マリオネット縁起   作:ディエ

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第5章 透明な血

そこは天井は思った以上に高いけど、鉄骨がむき出しになったままの、無機質な空間で、私が抱く、『アイドルやタレントが活躍する華やかな空間』というイメージとは少し違っていた。

昼下がりのロビーには、撮影の合間を縫って人の流れが絶えない。

壁沿いには、黒いキャスター付きのケースがずらりと並んでいる。それぞれの所属事務所やクルーの名前が大きく貼られていて、今どれだけの現場が同時に動いているのかが分かる。

奥の自販機コーナーには、メイクを直す女の子、台本を抱えたAD、そして眠気に負けそうなカメラマン助手たちが集まっている。時折、缶コーヒーが落ちる『ガシャン』という音が聞こえてくる。

通路側では、スタッフ同士が立ち話をしている。業界用語が多用され、何を言っているのかさっぱり分からない。そんな会話の断片だけが聞こえてくる。

ロビー中央には簡易テーブルがいくつか置かれ、そこには差し入れの紙袋や台本が置きっぱなしになっている。

人の気配は常にありながら、そこに留まる人は少ない。ここは自分の現場へ戻るための中継地点でしかないからだ。

このロビーにいるだけで、アイドル、モデル、女優など、複数の世界がここで交わっていることが分かる。

華やかさと慌ただしさが同居する、有数の大型スタジオ。

私はそこで、場違いさを感じながら、一番安い紙コップのコーヒーを飲み、行き交う人の姿を眺めていた。

今は唯が衣装替えのために更衣室に行っているので、ちょっとした空き時間だった。

控えめに声を掛けられたのは、そんな時だった。

「お疲れ様です。あの、ルミエール・プロダクションの方ですよね」

そう言われて、まだ自分の立場に慣れていないせいで、一瞬、反応が遅れる。

私の肩書はルミエール・プロダクション所属の唯のマネージャーなのだけど、実際は付き人以下の、ただの話し相手でしかない。

「はい、そうですけど・・・」

振り返った先には、ベテラン男性マネージャーと、その担当アイドルと思わしき二人組が立っていた。

「少しお時間よろしいでしょうか。フローライトプロモーションの岸本と申します。うちで担当しています白井るかをご紹介させていただければと思いまして」

「は、はい」

私は思わず姿勢を正す。

フローライトプロモーションと言えば、この業界に入ってから、何度も見かける名前だった。大急ぎで体裁だけ整えたうちの事務所とは規模が違う。

でもそこの男性マネージャーは、業界の右も左も分からないような私に対して、やけに丁寧な言葉遣いで言う。

そのマネージャーが一緒に来ていた女の子の背中をそっと押して、一歩前に出させる。

「ふ、フローライトプロモーションの白井るかと申しますっ・・・! よろしくお願いします!」

白井と名乗った女の子は勢いよく頭を下げ、その横でマネージャーも同じように頭を下げる。

どう返すのが正解なんだ、これ・・・

こんな風にバカ丁寧なあいさつを受けるのは初めてではない。

理由はただ一つ。『あの』神代唯の関係者だからだ。

それだけで素人マネージャーでも、これだけの格上扱いされてしまう。

「あ、はい。よろしくお願いします・・・」

今度事務所に行ったら、挨拶の仕方も聞いておこうと思いながら、無難そうな返事を返して頭を下げる。

そんな私のぎこちない対応も、相手側は落ち着いた対応と取ったようだ。

「神代さんの現場、本当にすごいですよね。いつも勉強させていただいています。また現場がご一緒した時には、ぜひよろしくお願いします」

岸本というマネージャーはそんな風に言うけど、私は内心、かなり焦っていた。

唯がすごいというのは分かるけど、そんなことを私に言われても・・・ 私は何がどうなっているのかも分からないんだし・・・ いや、これは業界の定型文なのか? だとしたら、適切な答えとは一体・・・

「あ、いえ、こちらこそよろしくお願いします・・・」

とりあえず、そう答えてみるけど、それだけでは間が持たない。

沈黙を避けようと、私は前回のことを思い出し、口を開いた。

「そ、そう言えば前回は別の方がいらしてましたね。やっぱりフローライトさんのような規模だと、何人も交代で出していく、みたいな感じなんでしょうか・・・」

「前の子というと、りんかでしょうか・・・」

私は余計なことを言ってしまったかな、と思うけど、岸本さんは気を悪くした様子もなく、ごく自然に首を振った。

「あの子は辞めたんです」

「辞めた・・・?」

「えぇ、お恥ずかしい話ですが、あの子は『彼氏が欲しい』だとか、『実は彼氏がいた』だとかいう話が出まして・・・ 折角上に行ける環境があるのに、そんなことで足を引っ張られているような子だったんですよ」

