター』。人間界と妖魔界を繋ぐ、いわば次元の架け橋のようなもの。百聞は一見にしかず……まずは現地へ行ってみましょう!」
一行は、神社のさらに奥、巨大な御神木が鎮座する広場へと歩を進めた。
目の前に現れたのは、途方もない年月を生き抜いてきたであろう、圧倒的な威厳を放つ巨木だった。だが、周囲を見渡してもエレベーターらしきものはどこにも見当たらない。
文「本当に、こんな普通の……いえ、大きな木の中から妖怪の世界に行けるのかしら」
景「アラスター。……何か感じるか? 普通の人間には見えない仕掛けがあるんだろ?」
景太が問いかけると、アラスターは不敵な笑みを浮かべ、ステッキでコツコツと地面を叩いた。
アラ「そうですね……。どうやらこのあたりに、我々のような『異物』を呼び寄せるための呼び鈴が埋まっているようです」
アラスターが革靴の先で特定の地面を強く踏みつける。
その瞬間、地響きと共に地面が割れ、そこから中サイズの古びた石柱がズルズルと生え上がってきた。その側面の上部には、古めかしい鍵穴が口を開けている。
ウィス「さあ、マオくん。出番でございます。そのカギを使って、扉を呼び覚ましてください!」
マオは頷き、震える手でポケットから取り出した黄金のカギを、石柱の鍵穴へとゆっくり差し込んだ。
カチリ、と静かな音が森に響く。
次の瞬間、御神木全体が眩い紫の光に包まれた。巨木の幹の表面が波打つように変形し、そこから重厚な石造りの両開きの扉が、まるであつらえたかのように姿を現した。
チーン……
どこか間の抜けた、しかし不思議と心地よいチャイムの音が鳴る。
すると、扉の影から一人の女の幽霊妖怪が、ふわりと浮き上がってきた。
フゥ「はぁ〜い♪ こちら妖魔界行きの妖怪エレベーターでぇす♪」
現れたのは、一度見たら忘れられないほど奇抜なヘアスタイルと、顔の真ん中に大きな一つ目を持つ妖怪、「フゥミン」だった。
紫色の肌に、はだけた着物からは豊かな胸元が覗いており、その妖艶な姿に景太は一瞬、目のやり場に困って顔を赤らめる。
ピク「……出たわね。見た目はいいけど、あいつに気に入られたら最後、死ぬまで眠らせてもらえなくなるわよ。関わらないのが吉ね」ヒソヒソ
景「……えげつない妖怪だな、おい」ヒソヒソ
フゥ「あらぁ? 今日は随分と賑やかなお客さんね。可愛い女の子に、人間の男の子……それに、あら。奥にいるのは地獄の……うふふ、素敵じゃない♪」
フゥミンはアラスターを見て一つ目を妖しく輝かせたが、仕事は忘れていないようだ。彼女が指先を鳴らすと、石造りの扉がゆっくりと左右に開いた。
ウィス「さあ、皆さん! 妖魔界まではあっという間の旅でございます。迷っている暇はございません。行きましょう!」
マオを先頭に、文花、景太、そしてそれぞれの相棒たちがエレベーターの中へと乗り込む。
フゥミンが最後に妖艶な笑みを浮かべて扉を閉めると、御神木の内部は一転して、重力を感じさせない不思議な上昇感に包まれた。
エレベーターの床が震動と共にゆっくりと降下していく。
ガタン、という軽い衝撃と共に停止し、石造りの扉が左右に滑り出した。
フゥ「妖魔界でございまぁす♪」
フゥミンの艶やかな声に導かれ、一行は一歩、外へと踏み出す。
そこには、人間界の常識では計り知れない幻想的な光景が広がっていた。
目の前に広がるのは、巨大な蓮の花がいくつも浮く静かな湖。その中央を貫くように伸びる石畳の通路の両脇には、季節外れの桜がどこまでも一列に並び、淡い光を放ちながら舞い散っている。
そして通路の前方には、威厳に満ちた和風の屋根を冠する巨大な門「大妖魔界」と刻まれた文字が、訪問者を威圧するように輝いていた。
景「ここが……妖魔界……」
景太は圧倒され、言葉を失う。どこか懐かしく、けれど背筋が寒くなるような、不思議な魔力が大気に満ちている。
文「なんだか、とっても不思議な所ね。空の色も、お花の色も、人間界とは全然違う……」
マオ「……夢で見た場所と、一緒だ。でも、それだけじゃない。なんだか、ずっと昔からここを知っていたような、懐かしい感覚がするんだ」
