『これはマズい・・・ いや、とてもおいしい。でもマズい・・・』
私はそんな矛盾した思いで、目の前の綺麗に焼き上がったホットケーキを眺めていた。
それはパッケージの調理例そっくりで、私でもこんなに上手に焼けたことはない。
これが唯の初めての調理というのだから、そこには何か才能のようなものを感じる。
小夜子は全然、料理をしなかったから、唯に使ってもらえてキッチンもさぞ喜んでいるだろう。
そんなふうに現実逃避してみるけど、ホットケーキの少し香ばしい甘い香りは容赦なく胸を焼く。
はっきり言って、お腹いっぱいだ。
唯が焼いてくれた大きなホットケーキの二枚重ねの上には大きなバターの塊が乗り、たっぷりのハチミツがかけられていた。
皿の上にはそれがまだ半分くらい残っていた。
実はこれが2皿目だ。
私はのろのろとフォークを動かし、ホットケーキの端を小さく切り分けて口に運ぶ。
甘さが口いっぱいに広がり、それを牛乳で流し込む。
ホットケーキは全然減っていかない。
そこへ唯が満面の笑みでキッチンから戻って来る。
両手にはホテルのウェイトレスのように皿を二枚ずつ乗せている。もちろんその皿には、焼き立ての大きなホットケーキが乗っている。
「おまたせ」
唯はそのホットケーキをずらりと私の前に並べる。
周囲には甘い香りが充満する。
「私、サッチに喜んでもらえるのが一番うれしい」
唯は無邪気な笑顔で言う。
唯は悪くない。だから多分、私のせいなのだろう。
「あ、あのね、唯・・・」
そもそもは私が唯の様子を見に、アトリエを訪れた時だった。
唯はとてつもなくきれいな女の子に見えるけど、人間ではない。
小夜子によって創造されたラブドールだ。
一度、正体を見せてもらったことがあるので、信じないわけにはいかないけど、それで怖いと思ったことはない。
小夜子に「見守ってほしい」と頼まれたせいもあるかもしれない。
金曜日にラインで『明日アトリエに行っていい?』と尋ねると、すぐに『待ってる』と返事が来る。
グラビアアイドルの仕事は土日こそいろいろなイベントが入りそうだけど、その日は唯も休日だったようだ。
私は途中で、唯も好物だというラムレーズンを買って、アトリエに向かった。
アトリエの中は掃除されているものの、基本的には小夜子の使っていた時のままだった。作業台や機材、ラブドール制作のための材料なども、そのまま置かれていた。
今はいなくなってしまった小夜子の痕跡を、少しでも残しておきたいのだろう。
私たちは作業台で向かい合ってラムレーズンを食べた。
最初はその美しさばかりが目立っていたけど、こうしていると、その無邪気さも見えてくる。
「唯は休みの日は何してるの? お出かけとかする?」
「休みの日はずっとここにいる。サッチが来てくれるかもしれないから」
唯は真面目な顔で言う。
「そ、そう」
これは唯なりの冗談なのだろうか。
「唯は仕事の他に何かやりたいこととかはないの?」
「やりたいこと?」
「そう。趣味とか」
「別に・・・ あ、そうだ」
そう言って唯は顔を挙げた。
「お料理してみたい。サッチの作ってくれたご飯、すごくおいしかったから」
それは小夜子がアトリエに籠っている時に差し入れしていたものを言っているのだろう。
後半は唯も一緒に食べていたようだった。
でも私は唯が言うほど、料理が上手なわけでもないし、好きなわけでもない。たまに作るから、あれだけ凝ったものを作るのであって、毎日となればとても作る気はしない。
「じゃあ、最初はホットケーキとか、どうかな」
私は簡単で、かつ作った気分が味わえると思い、そんな提案をした。
唯も賛成し、私が材料を買ってくると、さっそく腕まくりをしてキッチンに立った。
唯はパッケージ裏にある作り方をじっくりと読み込むと、量も時間も書いてある通りに作っていく。
ホットケーキミックスと牛乳と卵を混ぜる手順では、なぜか小夜子の慎重に塗料を混ぜていく手付きを思い出してしまう。
フライパンに流し込まれたホットケーキをひっくり返す時は、小夜子が固まりかけのシリコンジェルをひっくり返す時のようだった。
そして焼き上がったホットケーキに、パッケージの写真通りにバターを乗せ、ハチミツをかけて完成。
「どうかな・・・」
見た目は完璧なそれを、唯は不安げに差し出してくる。
私の感想は食べる前から決まっていた。
「おいしいよ。これなら何枚でも食べられそう」と・・・
私は本当においしいんだけど、と一言断ってから、『何枚でも食べられそう』とはそれだけおいしいという誉め言葉であって、実際に何枚でも食べられるわけではないのだと教えた。
「じゃあ、これ、どうしよう・・・」
唯は呆然と、作業台の上の大量のホットケーキを見下ろす。
「大丈夫だよ、ラップに包んで冷凍しておけばいいから。今度、また二人で食べよう」
そう言うと、唯は機嫌を直してくれたようだ。
とにかく唯は変に常識が抜けているというか、感覚が常人とは違うというか、そんなところがあった。
思えば、私に正体を見せるために服を脱いだ時も、その後で服を着る素振りさえ見せなかった。
まぁ、小夜子だったら『別に他の人に見られてるわけじゃないからいいでしょ』とか言いそうだけど。
とにかく小夜子が唯のことを見守ってくれと頼んだのは、いい判断だったと思える。
そういった感覚のズレは日常生活だけではなく、唯本人の体についての認識にも言えた。
それは唯と二人でアトリエ近くの里山に散歩に行った時のことだった。
アトリエの周りにはまだ自然も残っていて、唯がそれを見ておきたいと言ったことがきっかけだった。
空模様を見て大丈夫だろうと判断したのだけど、運悪く夕立に降られ、慌ててアトリエに戻って来る羽目になってしまう。
雨自体はほんの数分で止んだのだけど、二人ともびしょ濡れだった。
私はすぐにバスタオルを持ってきて唯を拭いてやる。
「お風呂のスイッチも入れてきたから、早くあったまって来て」
「私は丈夫だからいいよ。サッチが先に入って」
「そんなこと言ってアイドルが体調崩したらどうするのよ」
私がそう言っても唯は譲ろうとしなかった。
「じゃあ、サッチと一緒に入る」
「えぇ・・・」
唯は今や、超人気のトップグラビアアイドルだ。その肉体的な魅力は私も知っている。
でも唯は私の手を取ると、脱衣所に引っ張っていく。
仕方なく私は唯と並んで服を脱いで、乾燥機に放り込む。
二人で浴室に入ると、先に唯を浴槽に入れる。浴室内には温水シャワーを出していたために、すでに温まっている。
その温水を頭から浴びると、意外にも体が冷えていたのが実感された。やっぱり唯を先に入れてよかった。
「あったまった?」
「ん~、よく分かんない」
唯は浴槽の中から腕を出して見せた。
白い滑らかな肌は水分を弾いているけど、血色がよくなったようには見えない。
「お湯の温度は分かるよ。今は41.3度。でもそれによって私の体が影響を受けることはないかな。多分、真冬の水着撮影とかでも震えたり鳥肌が立ったりすることもないと思う」
「え、それって・・・」
私は口に出そうになった言葉を飲み込むけど、唯は平気でその言葉を口にしてしまう。
「私が人間ではないから。私がラブドールだから」
唯はあっさりと言う。
「水原は寒さで震えたり鳥肌が立ったりするのはラブドールとして美しくないと考えたんでしょうね。意識すれば汗はかけるんだけどね」
それは淡々とした説明だった。自分の体ではなく、器材としてのラブドールに対する説明のように。