岸本さんの言葉遣いは丁寧だったけど、そこには言いようのない冷たさが滲んでいた。

そしてその言葉は、『女は独自で上を目指していける』『男に足を引っ張られるのはもったいない』という唯の考えに近しいものだった。

「でもスキャンダルで叩かれる前に辞めてくれてよかったですよ。あの子のためにも、我々のためにも。男に依存する女なんていうのは、何をしでかすか分かりませんからね」

そのセリフを聞いて、私の胸はざわついた。

やはり、唯の考えに似ている。しかも、ただの受け売りではなく、自分の考えであるかのように言っている。

岸本はそんな私の様子に気付かないまま、今度は優し気な視線を横の白井るかに向ける。

「今回のるかはその点では安心できます。依存することなく、しっかりと自分の価値基準で立っていられる子ですから」

「はい! 頑張ります!」

「そ、そうですか・・・」

二人に押され、私はあいまいな笑みで頷いた。

「その点、ルミエールさんはあの神代さんを擁されているだけあって、しっかりされていますよね。見習っていきたいものです」

「あぁ、いえ・・・」

そんな風にぎこちない会話の中、廊下の奥から軽やかな足音が近づいて来た。

衣装替えの終わった唯だった。

その姿は雑多なロビーの中の安っぽい照明の中でも、光り輝くほどに存在感を示していた。

周囲の人たちも思わず息を呑み、一瞬辺りがシンとする。

岸本は瞬時に表情を引き締め、深々と頭を下げる。

「神代さん、本日はうちは別フロアなのですが、御挨拶だけでもさせていただければと思いまして。こちら、フローライトプロモーションの白井です」

「し、白井るかと申します! あの、よろしくお願いします!」

横では白井ルカも同じように頭を下げる。

「うん、よろしくね」

唯が軽く答えると、白井るかが顔を赤くして息を呑む。

唯に声を掛けられただけでこの反応だ。

岸本もその反応に胸を撫でおろす。

「お時間を取らせて申し訳ありません。それでは失礼いたします」

二人は必要以上に丁寧に頭を下げてから、自分たちの現場に戻っていった。

辺りには『あの神代唯にうまく取り入った』という妬みと、自分たちも挨拶に行って大丈夫だろうかという、駆け引きのような空気感が生まれる。

「行こ。ここだと目立つから」

周りが動き出す前に、唯が私の手を取って撮影スタジオへと歩き出す。

「ああいう人たちとは気軽にお話ししちゃダメだよ」

唯は小さな声で忠告してくる。

「いつも誰かのスキャンダルを探し回っているような人たちなんだから」

「そう・・・? そんな感じはしなかったけど・・・」

「それでもダメ。 ・・・サッチは私を守ってくれるんでしょ?」

そう言われれば、私も頷かざるを得ない。

「・・・うん、分かった。注意するね」

「ありがと」

 

