勇者、それは人類の生存圏を維持する者。
当代の勇者は人間ではなく、亜人と蔑まれたサキュバスのリリスだった。
その生き様は汚辱か献身か。
これは、傷ついた勇者が魂の理解者と結ばれ、真の輝きを取り戻す物語。

※ヒロインの過去設定等に地雷要素を含みます。読む前に必ずタグと前書きをご確認ください。

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【読者の皆様へ:事前のご注意】

本作はTS(女→男)主人公によるヒロイン救済が主題ですが、ヒロインには不特定多数からの搾取を受けていた過去(非処女設定)があります。

物語の主軸は「尊厳の回復」と「ハッピーエンド」ですが、設定に苦手意識のある方はブラウザバックをお願いします。











サキュバスの勇者と前世女のエリート魔導士

 北の国境は、いつもよどんだ空に覆われている。

 吹き荒れる暴風雪は、人の体温など一瞬で奪い去る。

 

 補給線を兼ねた天幕の裏で、アレンは顔をしかめて歩を早めた。

 分厚い天幕の隙間から、男が一人、気だるげに出てくるのが見えたからだ。視線に気づいた男は、バツが悪そうに目を逸らし、乱れたベルトを締め直しながら、逃げるように去っていった。

 入れ替わりに、天幕の中から声が漏れ聞こえる。

 

「……次」

 

 酷く乾いた声だった。

 壊れた人形のような響き。

 リリスの声だ。

 

 腰まである銀色の髪と、背中に黒い翼を持つ勇者(・・)

 本来ならば、亜人(あじん)が勇者の座に就くことなどあり得なかった。だが今は背に腹を代えられない。

 天幕から漂う空気は、神聖さとは程遠い。

 それを見て見ぬふりすることが、この戦場での不文律だった。

 

 胃からせり上がるものを、アレンは必死に飲み込んだ。

 

 前世の記憶が、喉元をざらつかせる。列に並ぶ男たちの目が、どこか自分にも向けられているような気がした。

 それ以上に、彼女が心を殺して戦場の「機能」に徹している姿が耐えられなかった。

 

 胸の奥で渦巻く魔力が、答えを急かしている。

 ただ、それを届ければ済む話だ。なのに、どうしても足が向かない。

 そうすれば自分も「あちら側」になる——その想像だけで息が詰まった。

 

(俺は……見たくない)

 

 逃げるようにその場を離れた。

 背後で再び、天幕の入り口が開く音がした。その音は重く、耳にこびりついた。

 

 

  * * *

 

 

 その日の戦闘は地獄だった。

 雪の中から現れたのは、砦そのものが歩いているかのような氷の巨人の群れ。物理攻撃を弾き、生半可な魔法を吸収してしまう厄介な相手だ。

 

「退避だ! 進行方向に対し垂直に陣をしけ! 魔法障壁を展開しろ!」

 

 隊長の怒号が響くが、暴風にかき消される。

 アレンは必死に杖を振るう。

 有り余る魔力によって桁外れなはずの炎の魔法も、分厚い表皮を溶かすには至らない。

 

(くそっ……!)

 

 巨大な氷の拳が、空を覆い隠すように振り下ろされた。

 障壁の展開が間に合わない。

 圧死を覚悟した、その時だった。

 

「下がってなさい!」

 

 凛とした声と共に、銀色の残像が走る。

 リリスだ。

 彼女はアレンを突き飛ばし、振り抜かれつつある巨人の拳に斜めに着地、そのまま反対方向へ宙を舞う。

 

(なんて動きだ)

 

 驚嘆も束の間、巨人はそのままの勢いで回転し、地面に倒れた。

 多くの大きな雪の(かたまり)が舞い上がり、地面が弾け、崩れはじめる。

 リリスの手が伸びてくるが、そこに、亀裂に足を取られた別の巨人が倒れ込んで来た。

 

「あぁあああ!」

 

 骨の砕ける音が響く。

 防御魔法すら展開する間のない、完全な不意打ちだった。

 二人はそのまま雪崩に巻き込まれ、崖下へと転落していった。

 

 

  * * *

 

 

 目を開けると、薄暗い洞窟の中だった。

 外では猛吹雪が唸りを上げている。

 

「……勇者?」

 

 洞窟の奥、岩壁にもたれてリリスが座り込んでいた。

 その姿は無惨だった。

 自慢の翼は片方が半ばから千切れ、白い肌は青ざめ、刻一刻と体温が奪われている。

 

「無事、だったのね……あなた」

「喋るな。すぐに治癒を……」

 

 アレンが駆け寄ろうとすると、リリスは拒むように体を縮めた。

 

「来ないで」

「何を言っている! このままじゃ死ぬぞ」

「いいの。……あなた、私に触りたくないでしょ?」

 

 アレンの手が止まる。

 リリスは焦点の定まらない瞳でアレンを見つめ、力なく笑った。

 

「知ってるわ。あなたが私のこと、ずっと軽蔑してたこと」

「……それは」

「みんな、私を見る目は欲望で濁ってる。でも、あなただけは違った。汚いものを見るような、冷たい目」

 