私は少し悲しくなる。
「唯、体は大切にしないとダメだよ」
「うん。自分の体がどのくらい丈夫かは分かってる。気温変化くらいでこの体が壊れることはないよ」
「それでも」、と私は力を込めた。
「自分の体は大切にして。私は唯のことを普通の女の子として見ていたいの」
「・・・分かった。サッチがそう言うなら」
唯は腕を引っ込めると、もう一度湯船に浸かる。
目を閉じてゆっくりと息をしている様子は眠っているようでもあり、やはり美しかった。
やがて唯は目を開けて、湯船から上がる。
「サッチ、お願いがあるんだけど」
「何?」
「私の体、洗って」
「えぇ?」
「水原のことは洗ってあげたでしょ? うらやましくって。一回でいいから、私のことも洗ってほしい」
何を言い出すんだ・・・ というか、小夜子はそんなことまで唯に教えていたのか・・・
「いいでしょ? 女の子同士なんだから」
唯はにっこりと笑ってくる。29歳の私に対して。
「私はもう女の子って年じゃないんだけどね」
私は観念して、唯の白い手を取った。
そして、自分の体との圧倒的な差を思い知らされたのだった。
そんな風に、心と体がアンバランスな唯だったけど、こと、グラビアアイドルとしての活躍には目を見張るものがあった。
ある時、ボールペンの替え芯を買うために立ち寄った大型書店の中には、どこを向いても唯の顔があった。
唯を表紙にした雑誌が数種類、平積みにされている。そのうち二つが唯の特集を組んでいるようだった。少し見ている間にも、それらの雑誌が手に取られていく。
そしてそのコーナーの一角はぽっかりと空白になっていた。
ぽつんと残されたPOPには『神代唯 特製クリアカード封入!!』とあった。
「ここにもないよ」
「うそでしょ・・・ あとどこ行く?」
そんな言葉を交わしながら、女子高生二人組が、足早に去っていく。
レジに向かう途中でちらりと見た写真集コーナーでも唯の存在感は圧倒的だった。
平積みにされている箱入りの写真集には、毎週のように見ている唯の笑顔があった。
でもそこにあるPOPは私からすれば、少し信じがたい内容だった。
『神代唯 限定版写真集(抽選券付) 12000円 お一人様3冊まで』
『撮影オフショットミニ冊子が当たる! 当店入荷50冊!』
うわ、たっか・・・
私はそう思うけど、やはりそのPOPの下の在庫は少なくなっていた。見ている間に、一人の男性がその箱入りの写真集を3冊抱えて、真っ直ぐにレジへと向かっていった。
そしてそのレジ横にも唯のPOPがあった。
ここにあったのは、唯の写真入りミニクリアファイルだった。
専用ボックスで陳列され、全5種類で、税込み1000円。おひとり様各一枚の注意書きもある。
男子高校生らしい子がその5枚を前に、どれにするか悩んでいるかと思えば、スーツ姿の男性が、迷うことなく1枚ずつ全種類を手に取っていく。
私も興味本位で、1枚を手に取る。1枚1000円の値段が妥当かは分からないけど、クリアファイルとしての作りはしっかりしているし、印刷された写真の画質もいい。
そして、実際に買ってみて初めて分かったことは、クリアファイル1枚だけでも、なんとなく唯に近付いたような気がするということだった。
毎週のように本人に会っている私がそう思うくらいなのだから、画面の向こうの存在として間接的にしか会えない人たちにとっては、どれだけ価値のある商品となることだろうか。
書店を出れば、街中の至る所に唯のポスターが張られ、店舗前のデジタルサイネージにも唯の姿がある。
街行く人々の中には、それらにスマホを向けている人もいるし、そうでなくても唯の姿が映し出されれば、足を止める人も多い。
これだけのCM効果が実証されているのだ。化粧品でもファッションでもアクセサリーでも飲料でもスイーツでも、とにかく唯の争奪戦になっているという印象だ。
そして交差点に差し掛かった時、ビルの上の巨大なLEDスクリーンが画面を変えた。
映し出されたのは唯の輝く笑顔だった。風になびく髪が柔らかに揺れ、透き通るような瞳が、こちらを見詰めているようだった。
横断歩道の手前で、みんなが一斉にスマホをそのスクリーンに向ける。次々とシャッターが切られ、SNSに投稿されていく。
瞬く間に『♯神代唯』がトレンド入りし、タイムラインは赤いハートマークに埋め尽くされる。
@urban_fan
うわ、街中のスクリーン、神代唯ちゃんだ! 思わず立ち止まった
♯神代唯♯街中サイネージ
@idol_snap
信じられない、今この瞬間、神代唯ちゃんと目が合ってる
♯神代唯♯トレンド入り
@daily_obs
もうこの通りが聖地・・・ 唯ちゃんってすごい
♯神代唯♯リアルタイム
@fan_ayaka
新作広告の動画取れた、やばすぎ
♯神代唯♯動画
@love_love
神代唯ちゃんのかわいすぎる1枚・・・ こんなの一生ものだろ
♯神代唯♯推し
リプライやコメントも瞬時に増え、スクリーン前の歩道は立ち止まった群衆で一杯になる。
公式のSNSも覗いてみたけど、『いいね』や『リツイート』が爆発的に増え、フォロワー数も見る間に跳ね上がっていく。
これだけの変化が、わずか1カ月で引き起こされたのだから、その影響力は異様ともいえるだろう。
でも当の唯は、そんなことには無頓着のようだった。
買い物の帰りにちょっとアトリエに寄ると、やはり唯はアトリエにいた。本当に土日は仕事をお休みにしているようだ。
それでもこれだけの成果を挙げているのだから、事務所もうまく調整しているのだろう。
「交差点のところで、新しい広告見てきたよ。すごい綺麗に撮れてて、みんな注目してたよ。SNSでも目が合ってるみたいだって」
私は買ってきたお菓子と紅茶のペットボトルを広げながら言う。
「そうなの? あれは何の広告だっけ・・・ でもサッチが褒めてくれるのはうれしい」
唯は無邪気に笑う。その笑顔は、広告で見たものよりも、ずっと魅力的に思えた。
「そうだ、サッチ。明日って時間空いてる?」
明日は日曜で、特に用事も急ぎの仕事も入っていない。
「うん、空いてるけど?」
「じゃあ、撮影に一緒に来ない? どこかの丘の上に公園があって、そこで撮影するんだって。一緒に行こう?」
「え、いいけど・・・ でも日曜日にお仕事なんて珍しいね」
「それはこれからマネージャーにお願いするの。ほんとは平日にやるって言ってたんだけど、予定を早めてって言えば、いいって言ってくれるよ」
いやいや、そんな、ただカメラで撮ればいいってレベルじゃないんだから・・・
こういうところがちょっとズレてるところだよな、と思う。
グラビアアイドルの撮影ともなれば、専用の器材とかも使うだろうし、カメラマンの都合もあるだろう。何より、唯の撮影ともなれば、場所の確保や警備上もことも考えなければならないはずだ。
私が苦笑している横で、唯は早速マネージャーに連絡を取っている。
「あ、神代です。今度の撮影なんですけど、明日でお願いします。 ・・・はい、そうです。あと、友達が一人来てくれるんで、そちらもお願いします。 ・・・そうです。はい、お願いします」
え、うそ・・・ 話が通ってる?
「大丈夫だって。詳しい日程はあとでラインでくれるって」
「・・・本当に大丈夫なの? 後で怒られたりしない?」
「ん? 私、怒られたことなんてないよ? みんな親切だから」
いや、親切とかいう話じゃないでしょ。どうしてこんなに簡単に・・・?