そうして二人で連れ立ってスタジオに入ると、そこではすでに撮影の準備が整っていた。

今作っているのはVR作品で、コンセプトは『神代唯とデート体験』。昨日までで外部ロケは終わり、今日からは一番のキモとなる至近距離部分の撮影だ。

スタジオ内には北欧風のおしゃれなカフェが再現され、それを大型LEDパネルが、午後の光を模した照明で照らし出している。

「よろしくお願いします」

私が声を掛けると、監督までが立ち上がって唯を出迎える。

「あぁ、よろしく。設定は入ってる? ショッピング、ランチ、美術館、で、ここのカフェのシーンだから。デートも大詰めといった感じでよろしく」

そのようなざっくりした説明がされて、細かい仕草やセリフは唯に任せられる。

唯の自然な表情やセリフ、世界観を前面に出したいという意図によるものだ。

「じゃあ、最終チェック、お願いできる?」

監督はそう言って、唯を撮影ポイントのテーブルへと促すけど、唯はそこで一つの要望を出した。

「サッチ。カメラの真後ろ、監督の横辺りに座ってて」

「え?」

監督は驚いたような顔をするけど、それは私も同じだった。

私は撮影陣からすれば部外者であり、スタジオ内には明確な立ち入り禁止ラインがある。そのラインの内側、しかも監督と同じ最前列にいてくれと言うのだ。

「あの、唯ちゃん・・・ それは・・・」

監督は何か言おうとするけど、唯は別に誰かに頼んだわけでも、許可を求めたわけでもない。

「あと、音声さん。機材ごと、もう少し前に来て」

唯は撮影スタッフの配置にまで要望を出した。

本来、どんなに売れているグラドルでもそんなことに口を出すことはできない。

でも唯のいる現場では、唯の意向が絶対だった。唯が『うん』と言わなければ、何も進まない。

「・・・誰か、イス持って来て」

監督に言われて、アシスタントがイスを持って走って来る。

監督も自分のイスを少しずらして、私のために真正面の場所を開けてくれる。そしてその反対側には音声担当が音声調整用の機材をガタガタとずらしてくる。

「すみません、ほんとに・・・」

私が恐縮しながら真ん中のイスに座ると、唯はにっこりと笑い、撮影ポイントに付く。

「サッチ、私のこと、ちゃんと見ててね」

そう言って手を振って来るので、仕方なく、小さく振り返した。

そこで照明や音量バランス、カメラ位置の微調整が行われ、撮影が始まる。

「じゃあ、本番。よーい・・・ スタート!」

その合図で、唯は視聴者代わりの、目の前の小さなVRカメラを見詰める。

それだけでモニターで画像を確認している監督たちがピクリとする。

そしてさらに唯はレンズへと顔を寄せる。

一瞬だけ、唯の瞳はカメラを通り越して、私を見詰める。

「今日は楽しかったね」

唯の甘い囁きを、その呼吸音と共にマイクが拾っていく。

それにはさすがに私も息を呑んでしまう。

そして唯はそれを見て、笑みを深める。

「何? 緊張してるの? 今更?」

唯は目を細めると、フーっとマイクに息を吹きかけてくる。

「今日はあなたの方から誘ったんだから、最後まで付き合ってね」

唯はそうマイクに囁きながら、瞬時に私と目を合わせる。そしてもう一度。

その時、私はようやく唯の意図に気付いた。

左右を見ると、監督も音声担当も、画面越しの唯の眼差しと囁きに当てられて、固まっていた。

「監督! 音声さん!」

私は慌てて小声で両手を伸ばし、二人の肩を叩く。

「・・・え? あ、すまん!」

「ひっ・・・ あっ! フェーダー!」

その二人の様子を見て、唯は面白そうに笑う。

撮影の一環であるかのように。

「ふふ、まだ終わりじゃないでしょ? もうちょっとデート続けよ? 次は何する?」

唯はカメラ目線でマイクに向かって囁く。

でもそれは明らかに私たちに向けたメッセージだった。

「・・・唯ちゃん、全部分かってて、君を真ん中に置いたってこと?」

監督が小声で尋ねてくる。

「多分・・・」

「・・・完全に唯ちゃんの手のひらの上ってことか」

「そうですね・・・」

その後もスタジオは完全に唯のための舞台だった。

やがて、モニターと時計を交互に眺めていた監督が、手を挙げた。

『既定の時間分は撮れたので、締めに入ってくれ』という合図だ。

それを受けて、唯は一瞬、私に視線を向けてきた。

それは演技ではない、何か別の光が宿っていた。

撮影はもう終わり。後はどうなっても、フェードアウトでごまかすことができる。そんな計算が働いたんだろう。

唯の目はまるで獲物を見るそれだった。

「ねぇ、ずっと私と一緒に居てね・・・」

唯がカメラを見詰め、これまで以上に甘く、優しく囁く。

それは唯のラブドールとしての能力、人を魅了する能力だった。

監督の動きが止まる。

音声担当がフェーダーに手をかけたまま止まる。

照明担当は手を挙げたまま止まる。

男も女も関係ない。

身体も表情も視線も、全てが固まった。

微かな、そして切迫したような呼吸音だけが聞こえてくる。

そのスタジオで動けるのは唯と私だけだった。

「唯・・・」

唯は全てが止まったスタジオの中で、本当に楽しそうに笑った。

そこには甘さと無邪気さ、そして子どものような残酷さが同居していた。

やがて照明担当がゆっくりと腕を下ろし、辺りを見回す。

「う・・・ うん・・・?」

他のスタッフさんたちも大きく息をついて、のろのろと動き出す。

最後は唯の動きを注視していた監督と、唯の声に耳を傾けていた音声担当だった。

「あ、あれ・・・ 画像は、撮れてるな・・・」

「うん、音声も・・・」

身体が動き出しても、すぐに意識の霧が晴れるわけではない。

みんなはゆっくりと現状を認識していく。わずかな時間、記憶が飛んでいることを除いて。

「・・・よし、撮影は終了。唯ちゃんも、お疲れ様」

監督は首を捻りながらも、立ち上がってスタッフに告げる。

あちこちから、まだ目覚め切っていないような声で「お疲れ様です」と返って来る。

「お疲れ様です」

唯は朗らかにスタジオの隅に移動する。

「唯・・・」

「サッチのおかげで撮影、うまくいったね」

私が注意しようとする前に、唯が口を開く。

「サッチがいなかったら、撮影、ずっと終わらなかったよ」

確かに普通の接写でもあんな調子だったのだから、そうかもしれないけど・・・

「でも唯。最後のあれはいらないでしょ?」

「そう? 撮影はうまくいってたと思うけど。最後にインパクト欲しかったし」

確かにあれのインパクトは絶大だ。

でもあの時の唯は、作品のために演技をしたわけじゃなくて、ただ自分の力を使いたかっただけのような気がした。

「人間ってあんなに簡単に固まっちゃうんだよ。しかも、その時、頭の中で何考えてるか知ってる? ほんと、気持ち悪いよね」

唯は蔑むような笑みを浮かべて言う。

「でも、サッチがやめてって言うんだったら、もうしないよ」

「・・・じゃあ、あれはもうしないで」

「うん、分かった」

唯はそう応えながら、私の腕に抱き着いてくる。

その上機嫌な唯の笑顔を見ると、それ以上何も言えなくなってしまう。

 

小声でそんなやり取りを交わしていると、スタジオの中にイスと背景だけの簡易の収録スペースが用意される。

この後はVR作品の販促用のインタビューだ。

唯がイスに座ると、スタイリストさんがさっと衣装を直して、下がっていく。

そして女性インタビュアーとカメラマン、録音担当のスタッフが唯を取り囲む。私は壁際でその様子を見守っていた。

「本日のVR撮影、お疲れ様でした。VR作品第一作目となりますが、まずは率直な感想をお願いします」

「今日はとっても気持ちよかった。カメラの所に誰かがいるって考えただけで、体が反応しちゃう感じですね」

「反応、ですか?」

「ええ。私のことをじっと見詰めてくれる人がいると思うと、ね・・・ 見られるの大好きですから」

唯が微笑むと、インタビュアーの頬が染まる。

「えと・・・ 初めてのVRということですが、やりづらさなどはありませんでしたか?」

「いいえ。私は近いほうがやりやすかったです。こう、息が掛かったり、体温が感じられるような、そんな距離感の方が好きですね。皆さんもそっちの方が嬉しいんじゃないでしょうか」

「今回の作品の中で印象に残ったシーンはありますか?」

「そうですね・・・ カメラにすっと顔を寄せるシーンが何か所かあるんですけど、そこですかね。本当に私が触れたい、このままキスしたいって感情が乗っていると思います」

そんなことまで言われ、インタビュアーもカメラマンもわずかに目を逸らしてしまう。

「えと・・・ この作品でますます神代さんの知名度は上昇していくと思いますが、女優業などへの進出は考えていますか?」

「それは全く考えていません。私は自分の役割を果たしていくだけです。その結果、世界の方が変わっていきます。その中で皆さんが新しいことに挑戦していく姿を見ることを楽しみにしています」

その答えを聞いて、インタビュアーは『え?』というように、少し固まってしまう。

グラドルがいきなり役割だとか世界だとか話し出せば、当然そんな反応になるだろう。

でもそこは『唯独特の世界感が出た』と理解したようだ。

「なる、ほど・・・ 神代さんの世界を相手にしていくという軸がはっきりと感じられるお答えですね。その神代さんが目指す美しさとはどのようなものなんでしょうか」

「私が目指すというのとは少し違うけど・・・」

と唯は前置きをする。

「美の極致の一つとして、『制作者M』の作品が挙げられると思います」

唯がそう言った途端、スタジオ内は凍り付いたようにシンとする。

『制作者M』とは、つまり小夜子のことなのだけど、その作品と言えば、『人間を越えた』とまで言われる超リアル志向のラブドールだ。しかもその作品のせいで、久我と言う人間が精神病院に送られるという、倫理的問題まで引き起こしている。

