時間は遡り、アワードの賞金獲得直後の7月末。
賞金だけで金銭問題が解決できるわけではないけど、それでも道は見えたような気がしていた。
やはり小夜子も、制作をしているほうが生き生きとしている。
4月に作品を出展してからの3カ月近くは、ちまちまと塗料を合成したり、FRP(繊維強化プラスチック)を削ったりして時間を潰していたけど、ようやく本領発揮だ。
今は3種類のシリコン樹脂を電子秤で計測して、塗料を混ぜ合わせている。大量に使う時は撹拌機を使うけど、今は大きめのボウルくらいの量なので、ゴムベラを使っている。
気泡が入らないように、ゆっくりと一定の速度でボウルの壁面をこそぎ落とし、底面からひっくり返すように混ぜ合わせていく。
普段の生活では不器用な小夜子が、こんな時だけ音もたてずに流れるように動いているのは見ていて面白い。
そしてそれを真空脱泡機に入れてスイッチを入れる。低いモーター音と共に、中の樹脂が空気の泡によって膨れ上がっては、泡が弾けてしぼんでいくのが見える。その様子は生き物が大きく呼吸をしているようだった。
やがて細かい泡まで出尽くすと、表面は滑らかな艶を帯びてくる。
それを複数用意して、同じ型に流し込むことで、皮膚の内部の色むらを再現しているのだった。
ラブドールの素材として使用されるシリコン樹脂は硬化が始まるまで30分くらいと言っていたから、脱泡機にかけてもまだ余裕はある。
小夜子は型の中で、シリコン樹脂を慎重に配置していた。
完全に硬化して型から外せるまで8時間ほどだ。
「おまたせ」
作業を一段落させて、小夜子がニトリル手袋をゴミ箱に投げ入れて、手を洗う。
アトリエ内はエアコンが効いているとはいえ、手袋の中は蒸れるのだろう。
私としても、外の暑さから室内の涼しさに慣れて、汗が引いてきた頃だ。
シリコンや塗料を扱う関係上、アトリエ内は年間を通して、気温、湿度共に一定に保たれている。それは低く流れる機械の駆動音と相まって、安全な母胎の中を思わせた。
「アイス買ってきたよ」「ありがと」
そんな、いつも通りの言葉が交わされる。
このところ、私は毎週のように小夜子のアトリエを訪れていた。
小夜子は比較的安定した仕事である、映画会社からの制作依頼を全て断って、独自にラブドールを制作販売するという道を選んだ。
その決断を、どんな形でもいいから応援したかった。
小夜子にはラムレーズン、自分の分は抹茶味だ。
ラムレーズンのアイスは、食に無頓着な小夜子の、数少ない好物の一つだった。
最初にラムレーズンのアイスを食べさせた時には、目を見開き、「すごい。大人の味がする」と感動していた。
それ以来、お酒の飲めない小夜子はこれがお酒の味であり、大人の味だと思っている。その後しばらくは「何食べたい?」と聞くと「ラムレーズン」と答えたものだった。
今ではラムレーズンは食事には含まれないと理解したようだけど。
そして、アイスを食べ終わると、今度は桃のフレーバーティーを渡した。
ちびちびと飲み始めるので、「どう?」と聞くと「・・・桃の味がする」と答えた。
その様子では、お気に入りにはならなかったようだ。
『これもハズレ・・・』と内心、バツ印を付ける。
まぁ、滅多にお気に入りにならないからこそ、それを見つけた時の喜びも大きいというものだ。
「そうだ。作品の販売方法考えたんだけど、こんなのでどう?」
私が小夜子の様子を見ながらアイスコーヒーを飲んでいると、小夜子はそう言って、一冊のノートを持ってきた。
制作のアイディアや、よく分からない調合レシピの中に、作品の販売方法が断片的に書かれていた。
説明文があちこちに分散していたり、何度も棒線で消されたりしているのを見ると、かなり四苦八苦しながら考えたことが伺えた。
それを小夜子が指差しながら説明してくれる。
「ラブドールは一点物で、300万」
思わずコーヒーを吹き出しそうになる。
「300万!?」
それは私の知っているラブドールの価格帯を遥かに超える高額商品だ。
「そう」
小夜子は平然としている。
でも、アワードに出した作品が、結局このくらいの費用が掛かっていたから、同レベルのものを販売するとすれば、妥当な値段となるだろう。
それに販売用のサイトはアワード出展の時と同じ『制作者M』名義で作ってある。当然、制作者Mから買おうとするのだから、同レベルの商品が期待されるだろう。
「販売の流れは、まず販売用のサイトで下見の予約をしてもらう。予約は一日二組だけ。午前一組、午後一組ね。それぞれ2名まで。こうすれば、下見に来た人たちが他の人たちと顔を合わせることはないから、安心して見に来れる」
「確かにね。どんなにすごい作品でも、アダルト商品として売るんだもんね・・・」
そこが小夜子のこだわりで、アワードには美術品として出展して最優秀賞を取ったけど、実際に販売するのは、美術品ではなく、あくまで『実用目的のラブドール』であるというところは譲らなかった。
「でもそれだと、延々と下見の対応してなきゃいけないよ。下見を抽選にするの?」
「下見は有料にする。時間は30分で、料金は30万」
小夜子は平然と言った。
「はぁ? 下見って、見るだけでしょ? それで30万?」
「そう。こうすれば本気で買いたい人しか来ない。前払い制で入金した人にだけ、下見の場所と日時を教える。あと、この時に銀行口座のコピーとかで、300万の支払い能力があることも確認する」
「確かに買う気のない人間は除外できるだろうけど・・・」
「実際に買う時にはその下見料を前金として、差額の270万を払ってもらう。でも、買わなくても返金はしない。購入希望者が複数いた場合は抽選になるけど、その抽選に外れた場合も返金はしない」
下見の段階で徹底的にハードルを上げて、選別しようってことか・・・
「下見の会場だけど、これは適当な貸会議室とかでいいと思う。真ん中にソファでも置いて、商品を座らせておく。法に触れないように、大事な部分はきちんと隠しておく。柵とかは設置しないから、どれだけ近付いてもいいけど、触っていいのは手だけ。同じ室内に警備員か何かを置いて、客だけにはしない」
「まぁ、これで全裸とか言ったら、わいせつ物公然陳列罪になるからね」
小夜子もうんうんと頷く。
その辺は小夜子も調べて、ギリギリのラインを選んだのだろう。
「もちろん会場内は写真、動画の撮影、録音厳禁。入り口でスマホとかは預からせてもらう」
「ますます下見のプレミア感が出そうね」
「そして下見の後で、購入の意思があれば、誓約書と応募書類に記入してもらう」
「誓約書って?」
「購入後の譲渡・貸出不可、不要時は必ずこちらに連絡して回収を受けること、自身の社会生活に留意すること、自身や周囲への影響に対して自身で対処すること、日常生活に支障をきたす精神的な不調が継続していないこと、とかかな」
「・・・このラブドールを買って、おかしくなる可能性があるってこと?」
「それは人に寄るでしょ。まぁ、覚悟して買う人間は、簡単にはそんなことにはならないと思うけど」
小夜子は何か含みを持たせた言い方をした。
「抽選に当たった人には、当選の連絡から3日以内に、残金を指定の弁護士に預けてもらう。期間を過ぎたら、購入権喪失。再度抽選を行う。そうして、弁護士への入金が確認できてから、商品を引き渡す。それを弁護士に確認してもらって、私が弁護士からお金を受け取る。エスクロー方式って言うんだって」
「メルカリやヤフオクみたいなことを個人でやるってこと?」
「?」
例えが悪かったか・・・ 多分小夜子はメルカリもヤフオクも知らない。でも、そういうことのはずだ。
「大体の流れは分かったけど、下見の会場設営とかはどうするの?」