そんな私の疑問を置き去りにして、唯は小さく笑う。
「サッチが見ていてくれたら、撮影も楽しくなるよね」
そこまで言われれば、私としては何も言えなくなる。
翌日、私は9時にはアトリエに来ていた。
撮影に招待された友達、という立場なので私自身がおしゃれをする必要はないと思うけど、あまり変な格好では、唯が笑われてしまうかもしれない。
そう思って、薄手のブラウスとチノパン、白のスニーカーで来たけど、大丈夫だっただろうか。
そして唯へのラインにあったように9時半に、事務所の迎えの黒い高級ワゴンがやって来る。乗っているのは運転手と、唯の女性マネージャーのみ。完全に唯の送迎用だ。
「マネージャーをさせていただいている、高梨と申します」
そのマネージャー、高梨真由(たかなし まゆ)さんは丁寧に名刺を差し出してくる。私も慌ててバッグの中をあさって、名刺を取り出した。
「遠野と申します。今日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします。それでは行きましょうか」
唯は慣れたように先に乗り込むけど、私は少し緊張していた。
「お邪魔します」
そう小さく頭を下げて、唯の隣に座る。
「では出発します」
運転手がそう告げると、ワゴンは音もなく動き出す。
「到着は10時半の予定です。現場で確認して、特に問題がなければそのまま撮影を始めます。お昼休憩を挟んで、午後の撮影は1時間ほどの予定です」
助手席に座った高梨さんが後ろを振り向きながら、説明してくれる。
唯は黙って頷いているだけだ。
そしてそれが終われば、車内は私と唯だけの空間になる。
9月の午前の光が、柔らかく差し込んでくる。
「急に誘ってごめんね」
「ううん、全然。本物の撮影現場なんて見る機会ないから、ちょっと楽しみ」
「サッチが褒めてくれたでしょ? だから直に見てもらいたいなって思ったの」
「そっか・・・」
隣で唯は窓の外を見ながら、にこにこしている。
私としては唯が楽しそうにしていれば、それで十分だ。
ワゴンは予定通りに10時半少し前に公園に到着する。
係の人が立入禁止と書かれたコーンをずらすと、その隙間から人気のない坂道をゆっくりと登っていく。
その先の芝生の丘では、すでに何人ものスタッフさんが動いていた。
真ん中でいろいろと指示しているのがカメラマンだろうし、テレビなどでよく見る大型のレフ板を持っている人もいる。唯の着替え用と思われるテントには衣装やメイク用のポータブルワゴンが運び込まれている。
その手前でワゴンが止まると、高梨さんがさっと降りて、ドアを開けてくれる。
私たちが下りると、スタッフさんたちの動きが止まり、一斉にこちらを向いて、声をそろえる。
「おはようございます!」
「おはようございます。よろしくお願いします」
唯はふわりとほほ笑んで、静かに返す。
主役が来たことで、現場は一気に仕事モードになったようだ。
そして高梨さんは他のスタッフさんに私の紹介もしてくれる。
「こちら、神代のご友人の遠野さんです。今日は近くで見学されるので、動線の確保、お願いします」
「あ、よろしくお願いします」
そう挨拶すると、あちこちから「おねがいしま~す」と返事が返って来る。
私用に、木陰に折り畳みいすが準備され、クーラーボックスの飲み物も「ご自由にどうぞ」と勧めてくれる。
そうして撮影衣装に着替えた唯がテントから出て来ると、カメラマンと少し言葉を交わして、そのまま撮影が始まる。
もっと綿密に打ち合わせてから始めるものだと思っていたけど、唯の場合はそうではないのだろう。
唯が進み出れば、そこが撮影の中心になる。
唯の動きはすでに完成されていた。顎の引き方から指先の角度、髪の流れる様子まで直すところはない。指示を出す必要もない。
カメラマンはその様子を無言のまま、写真に収めていく。
唯のポーズを切り替える動作には迷いはない。それはまるでその場の風や光と一体化しているようだった。
あれはカメラマンが唯を撮っているんじゃない。
唯がカメラマンに撮らせているんだ。
何の言葉も指示もないままに、唯はその場の空気を支配していた。
これが、唯の世界・・・
わたしはその淡々と進む撮影に見入ってしまった。
そしてお昼休憩。
スタッフさんは芝生のところで思い思いにロケ弁を広げたり、缶コーヒーを飲んだりしていた。スタッフ同士で談笑している人もいたし、器材の調整や、スマホで誰かと打ち合わせをしている人もいた。
そんな中で私は唯と二人で、ワゴンの中に案内された。
薄いカーテンが引かれ、外からの視線は遮られている。時折、スタッフさんの笑い声が聞こえてくる。
「ここのお弁当、おいしいんだよ」
そう言って柔らかく笑う唯は、さっきまでの場を支配していた唯とは別の顔をしていた。
「さっきの見ててくれた?」
「うん、すごかったよ。わたしも見惚れちゃったくらい」
「そう? じゃあ、午後も頑張るね」
唯は満面の笑みで言う。
やがて「午後入りまーす」との声が掛かり、スタッフさんたちがそれぞれの持ち場に戻っていく。
「じゃ、行ってくるね」と手を振って、唯もテントの中に入っていく。
午後からの衣装は、風に揺れる、白い薄手のワンピースだった。
すっと現場の空気が締まるのが感じられた。
「じゃ、歩いて行こうか」
カメラマンがファインダーを覗きながら声を掛ける。それは指示ではなく、自分の準備ができたという合図でしかなかった。
唯は軽く頷くと、小さな展望台に向けて歩き出す。
時に軽やかに、時に振り返りながら。
それはこの光、この角度で撮れという誘導だった。
カメラマンとアシスタントはそれに追従するように撮っていく。
私は高梨さんと並んで、少し離れた位置からそれについて行く。
「今日は本当にありがとうございます。やっぱりお友達の方がいると、唯ちゃんも違うみたいですね」
高梨さんが、周りの邪魔にならないように小声で言う。
「そうなんですか?」
「えぇ、お昼休みにリラックスできたからですかね。今日は一段と乗ってるような気がします」
マネージャーはスケジュール管理だけでなく、そういったメンタル面でのことにも気を遣わなければならないらしい。
「マネージャーも大変なお仕事ですね」
「そんなことないですよ。唯ちゃんには教えてもらうことばっかりで・・・ 仕事上でもそうですけど、ああいう仕草の一つと取っても魅力的じゃないですか。ああいうの真似できれば、私にも彼氏できるのになって」
高梨さんはにこやかに明るく言って、私もつられて笑ってしまう。
そんな些細な光景。
唯が一瞬、冷たい視線を向けたことなど、誰も気付かなかった。
「では終了になりまーす」
「お疲れ様でしたー」
そんな声が飛び交い、今度はスタッフさんたちが撤収作業のために慌ただしく動き始める。
「お疲れ様」
「うん」
私たちもテントから出て来た唯を出迎える。
唯は疲れも見せずに、ただ微笑んでいる。
「帰ろ」と私の手を取った。
帰りのワゴンの中では、高梨さんも運転手さんも静かで、後席の私たちに気を遣ってくれているようだった。
「撮影、どうだった?」
「面白かったよ。あんなに大勢の人が動いてるんだ~って」
私がわざと的外れなことを言ってみると、案の定、唯は不満げな顔を向けてくる。
「私は?」
「ちゃんと見てたよ。かわいかった」
「一番?」
「もちろん」
そう答えると、唯は満面の笑みで私の肩に体を預けてくる。
「よかった・・・ ずっと私の事、見ててね・・・」
そうして唯は少しの間、居眠りを始めた。
その肩から伝わるぬくもりと唯の香りで、私も少し眠ってしまったようだった。
その翌週、私はまた唯のアトリエを訪れていた。
外では少し早い秋雨がしとしとと降っていたけど、それにも増して、室内の空気は重かった。
折角買ってきたお菓子にもほとんど手を付けていない。
「唯・・・」と私が話しかけようとすると、唯はようやく口を開いた。
「あのね、サッチ・・・」
「ん?」
その唯の瞳にはどこか、怯えと頼りなさが混じっているように見えた。
「お願いがあるの・・・」
「何?」
「その・・・ 私のマネージャーになってほしいの」
その予想外の言葉に、私は言葉を失ってしまう。
唯の声は、少し震えていた。
私にはいつも自信たっぷりの唯が、不安に押しつぶされそうになっているように見えた。