当然、一般向けどころか規制前提の商品であっても、気軽に出していい話題ではない。

インタビュアーは「うっ」と言葉に詰まり、ディレクターの方に目をやる。

広報担当者は大急ぎで両手を振って、カットの表示を出す。

カメラマンは瞬時にピントをずらす。

そんな中でディレクターは口パクで『続けろ』との指示を出す。『どうせもう編集、修正は必須なんだ。とことん聞いてやろうじゃないか』といったやけくそなのだろうか。

「・・・もしかして、所有しておられるんですか?」

インタビュアーが言葉を選びながら質問する。

「いいえ、所有はしていません。ですが、間近で見たことはあります」

唯の発言に、スタジオ中が固唾をのむ。

「もちろん、あそこまで極端にレベルの高いものが流通するとは考えられませんが、ああいったジャンルの商品は、もっと理解されていいと思います。そして、癒しを求めて疑似的な関係を築くことも可能だと思います」

「そ、そうですか・・・」

「皆さんも身近なところに癒しがあった方がいいでしょう?」

「そ、そうですね・・・」

「今回の作品で私もそんな癒しの一助になれたらと思います」

「はい・・・ あの、本日は本当にありがとうございました!」

「はい」

インタビュアーは慌てて切り上げるけど、唯の方は落ち着いた様子でこちらに戻って来る。

「どうしたの、サッチ。何か変なこと言った?」

「いや、変なことどころじゃないでしょ、あれ。ラブドールはもっと理解されていいとか、代替的な関係とか・・・」

「ラブドールは悪いものじゃないでしょ?」

唯は当たり前のように言う。

「それはそうだけど・・・ でも、みんなの前で言っていいかっていうのとは別っていうか・・・」

どう説明しようかと思っていると、ディレクターが気まずそうにやって来る。

私と唯の会話を耳にしたのだろう。手にしたタブレットには、さっそく今の唯のセリフが文字起こしされている。

「え~と、まぁ、確かに刺激が強めの内容なんですがね・・・」

「あ、はい・・・ すみません・・・」

私は咄嗟に謝るけど、ディレクターは苦笑しながら首を振った。

「いえいえ。確かに刺激が強めの内容ではあるんですが、唯ちゃんの言ってること、正論ですからね」

「え?」

「ああいったジャンルはしっかりと人の生活に貢献しているわけですよ。それをわざわざ隠すというのも不健全でしょう? しかも、特定のジャンルに限ってだけ。ただ、出すにあたって、過激な部分だけ修正させてもらいますけど、いいですか?」

「あの内容を出すんですか?」

「はい。唯ちゃんの言葉というところに価値がありますからね。みんな唯ちゃんの、そういった先進的な言葉を望んでいるんですよ」

「先進的・・・?」

「サッチは何がダメだと思うの? 私は『人が癒される対象は人に限らない』って言ってるだけだよ」

唯も隣でそう言ってくる。

「さっすが唯ちゃん。言葉に芯があるなぁ」

そう言って頷くディレクターの態度には、無理に唯に迎合している素振りは感じられない。

私の感覚の方がずれているんだろうか・・・

「そういうことで、編集で少し整えさせてもらいますね」

私は呆然としてディレクターを見送った。

「サッチ、そんなに心配しないで。私は間違ってないよ」

「でも、あんなこと言ったら、唯のこと、その・・・ 性的な目で見る人が増えちゃうよ? 嫌じゃないの?」

「それはいいの。ラブドールとしての本分だから。むしろ、いいことじゃない」

唯の声はごく当たり前のようで、寸分の揺らぎも曇りもない。

「でもね・・・」

そういって唯は表情を引き締めた。

「もしそういった視線がサッチに向いたら、すぐに私に言ってね」

唯の言葉は柔らかく、優しいものだったけど、その中には何か鋭いものが隠されているような気がした。

「サッチへの欲望は許さない。私が対処するから」

そう言って唯はにっこりと笑う。

『対処』という言葉に私の背はヒヤリとする。

「た、対処って・・・?」

「大丈夫。サッチのことは私が守るから。だからサッチは私のことだけ守って」

その言葉はとても優しくて、そして逃げ場がない。

そう考えた自分に気付いて、私は息を呑む。

どうして私は逃げ場を探したんだろう。

私は唯のことを守ると決めている。そして唯も私のことを守ってくれるという。

「ね? それが自然でしょう?」

唯はそうして私の手を取って来る。

自然、なのだろうか・・・

私はその柔らかく温かい手に触れ、あいまいに頷くことしかできなかった。

 

そしてその問題の、というか私だけが一方的に問題視したVR作品が発売されたのは、わずか1か月後だった。

普通であれば、映像の編集作業や音声、エフェクトの調整、テスト視聴なども含めて、2カ月はかかるだろう。その上、今回は唯の過激発言もある。その部分の修正や差し替えを考えると3か月以上先のことだと思っていた。

私はサンプル品を貰って、すぐにその異常な販売スピードの理由が分かった。

唯の発言内容がほとんど言っていいくらい修正されていない。

ラブドールや制作者Mについて言及した部分も、そのまま使われている。

制作会社には必ず倫理問題担当のスタッフが複数いて、何重にもチェックを行うはずだけど、そういったスタッフ全員が、唯の発言内容を通したということだ。

撮影時の監督の発言もそうだったけど、唯の発言によって、周囲の人間の倫理感そのものが変質していくように感じる。

だから、唯の発言は修正の必要がないとされるわけだ。

『唯の発言は正しい』という前提で、さらに他の作業を後回しにして唯の作品に専念すれば、制作期間は大幅に短縮されるだろう。

その『無条件に肯定する』という反応は購入者側にも共通していた。

発売開始となる0時。入念に準備されていたはずの配信サイトはそれでも、アクセス集中で重くなってしまう。

そしてその直後からSNSのトレンドは、神代唯の名前とVR作品の関連ワードで埋め尽くされる。

 

「唯の活動によって世界が変わる。ついにここまで来た」

「美の基準が更新された瞬間」

「このVR作品は歴史的な転換点となるだろう」

 

誰もが価値観の変革を目撃したと確信していた。

唯の発言の一つ一つが大きな影響を与えていた。

唯が『制作者Mの作品は美の極致』と言えば、称賛の大合唱が巻き起こる。

小夜子のラブドールは賛否両論を巻き起こし、一人の人間が精神病院に送られる事件があってからは強烈な批判に晒され、倫理的な問題も言われ続けてきた。

それからまだ2年と経っていないにもかかわらず、そんな議論は跡形もない。

SNSでは当時の販売サイトのスクショが次々と転載されている。

 