「それはイベント運営会社に依頼するつもり。会場は狭いし、客は1日4人までで、商品とは離れた場所で見てるだけだから、そんなに費用はかからないはず。私もその場に立ち会って、何か質問があれば答える」
「小夜子も下見会場に行くの?」
外出嫌いの小夜子が、狭い会場内で、見ず知らずの人間と会えるのだろうか・・・
「商品の説明する人は必要でしょ。無関係な人間に任せるわけにはいかないし」
「じゃあ、私も一緒に行く。会場の受付くらいはできるし」
それに世間知らずな小夜子を、もう一人で男と合わせるわけにはいかない。
「そう? そうしてもらえると安心」
小夜子はにっこりと笑う。
「運営会社の目途は付いてるの?」
「それはこれから。とにかく倫理的にも騒がれるだろうから、それでも受けてくれるような所を探す。あとは守秘義務が徹底できるとこ」
「そうだね・・・ アングラ専門のマイナーなとこならあるかもね」
「とりあえず、決まってるところまで、更新しておいてもらえる?」
「はいは~い」
税理士試験の合間にやっていたホームページ作成スキルが意外なところで役立っている。
小夜子は休憩を終えて、別のパーツの制作に入ったし、私もここで更新してしまおう。その方がすぐに確認してもらえるし。
作業台の一つを借りて、ノートパソコンに販売方法を打ち込んでいく。
購入までの流れと、それぞれの注意点を、分かりやすく書かなければならない。
一通り書いた後で、語尾を整え、余計な言い訳は入っていないか、誤解される表現は無いかなどを確認していく。
内容や金額を考えれば、炎上は覚悟の上だ。それでも、本当に欲しいと思っている人には、誠実に言葉を届けなければならない。
あとは、内容が更新されたと一目で分かるように、トップページの写真も変えておこうか。今まではアワードに出展した『完璧な肌』の写真だったけど、今度販売するラブドールの写真に変えた方がいいだろう。
「小夜子、今作ってるラブドールの名前は?」
「・・・X-02」
「そんな名前で出すの? もっとこう、人名っぽいのかと思ってた」
「ただの習作で、人でも何でもないから。名前を付けたければ、買った人が付ければいい」
「なるほど、それもそうか・・・ ホームページに載せるために、そのX-02の部分写真欲しいんだけど、どこか撮っていい部分ってある?」
そう言われて、小夜子は困ったように作品を眺める。
「まだコーティング終わってないから、写真は出してほしくないんだけど・・・ 写真あった方がいい?」
「じゃあ、全体的にぼやかして、『制作は進んでいますよ』って分かる程度にするから」
「うん、それならどこでもいいよ」
そう言われ、私は全体のサイズ感や、髪型の分かるスナップを何枚か撮った。
それをトップページに張り付けて、タイトルは・・・ 『X-02 近日発売』とかにしておこうか。
私はそんな感じでホームページの更新を終えたけど、その反応はすぐに現れた。
SNSは各方面からの反応で炎上状態、すぐにまとめ記事まで作られた。
【話題】一点物ラブドールの発売発表! 下見必須&抽選制で1体300万 SNS騒然!
先の現代美術造形アワードで最優秀賞を獲得した『制作者M』氏の一点物ラブドールの発売が発表され、ネット上で大きな話題となっている。
販売価格は300万。
事前予約による下見が必須で、一組2名までで、時間は30分。下見費用は30万。
■ネット掲示板・SNSの反応まとめ
「Mのラブドール、1体300万ってマジかよ・・・ しかも下見は見るだけで30万。都市伝説すぎる」
「1体300万はアートオークションとしては妥当かもしれないが、売ってるのはラブドール。倫理的にどうなの?」
「美術評論家はどう見てるんだろう。アートとして認めるかどうかで真っ二つになりそう」
「倫理面の批判は避けられないだろうけど、M本人は戦略としてやってそう。プレミア感で話題作りは完璧」
「Mの作品はそのうち出るとは思ってたけど、300万のラブドールとは・・・」
「アートではなく、ラブドールと明言してるのが潔い。下手に芸術家ぶってる連中より、よっぽどまし」
「ラブドールに300万払うヤツいる? いるんだろうな・・・」
「誓約書の内容がヤバイ。『社会生活に留意すること』って、なんか怖」
「結局は富裕層向けの性的商品。誓約書は法的リスクからの言い逃れ用」
「手元に300万ないと、下見さえさせてもらえないの、ハードル高すぎ。徹底的にふるい落としに来てる」
「なんか、芸術とか倫理とかぐちゃぐちゃになってる気がする」
「Mの作品のクオリティで300万はむしろ安い。ブランド維持やエスクロー方式も高評価」
■まとめ
・驚きと話題性:300万の一点物、予約下見制、抽選制
・都市伝説化:SNSで拡散、憶測、プレミア感が一気に加速
・倫理的議論:性対象としてのリアルすぎる人体表現、アートか性的商品かの境界
ネット上では「高額体験イベント」「都市伝説」「アートと性商品の境界」といったキーワードで盛り上がりを見せている。
実際の下見、販売開始まで、さらに話題が加速する可能性が高い。
まぁ、大体予想通りの反応と言ったところか。擁護派も声を上げてるのが意外な気もしたけど。
そんな中で、小夜子のラブドールを送られた久我が、精神依存から強制入院させられる事件、いわゆる「K事件」が報道される。
どういった経緯で久我がそのラブドールを手にしたかは、世間では明らかになっていないけど、小夜子の作るラブドールが精神的なものにとどまらず実生活にまで強烈な影響を及ぼすということは明白なものになった。
当然、SNSでの反応は興味、好奇心から、恐れ、非難へと変わっていった。
@citrus_salt
Kが持ってたのって、「完璧な肌」ってホント?
どうしてそんなとこにあったんだ・・・
@kuro_neko_04
「先月の展示会に出展されていた人間そっくりの人形」でもう確定
所有から一カ月で精神崩壊とか、もうホラーだろ
@nebusoku_honban
「人生を奪うラブドール」とか言われてて草
ホラー映画の広告かと思ったわ
@hitori_asa
「社会生活に留意すること」とか笑ってたけどマジなのかよ
これ壊れる前提で販売しようとしてるってことでいいの?
@dr_sawamura_psy(精神科医・依存症臨床)
今回のケースは人形が「代替的愛着対象」となったと考えられます。
リアルな人間関係であれば、拒絶・摩擦・距離の揺れが起こりますが、人形ではそれが全く起きません。
関係が一方的に理想化され、依存が固定化され、現実調整が働かなくなります。
誓約書の内容はその流れを示唆するものであり、倫理的議論は避けられないでしょう。
@tokage_3g
現実調整が働かないって、まさにこのケースじゃん
@kagehumi_note
最初から所有者が壊れることも織り込み済みってこと?
法規制まだ?
@komekomekomeko
展示された時には「人間と造形の壁を壊す革新的作」とか言われてたけど、実際に壊してきた
人間の精神の方を・・・
@9o9_coffee
これはもう人間を破滅させるための実験
Kは弱かったから壊れたんじゃなくて、壊すための材料にされただけ
こんなの普通に地獄だろ
@ethics_lab_morita(倫理学/近現代思想・人間関係論)
「代替的他者」を作り出す行為は、特定の人間関係を設計することです。
K氏の状態はその関係の帰結と言えます。
誓約書の内容を見る限り、制作者はかなり明確にその帰結を予見していたと判断できます。
倫理的責任は極めて重いでしょう。
@pppp_yo
まだMのラブドール販売のホームページあるんだけど、なんなの?