マオがポツリと呟くと、隣に立つアラスターがその鋭い瞳を細め、愉快そうに口角を上げた。
アラ「ええ、当然でしょう。たとえ記憶を封じられていても、魂に刻まれた『故郷』の残滓までは消せませんから。エンマ大王の息子としての器が、この地の魔力に呼応しているのですよ」
ウィス「うぃす! ここは古くから様々な種類の妖怪たちが肩を寄せ合い、独自の文化を築いてきた場所。フミちゃんたちからすれば見慣れない光景でしょうが、我々妖怪にとってはこれぞ本場、故郷中の故郷でございます!」
ピク「……ったく、感傷に浸るのはそのくらいにしなさい。あの確実に不味そうな白いゲソ野郎はこの奥よ。とっとと終わらせて、こんな不気味な場所、おさらばするわよ!」
ピクシーの辛辣な言葉に、一同は苦笑しながらも気を引き締め、門へと向かって歩き始めた。
一行がエレベーターを離れようとしたその時、背後からフゥミンの鈴を転がすような笑い声が届いた。
フゥ「気をつけてね、みんな」
景「うん、案内してくれてありがとう!」
景太が素直に振り返って礼を言うと、フゥミンは「フフ♥」と妖艶に微笑み、大きな一つ目をパチンと閉じさせた。
誰が見ても明らかな、強烈な色気を孕んだウィンクだった。
景「……今、アラスターに向けてウィンクしたね。やっぱり、あっちの世界の女性にもアラスターはモテるんだなぁ」
ウィス「そりゃアータ。あの『ラジオデーモン』なんでぃすから。いつの世も、女性はああいう危険でワルな雰囲気を纏った紳士に魅了されるものでございますよ。ケータくんにはまだ早い大人の世界でうぃすね!」
納得したように頷く景太と、したり顔で解説するウィスパー。しかし、その背後では全く別の会話が交わされていた。
ピク「……ちょっと、今の見た? 完全にケータに向けられてたわよね……」ヒソヒソ
ピクシーが呆れたように、アラスターにだけ聞こえる声で囁く。アラスターは肩をすくめ、嘲笑を浮かべた。
アラ「ええ。彼には無自覚に、我々のような不可解な存在や、魔的な魅力を解する者を惹きつける才がありますからね。本人が『普通』だと信じ込んでいるのが最大の喜劇ですが」ヒソヒソ
二人の鋭い洞察の通り、フゥミンが向けた熱い視線の先は、アラスターではなく、紛れもなく「天野景太」だったのだ。
そんな「魔性の普通少年」である景太の鈍感さに、事情を察したマオは苦笑いを浮かべていたが、もう一人、全く別の感情を爆発させている者がいた。
文「…………」ムスッ
景「……? どうしたの、フミちゃん。なんだか怖い顔してるけど……」
文「別に。……なーんにも。ただ、鼻の下伸ばしてないで早く行きましょうって言いたいだけよ!」
文花は顔をしかめ、ぷいっと横を向いて早歩きで門へと向かってしまう。
景「えぇっ!? 鼻の下なんて伸ばしてないよ! ……一体、何に怒ってるんだろ?」
景太は不思議そうに首を傾げるばかり。
その後ろ姿を見つめるピクシーとアラスターの視線は、もはや哀れみすら含んでいた。
人間界を騒がせた「絶世の美少女モデル」としての自覚もなければ、上級妖怪に見初められた自覚もない。そんな鈍感な主人の背中を追い、一行はついに妖魔界の心臓部へと足を踏み入れるのだった。
大妖魔界の巨大な門をくぐり抜けると、そこには果てしなく続く一本道の通路が伸びていた。「えっけん回廊」と呼ばれるその場所は、かつては荘厳な空気を纏っていたはずだが、今はどこか寒々しく、道の先へ進むほど不気味な「白」に侵食されている。
何が待ち受けているか分からない不穏な気配を察し、文花は手元の妖怪ウォッチを構えた。
文「ジバニャン、お願い! 出てきて!」
召喚されたジバニャンは、欠伸をしながらも周囲のただならぬ空気を感じ取り、鋭い目つきで拳を構える。
ジバニ「……なんだか鼻がムズムズするような、嫌な気配がするニャン」
一行が警戒を強めながら通路を進んでいくと、霧の向こうから二つの影が実体化した。現れたのはオロチとキュウビ。二人は立ち塞がるようにそこにいた。
オロ「マオ……来たか」