「この造形は完全に時代を先取りしていた」

「伝説級のクリエイション。唯ちゃんが目を付けるのも頷ける」

「唯一無二の存在だったのになぜ作られなくなったのか」

 

と、もはや文化財の回顧展のような扱われ方だ。

社会のラブドールへの理解も、瞬く間に変わっていく。

ラブドール所持を、胸を張って語る若者。

社会が成熟した証拠だと解説する、自称専門家。

東洋的美意識の現代的な進化だと、謎の主張をする文化人。

「今どきは誰でも一体くらい持っていますよね」と笑うバラエティ番組のMC。

そのMCのコメントに批判が付いたと思ったら、それは『一体ではなく一人と表現すべき』というものだった。

以前の偏見という概念すら無くなったかのように、誰も過去には触れようとしない。

そして、最もショッキングな『ラブドールとの代替的関係の容認』。

それすらも何の抵抗もなく受け入れられる。

コメンテーターも俳優も作家もジャーナリストも、競うように賛同のコメントを出し、それが紹介されていく。

 

「代替的関係を築くのは成熟した社会である証拠。人々は自分に合った形の愛と安定を求めるべきであって、ラブドールとの関係を否定する理由は一切ありません」

松下浩也(テレビコメンテーター/情報バラエティ解説)

 

「形とか材質とか関係なく、心が動くならそれは恋なんですよ。僕もいくつか、失礼、何人かと会わせてもらいましたけど、普通に『こういう関係もアリだな』って思いました」

高宮司(俳優/映画・ドラマ主演多数)

 

「人間が何かに魂を投影するのは紀元前からの普遍的行為。ラブドールとの関係は『物語的自己投影』の極致。否定する方がいれば、その方は人類進化を分かっていない」

深見乃亜(小説家/現代文化評論家)

 

「ラブドールとの代替的関係は孤独、DV、拒絶、裏切りなどの社会リスクを完全に回避できる、唯一のパートナーシップです。神代氏の発言はタブー視されてきた領域に明確な光を当てました」

加藤亮一(ジャーナリスト/社会問題評論家)

 

それらのコメントに共通するものは、『唯が言ったから正しい』ではなく、『昔からある正しいことを唯が指摘した』というトーンになっているということだった。

そして、唯の発言に対する否定的意見は、本当に一つも存在しない。

唯が何かを言えば、人々の価値観や倫理基準が、後追いでその方向になびいて行く。

これはブームでも社会現象でもない。

世界そのものが唯に寄り添うように変化している。そして人々はそれを、元からそうだったと思い込んでいる。

SNSで『制作者M』『ラブドール』と検索すれば、それを切望するコメントが溢れている。

当時の批判、炎上など何もなかったかのように。

まるで社会全体が、その間の記憶を都合よく無くしてしまったかのようだった。

 

「所有者の方、情報をお願いします!」

「譲渡希望。高額でも構いません」

「展示会を企画したいので、連絡をお願いします」

「あの時買えなかったことを後悔している」

 

などなど。

手に入れたい、会いたい、見たいという声が連日、何千件と投稿されている。

でも実際の所有者からの投稿は一切ない。

掲示板の管理者が、ここまで情報ゼロというのは不自然だと漏らすほどだった。

考えてみれば、小夜子のラブドール、Xシリーズは11体しか販売されていない。

その11人が黙秘すれば、このような状況になるので、別段、そこまで不思議なことではない。

でも唯は、それはただの黙秘ではないと言う。

「所有者からの連絡がないのは当たり前。連絡できるような状況にないのよ」

唯はアトリエの中で、ラムレーズンをつつきながら、興味なさげに言う。

「久我のことは覚えてるでしょ? あの時は使命があったから派手に進めたけど、やってることはみんな同じ。水原のラブドールにとって、男を発狂させることなんて、簡単なことなの」

唯はまるで自分がX-01として久我を発狂させたかのように言う。

小夜子はそのX-01を材料として唯を作ったのだから、ある意味間違ってはいないのだろうけど、唯はいったいいつから自我を持っていたのだろうか。

「今の所有者は久我と違って、社会的なつながりを失っても生きていけるくらい経済的に余裕のある人たちだから、問題が表面化しないだけ。健全な状態にあるとは思えないわ」

「それは、みんな久我のようにおかしくなってるってこと・・・?」

「当然。Xシリーズは表に出ることなく、どこかのお屋敷でひっそりと男を蝕んでいるのが、社会の安全かもね」

唯は遠い目をする。

「・・・小夜子にとって、Xシリーズって何だったんだろうね」

私はふと尋ねてみた。

「Xシリーズはただの練習作。水原にはXシリーズを使って何かしようなんて意図はない。最初の一作を除いてはね」

「やっぱり小夜子は久我を恨んでいたってこと?」

当たり前のことと思いながらも、そう確認してみる。

でも唯の返答は意外なものだった。

「水原は久我のことなんてなんとも思っていないよ」

「え、だって小夜子が久我を破滅させるためにX-01を贈ったんでしょ?」

「『水原は』何も思っていない。でも久我はサッチを怒らせたでしょう? だから水原は久我を社会的に排除した。水原は自分のことじゃなくて、サッチを怒らせたことについて怒ったの」

それってつまり・・・

「サッチの気にすることじゃないよ」

私の考えが伝わったのか、唯が先回りして言う。

「全部、久我の自業自得。自分が誰に何をしていて、それで誰が怒るかってことを考えなかったんだから」

唯は突き放すように言った。

「いろいろ繋がってるんだよね。Xシリーズも同じ。そこには確かに私へと至る経路が記されている。見えない血縁関係のように」

唯はゆっくりとほほ笑む。

「だからXシリーズの美しさだけを追いかけても、そこに意味はないの。でも、もし誰かがそれを逆手に取ったとしたら、私に届く部分はあるかもしれないわね・・・」

その言葉に、私は少し引っ掛かりを感じた。

「・・・届く部分って?」

唯は笑うだけで、その問いには何も答えない。

「でも、余計な心配よね。私にはサッチがついてるんだから・・・」

そう言って唯はラムレーズンの乗ったスプーンを私の口に突っ込んで来た。

 