自殺志願者の募集なの?
ネット上では批判が殺到し、販売サイトはすぐにダウンした。
そんな状況の中でも、小夜子は平気な顔をしていた。
「無関係な人間が、無関係なことで騒いでるだけ」
そう言って、黙々とX-02の仕上げ作業を行っていた。
そのアトリエの片隅に置かれたソファには、アワードの主催事務局から返却された『完璧な肌』X-01が座っていた。
久我がこの作品をどのように扱ったか、この作品に何をしたかなど考えたくもなかったけど、その作品は相変わらず、いや、送り出される時よりも美しく思えた。
小夜子はアトリエに帰って来たX-01をお風呂に入れてきれいに洗うと、白いブラウスを着せて、ソファに座らせたのだった。
無機質なアトリエの中で、その一角だけは華やいだ空気に満ちているような気がした。
そして数日後、完成したX-02の写真を鮮明なものに替え、枚数も増やしたうえで、下見予約のフォームを立ち上げると、そこでもまた騒ぎが起こる。
でも、SNSなどで騒ぎが大きくなればなるほど、実際の購入希望者は淡々とした反応になる印象だった。
一回目の下見会は、とあるビルの一角にある貸会議室で行われた。
ビルの入り口にも、貸会議室にも何のイベントかなどの表記はない。内容を知っていて、了承した人間だけが訪れる、秘密の空間だ。
会議室の扉の前にはイベント運営会社の社員が、黒いスーツ姿で立っている。向こうから「下見に来た」と伝えると、室内に通してくれるようになっている。
扉の中にはパーテーションで区切られた、受付スペース。ここには長机に、私と補助スタッフが一人いるだけで、何の飾りっ気もない。
指定した時間になると、会議室の扉がノックされ、運営スタッフが「こちらへどうぞ」と一人の男を案内してくる。
入って来た男は40代後半くらいだろうか。何となく予想していた年代よりも上だった。一目で分かる身なりの良さで、落ち着いた態度は人にかしずかれることに慣れているようだった。
運営スタッフはすぐに室内から出て、再び扉を閉める。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます。まずはこちらで、お名前とご本人確認をさせていただきます」
来訪者が差し出した免許証で名前を確認し、リストにある『北見』という名前にチェックを入れる。
「下見の時間は30分。作品で触れられるのは手の部分だけになります。その他の部位は衣装も含めて、触れないようにお願いします。また、会場内で撮影、録音等はできません。質問等がございましたら、中にいる別のスタッフにお声がけください」
私は下見の予約フォームに記載されていることを繰り返した。
来訪者は無言で頷いている。
「では、どうぞ」
軽く手を添えて促すと、来訪者は恐る恐るといった様子で、パーテーションの奥へと進む。
中の様子を見て、一瞬、来訪者が息を呑むのが分かった。
会議室の真ん中にぽつんと置かれた一人用のソファ。
そこに深々と腰を下ろした半裸の美女が、静かな微笑で来訪者を迎える。
柔らかな照明の下、かすかに呼吸をしているようにさえ感じられる。
室内の壁際には一応の身なりを整えた小夜子がパイプ椅子に座って控え、その対角線上には運営スタッフの男性が立っている。
いずれも目を合わせることもなく、距離を置いているため、来訪者は自分と美女の二人だけの空間に没入できる。
すでに来訪者からは社会的な仮面が剥がれ落ちている。そこにいるのは、ただの一人の男でしかなかった。
来訪者は息を殺しながら、美女に近づいて行く。
どれだけ近付いても、作り物とは思えないリアルさがあった。自分は騙されているのではないか、実は本当の人間で、自分を驚かそうとしているのではないか。
そんな風に思っているのが、手に取るように分かる。
来訪者はゆっくりと握手をするように、美女の手に触れる。
その手からは、柔らかな皮膚と手の平の繊細なしわ、手の甲の筋や血管、その下の筋肉や骨格まで、はっきりと伝わってくるはずだ。
来訪者は一旦手を離し、ズボンで手汗を拭ってから、再び触れている。
「あの、この皮膚はどれくらいの耐久性が・・・」
来訪者が小夜子の方を振り向いて、そう質問する。
「人間と同様に扱ってください。傷を作ってしまった場合には、有償になりますが、補修も行います」
小夜子が小さい声で答えると、室内は再び沈黙の支配する空間になる。
恐らく、来訪者が望んだような答えではないのだろうけど、それで納得し、来訪者は再び美女の方に向き直る。
そして、じっと無言の対話が続けられる。
その沈黙の時間こそが、30万の価値だった。
そして30分が経過すると、私は控えめに声を掛ける。
「お時間です。こちらへお願いします」
来訪者は名残惜しそうに、もう一度美女に触れると、パーテーションの中に戻って来る。
「本日の下見を踏まえて、購入の意思がある場合のみ、こちらの書類にご記入いただくことになります。購入希望者が複数おられる場合は、抽選とさせていただきます。これは無作為の単純抽選で、こちら側の意思、判断が反映されることはありません。また、公平性を保つため、抽選に関するお問い合わせには、お答えできません」
これも下見の予約フォームに記載されていることの繰り返しだ。
来訪者はそれを頷きながら聞いていた。そして私が言い終わると、震える声で小さく言った。
「・・・500万出すので、彼女は私に譲ってもらえないだろうか」
一体何を言い出すのかと、私は内心驚いてしまう。300万でもかなりのものだと思うのに、500万とは・・・
「購入方法は規約に書かれている通りです」
私は動揺を抑えながら言う。
それが冷たい印象となったのだろう。
「失礼した。忘れてくれ」
来訪者はごくりとつばを飲み込み、備え付けのペンを手に取って、書類に記入していく。
来訪者の手はかすかに震えていた。
私は渡された書類の記載内容に不備が無いかを確認して、受け取った。
「抽選の結果はメールでお知らせいたしますので、しばらくお待ちください。本日はありがとうございました」
そうして一回目の下見は終わった。
私と小夜子はシルクを敷いた、キャスター付きの簡易ストレッチャーを持ち込み、X-02をそっと横たえ、眠っているような彼女にシルクの覆いをかけてやる。
そしてエレベーターで地下駐車場に降り、私のSUVに乗せると、会場を後にした。
「もっと目を血走らせたような、怖い人が来ると思ってたけど、意外と普通の人たちだったね」
私はX-02をX-01の隣に座らせながら言う。
このアトリエにいる半分が半裸の美女だと思うと、おかしな気分だった。
「多分、向こうも私たちのことを、同じように思ってたんじゃない?」
小夜子はX-02の手を、ぬるま湯に浸した布で丁寧に拭きながら応える。
「SNSとかで、さんざんカルトだとかアーティスト気取りの人形屋とか言われてたもんね」
私はそういった反応にいちいち腹を立てていたけど、小夜子は『私たちが相手をするのは、無責任な言葉じゃない。私たちの相手は責任ある対応ができる人だけ』と言って、完全にスルーしていた。
それにそういった批判的コメントや『K事件』として報道された久我の件も、マイナスだけではなかった。
今日の午後の予約者は震える手で応募書類に記入して行ったけど、午前に来た予約者は、時間いっぱいまで作品を眺めた後、「申し訳ないが、これは購入できない。俺には一緒に居られる自信がない」と言って、購入を辞退したのだ。
久我の件が強烈な心理的ストッパーとなっているのだろう。
小夜子は「それでいい」と言った。「私の作品は誰もが手にしていいものではない」と。
「今はまだ選択権は男たちの方にある。でも、もうすぐ私の作品が世の中に出て行く。そうすれば世の中も変わっていくよ」
小夜子の言葉には、絶対の自信が含まれていた。まるで当たり前のことで、今更確認する必要もないというように。
「人は雑多なものの中から自分に必要な物だけを取捨選択してるでしょ? 呼吸のように。無意識のうちに。休むことなく。そのうちに取捨選択の基準は変わっていく。人は新しい呼吸を始めるようになる」
小夜子は予言のように言った。
確かに小夜子のラブドールを間近で見ている私には、実際に社会が変わっていくだろうことは、現実のこととして理解できた。
多分、私自身もすでに変わっていっているのだろう。
小夜子はそれからもラブドールの制作を続けた。
X-03、X-04と月1体のペースで制作、販売している。
私にはよく分からなかったけど、小夜子が言うには、ラブドールの精度は確実に上昇しているらしかった。
SNSの反応は、小夜子が気にしていないので私も見ないようにしていたけど、アワードの時やX-02の時のような過激な反応は収まっていたようだった。