マオ「オロチ……それにキュウビまで」
キュ「この場所へ自らの足で辿り着いたということは、覚悟を決めたんだね。……その瞳を見れば分かるよ」
マオは力強く頷いた。自分の中に眠るエンマの血、そしてこの歪み始めた妖魔界を正さなければならないという使命感が、彼を突き動かしていた。
しかし、オロチは厳しい表情を崩さないまま、予期せぬ言葉を口にした。
オロ「……だが、マオ。君は今すぐ人間界に帰るべきだ」
マオ「っ!? どうしてだい? ここまで来て、今更……!」
オロ「君がエンマ大王の正当なる後継者だからだ。現在、妖魔界を支配せんとしているイカカモネにとって、君の存在は最大の障壁であり、同時に最高の利用対象だ。奴が君に何を仕掛けるか、想像もつかない。
……君を失うわけにはいかないのだ」
静寂が通路を支配した。マオは拳を握り締め、葛藤に身を焦がす。友を危険に晒して自分だけが逃げるのか、それとも自分の存在が更なる混乱を招くのか。
そこへ、ウィスパーが仰々しく前に躍り出た。
ウィス「心配には及びませんよ、マオくん! イカカモネ議長だか何だか知りませんが、我らがフミちゃんたちにかかれば、あんなイカ野郎を倒すなど朝飯前でうぃす! 貴方の力が本当に必要になるのは、全てが終わった後の、新しい妖魔界を築く時でございます!」
ジバニ「そうニャ。ここにはラジオデーモンだっているんだから、マオは安全な場所で待ってるのが一番ニャン」
仲間の強い言葉に、マオは深く息を吐き、ようやく顔を上げた。
マオ「……分かった。みんなを信じるよ。僕は人間界で待ってる。……必ず、無事で戻ってきて」
オロ「賢明な判断だ。マオは私が責任を持って送り届けよう。お前達……イカカモネを頼むぞ」
オロチが印を結ぶと、彼とマオの姿は青白い炎に包まれ、瞬く間にその場から消え去った。
静まり返ったえっけん回廊に、アラスターの低い笑い声が響いた。
アラ「おやおや。ついに主役が舞台を降りましたか。妖魔界と人間界、二つの世界の運命が残された我々の肩にかかっている。これは責任重大ですねぇ……」
アラスターはステッキを回し、ノイズ混じりの笑みを深める。その真っ赤な瞳には、この絶望的な状況を心底楽しんでいるような狂気が宿っていた。
アラ「……ふむ。面白くなってきました! ですが……これはいけません。私としたことが、すっかり失念しておりましたよ」
アラスターは唐突に動きを止めると、ゆっくりと景太の方へ向き直った。その気配が、これまでとは比較にならないほど重く、甘美な圧力を帯びて景太を包み込む。
一歩…。
また一歩……。
アラスターは影を揺らしながら景太に近付き、その顔を覗き込むようにして囁いた。
アラ「ケータくん……」
スタティックなノイズが景太の耳元で弾ける。
アラ「……私と契約しませんか?」
ウィス「待ってください! いくら親密になったからって、契約は別でぃすよ!!」
ウィスパーが叫び、必死に景太の前に立ちはだかる。ジバニャンもまた、鋭い爪を立ててアラスターを牽制した。
文「……確かに。アニメや本で見る『悪魔の契約』って、なんだかすごく怖いイメージがあるよね……」
文花が不安そうに呟くと、隣にいたキュウビが、いつになく真剣な面差しで首を振った。
キュ「怖いなんてもんじゃない。悪魔の契約は絶対だ。それは等価交換という名の呪縛なんだよ。願いの大小に比例して、対価も跳ね上がる。……時には命さえ、さも当然のように要求されることだってあるんだ」
文花の顔が、一気に青ざめる。しかし、アラスターは不敵な笑みを崩さないまま、ラジオノイズを混じらせて声を一段と低く沈ませた。
アラ「そこのキツネくんの言う通り。……ですが、私が今回提案しているのは、そんな生ぬるい『取引』ではありませんよ。
……私が行うのは、『魂の契約』です」
その瞬間、キュウビとジバニャンの毛が、まるで電気を通されたかのように逆立った。
キュ「『魂の契約』だと!? 貴様……少年に何をさせるつもりだ!」
キュウビは景太を背中に隠すように一歩前へ出ると、震える声でその意味を説き始めた。