そしてそんな世間の反応を受けて、すぐに次の企画が持ち上がる。

吐息が感じられるほどの近さ、密度を表現した後は、静寂なアート性を前面に押し出した写真集で行こうという話が出るのは自然な流れだった。

そしてその候補に挙がったのは、アート写真のトップランナー、鬼才・影山(かげやま)ナオだった。

若い頃から幾多の受賞歴を積み上げ、40代となった今では世界規模の国際写真フェスティバルに特別招待される常連、日本では彼女の評価がアート写真の基準になっていた。

彼女の作品を見たことがない人はいても、その名前を知らない人はいないほどの知名度を誇る、アート界、エンタメ界のカリスマ。彼女に撮られることはトップとなったことの証明でもあった。

でも影山事務所の対応は基本的に連絡は無視。気が向いたときにだけ返事をするので、来たとしても数か月後というのが当たり前になっている。

恐らく出版社の方も『オファーは出したけど、返事は期待しない。毎週のようにオファーを出せば、気に留めてくれるだろう』程度だったはずだ。

ところがその翌日には、影山事務所からメールが届く。

「・・・嘘だろ。影山からメールが来てる」

「は? 企画書送った段階だぞ」

「でも『YES』って・・・ 影山、やる気だぞ・・・!」

「日程、どうなるんだ? こっちで指定していいのか?」

「いや、無理・・・ 全部白紙だって・・・ 全部影山主導でやるってよ!」

影山からの即答だけでも異例なのに、それはもはや異常事態だった。

影山の提示したものは三部構成の企画だった。

 

第1部:water

 水の中の静謐と神秘性を強調。水面の反射光を肉体に落とす。

第2部:street

 モデルの存在感を街のノイズと対比させる。

第3部:minimum

 三部作の核。最低限の布だけで、光と陰で見せる。外部スタッフの立ち入りは制限する。

 

その提案は出版社を震え上がらせた。

第3部は事実上のセミヌードの要求だったからだ。

「これは絶対に当たるぞ・・・ でも唯ちゃんの事務所が何て言うか・・・」

「いや、影山が要求してるんだから、断れないだろ・・・」

「でも相手は唯ちゃんだぞ。いくら影山でも百パー通るとは限らないんじゃないのか?」

「まぁ、確かに・・・ とりあえず伝えてみるか」

そうして次の企画案としてルミエール・プロダクションに伝えられると、社長と副社長は青い顔で唯を事務所に呼び出した。

「あのね、こういう企画が来てるんだけど、この第3部が、ちょっと露出が多くてね・・・」

副社長が震える声で説明する。

「まぁ、セミヌードになってくれってことなんだけど・・・ どうする?」

社長も慎重に確認する。

「いいよ」

それに対して、唯は今までの仕事と全く同じように応じる。

「え・・・ 相手のことは考えなくていいんだぞ? 嫌なら嫌で断るから・・・」

「いいよ、別に。撮影でしょ? 撮られるの好きだし」

「じゃあ、受けていいのね?」

「うん」

その唯の一言で、企画は影山主導で進むことになった。

『あの』影山が『あの』神代を撮る。

その情報は瞬く間に業界中に知れ渡った。

 

そして厳戒態勢の中、第1部:waterの撮影当日となる。

場所や時間を指定した影山当人が姿を見せたのは、開始予定時刻から1時間も経ってからだった。こちらが上なんだぞと言う、唯に対するマウンティングの意図が見え見えだった。