小夜子の言う『新たな呼吸』が始まっていたのだろうか。
私は休みの度に小夜子のアトリエを訪れては、ホームページの更新、下見の受付、商品の引き渡しの立会い、弁護士対応などを手伝っていた。
半年も続けていれば、もう慣れたものだった。そして季節は冬に移っていた。
その日も昼からアトリエを訪ねていた。
先に連絡を入れた時に、お昼ご飯はまだだというので、コンビニでお買い物もしてきた。
こんがりクロワッサン、野菜たっぷりポトフ、小さなカップのポテトサラダ、ペットボトルのアップルティーだ。
「いただきます」と言って、小夜子はガサリとクロワッサンをちぎり、もそもそと食べ始める。
無言でポテトサラダのカップのフィルムをはがしてフォークを添えてやると、そちらにも手を伸ばす。
このところ、毎週土日に食事を差し入れているので、少しは肉付きもよくなっただろうか。
私はいつものミックスサンドを食べながら、小夜子の肩のラインや鎖骨を観察する。以前よりは肩の丸みが出て来て、鎖骨も目立たなくなったように思う。
小夜子もその視線には気付いているだろうけど、何も言わない。
そうしてクロワッサンを食べ終わると、ようやく冷め始めたポトフの野菜をつつき始める。
「ねぇ、サッチってどうして税理士になろうと思ったの?」
不意に小夜子がそんなことを聞いてくる。
「え~・・・ どうしてだろう。実生活で数学が使えて、いろんな人と関われるからかなぁ・・・」
本当はそれ以上に、『単なる成り行きで』なのだけど・・・
「私の仕事のお手伝いでも、いろんな人と関わってるよね」
「そうだね」
下見に来る客はもちろん、イベント運営会社も今では二社を交互に使っているし、金銭のやり取りには必ず弁護士が関わるから、そちらの方との会話も増えたように思う。
「お金のことも全部やってもらってるし」
「うん」
それはラブドール制作を始める前から、そうだった。頼まれたからではなく、私には、小夜子の生活を充実させたいという目標のようなものがあった。
「それでね・・・」
小夜子はプラスチックフォークを置いた。
「サッチ、税理士辞めて、私と二人で起業しない?」
「え?」
思いもかけない言葉に、一瞬、理解が追いつかなかった。
小夜子が作品以外の現実的な話をして来るなんて思わなかった。
「あ・・・ だって、ずっと私の方のお手伝いだけで、サッチ、きちんと休めてるのかなって・・・ それだったら、どっちかに専念した方がいいだろうし・・・ お給料も、多分、出せるよね・・・?」
最後は自分の収支状況を把握していない小夜子らしい言い方になる。
まぁ、実際のラブドールの販売益の他にも、下見費用で一人30万なのだから、それなりの額の収益はある。動く金額は映画会社の依頼を受けていた時よりは少ないけど、利益は大幅に増すように、収支を組み立てている。
でも、小夜子がそんな風に考えてくれたことは、純粋にうれしかった。
「大丈夫だよ。お手伝いのことは負担だなんて感じたことはないから。むしろ、こうやって小夜子と一緒に居るのが私の癒しの時間なんだ。ありがとう」
「そ、そう・・・? ならいいんだけど・・・」
小夜子は再びフォークを取って、ポトフの野菜を食べ始める。
「そういう小夜子は、いつからこういう制作で食べて行こうって思ってた? 高校? 中学?」
「別にお金のために作ってるわけじゃないよ」
「うん、それは分かる」
お金のためにやっているんだったら、もう少し材料費について考えるはずだ。
「最初はどれだけ人間に近いリアルなものが作れるかってやってたんだけど、それだけじゃ満足できなくなってね。ずっと人間を越えたものを作りたいって思ってやってる」
「それは今も?」
「そう。だから『人間そっくり』じゃダメなの。私は人間を越えた、究極の存在を作りたいの」
そう答えた小夜子の瞳には何とも言えないような光が宿っているような気がした。
でもそれも一瞬のことで、私が開けてやったペットボトルに口を付けると、小夜子の視線はそのラベルに注がれた。
「何これ・・・」
「ん? 『本物果汁のアップルティー』。おいしい?」
小夜子はもう一度、ペットボトルに口を付けて、アップルティーを味わう。
「うん・・・ おいしい・・・」
『よしっ!』っと私は心の中でグルグルッと花丸を付けた。また一つ、小夜子の好物が追加された瞬間だった。
究極の存在を作りたいと言った小夜子が実際に行動を起こしたのは、その数か月後、ラブドールX-12の引き渡しが終わった後のことだった。
季節はまた夏になっていた。
いつも通りにアトリエに行くと、そこには今までに見たことのない古い木箱があった。
薄灰色の乾いた木目に、摩耗した表面と欠けた角。長い間、風雨に晒されてきたようでもあるし、倉庫の一番奥で忘れ去られていたようにも思えた。
これはただ古いだけの箱ではない。そう直感した。
そして木箱の包装というだけで珍しいのに、そこにはよく分からない外国語の注意ラベルのようなものがベタベタと貼り付けてある。かすれてほとんど読めないものや手書きのものもある。
なんて書いてあるんだろう・・・
そんな好奇心から、その中でも文字として読めそうなものにスマホをかざして、翻訳させてみる。
しばらくグルグルしてから表示されたのは、意味不明な語句だった。
『推定言語:古代教会スラヴ語』
・住まわれるための人形
なんだそれ・・・
誤訳かと思って、同じ文字をもう一度読み込ませてみると、またスマホはグルグルする。
『推定言語:古代教会スラヴ語』
・まだ満ちない器
・・・何となく、不気味な感じがする。
私はスマホをポケットにしまい込んだ。
古いラベルはこんな感じなのに、一番新しいラベルは日本語表示で『シリコン樹脂』としか書かれていない。業者名も製造番号も何もない。
こんなものを小夜子はどこから取り寄せたのだろうか。
「ねぇ、これ、何か特別なものでも作るの?」
「うん。特別」
何気なく尋ねた私に対して、小夜子の顔には重大な決意が溢れていた。
「今までずっと造形やってて、ラブドールも何体も作ったけど、やっと全ての工程、手順が確認できた。これで本番を作る」
小夜子が古い木箱を優しく撫でた。
ずっと自分の作品を練習だの、習作だのと言ってきた小夜子が初めて『本番』という言葉を使った。
そう言った小夜子からは緊張感も感じられた。呼吸が浅い。
いくら練習を重ねても、本番は緊張するものだ。
「大丈夫?」
小夜子は静かに頷いた。
そしてもう一度自分自身を確かめるように頷く。
「大丈夫・・・ 大丈夫だけど・・・」
小夜子はそこで言葉を途切れさせた。
言っていいのか迷うような間隔があった。
「・・・サッチ、頑張ってのキス、してくれる?」
小さな、でもしっかりした言葉だった。
私は無言のまま、小夜子に近付き、その額に唇を触れさせた。
その瞬間だけ、小夜子は肩の力を抜いたようだった。
「ありがと」
小夜子はそう微笑んだ。
「これが完成するまで、私はここに籠るから」
そう宣言するけど、アトリエに籠るのは初めてのことではない。映画の仕事を受け始めた時には、『集中力を高めるため』と言って、私とも会わずに1、2週間、籠ることが何回かあった。
「連絡は取れる?」
「うん。何かあればこちらからも連絡するし、メッセージも返せるようにしておく」
それならば安心だ。
「食事はどうするの?」
「十分な量は買い溜めしてある」
「そんなこと言って、量だけでしょ? ちゃんとしたもの食べないといい物も作れないよ」
私はそう釘を刺した。放っておくと、すぐに『お腹が膨れればそれでいい』みたいな食生活に戻るんだから。
「籠ってる間、私は会わないほうがいいんでしょ? 玄関先に置いておけば受け取ってくれる?」
「うん、サッチがどんなもの持ってきてくれるか楽しみ」
「分かった。私はそっとしておくから、存分にやっちゃって」
「ありがと」
そうして小夜子は、一人アトリエに籠った。
数日後に私は仕事終わりにアトリエに寄ったけど、玄関からも明かりは漏れていなかった。
生活リズムが乱れていてすでに寝ているのか、照明すら落として集中しているのか。
私は玄関先に保冷バッグに入れた差し入れを置いて、そっと離れた。
メニューは、鶏むね肉のしっとり塩レモン、雑穀おにぎり、冷やし焼きナスのポン酢ジュレ、ペットボトルの緑茶だ。『食べきれない分は冷蔵庫に入れてね』とメッセージも添えてある。
翌朝、スマホを見ると、小夜子からのメッセージが入っていた。
『差し入れ、ありがとう。おいしかった。ナスは冷蔵庫に入れておいて、明日食べる。
作業は意外と準備に手間取ってる。木箱の開封だけで一日かかった。でも中身はしっかりしたものだったので、安心した。いいものが作れそう』
開封だけで一日?