 震える吐息が白く漏れる。

 

「……故郷の村が焼かれたあの日から、私は体を武器にした。どんなにさげすまれても、どんな汚い手を使っても、魔物を根絶やしにできるなら、それでいいって」

 

 勇者の仮面は剥がれ落ち、膝を抱えた姿は傷ついた子供のようだった。

 

「でも、……怖かった。痛いのも、気持ち悪いのも、もう嫌……」

 

 涙がこぼれ落ちる。

 その言葉は、アレンの胸に鋭い杭のように突き刺さった。

 

(汚れているのは、どっちだ)

 

 あさましさを突きつけられたような衝撃が走る。

 前世だの、生理的嫌悪だの——そんな言い訳で、命を張る彼女を孤独に追いやっていたのは自分だ。

 

 アレンは奥歯を噛みしめ、震えるリリスの前にひざまずいた。

 

「……すまなかった」

「え……?」

「俺は、お前の強さに甘えていただけだ。……俺の精気を使え」

 

 驚愕(きょうがく)に見開かれた瞳がアレンを見る。

 

「何言ってるの? あなた、そういうの嫌でしょう? 無理しなくていい、そんな同情……」

「同情じゃない!」

 

 アレンは眉を寄せて叫んだ。

 

「俺を使え。あいつらとは違う——お前を満たせる」

 

 懇願(こんがん)だった。

 リリスの喉がごくりと鳴る。

 呼吸が荒くなり、瞳が揺らいだ。

 

「……ごめんなさい」

 

 瞳孔(どうこう)が妖しく縦に割れる。

 

「私、あなたを壊してしまうかも」

「構わない」

 

 次の瞬間、アレンは押し倒されていた。

 

 

 

 冷たい岩床に背中が打ちつけられる感触。リリスの銀髪が顔にかかり、雪の匂いが鼻をくすぐった。

 

 唇が重なった瞬間、全身が沸騰(ふっとう)したように熱くなる。

 

「ん、っ……!」

 

 甘い吐息がもれ、冷え切っていた彼女の唇にかすかな温もりが宿る。

 アレンは反射的に腰を抱き寄せた。細い体が震え、翼の残骸(ざんがい)が背中でばたつく。

 

(これが……)

 

 ドクン、ドクンと心臓が早鐘(はやがね)のように打ち鳴らす。

 膨大な魔力が、魂の根源から吸い上げられ、リリスへと注がれていく。

 彼女の瞳が妖しく輝き、縦に割れた瞳孔(どうこう)がアレンを捕らえる。

 

「うう……、ごめんなさい……でも、もう止められない」

 

 リリスは泣きながらささやき、指先でアレンの胸をなぞる。

 触れられた箇所から、熱い脈動が広がる。魔力回路が共鳴し、青白い光が二人の間で揺らめく。

 

 アレンは薄れゆく意識の中で、冷たかった肌を抱きしめた。

 指先から伝わるやわらかな温もりが、徐々に全身に広がっていく。

 リリスの吐息が熱を帯び、背中の翼が微かに震える。

 

(ああ……こんなにも)

 

 魔力が奔流(ほんりゅう)となって流れ込む。

 ぼんやりと沈む意識の中、幾度となく、リリスの嗚咽(おえつ)と謝罪が響いた気がした。

 

 やがて二人の鼓動が重なり、洞窟を静かな光が満たした。

 

 

  * * *

 

 

 翌朝。

 嵐は去り、空には冷たい青が広がっていた。

 洞窟の外へ出たアレンは、目を疑った。

 

 昨日、あれほど苦戦した氷の巨人の群れが、跡形もなく消滅している。

 あたり一面に広がるのは、魔物の残骸(ざんがい)だけ。

 その中心に、リリスが立っていた。

 

 折れかけていた翼は完全に再生し、今まで見たこともないほど大きく黒々と輝く。

 肌は透き通るように白く、全身から溢れ出る魔力が陽光を受けてゆらめいていた。

 

「……すごい」

 

 立っているだけで空気がきしむ。圧に耐えきれず、アレンは後ずさりしかけた。

 リリスがゆっくりと振り返る。

 昨日までの陰りも悲壮感も、そこにはなかった。

 

 指先を一閃させると、残っていた巨大な氷塊が砂のように崩れ去った。

 

 圧倒的で、美しく、そして残酷なほどの強さ。

 アレンは震える体でその姿を見つめた。

 

 かつて抱いていた負の感情は、溶け去っていた。

 胸を満たしていたのは畏敬(いけい)と、奇妙な高揚感だけだった。

 

「行きましょう、アレン」

 

 リリスが手を差し伸べる。

 その瞳は、もうアレンから目を逸らしていなかった。

 

「ここから始めるのよ」

 

 アレンは、その手を取った。

 伝わる温もりが、空っぽになった魔力回路を心地よく満たしていく。

 

「……ああ、行こう」

 

 二人は並んで歩き出す。

 広大な雪原の向こう、まだ見ぬ戦場へと続く道を。

 あの天幕の、重い扉の音は、もう二度と聞こえることはない。

 


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