「どうしたの、急に・・・」
少しの沈黙の後、唯はようやく口を開く。
「あのね、高梨さん、辞める、っていうか・・・ 辞めたんだって・・・ 事務所の人から連絡があったの・・・」
「え? なんで急に?」
「分かんない・・・ でも、私のせいかも・・・」
唯が俯いて、かすかに唇を嚙む。
「この前の撮影の時とか、すこし冷たくしちゃったのかもしれない」
唯は自分を責めるように言うけど、そんなことはないだろう。あの時の撮影は終始にこやかに進んでいたし、高梨さんも唯に対する不満など口にしていなかった。
「サッチ・・・ サッチはどこにも行かないよね・・・?」
唯の不安げにうるんだ瞳が私の心を刺す。
私は唯を守らなければならない・・・ 小夜子とも、そう約束したんだ・・・
「・・・ホントはね、マネージャーの仕事なんてしなくてもいいの。それは会社の方がやってくれるから。ただ話し相手だけでいいの」
唯の声は私の心に直接、響いてくるようだった。
「水原もサッチのこと、誘ったことがあったでしょ? 仕事を辞めて一緒に起業しようって」
「え、うん・・・」
「あれって、サッチの忙しさを心配したんじゃないと思う。ほんとは、ただ自分のそばにいてほしかっただけなんだと思う。でも水原は言えなかった。だからあんな遠回りな言い方になったんだと思う」
私は思わず息を呑んだ。
それは、何となく気付いていながら、意識的に目を逸らしていたことだった。
そのことを唯が知っているということは、失望や悲しみと共に、小夜子が唯に話して聞かせたということなのだろうか。
今更ながら、後悔の念が胸を締め付ける。
「でも私は水原とは違って、ストレートに言えるよ」
唯の真っ直ぐな瞳が私に向けられる。
「お願い、サッチ。仕事を辞めて、私のそばにいて」
唯の瞳は真剣そのものだった。
その奥に宿る光は私の些細な未来設計を白紙にして、唯一色に塗り潰していった。
「・・・分かった。マネージャー、やってみるよ」
翌日、私は早速、税理士事務所に退職の意思を伝えると、仕事の引継ぎ作業を始めた。
もうすぐ秋口で、早くしなければ仕事が忙しくなってくるという焦りもあった。
個人や法人顧客のファイルを整理し、継続中の案件は進捗状況をまとめていく。毎日何気なくやっていることでも、改めて言語化しようとすると大変なものだった。
そして顧客側にアポを取って、後任になった宮下君と一緒に挨拶回りをする。
事務所や顧客、宮下君に迷惑はかけられないという思いだった。
結局、引継ぎ作業は1か月ほどもかかってしまい、唯の事務所に顔を出せたのは10月になってからだった。
初めて訪れた、唯の所属するルミエール・プロダクションは雑居ビルの4階にある、小さな事務所だった。
社長はにこやかに出迎えてくれて、所属タレントをファイルで紹介してくれたけど、芸能界に疎い私は、ルミエール・プロダクションという名前も、所属タレントも、だれ一人知らなかった。
所属タレントは15人で、女優、モデル、アイドル、声優志望など。これまでの実績は映画のチョイ役やネットCMに出たことがあるくらい。ボイストレーナーは外注で、ダンススタジオもレンタルだそうだ。マネージャーは現在3人だけ。
副社長である奥さんは元アイドルで、社長はそのマネージャーだったらしい。あまり売れることのなかったアイドルが自分のマネージャーだった男性と結婚し、家族経営的な芸能事務所を開いたというわけだ。
どうしてそんなところに所属することに決めたのかと聞くと、唯は『最初に目に入ったから』とだけ答えた。唯の中では、どこの事務所に所属するかなんていうことは、その程度のことでしかないらしい。
高級ワゴン車で唯の送迎に来ていたから、大きな事務所なのかと思っていたけど、あれは唯のために大急ぎで体裁を整えただけだという。
現在、この弱小事務所は唯の登場によって、大混乱になっているらしい。
ホームページにはオーディションは行っていないと書いてあるのに、毎日履歴書が十通以上も届き、直接訪れてくる子もいるそうだ。
他の事務所からの露骨な引き抜きの話もあり、中には事務所ごとなどという話も出たらしい。
その中で、社長と副社長は『こんな時こそ堅実に』という方針で何とかやっている状況だという。
「この騒ぎで唯ちゃんが疲弊してしまうのが、一番の心配事だったので、昔からのご友人の方に来ていただけて、本当に感謝しています」
社長は心底、ほっとしたように言う。
「私たちとしても唯ちゃんのことは何としても守っていくつもりですけど、新しい人との信頼関係には時間が掛かるでしょう? だから、どうしようかと思っていたところなんですよ」
社長の奥さんがお茶を出してくれて、そのまま副社長として席に着く。
「唯ちゃんも言っていたと思うけど、オファーをさばいたりスケジュールを管理したりとかは、会社の方でやるから。遠野さんには唯ちゃんのメンタルサポート、まぁ、話し相手とかをお願いしたいんだけど、いいかな」
「はい、それはいいんですけど・・・ 前の唯のマネージャーさんって、何があったんですか?」
私がそう尋ねると、二人は困ったように顔を見合わせる。
「それがね・・・ こっちでもよく分からないんだよ・・・」
「その日も普通に仕事してたはずなんですけど、夜になって『辞めます』ってだけ、メールが来て・・・」
「それから音信不通だよ・・・ 警察にも相談したんだけど、それだけでは動けないって言われてね・・・」
二人は困ったように言う。
「そうですか・・・ すみません、余計なことを聞いてしまって」
「いやいや、気になるのも当然だよね。何か連絡があれば、遠野さんにも共有するからね」
社長はそう言ってくれたけど、私には二度と連絡は入らないだろうという確信のようなものがあった。
そんな風にルミエール・プロダクションに再就職することになったわけだけど、ほんの数日で、壊滅的な内情が明らかになる。
社長の奥さんが副社長と経理を兼任していることからも、事業規模が小さいことは分かっていたけど、以前の営業利益は200万程度。消費税は免除、法人税も50万以下というレベルだった。
それが唯の加入によって、突然、月1億のお金が流れ込んできたのだ。
口座には数字が並んでいるけど、どれがどの案件なのかも整理できてない。
請求書は未処理、契約書も整理中。外注費や経費の仕分けも進んでいない。
社長も奥さんも大きすぎる金額に驚いて、手が付けられない状態だった。
でも税務署は待ってくれない。
「あ、ちょっと、遠野さん! 税理士だったんでしょ? これ見てくれる? 納税はしたはずなのに、またこんな額、払わないといけないの? なんなのこれ?」
奥さんに泣きつかれるようにして渡されたのは、税務署からの中間納付追加通知だった。その額は2000万以上。
「えーと、そうですね。中間納付というのは、前年度の売上額に対して、『今年も同じくらいの売り上げがあるだろうから、あらかじめ納税してね』ということなんです。ところがその後で唯の分の売り上げが加わったので、『その分も先に収めてね』ということになったんです」
「だからって、こんな・・・」
「大丈夫ですよ。帳簿と口座、見せてもらえますか?」
そうしてパソコンを開いて、複数あるオンライン口座の内容を確認していく。
資金はあるんだけど、それが脈絡もなくばらばらに入金されている。契約書に統一性がないせいなんだろうけど、これでは収支の全貌も分からないし、どこまでが使えるお金なのかも分からなくなってしまう。
でも今回は、怖がって大金に手を付けていないことが幸いした。
私は散らばっている資金を振り替えて、まとめていく。
「この口座を税金用の口座にして、必要な資金を積み立てていきましょう」
とりあえず資金をかき集めて2000万を隔離した後は、分かるものから順に、外注費や給与分の口座に仕分けていく。
「それで残ったこの金額が今現在、使える金額になるわけです」
「なるほど・・・?」
奥さんはよく分かっていないような風で呟くけど、今までの事業規模を考えれば無理もない。
「それで、あとは契約書の内容を、全部チェックして、振込先を統一していきます。今後の契約に関しても、振込先や支払元となる口座を統一して行けば、資金の流れが明確になります」
「・・・じゃあ、今回の税金は払えるの?」