そんな頑丈そうにも見えなかったし、道具がないわけでもないだろう。
中が何重にもなってて、少しずつ削っていかないといけない、とかなのかな?
とりあえず、小夜子ときちんとやり取りができる状態で安心した。
特にこちらの方から様子を訪ねることはしない。少しでも小夜子の集中を削ぎたくないからだ。
だから私は食事の差し入れだけをした。
・小さめの玄米おにぎり(白ごまと塩のみの二種類)
・ひよこ豆とサツマイモのオリーブ和え
・カットトマト(塩、別添え)
・夏野菜のカップみそ汁
・ペットボトルの麦茶
『おにぎりはそのままでもいいけど、温めるとおいしいよ』
『差し入れありがとう。トマトは塩をかけすぎちゃって、一回洗ってから食べた。
今日は神代唯の骨格を設計した。ずっと構想していたところだから、スムースに進んでいる。指定した材料はアルミフレームとの相性もいい』
『神代唯(かみしろ ゆい)』か・・・
さすがに本番と言うだけあって、完成前から名前を決めておくという気合の入れようだ。今まで、どんな立派な作品でも試作としか言わなかった小夜子が、自分で名前を付けたと考えると、何か感慨深くもある。
・レモンとオリーブオイルの冷製パスタ
・鶏ささみの梅しそ和え
・豆乳ビシソワーズ
・本物果汁のアップルティー(2本)
『アップルティーは作業の合間にでも飲んでね。一度に2本飲めってことじゃないから、間違えないように』
『差し入れありがとう。さすがに一度に2本飲もうとは思わないよ。
神代唯は私が思ってたより、ずっと美人になった。サッチも気に入ってくれると思う。今は同時並行で手も進めている。人によっては顔よりも重視する部分だから、慎重にやってる』
美人になったって、予想外にうまく作れたってことなんだろう。
造形に関しては全部、理詰めでやってるっていうイメージがあったから、意外だった。
それに私の反応も考えてくれてるってことも。
別に私はラブドールは使わないんだけど・・・
・とうもろこしご飯のおにぎり
・大葉とゴマの豚シャブサラダ(ポン酢ドレッシング)
・エビとわかめの酢の物
・シジミのみそ汁
・ペットボトルの緑茶
『ちゃんと寝てる? 体を冷やしすぎないようにね』
『差し入れありがとう。睡眠時間は確保してるから大丈夫。寝る時間はまちまちになっちゃってるけど。
昨日、唯が呼吸を始めた。その瞬間に立ち会えたことは、これまで造形やってた中で、一番うれしいことだった。早くサッチにも見て欲しい』
小夜子がこういう表現を使うことは珍しい。
小夜子の目からしても、人間と寸分違わぬ形になったということなんだろう。
それとも前に言っていた、人々が新しい呼吸を始めるようになるという、比喩を含めたものなのだろうか。
とにかく、ラブドール作成も仕上げの段階に入ったようだ。
・ライ麦のロールパン
・具だくさんミネストローネ
・いんげんとジャガイモのバジル和え
・ペットボトルのレモンティー
『ミネストローネには玉ねぎは入ってないから安心して食べてね』
『差し入れありがとう。玉ねぎは唯に食べさせるから大丈夫だよ。
今度、ラムレーズンを持ってきてくれると嬉しい。唯にもあの味を教えてあげたいから。本当はサッチと三人で食べたいんだけどね』
なんか、ますます入れ込んでるなぁ・・・
ちょっと不安になるレベルだ・・・ まさか制作者の小夜子がラブドールと人間の区別がつかなくなるなんてことはないだろうから、あくまで『人間扱いしたくなるほどリアル』ということだと思うけど。
でも食べ物を要求してくるのはいいことだ。
・梅しそおにぎり
・白身魚の蒸し物
・ほうれん草の白和え
・ペットボトルの麦茶
・ラムレーズンアイス(2個)
『ラムレーズンは食後に。一度に食べないこと』
『差し入れありがとう。やっぱり唯もラムレーズンは好きだって。
その唯だけど、ついに独り立ちした。これからは私にしてくれたように、唯のことを見守ってくれると嬉しい。
準備はしておいたから、明日の17時にアトリエに来てほしい。
暗証番号は玄関が「0412」、アトリエが「2573」。
今まで、本当にありがとう』
そのメールを見て、私はたまらなく不安になった。
本番として作っていたラブドール『神代唯』が完成したから、アトリエに来て、ということなんだろうけど、自分で開けて入って来い、というのは初めてだった。
どこぞの男であればサプライズとか言うのだろうけど、小夜子はそんなタイプじゃない。
自分でドアを開けて出迎えられない理由があるということだ。
そして小夜子がなにを準備したというのだろうか。
それに、最後の「今まで、本当にありがとう」というのはどういう意味なんだろう。
今すぐにアトリエに駆け付けたかったけど、メールには日時が指定されている。
私は翌日の17時まで、何度も時計を見ながら過ごした。
翌日、私は30分も前から、小夜子のアトリエの駐車スペースにSUVを止めて17時になるのを待っていた。
視線は時計とアトリエの玄関の間を、何度となく往復している。
駐車スペースにはいつも通り、小夜子の軽が止まっている。
アトリエにはいつも通りにカーテンが引かれ、玄関からも明かりは見えない。
もちろん、そこに出入りする姿もない。
スマホの時計が17時になった。
私は小夜子の冗談であってくれと願いながら、SUVから降りて、玄関に向かった。
一度深呼吸をしてから、インターホンを押す。
でも反応はない。
スマホでメールを見ながら、玄関の暗証番号をカチカチと押すと、カチリと開錠される音がした。
玄関の中はいつも通り、シンプルなもので、荒らされた形跡はない。そして何の物音もしない。
そして住居部分を素通りして、アトリエの扉の暗証番号も同様に入力する。
「小夜子・・・?」
声を掛けながらドアを開けるけど、返事はない。聞き慣れた低い空調の音だけが、やけに大きく聞こえた。
真っ暗なアトリエの中で、一つだけスリープモードになることもなく、つけっぱなしになっているノートパソコンの画面が、白い光を放っていた。
「小夜子、どこにいるの?」
私は少し大きな声で言いながら、アトリエの明かりをつけた。
でもその声に反応するものはいなかった。
私と小夜子がいつも食卓として使っていた作業台の前には椅子が二つ並べられている。そして、その作業台の上には空になったラムレーズンのカップが二つ。
別の作業台の上には、小夜子のスマホも置いてあった。
パーテーションの中を見れば、私用のベッドはきれいなままだったけど、小夜子のベッドには使用感があり、その横には床に冬用の布団が敷かれていて、その上にも寝たような形跡があった。
でも小夜子はいない。
辺りを見回しても、小夜子も、小夜子が制作していたはずの『神代唯』も、アトリエの隅のソファに座っていたはずのX-01『完璧な肌』までが消えている。
「ねぇ、小夜子。もう出て来て!」
その声が空洞のようになったアトリエの中で反響する。