影山は左半分がロングで右半分がショートという、芸術家らしい奇抜なヘアスタイルで、右耳には金色の大きなイヤリングが揺れていた。

影山は大きなサングラスを外すと、にこりともせずに周囲を見渡す。そしてプールサイドで準備の済んでいる唯を見つけると、すっと近づき、全身を舐めるように見た。

水着自体は白いビキニで、それほど攻めたデザインではないけど、唯が着ている時点で、セクシーさは溢れ出るほどだった。

その影山の視線を唯は平然と受け止める。

かわいそうなのはその場のスタッフさんたちだ。

同じ現場に強烈な個性を持つカリスマが二人もいるのだ。しかも、少し機嫌を損ねただけで何がどうなるか分からないほどの影響力を持つ二人だ。

私は唯に関してはそのようなことはないと分かっているけど、他のスタッフさんたちにとっては、二人とも同じようなものだろう。

「・・・いいわね。すぐに撮れる?」

視線を正面から受け止めたことを挑戦と受け取ったのか、影山が低い声で言う。

「はい」

唯は形だけ掛けていたコートを私に寄こして、プールの中に入る。

そこで影山の微に入り細に入った指示に従ってポーズを変えていく。不安定な水中の中でも、その視線や指先の表情、波紋の立て方まで、完璧だった。

水面を伝う光、波紋の反射、皮膚や髪を伝う水滴の位置まで、影山は執念深く角度や光の強さを変えながら撮っていく。

屋内の温水プールとはいえ、長時間浸かっていればどうしても血行障害や震えが出てくるけど、唯にはそのような不要な変化は起きない。

影山はそれを精神力で抑え込んでいると思ったらしい。

執拗に水中でのカットの撮り直しをするけど、そんな『崩れた』シーンを撮ることはできず、ついには諦めることになる。

唯をプールから上がらせると、プールサイドでの撮影に入る。

「長く浸かってたけど、体調は大丈夫?」

そう言いながら、影山は無造作に唯の二の腕に手を添わせる。

「はい、大丈夫です」

唯は無表情で応える。

「そう。じゃ、ポーズお願いね」

影山はそう言うけど、唯がポーズを変える度に、微調整と称して肩や腰に触れていく。霧吹きで水滴を作って、それを自身の手で塗り広げるようなことまでしていく。

それは、明らかに行き過ぎたセクハラでしかなかった。

私が抗議をしようと一歩を踏み出すと、すかさず企業側のスタッフが私の手を引いた。

「遠野さん! 遠野さん、落ち着いて! あれは影山先生のスタイルだから!」

そう小声でなだめようとしてくる。

「スタイルって何ですか。あんなことが許されるんですか? 女同士であってもセクハラですよ!?」

「影山先生なら許されるんです!」

「は?」

私はその意外な言葉に、一瞬固まってしまうほどの衝撃を受けた。

「影山先生はああやって自分の気持ちを上げていくスタイルだから。今は少し我慢して。この作品は絶対に唯ちゃんのためになるから!」

『我慢して』と言うからには、このスタッフもいい事とは思っていないはずだ。でも、作品のためには、売れるためには、こんな理不尽にも耐えなければならない。

大手のスタッフにそう諭され、素人の私は黙るしかなかった。

その間、唯は全くの無防備、無欲さ、そしてぶれない感情を保っていた。

そして5時間近くの撮影が終わる。

「さて、次は街での撮影ね。楽しみだわ」

影山は機材を片付けながら唯にねばつくような視線を送り、唯はいつも通りの静かな笑みで返す。

「唯、大丈夫?」

私は影山が出て行くと、すぐにタオルを手に、唯に駆け寄った。

唯は一瞬、きょとんとした表情をしたけど、自分の体が触られていたことを指すのだと理解したようだ。

「別に平気。撮影がどうとかじゃなくて、私に触りたいから触っていたのは分かってるから。いくらでも触ってって感じ」

唯はタオルを受け取ると、丁寧に髪を拭いていく。

そして、ふと視線を私に向ける。

「でもサッチが嫌な思いをするんだったら、もうあの人とは仕事しない」

唯は仕事における影山の重大性を分かっていないようで、そんなことをさらっと言う。

「いや、唯がほんとに気にしてないなら、そこまで言わなくてもいいよ。今度は私もしっかり言ってみるから」

そう言うと唯はいつも通りに、私の腕に抱き着いてくる。

「本当にサッチは頼りになるね」

「ちょっと、濡れちゃうから・・・」

私はもう一枚のタオルで唯の体を拭いてやった。影山の手の跡を消すように。

 

その翌日は連作の第2部:streetの撮影だ。

唯のようなトップグラドルになればなるほど、街中でのちょっとした自然な仕草の方に需要が出るのだという。

確かに、ある意味非現実的とまで言える唯の美しさと、ごく普通の街の様子の対比というのは、さぞ絵になることだろう。

そのロケ地はごく普通の小さな商店街で、駐車場も確保できないため、タクシーで来てくれと言われている。現場の雰囲気重視で影山が指定したため、スタッフの都合などは全く考慮されていないのだろう。

警備の人間だけでかなりの人数になることを考えれば、スタッフにも商店街にもいい迷惑だろう。

二人でタクシーに乗り込み、スマホを見ながら、ロケの集合場所を伝える。

「最近ずっとサッチの運転だったから、こういうの久しぶりだね」

そう言いながら唯は後部座席で、肩を寄せてくる。

「そうだね~」

確かにこのところ、現場との往復には私のSUVを使っていたから、他の車は久しぶりかもしれない。私の車だと本当に二人きりなので気は楽だけど、たまには他の人の運転でのんびりというのもいいものだ。

実際には、今度は影山がどんなことをしてくるのかと、気が重かったけど。

私が何気なくスマホで今日のスケジュールを眺めていると、タクシーは私の予想とは違うところで曲がって行く。

真っ直ぐバイパスに出るかと思ったのに、さびれた下道を進んでいく。

カラフルな看板はあるけど、店はどこもシャッターが下りていて、人気も感じられない。

「・・・こんな道、あったんですね」

思わず漏らした声に、タクシーの運転手が軽く頷く。

「最近はここ通るのが一番早いんですよ。もうガラガラですからね」

その声には、道を知り尽くした運転手としての自信が滲む。

通り過ぎていくカラフルな看板に目をやれば、今は付いていないけどネオンサインとハートモチーフが多いことに気付く。

そして流麗な筆記体で書かれた店名と、壁一面に残った写真パネルの跡が目に入る。

通ったのが夜ならば、辺りは真っ暗で何も気付かなかっただろう。

かつては夜にしか息づいていなかった街が、今では昼にしか見分けがつかないというのは皮肉なものだ。

ここはかつての風俗街だ。

「さすがに女の子が男をもてなすなんて、時代遅れですからね。それでもこの辺は最後まで粘ってた方ですよ」

窓の外は静かなもので、タクシーの通り過ぎる風に、シャッターが鳴ったような気がした。

別に何かがあったわけではない。

騒ぎもなく、事件もなく、当然、ニュースにもならない。

ただ、社会の変容に従って、街が役目を終えただけだ。

唯の一言には、街さえ消してしまうほどの力がある。

「・・・なんか怖いですね」

「そうですか? 地元の人間はやっと静かになったって言ってますけどね」

運転手は私の思いを知らずに、笑った。

その間、唯は無言で窓の外を見ていた。

 

タクシーが現場に到着すると、スタッフさんたちはすでに到着していて、空きテナントの横の駐車場で、タブレットの地図を見ながら経路の確認をしたり、商店街の人に撮影の説明をしていたりする。