「もちろん、払えます。お金がいろんなところに散らばっていただけで、実際に収入はあるわけですから」
「よかった~・・・ これからも税金の事、遠野さんにお願いできる?」
「あ、いえ、私は顧問税理士でも何でもないので、最終的な届け出とかは副社長にやってもらわないと・・・」
「だから遠野さんを顧問税理士にすればいいわけでしょう? 社長! しゃーちょーおー!」
というわけで、私の肩書は唯のマネージャー兼ルミエール・プロダクションの顧問税理士になったのだった。
そしてその後すぐに副社長は、やや古めの、いかにも業務用といった感じのノートパソコンを持ってきた。
「さっちゃん、これ真由ちゃんが使ってたパソコンなんだけどね、仕事関係のことが入ってるかもしれないから、確認してもらえる?」
どうやら社長も副社長も、パソコン周りはさっぱりらしい。
「分かりました」と受け取ると、事務所の共用スペースでノートパソコンを開いた。
パスワードを書いた付箋が液晶画面横に何枚も貼ってあったので、すぐにログインできる。
デスクトップはきれいに整理され、高梨さんの几帳面な性格が伝わって来る。
業務用フォルダの中身は撮影スケジュールやクライアントからの依頼メールなどが入っていた。
そしてメールの受信箱も確認する。仕事関係のメールが入っているかもしれないと思っただけだった。
そこには業務用フォルダに分けるほどでもないような些細なメールが残っているだけだった。
そしてそこには何件かの≪From:めぐみ≫となっているものが混ざっている。高梨さんは私用でもこのノートパソコンを使っていたらしい。
件名をざっと見ても重要そうなものはないし、メールを閉じようと思った時、カーソルが一番上のメールの上に乗り、プレビューが表示される。
『本当にそんなこと言われたの? 大丈夫?』
「え?」
普段であれば何も気にしない言葉だけど、高梨さんは失踪しているのだ。失踪前にこんな言葉を掛けられていれば、どうしても気になってしまう。
何かトラブルがあったのかもしれない。
そう思い、後ろめたさを感じつつ、私はメールを開いた。
『神代さんに「サッチに色目を使うのは許せない」って詰められた。女同士なのに色目とか、意味分かんない。でも怒ってるのは確実。クビになるかもしれない』
『本当にそんなこと言われたの? 大丈夫?』
『また何か言われたら社長にも相談してみる』
『そうした方がいいよ。いつでもこっちに来ていいからね』
そんな言葉を追うだけで胸が締め付けられる。
高梨さんの件について、唯は何も知らないと言っていたけど、これでは唯が辞めさせたように取れてしまう。
日付を見ると、高梨さんが辞めた日と同じだった。普段はこっちのノートパソコンを使っていて、『辞めます』っていうメールはスマホか何かで送ったのだろうか。
でも肝心の内容についてだけど、私は高梨さんに色目を使われた覚えはない。
かと言って、高梨さんの被害妄想などと切り捨てることもできなかった。
私は混乱したまま、ノートパソコンを閉じた。
そんなわずかな不審感をよそに、私が唯のマネージャーになったことの影響は、すぐに出た。
唯が土日のファンとの対面イベントへの参加を了承したのだ。
唯は「サッチと一緒だったらどこでもいいよ」と上機嫌だった。土日は私と会えるから仕事はしない、というのは本当だったらしい。
当然、数千人規模になるイベントをこの弱小事務所が仕切れるわけもなく、経験豊富な大手の企画運営会社に丸投げだったけど、出演条件の確認や、唯の意向を向こうに伝えることはやっていたようだった。
そして次に企画されたのは、ハロウィン向けの個人撮影会付きのイベントだった。第一部は大きな会場でトークイベントを行い、その後、第二部として抽選に当たった人を別の会場に入れての撮影会、という流れらしい。
事前の説明会に行くと、会場には唯の等身大の胸像が飾ってあった。
「いただいた3Dデータから作成しました。リアルに作っていますので、SNSや会場での展示に使わせていただきます」
今回の企画運営会社の担当者が自慢気に言う。
「折角大勢のファンが集まってくれることですし、抽選に漏れたからといって、そのまま帰ってもらうのもかわいそうでしょう」
つまり、撮影会の抽選に漏れた人は、この胸像と記念撮影をしてね、ということなのだろう。
確かにそっくりではあるし、普通の感覚ではリアルなのだろう。
でも私はずっと小夜子の生きているかのような作品を見てきた。
残念ながら、その胸像は何の迫力も生気もない、無駄遣いのおもちゃのようにしか見えなかった。
私は『そんなことに文句を言っても仕方がないか』とそのまま企画を進めようとすると、唯がすっと胸像の顔を撫でた。
「唯・・・?」
「まだ時間はあるでしょ? この目だけ、作り直させて」
唯は振り返って担当の男に言う。
「作り直させてって・・・ これ、映画とかでも活躍してる特殊造形のプロの作品ですよ? 誰にやらせるんですか」
「私が作る」
「えぇ・・・?」
担当の男は明らかに困惑していた。恐らくは自分の発注した作品に自信もあったのだろう。『素人が何を言い出すんだ』と言いたそうな顔だった。でも結局は、この企画のメインである唯の機嫌を損ねないことを優先させたのだろう。
「・・・期間は三日しかありませんが、大丈夫ですか?」
「うん。目だけで、雰囲気は全然違うから」
「・・・分かりました。唯さん本人が監修したものとなれば、ファンの人たちも喜んでくれるでしょう」
そううまく取り繕って、改めて私の方に向き直る。
「それで、今回の企画全体の流れなのですが・・・」
そうして担当の男は企画説明に入っていった。
私は資料を見ながら確認していったけど、唯はもう何も聞いていなかった。
「唯、本当に作れるの?」
私は夕食後、アトリエでラフな作業着に着替えた唯に尋ねた。それは小夜子の着ていたもので、小夜子にはだぶだぶだったけど、スタイルのいい唯には丁度いい大きさだった。
「作れるよ。水原の使っていた材料も道具も、そのまま残ってるから」
唯は作業台の一つに耐熱性のグラファイト板を敷くと、ガスバーナーをセットし、棒ガラスや色ガラスの入った箱を持ってくる。
材料のことを言ったわけじゃないんだけど、と思っている間に、唯は保護メガネと手袋を着用して、バーナーに点火した。
青く吹き上がる炎が、保護メガネに反射する。
乳白色の棒ガラスを回しながらバーナーにかざすと、それはやがて、ゆっくりと形を変え始める。煮詰めたミルクのような艶を持ったそれが、飴のようにとろりと伸びていく。
それを静かにステンレスの棒で巻き取ると、バーナーの熱で粘度を調整しながら、ガラスを球体にまとめていく。球体を回す速さが速すぎても遅すぎても、歪になってしまう。ガラスの温度と回す速さの絶妙な一致が必要になる工程だ。
そしてその白目となるガラス球に、わずかに青みを帯びた層と、透明な層をコーティングしていく。
その間も本体をバーナーに近付けたり遠ざけたりしながら、表面だけをとろりと溶かしていく。
液体のようなガラスコーティングが全体を覆うと、薄い乳白色の層が生き物のような柔らかな光を宿す。
そして虹彩の乗る正面部分を小さなヘラで押さえ、わずかな平面部分を作る。
今度は別の色つきのガラス棒を準備する。青、琥珀、緑、グレーなど、人の目に使うとは思えないようなカラフルなものだった。
その先端をバーナーで溶かすと、ピンセットで摘まむようにして、髪の毛より細いガラスの糸を引き出した。
そのガラス糸を眼球の中心部に放射状に並べていく。それは繊細な花が咲いたようだった。
そして固着した後で、透明なガラスの薄膜で覆うと、一層目の虹彩が終わる。
それを二層、三層と重ねていく。乗せるガラス糸の色彩も長さ、密度も全て違う。単一では生きているようには見えないからだろう。
そうしてできた虹彩の中心に、黒いガラスの粉末を落とす。バーナーで溶かすと、その黒は眼球の中心部に溶け込むように落ちていった。
そして最後に、透明の棒ガラスを溶かして、虹彩の上に落としていく。これが角膜になる部分だ。透明なガラスがゆっくりと積み重なり、ドーム状になっていく。
ある程度の量が落ちたところで、バーナーから離し、透明なガラスの層の動きが止まるのをじっと見つめる。