もうここには誰もいない。
私の予感は確信になってしまう。
一体、何が・・・ どうして・・・
私は気を落ち着かせるために、何度も深呼吸を繰り返した。
足は引き寄せられるように、ノートパソコンの正面に向かった。
そして、覚悟を決めてつけっぱなしのノートパソコンの画面をのぞき込んだ。
サッチへ
今まで本当にありがとう。
私がここまで来れて、最後の夢まで叶えられたのは、全部、サッチのおかげ。
感謝している。
本当は直接会ってありがとうと言いたかったんだけど、私はもうここにはいない。
だからこんなメッセージを残すことにした。
そして、最後の最後まで面倒をかけてしまうけど、サッチには3つのお願いがある。
一つ目は、私がいなくなったことを、誰にも言わないでほしいということ。
誰かに言えば、事件だと思われて、警察やいろんな人がこのアトリエに入ってくると思う。そして、ここが無意味に注目されるかもしれない。
私にとってこのアトリエはサッチとの思い出の場所。誰にも汚されたくない。
だから私がいなくなったことを事件にしないでほしい。
二つ目は、私のお金を受け取ってほしいということ。
このアトリエは唯にあげるけど、お金の方はサッチにあげる。銀行のキャッシュカードと通帳を出しておくから、好きに使っていいよ。
そして三つ目。これが本題なんだけど、唯のことを見守ってあげて欲しい。
本当はそこまで含めて私の仕事なんだけど、私じゃあ、人間らしいことは教えられないと思う。サッチなら、ただそばにいるだけでも、あの子の支えになるはず。
私と一緒でめんどくさいかもしれないけど、これはサッチにお願いしたい。
唯にも、サッチの言うことは聞くようにって言っておいたから。
最後に、
本当にありがとう。
サッチがいてくれて嬉しかった。
水原小夜子
何なのこれ・・・ まるで遺書じゃない・・・
そのノートパソコンの傍らには、暗証番号の書かれた付箋の貼ってあるキャッシュカードと、通帳と、印鑑が置いてある。
一体、これはどこまでが本当なんだろうか。
『いなくなった』っていうのは、どういうこと? 単にどこかに引っ越したってこと?
それとも・・・ もしかして、この世から、ってこと・・・?
それにアトリエを唯にあげるとか、唯を見守ってくれとか・・・
神代唯は小夜子の作ってたラブドールでしょ? まさか小夜子も久我みたいになっちゃったってこと・・・?
分からない。
何も分からない。
だから私は、どうすることもできなかった。
とりあえず、ノートパソコンの電源だけ落として、明かりを消し、そのままアトリエを出た。
その時の私の頭の中では、ビバルディの『四季:夏』が鳴り響いていた。
明らかに不穏な動きがあるにもかかわらず、どうすることもできず、翻弄されるしかない自分の無力感だけがあった。
その後、数日の間はずっと泣きたかった。
でも泣けなかった。
泣くには、何か決定的な終わりが必要なのだろう。
小夜子は目の前からいなくなったけど、何かが終わったわけではない。
むしろ、始まってさえいないのかもしれない。そんな思いが私の中に強くあった。
だから私の中の時間は、ずっと止まったままだった。私だけを残して、周りの時間だけが過ぎ去っていく。
平日は簡単だった。
朝起きて、事務所に行く。行けば仕事が山積みになっているので、それをこなしていれば時間が勝手に過ぎていく。
そしてコンビニに寄ってから家に帰り、シャワーを浴びて、寝る。
その繰り返しだった。
何かが更新されることもなく、じわじわと腐っていくような感覚があった。
休日はさらに苦痛だった。どうしても毎週訪れていたアトリエを思い起こしてしまう。
仕方なくできるだけ寝て過ごすようにして、眠れない時は、今までと全く関係のないような芸能関係のネットニュースを眺めて時間を潰していた。
そんな時に、一つのニュースが流れてきた。
『無名の新人、神代唯 一躍トップグラビアアイドルに!』
その記事には極小の水着で挑発的なポーズを披露する神代唯の写真がいくつか添付されていた。
そこには圧倒的な美しさと、蠱惑的な表情、そして男好きのしそうな理想的な肉体バランスがあった。
女性の私から見ても、彼女がトップグラビアアイドルと呼ばれることには『まぁ、そうだろうな』という感じだった。
でも私にとっての『神代唯』とは、小夜子が制作していた最後のラブドールの名前だった。
ただの偶然ではないだろう。
小夜子は彼女をモデルにしてラブドールを作っていたのだろうか。
ただ、どこかで見た写真をもとにしたのか、それとも依頼や交流があっての後に制作を始めたのか・・・
私は、少なくとも小夜子が興味を持ったであろう、そのグラビアアイドルについて調べてみた。
その結果、分かったのは『何も分からない』ということだった。
デジタル写真集の第一作目が50万以上のダウンロード数を記録していたり、同じく一作目のDVD/BDが初回生産分は即日完売、追加予約もサイトがダウンするほどの盛況らしい。
複数のグラビア誌が毎週のように彼女を表紙に載せ、特集を組んでいる。
大手飲料メーカーやコスメメーカーは早くもCMに起用し、ビルの巨大ポスターにもなる予定らしい。
非公式のまとめサイトには詳細な仕事内容やインタビュー語録などがリアルタイムで更新されている。
でもそれはここ一カ月の出来事であり、それ以前の経歴は一切、書かれていない。
こういう界隈では、ファンがどれだけ昔から知っていたか、どれだけ過去の情報を知っているかを競うものらしいけど、それでも彼女の足跡は何も出てこない。
彼女の所属事務所のホームページでも、彼女自身のSNS上のプロフィールを見ても、個人情報は一切なし。
まるで、グラビアアイドル界を上り詰めたというより、ぱっとその頂点に遥か上から降り立ったかのようだった。
当然、小夜子との繋がりは全く見いだせなかった。
「あの、神代唯って子、知ってます?」
翌日のお昼休み、私は事務所の同期に聞いてみた。
「あぁ、知ってるよ。あの新人グラビアアイドルだろ?」
橋田さんが弁当のふたを開けながら答える。
「え? 橋田さん、知ってるんですか?」
コーヒーを淹れて戻って来たもう一人の同期である松原さんが、驚いたように言う。
橋田さんは30歳だが、芸能関係に詳しいほうではない。というか、仕事以外のことにはとことん疎いほうだ。その橋田さんが知っているということは、神代唯の名前は一部のマニア層やゴシップ好きの間だけではなく、一般層のかなり深い所まで浸透しているということだ。
実際、松原さんも知っているようだった。
「性別や年代ごとに情報が流れてくるルートってのがあるじゃない。あの子はそこを完璧に把握してる気がするね。あれはうまいっていうか、市場調査の賜物だろうね」
そう言った橋田さんの言葉には確かに納得感があった。神代唯は男性向けの週刊誌にも、女性向けのファッション誌にも、無性別な企業CMにも顔を出している。どこでどういう売り方をすればいいのかを把握しているようでもある。