景「普通の契約と何が違うの?」
キュ「まったく違う。悪魔との普通の『取引』ならまだ救いがある。それは特定の条件を守るだけの、いわば一時的な約束事に過ぎない。
だが、『魂の契約』は……自分の存在そのもの、魂の所有権を相手に売り渡すということだ!」
キュウビの瞳に、強い警戒の色が浮かぶ。
キュ「魂を売れば、君はもう君自身のものじゃなくなる。契約者は悪魔の『私有物』になり、魔法の鎖で永遠に縛られるんだ。24時間365日、どんな残酷な命令でも拒否できず、魂を吸い尽くされるまで飼い殺しにされる……。地獄では所有する魂の数が『魔力』に直結する。コイツは、君を食い物にして自分の勢力を広げようとしているんだ!」
話を聞き終えた文花は、あまりの恐ろしさにガタガタと肩を震わせた。アラスターの真っ赤な瞳が、暗闇の中でらんらんと輝く。
アラ「さて、どうします? ケータくん。……私という『オーナー』に、全てを委ねる覚悟はありますか?」
キュ「少年、絶対に契約するな! 言いくるめられるんじゃない!」
一同が息を呑み、沈黙が回廊を支配した次の瞬間。
景「いいよ!」
ウィス「あっさり即答!!?」
あまりにも軽い景太の返答に、ウィスパーは白目を剥いてひっくり返り、キュウビは呆然として固まった。
景太はまるで「明日遊びに行こう」と誘われた時のような、あっけらかんとした顔で笑っていた。
文「ケ、ケータくん……!? 今のキュウビくんの話、聞いてた!? 魂を売るんだよ!?」
景「うん、聞いてたよ。でもね、アラスター……。
オレは、君なら信じられるって思ったんだ」
景太はゆっくりと、アラスターの真っ直ぐな視線を見つめ返した。
景「だって、アラスター。君はオレの家にホームステイして、一緒に過ごしてくれた。大事なスーツをボロボロにされて、あんなに不機嫌だったのに……オレが無理を言ってアドラメレクを連れてきた時も、最後はちゃんと話を聞いてくれたよね」
景太の言葉に、アラスターの笑みが一瞬だけ止まる。
景「君がただオレを利用したいだけなら、あんなに楽しそうに笑ったりしないはずだし夏休みの宿題だって3日で終わらせるように手伝ってくれた……。他にも沢山、返しきれないほどに……。
オレが女装させられて世界中に恥を晒した時だってさ、本当にお腹を抱えて笑ってたでしょ? 悪いけど、あんな風に笑うやつが、主人の魂を冷酷に吸い尽くすだけの『悪魔』だなんて思えないんだよね」
景太は一歩、自らの足でアラスターの前へ歩み寄った。
景「悪魔とか人間とか、そういうのはよく分かんない。でも、オレたちはもう、ただの『召喚者』と『悪魔』の関係じゃないだろ? ……友達、って言うと君は嫌がるかもしれないけど。でも、オレは君のことが好きだよ。だから、君がオレの魂を必要だって言うなら……それが君の力になるなら、別にいいよ。君なら、オレを悪いようにはしないって信じてるから」
少年の、あまりにも無垢で、かつ絶対的な信頼。
アラスターの常識をも揺るがすようなその返答に、回廊のノイズが激しくかき乱された。
アラ「……ハハ……。ニャハハハハ……!! まさか、この私に対して『信じられる』などと言う人間に出会うとは……」
アラスターの顔に浮かんだのは、いつもの嘲笑ではない。
自分でも制御しきれないほどの愉悦と、未知の感情に突き動かされた、真に「恐ろしい」笑みだった。
アラ「いいでしょう。見返りとして、もしもの時は貴方と……貴方の大事なものは、この私が責任を持って守り抜くと約束しましょう。では―」
アラスターがスッと掌を上に向けると、そこから音もなく、黒い紐で巻かれた古びた羊皮紙が実体化した。彼はその紐を解き、景太の前で一気に広げて見せる。
アラ「この契約書に全て目を通してから、サインを」
景「う、うわっ……な、長い……!!」
景太の目の前に広げられたのは、床を転がり、回廊の先まで続いていきそうなほど長い紙だった。そこには、おどろおどろしいカリグラフィーのような文字で、びっしりと契約条項が書き込まれている。