今まで我慢していたように、唯がゆっくりと息を吐きだした。
「これで一つ。もう一つも見ていく?」
唯は出来上がったばかりのガラスアイを徐冷却用の小さなキャビネットに収めた。ここで保温しながら、数時間かけてゆっくり冷やすのだ。
「・・・いや、いい。邪魔になると悪いし」
私はその唯の手付きに目を奪われていた。
あれは見様見真似では決してできない熟練工の手付き、いや、それ以上の、正しく小夜子の手付きだった。
「明日また来るから、その時にあの胸像につけてもらおう」
「うん、じゃあ、また明日」
「おやすみ」
翌朝、唯は徐冷却用のキャビネットに入れっぱなしにしてあった、ガラスアイを出してきた。
それは本物の眼球のようでありながら、グロテスクさはなく、むしろ神秘的な光を感じさせた。
「きれい・・・」
「でしょ? 本当はもう一段階、水原のエッセンスを垂らす工程があるんだけど、それをやっちゃうと『本物』になっちゃうからね。今回はここで止めにする」
「まだ終わりじゃないの?」
「そう。これはただ綺麗なだけ。光は素通りで、何の判断力もないガラスの瞳に過ぎない」
そう言って唯はガラスアイを箱にしまう。
唯はあれだけのものを作りながら、まだ本物ではないと言った。その手前で止めたと。
それはずっと自身の制作物を練習だと言い続けていた小夜子に通じるものがあった。
小夜子の本番、本物とは唯のことだった。
では唯の言う本物とは何なのだろうか・・・
そう考えると、背筋が寒くなる。そこには天才などの言葉では言い表せない異質さがあった。
「サッチ、行こう」
「あ、うん」
私は唯に急かされて、我に返った。
打ち合わせ会場では、昨日の担当者が、もう一人の男と一緒に待っていた。
唯が自作のガラスアイを見せると、そのもう一人の男は、目を見開いて驚いていた。多分、その男が胸像の制作者なのだろう。何か理由を付けて、自分の作品に手を加えることを断るつもりだったのかもしれない。
「・・・分かりました」
でも男はそう言って、胸像の後頭部に手を入れ、ガラスアイを入れ替えた。
途端にその胸像が生き生きとしてくる。
それは唯の言った通りだった。細かい造形の歪みや質感の稚拙さは変えられないけど、『本物』に近い視線が全てをカバーしていた。
それは制作者も認めざるを得なかったのだろう。
「では、胸像はこの状態で展示させてもらいます」
そして当日、会場前のロビーに展示されたその胸像は、第二部の撮影会に当選しなかったファンにとって大きな救いとなっていた。
横に立てられた解説表示板には『神代唯が監修』『神代唯の視線を再現』などの言葉が並んでいた。
その胸像周囲はイベントが始まるまで、人混みが絶えることはなかった。
そして開場。2300席は完売していて、急遽用意した300人分の立ち見エリアもすぐに埋まる。
その熱気はステージ袖にも伝わっていた。
薄暗い照明の中、スタッフが機材の最終チェックをする横で、今回のMCがマイクを弄んでいた。
「いやぁ、最初は唯ちゃんが近くで見れてラッキー、なんて思ってたんすよね・・・」
「まぁ、俺もそうでしたね。でも、今回のチケットの倍率知ってますか? 50倍以上ですよ」
スタッフの一人が機材を確認しながら答える。
「うへぇ~、そんなに? 普通のライブMCくらいのノリで来ちゃったけど、流石に緊張するっすわ」
「神代唯さん、存在感ハンパないから、油断してると持っていかれますよ」
別のスタッフも書類を確認しながら言う。
「そうだよな~・・・ いや、ちゃんと持ちこたえないと・・・」
私と唯がステージ袖に通されたのは、そんな会話の最中だった。
「神代唯さん、入ります」
そんな声と共にドアが開けられると、そこからすでに会場の熱気が伝わってくるようだった。
「あ、お疲れさまです。今回MCさせていただく、甲斐です」
それはよく民放の情報番組で見る顔だった。
「よろしくお願いします」
「よろしく」
私たちも軽く挨拶をするけど、唯はこれだけの大舞台だというのに、全く緊張した素振りはない。むしろ私の方が緊張しているくらいだ。
そして、時計を見ていたスタッフの合図によって、MCがステージ上に出て行く。途端に歓声が上がり、会場の盛り上がり具合が意識される。
「唯、大丈夫?」
「うん。そこで見ててね」
そんな風に声を交わすと、ステージ上でMCが声を張り上げた。
「それでは! 神代唯さんの、登場で~す!!」
唯は私に向けて小さく手を振ると、スタスタと歩いて行く。
大型ホールは満席で、間口20メートル程のステージ上には、映画館よりも大きなスクリーンが設置され、そこにライブカメラ越しの唯の姿が映し出される。
途端に、正しく会場全体が揺れるような歓声が上がる。
唯はそれをものともせずに、イスの前で何パターンかポーズを取った後、自然体で腰を下ろした。
MCも最初は緊張していたようだったけど、徐々に自分のペースを取り戻したようだった。
「最近はますます雑誌などでも話題ですが、今一番ハマっていることはなんでしょうか」
「ハマっている、というより、集中しているのは人間観察ですね。少しでも早く、人間のことを知りたいので」
唯はそんなことをさらっと言うけど、それがかえって『独自の世界観』と理解されたようだった。
「なるほど・・・ その点、僕なんかは雰囲気だけで生きてますからね」
そう言って笑いを誘う。
「ロビーに展示されていた唯さんの胸像。あれ僕も見ましたけど、すごい完成度でしたね。唯さんが監修されたのだとか」
「そうですね。専門の方に作ってもらったんですが、目だけは私が作らせてもらいました」
「えぇっ!? 唯さんが作ったんですか?」
MCが驚くけど、それはあながち大げさなものではなかった。会場にもどよめきが走る。実際、私も唯がそんなことができるなんて知らなかったんだから、当然だろう。
「見てくれた人たちに、少しでも私の視線を感じてもらえたらと思って」
「確かに視線は感じましたね。あれが唯さんの視線ですか・・・ これが終わったら見詰め合ってきたいと思います」
そんな風なトークが続き、メインイベントともいえる、スマホを使ったリアルタイム投票、『見たいポーズ投票』が始まる。
ステージのスクリーン上には選択肢が表示される。
A:振り返り
B:座りポーズ
C:上目遣い
D:手でハート
「5、4、3、2、1、ゼロ! 集計結果は・・・ 圧倒的にC! 上目遣いです!」
MCがそう言うと、大型のライブカメラがステージに上がって来る。
「さぁ、唯さん、お願いします!」
「・・・こう?」
唯は律義に膝を軽く曲げると、寄って来たカメラに目線をやる。
その様子がスクリーンに大写しになると、会場が地響きのような歓声に包まれる。
「これは、すごい破壊力です! スクリーン越しではありますが、撮影もできますので、皆さんどうぞ!」
会場内は一気にざわつき、シャッター音だけが鳴り続ける。
その間も唯は、ゆっくりと動くカメラに視線を合わせ続けていた。
そして三回の投票が終わり、ようやく唯は席に着いた。
「ありがとうございました! いやぁ、唯さんは男性からの人気がとんでもないですよね。ご自分ではどう考えていますか?」
「求められることは嫌ではないですね。人って欲望を隠せば隠すほど苦しくなるでしょう?」
「な、なるほど! 刺さる言い方ですね! 会場の男性陣、どうですか?」
MCが振ると、会場内からは笑いとざわめきが起こる。
「ではその男性陣に、何か一言お願いします!」
会場からは拍手が巻き起こる。
すると唯はマイクを持ち直し、会場内を見回した。
「・・・あなたが女性に求めているものは、多分、私が全部与えられます」
一拍置いてさらに続ける。
「他の女性ではなく、私を選んでください」
会場は唯がマイクを下ろしてからもシンとしたままだった。
そしてゆっくりとざわめきが戻って来る。
「え、え~と・・・ すごいですね、今の! じゃあ・・・ その・・・ 会場の女性陣には何かありますか!?」
MCが焦ったように話題を変える。流石に今のはヤバイ方向に行ったと思ったのだろう。
唯は再びマイクを構える。
「皆さんは誰かに支配されるために生きているのではありません。依存する心を捨てて、自由になりましょう」
その声は先ほどの甘い、魅惑的なものではなく、澄んだ、厳しささえ感じられる声だった。