「私も雑誌買って見てみたんだけど、なんか、安心感みたいなのあるんだよね。自分と比べてどうとかじゃなくて、ただ一緒に居たいって思わせるような、カリスマ? そんなの感じたよ」
松原さんもお弁当をつつきながら、そんな風に教えてくれる。グラビアアイドルではあるけど、女性に対する魅力の発信も行っているというのだ。
二人の意見は大いに納得できるものだった。
でも、本当にそれだけだろうか。
自分の魅力と情報の流れを把握しただけで、ここまでの成功になるものだろうか。
それならばこれまでも、同様の成功例があってもいいのではないか。
そこには理由も根拠もない。
だからこそ、否定することもできずに、嫌な予感だけが残った。
私は笑顔で二人の言葉に相槌を打ちながら、心の中で一つの言葉で結んでいた。
『神代唯って、何者?』
そんな風に悶々としていたある日の仕事終わり、駐車場でSUVに乗り込もうとしていた時に、スマホがラインの通知で震えた。
私は何気なくそれを見て、息を呑んだ。
それは小夜子のアカウントだった。
小夜子とはラインの交換自体はしていたけど、実際に使ったことはない。小夜子がラインの即時性を嫌がるからだ。
何か、即座の返信を要求されているように感じるらしい。私も小夜子にプレッシャーを与えるつもりはないから、やり取りはメールだけにしていた。
でも今、ライン交換をして以来、初めての通知が届いた。
相手は恐らく小夜子ではない。
私はSUVに乗り込んで、ドアを閉め、密室の中で、表示された『小夜子』という名前を見下ろした。
小夜子のスマホはアトリエに置きっぱなしになっていた。
オートロックになっている玄関の扉と、アトリエのドアを開けて、スマホのロックを解除すれば、そこから私にメッセージを送ることはできる。
そこまでして私を呼び出して、何をしようというのか・・・
ここでタップすれば既読が付き、自分の存在を相手に知られることになる。
でも、そのことよりもメッセージの内容の方が気になった。
私はゆっくりと息を吐きながら、画面をタップした。
『仕事終わった?』
『今からアトリエに来れる?』
『中で待ってる』
その連投されたメッセージだけで、相手が小夜子ではないことは確定する。
それはまるで矢継ぎ早に吐き出された言葉だった。相手の反応を見ることもなく、相手の返事を待つでもない。
小夜子はこんな息遣いで話さない。小夜子の言葉にはいつも休符があった。相手との距離を測り、必要以上に触れないようにするための呼吸があった。
これは小夜子の呼吸じゃない。
誰かが小夜子のいなくなったスペースに入り込んだんだ。
それは・・・
神代唯。
なぜか彼女だという確信があった。
この時点で、小夜子がたまたま彼女の写真を見てラブドールのモデルにした、という線は消えていた。小夜子と神代唯との間には、何かしらの関係があったはずだ。
アトリエ内にあった二人分の生活痕がまざまざと思い出される。
小夜子・・・ あなたはアトリエに籠っている間に何をしていたの・・・
私はそのラインの誘いを断ることができなかった。
『今から行きます』
そう返信して、SUVを発車させた。
久しぶりに訪れたアトリエは、この前来た時のままだった。
小夜子の軽もそこにあるし、アトリエには分厚いカーテンが引かれたままだし、飾り気のない玄関もそのままだ。
違うところは、玄関から明かりが漏れていることだった。
侵入者は自分の存在を隠そうともしていない。
私はSUVをどこか違う場所に停めて、こっそり近づこうかとも思っていたけど、やっぱりいつも通りに来て正解だった。
私の方には何もやましいことなどない。
アトリエの駐車スペースに堂々とSUVを停めて、玄関に向かう。
ポケットの中のスマホは録音機能がオンになっている。何があるか分からないので、念のための用心だ。
玄関前に立って、深呼吸をする。
スマホの録音機能をもう一度確かめる。動作中の赤いランプが頼もしく感じられた。
意を決してインターホンを押す。
「遠野です」
中からは何の反応もない。
ドアに手を掛けると、カギはかかっていなかった。
入ってみると、住居部分に変わりはない。
「遠野です」
もう一度言ってから、ゆっくりとアトリエのドアを開ける。
中からは冷気が流れてくる。ただのクーラーによるものだとは分かっているけど、なんとなく中にいる人物の気配のような気もして、身構えてしまう。
そこには思った通り、神代唯が立っていた。
シンプルなアイボリーのキャミソールワンピースは体の起伏を浮き立たせている。アクセサリーの類を身に着けていないのは、元がいいのだから飾り立てる必要などない、という主張のようだった。
雑誌の表紙で何度か見たことはあったけど、実物はそれよりも、もっときれいだった。
ただの美人ではない、人が触れてはいけないような美しさが、そこにはあった。
そしてそれは、どこか小夜子の作っていたラブドールにも共通するもののように思えた。
それくらい作り物じみた、人間ではありえないような美しさだった。
「いらっしゃい」
魅惑的な、官能的な声だった。
その声を聴いて、この子は作り物ではなく、生きているんだと実感できた。
神代はそう言って、イスを準備してくれる。
ただそれだけの日常的な動作のはずなのに、そこになぜか蠱惑的なものを感じてしまう。
私はアトリエ内に他の人がいないことを確認してから、そのイスに腰かけた。
「あなた、神代唯さん、よね?」
「えぇ」
神代はそう答えながら、私の向かいのイスに腰を下ろした。
私の呼吸は、神代の笑みだけで乱されていくような気がした。
「来てくれてありがとう」
それに対して、神代はゆったりとした呼吸で言う。
「あの、聞きたいことがあるんだけど」
私は自分のペースをつかもうと。先に口を開いた。
「何?」
「神代さんと小夜子って、どんな関係?」
私はストレートに言葉をぶつけてみるけど、神代の表情に変化は見られない。
「水原は神代唯の創造主、かな」
それはごく普通の、当たり前のことを言っている口調だった。
「え?」
「水原はそのこともメールに書いていたと思うけど」
一瞬、何のことかと思ったけど、そう言われて、ラブドールのことだと気付く。
やはり小夜子はアトリエに籠っている間、この神代唯と一緒に居たのだ。
そう思うと、自然に声も大きくなる。
「それはラブドールの話でしょ? 私が聞いているのは、あなたと小夜子がどこでどう知り合ったのかってこと。小夜子がラブドールにあなたの名前を付けていたことを聞いてるわけじゃないの」
私はイライラを抑えながら、ゆっくりと言う。
対する神代は平然としている。
「神代唯は二人もいない。私が神代唯。水原がそう名付けた存在」
「は?」
「私は水原が魂を込めて創造した究極のラブドール」
・・・この子は何を言ってるんだ? それとも、何か誤魔化そうとしているのか?