景太は目を白黒させながら、なんとか内容を追おうとする。「魂の抵当権」「次元間移動における損害賠償」「悪魔的干渉の免責事項」……。頭の上に「???」が浮かぶのを隠せない。
ピク「うわぁ……多いわねぇ。アンタビビってんじゃないの?」
ピクシーがニヤニヤしながらアラスターをからかう。だが、アラスターは彼女のからかいを意に介さず、別の羊皮紙をピクシーの鼻先に突きつけた。
アラ「当然です。というか! あなたもナビゲーターなら、ちゃんと目を通しておいてください。あなた用の項目もありますからね」
ピク「はぁ!? あたしの分まであるの?」
アラ「今回を含め、今後何が起こるか分からないですからね。不測の事態で契約が履行されないなど、あってはならない。今後のためにも、契約の穴はできる限り埋めておかなければなりません。それがプロの仕事というものです」
ピク「だからこその、この量ってわけね……。あんた、意外とキッチリしてるっていうか、マメすぎるのよ」
ピクシーは呆れたように肩をすくめ、呪文のような文字列を高速で読み解き始めた。一方の景太は、半分も理解できていない様子だったが、最後に書かれた「信頼」という言葉だけを信じて、アラスターから差し出された羽ペンを握った。
景太が震える手でサインを書き終えると、羊皮紙は青白い炎に包まれて消滅した。
アラ「……よし。では、極めつけの握手を。これで全てが完了します」
アラスターがスッと差し出した手が、鈍い緑色の光を放ち始める。その光は、まるで底なし沼の奥底から湧き上がる怪しい燐光のようだった。
景「うん、よろしくね! アラスター」
景太は一点の曇りもない笑顔で、その手を躊躇なく握った。
ドォォォォンッ!!
握り合った瞬間に、回廊全体を揺るがすような黄緑色の衝撃波が吹き荒れた。
景太の足元からは、見たこともない複雑なブードゥー教の紋章が浮かび上がり、周囲には苦悶の表情を浮かべた怨霊の幻影が、歌い狂うようにぐるぐると渦を巻く。
文「な、何これ……! これが悪魔の契約……!?」
あまりの光圧に文花が目を細めた瞬間、彼女は見た。
景太と手を取り合うアラスターの頭上に、巨大で禍々しい「鹿の角」が枝分かれして伸び、その影が背景の空を覆い尽くさんばかりに巨大化する様を。それは、普段の紳士的な姿からは想像もつかない、地獄の支配者としての真の威容だった。
だが、その恐ろしい光景は一瞬で霧散した。
アラ「さて! 契約も済みましたから行きましょう! ボスの根城へ」
景「うん、行こう! なんだか、体がちょっと軽くなった気がするよ!」
何事もなかったかのように歩き出す景太。その能天気な様子を見て、ピクシーは「はぁ……」と呆れたような笑いを漏らして後を追う。
キュ「……信じられない。あんな禍々しい儀式を経て、どうしてあんなに普通でいられるんだ……」
ウィ「ケータくんのお人好しも、ここまで来るともはや恐怖でうぃす……。あんな恐ろしい笑顔の悪魔と、笑顔で手を繋ぐなんて……」
ジバニ「……もう、どうにでもなれニャン」
一行は景太とアラスターのあまりに異質で、それでいて完成されたコンビネーションに溜息をつきながら、えっけん回廊のさらに奥、イカカモネ議長が待ち構える最深部へと足を進めるのだった。
きょうの悪魔大辞典
アラ「ケータくん。きょうの悪魔は?」
景「「夜魔サキュバス」」
文花が景太とサキュバスの話し合いのやりとりをジト目で見ていた。
アラ「サキュバスはヨーロッパ各地の伝承に残る悪魔で、男性にとりつくと夜な夜な淫らな夢をみせて堕落させ、精を貪ります」
ピク「美しい女性の姿をしてるけど本当は醜い老婆だと言われてるのよ。だからジェラシーにならなくてもいいのよ」
文「別に!」プイッ
アラ「いえ、本当に安心してもいいと思いますよ」
景太は平成を装っているがサキュバスを一人の若い女性として接するか、お婆ちゃんとして優しく接するが迷ってる様子だった。
ピク「これじゃ、間違っても一線は越えないわね」
アラ「しかも彼女、それを利用して遊んでますね」
文「………」
これはこれでなんか複雑と思った文花であった。