「え、えっと・・・ 深い! 深すぎるお言葉、ありがとうございました!」
MCが強引に終わらせようとする中、唯は優しく微笑んでいた。
「それでは本日はありがとうございました! 神代唯さんでした!!」
そうして唯は軽く手を振ってステージ袖にはけて行き、第一部の終了が告げられる。
トークでの『唯が自分で作った』という発言もあり、ロビーの胸像へ殺到する人たちがいる中で、席に座ったまま、トークショーの余韻を語ったり、スマホで撮影した画像を見せ合ったり光景もあった。こちらは第二部の撮影会に当選した人たちだろう。
唯の方は特に感慨もなく、衣装交換のために別室に行こうとする。
「流石に最後のコメントは言い過ぎだったんじゃない?」
他の人が言うのならば、受け狙いでも軽口でも通る。
でも唯があの声と視線で言えば、それがどれだけの影響力を持つことになるか。それがどれだけ人の心に刺さるか、刺さりすぎるか。
そんな私の不安をよそに、唯は平然としている。
「愚かな男は女を支配したいと思うし、愚かな女は男に支配されたいと思う。私は、それは間違いだと教えてあげただけ。女は男から解放されて自由になれるってことを理解しなくちゃいけないの」
唯は毅然という。
「でもね、あの言い方は・・・」
「それが分からない程愚かな女は、いらないわ」
私の言葉の途中で、唯はきっぱりと言った。
その冷たい視線に私はゾワリとする。
「・・・いらないって、どういう意味?」
唯はその問いに微笑みで応えると、スタッフに案内されて更衣室へと向かった。
その後、30分の休憩、準備時間を置いて始まった第二部の撮影会は、スムースに進んでいる。
ブースの中央に立つ唯は、完璧な体のラインが強調される、タイトな白のワンピース。緩く巻いた髪も自然な立体感を出している。柔らかな照明に照らし出され、さぞ、写真映えするだろう。
そしてBGMとして静かに流れるサティの『ジムノペディ』。それは完全に幻想の世界だった。
スタッフがそのブースの前に、お客さんを整理番号順に5人ずつ案内している。
一組ごとの撮影時間は5分で、その間に唯は様々なポーズを取っていく。
その唯のポーズだけでも十分撮りごたえはあるけど、もちろんお客さんからの要求も受け入れている。
そしてその5分が終わると、カメラマンのスタッフが唯とのツーショットを撮ってくれるというサービス付きだ。
私は撮影が順調に流れていることを確認してから、スマホを取り出し、先ほどの発言がどう捉えられているのか確認することにした。
唯の『私を選んでください』『依存する心を捨てて自由になりましょう』という強いメッセージが、どう取られているのか、気になって仕方がない。
頭の中ではすでに、炎上対策の例文が浮かんでいた。
『神代唯』と打ち込んで検索した途端、私の思考は固まってしまう。
そこには炎上どころか、肯定的な言葉しか並んでいなかった。
12:15 @idol_fan_R
「唯ちゃんの言葉、刺さった・・・!
他の女じゃなくて私を選んでって、もう救いだよね・・・」
12:16 @take_shooter
「私を選んでってストレートに言えるのがすごい。
もう唯ちゃんしかいない!」
12:16 @yui_holic
「もう彼女いらんわ。
一生捧げる」
12:17 @K_love_riho
「今日ほど生きててよかったと思えることはない。
唯ちゃんのいる世界に生まれてよかった」
12:19 @girl_reborn
「唯ちゃんに言われて目が覚めた。
束縛してくる人間とは距離置くことにする」
12:20 @fem_freer
「彼氏と別れることにした。
私は自由だー!」
12:21 @yuifan_2025
「結婚考えてたけど、やっぱ辞める。
俺は唯だけを見て生きていく」
12:22 @break_up_now
「帰ったら、さっそく同棲解消する。
唯さん、ありがとー」
12:23 @echo_of_yui
「依存は悪。
人間関係、全部整理します」
12:24 @new_world_fan
「今更ですが離婚します。
唯ちゃん、私を見守っててね」
全てがこの調子で、唯の言葉で人の価値観、人生観が塗り替えられていく様子がリアルタイムで流れていた。
どれだけ辿っても、別タグで検索しても、否定的な言葉は全く出てこない。
明らかに『やりすぎでしょ』と思えるような内容にも、『分かる』『応援してる』『正しい判断』といった肯定的なコメントしかついていない。
・・・どういうこと?
胸の奥が冷えるのを感じた。
明らかにバランスが崩れているのに、それを指摘する人間が一人もいない。
しかもフォロワー数があり得ない速度で増加している。今見ている間だけでもう2万以上増えている。
ふと、『何の判断力もないガラスの瞳』という唯のセリフが思い出された。
綺麗で純粋なように見えても、そこに自分の光はない。強烈な唯の輝きを受けて、光っているように見えるだけだ。
SNSなんて、過激なことを言って目立つための場所だから・・・ たまたま流れでこうなっているだけだから・・・
私は自分にそう言い聞かせて、画面を閉じた。これ以上見ているのが怖かったというのもある。
現場は普通なんだから、大丈夫。
私はスマホをしまって、唯の撮影ブースに目を向ける。
そこでは客の一人がスタッフに自分のカメラを渡して、唯とのツーショットに臨もうとしていた。
「もう少し寄ってみます? 大丈夫ですよ~」
スタッフがそんな風に、真っ赤になって硬直しているお客さんに声を掛けている。
それはどう見ても、ただ緊張しているだけの青年であって、にこやかに頷いている唯にも高圧的、支配的な雰囲気はみじんもない。
そう、大丈夫。普通なんだから・・・
私は無意識のうちに、SNSの異様な内容から目を逸らそうとしていた。
何気なく唯のことを見ていると、お客さんの交代のちょっとした隙に、小さく手を振ってくれた。
その子どものような仕草に、私は思わず笑ってしまった。
そしてその翌日、私たちはお疲れ様会ということで街に来ていた。
二人で特に目的もなくぶらぶらするのは楽しかった。
最初は唯がいるとバレて、大騒ぎになるのではと心配したけど、全然そんなことはなかった。こんなところを数千人を魅了した人物が歩いているとは思わないのか、唯の存在は驚くほど気付かれていなかった。
私たちは控えめな私服で、疎らな人波に紛れて、散策する。
「この辺り、結構お店多いんだね」
唯がショーウィンドウを覗き込むようにして言う。
「そうだね。車ではよく通ってるけど、歩くとまた違うよね」
「うん、車の中だとどうしても仕事のこと考えちゃうからね」
「仕事熱心だねぇ。昨日の後半もずっと笑顔だったし。あれ、ほんとにすごいよね」
「あれはサッチがいてくれたからだよ」
唯は軽く首を振る。
「一人だったら、あんなふうに笑えなかったと思う」
「何それ、逆でしょ。唯が頑張ってるから、スタッフさんもファンのみんなも盛り上がれたんだよ」
そう言うと、唯は少し目を細めた。
「だったらうれしいな。昨日は女の子のファンも結構いたでしょ。あの子たち、みんなキラキラしてた」
「女の子のファンも増えてるからね。やっぱり唯は同性からも好かれるタイプなんだよ。前の職場の子も、唯のこと『一緒に居ると安心できそう』って言ってたし」
「ふ~ん、そうなんだ・・・ でも女の子は自分できちんと上に行けるから、応援したくなるんだよね。自分のために頑張って綺麗になっていくのは私もうれしいし」
そこに唯はやりがいを感じているようだった。
「そうだねぇ。何か今の若い子たちは、パワフルさがあるよね。自分で何とかするぞって言う」
「そうそう。だから、逆に何かに依存してる子を見ると、もったいないなぁって思っちゃう。どんどん下に引っ張られていくわけだから」
「唯はそういうとこ、ほんとにストイックだよね。現状に甘んじないっていうか。いい考えだよね」
そう言うと唯は満面の笑みを浮かべる。
「ありがと。やっぱりサッチは私の一番の理解者だよね」
唯はすっと私の手を取って来る。少し恥ずかしくもあったけど、別に嫌な気はしない。むしろ、誇らしいくらいだ。
私たちは手をつないで歩く。
「そういうことに引っ張られないように私たちが『ある』わけなんだから、女の子にはそんなのから離れて、上に進んでほしいよね」