そんな私の考えが伝わったのだろうか、神代は笑みを強めて立ち上がった。
「やっぱり見てもらわないと、分からないかもね」
神代は自分の全身を見せるためだろうか、少し後ろに下がった。私の視野をも計算に入れた、完璧な身のこなしは、さすがはグラビアアイドルと思わせるものだった。
「あなたは水原のラブドールを見ているから、少しは耐性があると思うけど、美人すぎるから注意してね」
そう言いながら神代はキャミソールの肩ひもに手を掛けると、それを外し、ワンピースをパサリと脱ぎ落した。それだけで、神代は一糸まとわぬ姿になる。
一点の曇りもない白く滑らかな肌が、アトリエの無機質な照明の中で艶めかしく、そして柔らかに輝く。
それは同性の私でさえ赤面してしまうような光景だった。
でも、神代の変化は服を脱いだだけでは終わらなかった。
ただでさえ美人だと思っていた神代の姿が、言葉では言い表せないような、文字通り、人間離れした美しさ、人間には触れることもできないような、絶対的な美の姿に変わっていく。
「あ、あぁ・・・」
私はその様子に、息を漏らすことしかできなかった。
今の神代の姿は、肘から先と膝から下が、人形のような球体関節になっている。
でもそこに違和感はない。むしろ、それが本来あるべき姿であり、そうなっていない人間は、いかに不完全なものであるかと思い知らされるようだった。
その人形のような関節が、音もなく、滑らかに動き、髪をかき上げた。
「これが水原の創造の極致よ」
天上の鈴の音のような声が聞こえた。
その圧倒的な美を目の前にして、私はどのくらいの時間、呆けていたのだろうか。
ふと我に返るけど、あまりのことに喉は乾き切り、声一つ出せなかった。
何とか手振りでもう分かったと伝えると、神代は元の人間の姿に戻ってくれた。
それによって直視することがためらわれるような美しさは収まって、ようやく心を落ち着かせることができた。
「分かってもらえた?」
神代は、脱ぎ落したワンピースを拾い上げる様子もなく、全裸のまま尋ねる。
そうしたちょっとした仕草でさえ、異様なほど魅惑的に映ってしまう。
私は頷きながら、何とか「分かった」とだけ答えた。
実際、分かったのは、神代唯は人間ではないという一点だけだったけど。
私はイスに座ったまま、呼吸を整えながら、いくつかの疑問を整理する。
全裸のままの神代も、向かいのイスに腰かけて、質問を待っている。
「えと・・・ あなたは人間じゃなくて、小夜子に作られたラブドール、っていう理解でいいの?」
「えぇ、その通り。100%正解よ」
「その小夜子はどこに行ったの?」
私は核心を尋ねた。小夜子に会えば、もっと詳しく、分かりやすく説明してくれると思ってのことだった。
でも、そううまくはいかなかった。
「・・・水原はもういない。いるとすれば、あなたの心の中よ」
その声には返答を拒絶する響きがあった。神代の表情を見ても、それは明らかだった。
聞いてはいけないこととして、受け止めるしかないのだろう。
私はノートパソコンに残されていたメッセージを思い出す。
それが小夜子自身の意志でした苦渋の決断なのであれば、私がそれを詮索することなどできない。
「ここにあったラブドール、X-01はどうしたの? 小夜子が持って行ったの?」
「あれは水原が解体して、私の材料として使用した」
神代はX-01が座っていたソファに目を向けた。
「X-01は水原にとって、本当に特別な存在だった。真に実験的な作品でもあったし、あなたが名前を付けたというのも大きかった。いろいろとアラは目立ったけど、その分、思い入れも強かったんでしょう。だから、水原は初めて使命を与えた」
そう聞いて、久我の事件が思い起こされる。
やはりあれは、小夜子の・・・
「そういった経緯も含めて、水原は私の材料として最適だと思ったんでしょう」
確かに小夜子は、久我の元から帰って来たX-01を大切に扱っていた。埃をかぶらないようにしょっちゅう拭いていたし、自分の髪はぼさぼさのくせに、X-01の髪は、よくブラッシングしていた。
そのX-01を解体するところを想像すると、小夜子がこのラブドール、神代唯にどれだけのものを注ぎ込んだかも伝わってくる。
「私が小夜子に呼ばれてここに来た時、あなたはどこにいたの?」
隅々まで探したわけではないけど、少なくとも見える範囲には誰もいなかったはずだ。
「その時はもう外に出て活動を始めていたわ」
「活動って、グラビアアイドルの?」
そういうことは分からないけど、いろいろな人にお願いしたり、売り込みに行ったり、大変なのではないだろうか・・・
でもその疑問を見越したように神代が答える。
「そう。本能のままに動くだけでいいんだから、私にとっては息をするより簡単なことね」
「本能って?」
「全ての男を魅了して女を性から解放すること。水原はそのために私を作ったんだから」
それは小夜子がラブドールを作るようになってから、よく口にしていた言葉だった。
でもそれはあくまで理念や方向性の話だと思っていた。
それを神代は実現しつつある。
今現在も数多くの男性がグラビアアイドル・神代唯に魅了されて、彼女を支持しているという事実があるのだから。
神代唯は人間ではないが、意志を持つ一個人としてしっかりと存在している。
それは認めざるを得ないだろう。
私は頭を振って、様々な謎や疑問を無理やり飲み込んだ。
「今日呼んだのは、あなたの正体を教えてくれるためだったの?」
私は疑問の解明を諦め、そう尋ねた。
「それもあるわ。あとは、このアトリエを私が使っていくことの承諾が欲しかった。水原は私にくれるって言ってたけど、ここはあなたと水原の思い出の場所でもあるわけだし」
「それはいいよ。小夜子もそう望んでいたんだし」
実は、最初のメッセージを見た時は、『どうしてそんな人間が出てくるんだ。どういう関係なんだ』と思った。
でも、常識外ではあるけど、親子関係のようなものだと理解すれば、今は、まぁ、いいかと思える。
「ありがと。それでお金の方は?」
神代は、ノートパソコンの横に未だ出しっぱなしになっているキャッシュカードと通帳、印鑑に目をやる。
「あなたに受け取ってほしいっていうのも水原が望んだことだけど?」
「額が額だし、そんな簡単なことじゃないのよ」
委任状や相続などの手続きなしで他人の口座からお金を引き出すのは、れっきとした窃盗罪だ。まぁ、小夜子はこんなこと、知らないだろうけど。
「とりあえず、あれはそのまま片付けておいて」
「そう?」
神代はあいまいに頷く。
多分、神代もその辺のことはよく分かっていないのだろう。
そして、話題が切れたのを見計らって、神代は居住まいを正した。
「・・・それでね。水原はよく『人間らしいことは私には教えられないから、サッチに手伝ってもらえたら』って言ってたの」
「うん」
そのようなことはメッセージにも書かれていた。
「だから・・・ 私の友達になってほしいの」
神代は真っ直ぐにこちらを見詰めている。
それは魅惑的な身体に不釣り合いな程、純粋な願いだった。
そんな願いを断れるはずがない。
「うん、分かった。よろしくね、唯」
「よかった・・・ それだけが不安だったの」
唯はそう言って心底ほっとしたように笑う。
「よろしくね、サッチ」
私はその言い方に、ふと小夜子の面影を見たような気がした。
でも・・・
「ねぇ、サッチ」
唯の声の温度が少し変わる。
「あと、試したくなったら、いつでも言ってね。サッチなら大歓迎だから」
「試すって、何を?」
すると唯はゆっくりとほほ笑んだ。
その笑みは、さっきまでのあどけないものとはまるで別ものだった。
「ラブドールって、男のためだけにあるものじゃないんだよ」
・・・訂正。小夜子は絶対にこんな顔はしない。