その時、私はあまりに自然な唯の口調に、何の違和感も覚えなかった。
ただ頑張っている唯を守ってあげなきゃと思っていた。
その唯がふと足を止める。
「? どした?」
「あ、うん、別に・・・」
唯はまた笑みを浮かべて歩き始める。
そして前から歩いて来た、腕を組んで歩くカップルとすれ違う。
彼女の方は白の半袖ニットと、ライトブルーのデニムスカートで、あんなのもいいな、と思ってしまう。
「・・・女の子にも色々いるよね」
「ん?」
「いくらでも助けてあげられるのに、わざわざ自分から下に行こうとする人。そういうのって、もう雰囲気だけで分かるんだよね」
「ふ~ん・・・」
私は何となく声を返す。
「あ、あのカフェ、よさそうじゃない? すごくおしゃれ。私、入ってみたい」
「いいね。今日はお疲れ様会だし、ケーキでもいこっか」
そうして二人は通りに面したカフェに入って行く。
その背後で、さっきのカップルの間に険悪な雰囲気が漂い始めていることには気付かない。
「ヒロ君!? ねぇ、ヒロ君ってば・・・」
「うるせぇな・・・ お前も唯ちゃん見習えよ・・・」
そんなかすかな言い争いの声を耳にして、唯は満足そうに目を伏せた。
その後、私たちは大型ショッピングモールでランチを済ませた。さっきカフェでケーキを食べたばかりだというのに、唯はそこでエビクリームパスタをおいしそうに食べていた。
「次は何がいい?」
「ラムレーズン」
唯は即答する。
「ほんとそれ、好きだよね」
「コンビニのアップルティーも好きだけど、なくなっちゃったんだよね」
唯は残念そうに言う。
エビもラムレーズンも、そのアップルティーも小夜子の好物だったものだ。
外見や性格は全然違うけど、好みはまるでコピーしたかのようにそっくりだ。
そんなことを考えていると、唯がくいっと手を引いた。
「こっちから行こ」
私は真っ直ぐにアイス屋さんに行こうとしていたけど、唯はわざわざ遠回りになる通路へと行こうとする。
「どうしたの?」
「いいから、こっち」
唯はそっけなく言って、ぐいぐいと引っ張って来る。
何となく振り返ると、通路の向こう側を歩いて行く女連れの男に目が留まった。
私の元夫の日向だった。
向こうは私の存在には気付かず、そのまま去っていくけど、ちらりと見えた横顔と、あの後ろ姿、歩き方は間違いない。
一瞬にして、楽しい一日に水を差された気分だった。それによって、私はまだあの男を許していないかったことが自覚される。
それと同時に、私はその光景に違和感を覚えた。
あの男は社交性と自己顕示欲の塊のような、ナルシシストだ。周りに大勢の女たちを引き連れている様子は容易に想像できるけど、二人でというのは意外だった。
私以外にも、あの男とそんな関係になれる女が存在したのか。
そう思うと、相手の女の方にも興味が出てくる。
そこまで考え、私ははっと我に返る。
あんな男のことはさっさと忘れたいのに・・・
「サッチ、行こ」
「うん・・・」
唯はまた優しく私の手を取って歩き始める。
とにかく、唯は私と日向が鉢合わせしないようにしてくれたのだろう。ありがたいことだ。
でもそこで、私はふと疑問に思う。
なぜ唯が日向のことを知っていたのだろうか、と。
自分と日向の険悪な関係を知っているのは小夜子くらいのはずだ。他の人も私がバツイチなのは知っているかもしれないけど、私は小夜子以外の前で日向の悪口を言ったことなどない。
でも小夜子がたとえ相手が唯であっても、私と元夫とのことを話すとは思えないし、その理由もない。
「唯・・・ あの男、日向のこと、知ってるの?」
「日向っていうの? 知らないよ。でもサッチはあの男が嫌いでしょ? だから私も嫌い」
それだけ答えて、唯は私の手を引いて、アイス屋さんへと向かう。
やっぱり、唯は言葉以外の方法で、小夜子からいろんなものを引き継いでいる。
それは造形の技術、知識だったり、飲食の好みだったり、個人的な記憶だったりと、多岐にわたっている。
小夜子は『魂を込めて作った』と言っていたけど、こういうことなんだろうか。
表情豊かで、意外なところで純粋な唯の様子を見ていると、つい忘れてしまいそうになるけど、唯は小夜子によって作られた人間ではない存在、いわく、究極のラブドールなのだと思い出してしまう。
そしてそれは、唯が私の普段着を選んでくれたショッピングの帰り道での出来事だった。
何気なく歩いていた私たちの前に、一人の女がふらりと進み出る。
「いた・・・ 返してよ・・・」
その女は、小さくそんなことを呟いていたようだった。
どこかで見たような、と思ってあらためて見ると、それは午前中にすれ違ったカップルの女だった。唯がなぜか足を止めたのと、おしゃれな格好をしているな、と思ったので、記憶に残っていた人だ。
その人がなぜか、一人で歩道をふらふらと歩いてくる。
私は唯の手を引いて道を開けようとするけど、その女の目は、しっかりと唯を追っていた。
「返して・・・ ヒロ君を返して!」
女は突然そう叫ぶと、バッグの中から包丁のようなものを取り出した。
その目はもう、まともではない。
辺りの人たちはざわついて、まず距離を取ろうとする。
すぐにその女を止めようとする人はいなかった。
そして女は、止められる前に刃物を構えて、唯目掛けて飛び出してくる。
「ヒロ君を返してよぉぉ!!」
「唯!」
私は咄嗟に唯の腕を引くけど、唯はその場から動かなかった。動けなかったのではなく、私の庇おうとする力に抵抗して、動かなかった。
女が刃物ごと体当たりをする。
それと同時に、『ガギン』と耳障りな音が響く。
女の動きが止まる。
でも唯は平然としてその場に立っている。
「あ・・・ あぁ・・・」
呆然とした様子で唯から後ずさっていく女の手から、刃物が落ちる。
その刃先は大きく欠けていた。
女は震えながら唯のことを見ていた。
「そんなもので私の体を傷付けることはできないわ。 ・・・でも、私に破壊の意志を向けたのは許せない」
唯が一睨みすると、女はガクンと膝から崩れ落ちるようにへたり込んだ。
震えながら唯を見上げるだけで精一杯。もう動くこともできないようだった。
そこへ「大丈夫ですか!?」「人が刺されたそうですけど!」と言いながら、警官が駆け寄って来る。誰かがすぐに通報したのだろう。
人垣をかき分けてやって来た警官二人はすぐに、路上にへたり込む女に駆け寄った。
「被害者の方ですか!?」
でも女は震えたまま、まともに話すこともできない。
「その女は加害者よ」
そこへ唯が落ち着いた声を掛ける。
「え、あなたは・・・」
警官たちは事情を尋ねようとしたのだろう。
でも唯はそれよりも早く、平然と応える。
「刺したのはその女。でも被害者はなし。そういう感じでよろしく」
そんな言い訳が通るわけないでしょ、と思う中、警官二人は唯に対して姿勢を正した。
「分かりました!」
「その女はそっちの方で『保護』しておいて」
「はい!」
そう答えると、警官は半ば強引に女を引き起こすと、両腕を抱えるようにして、交番の方に戻っていく。
その様子に私は唖然としてしまう。
何がどうなってるの? どうして警察が唯の指示に従うの?
でもまずは、と私は唯の刺されたように見えたお腹を確認する。
「本当に・・・ 大丈夫・・・?」
「うん」
恐る恐る覗き込む私に、唯は短く答える。
確かに服は大きく切り裂かれているけど、そこには一滴の血もなく、ほんの小さなかすり傷一つさえない、綺麗な白い肌が覗いていただけだった。
恐る恐る触れてみると、柔らかく、温かで、滑らかな肌だった。
唯が少しくすぐったそうにする。
「これじゃ目立っちゃうから、どこかで服、買っていかなきゃ・・・」
唯はそう言って、照れ笑いを浮かべる。
でもその表情は、私の驚きの顔を見て、満足そうな笑みに変わる。
「サッチが言ってたでしょう? 体を大切にしなさいって。この体を傷付けようとするのは、誰であっても許さないの。 ・・・えらいでしょ?」
唯は冷たいガラスのような瞳で言う。
「う、うん・・・」
私はそう答えることしかできなかった。
その夜、私はスマホを眺めて、ため息をついた。
半ば予想していたことだけど、あれだけの目撃者がいながら、商店街での刺傷(未遂)事件に関するSNSの書き込みは、一件もなかった。