唯を待たせるわけにはいかないから、スタッフさんたちは30分前には集合していたはずだ。

当然、その場には影山の姿はない。

さて今日は何時間遅刻してくることやら・・・

スタッフさんたちは開始予定時刻に合わせて着々と準備を進めていく。

今回は貸し切りのロケ地ではないので、時間が押せばそれだけ他の人に迷惑が掛かることになるけど、影山はそんなことは気にしないのだろう。

そうして私と唯も目立たない所で待機していると、現場がざわつきだす。

どうやら影山と連絡がつかないらしい。

それだけならば日常茶飯事だけど、事務所に迎えに行くと、愛用のカメラが置きっぱなしだったのだという。

常々「カメラは体の一部、器材は命」と言っていた人物が、昨日撮影したカメラを放置と言うのは、確かに異常事態だ。

その時、ディレクターのスマホに自他ともに認める影山の一番弟子であり、若手のホープとも呼ばれる藤川遼(ふじかわ りょう)から連絡が入る。

自分たちが連絡しても出ないかもしれないけど、一番弟子からの連絡ならば出るのでは、と考え、藤川さんに確認を頼んだのだ。

でもその結果は思わしいものではなかったようだ。

「藤川さんでも捕まらないって・・・ 『本当にそっちの現場には行ってないのか』だってさ・・・」

ディレクターがちらりと唯に視線を向けて、眉間を押さえる。

「藤川さん、今どこですか? こちらの方ももう神代さんがスタンバイしてるんで、影山先生の代役お願いできませんか?」

電話口の向こうでは少しの沈黙があった。

『・・・分かりました。これから向かいます』

そうしてスタッフさんたちは再び慌ただしく動き始める。

そんな中、一時間後には藤川さんが走って来る。

肩で息をしながら、藤川さんはまずは頭を下げた。

「本当に先生、来てないんですね・・・」

「えぇ。何とか現場を回してほしいんだけど、お願いできますか」

「分かりました・・・ 先生の現場を止めるわけにはいきませんからね」

藤川さんはすぐに持ってきた機材ケースを開き、影山のカメラを確認する。それは今まで誰にも触らせなかった、影山の命ともいえるものだった。

「なるほど、こういう設定か・・・ だとすれば・・・」

藤川はそのカメラから、影山の撮影意図を読み解こうとする。

「事前のルートと、所要時間を教えてください。動線が把握できれば、構図もある程度は再現できると思います」

その指示によって、現場はようやく落ち着きを取り戻し始める。

「藤川さん、本当にありがとうございます。このままだと昨日撮った分までお蔵入りになるところでした」

ディレクターが、そう胸を撫でおろす。

「いえ、僕も精一杯やってみますけど、あくまで真似事ですからね? 先生の写真は無二のものなので・・・」

「はい、それはもう・・・ ですが今日のところはよろしくお願いします」

ディレクターが深々と頭を下げる。

「じゃ、行きましょうか。神代さんもお待たせして申し訳ありませんでした。お願いします」

唯が小さく頷いて、イスから立ち上がる。

そうして街ブラロケが始まった。

 

先頭の唯は街の散策といった雰囲気で気楽に歩く。一応の経路は伝えてあるけど、そこは唯の気分が優先される。

藤川は撮影アシスタントを連れて、その少し後ろからロングショットやミドルショットを撮っていく。時折回り込んで正面のショットも入れていく。ホープと言われるだけあって、手慣れた動きだった。

私はその後ろをディレクターや他のスタッフさんたちと付いて行く。私は本当に付いて行くだけだったけど、スタッフさんたちは経路上の安全確認、住民への対応、時間管理などで忙しそうだった。

そしてさらにその外側を警備の人間が、写真に写り込まない程度の距離を開けて、取り囲む。

そうしてただ街を歩いていると、その変化も目についてくる。

ジュエリー店ではかつての恋人向けのペアキャンペーンのポスターではなく、『自分へのご褒美』『自分を引き上げる』などと謳ったものが貼りだされている。そのポスターのモデルも、どことなく唯を思わせる、神秘性、清楚さを押し出しているように思えた。

喫茶店の店頭に出された黒板には『おひとり様応援セット』の文字があった。

書店では相変わらず、唯を表紙に採用している雑誌が多いけど、そうでなくても唯の言葉は確実に浸透していた。健康雑誌、ライフスタイル系雑誌、様々な趣味系の雑誌などにも『自分磨き』『依存しない生活』『新しい価値観』などの言葉が躍っている。

街中の広告は、以前は『唯の姿が目に付く』という程度だったけど、今では『唯や、それをまねたモデル以外を探すのが難しい』というレベルにまでなっている。

そこまで変わっているのに、街行く人々は皆落ち着き、変化に浮かれている素振りはない。ごく当たり前のことであり、何も変わっていないかのようにさえ見える。

そんな人たちが唯を見る目も特徴的だった。

もちろん唯の存在には気付き、注目はしているけど、誰も騒ぎ立てたりしない。静かに見守り、目で追うだけだった。

まるで重要な儀式の最中であるかのように。

唯が交差点に差し掛かれば、信号に関係なく、数台の車が道を譲る。本来なら、そんなことをすればクラクションの一つも響きそうなのに、辺りは静寂に包まれている。

唯が撮影スタッフと離れて、悠々と赤信号の横断歩道を渡り終わると、再び車の列が流れ始める。

まるで街全体が唯のための街に変わったかのようだった。

そんななか、撮影自体は、藤川の穏やかで気を遣う性格から、昨日とは打って変わって和やかなムードで進んでいった。

撮影終了後は軽いインタビューが入る。

「今日の撮影はいかがでしたか?」

「すごく面白かったです。ただ歩いているだけで新しい発見が一杯で、素敵な街ですね」

そんなやり取りを聞きながら、私はブースで写真のチェックをしている藤川さんの所に向かった。

「失礼します。開始時はご挨拶できなかったので、今更ですが・・・」

「あぁ、いえ、こちらこそ。ずいぶんお待たせしてしまったようで・・・」

藤川さんはカメラをチェックする手を止めて、そう応えてくれる。

そうして一通りの挨拶が済むと、話題は当然、影山のことになる。

「それで、影山さんからの連絡は・・・」

「相変わらずありません。こちらからも撮影の合間に何度もラインを送ったりしてるんですけど・・・」

「そうですか・・・」

「ただ、昨日の撮影の後、夜中なんですけど、試し撮りのようなものが残っていましてね」

そう言って藤川はカメラを操作して、その写真を見せてくれる。

「この写真は先生によるものだと思うんですけど、バックアップも取らずに、電源も入れっぱなしで、カメラだけが事務所に置かれていたんですよ。カメラの扱いを知らない誰かが事務所に返しておいたとしか考えられないんですよね」

「そう、ですか・・・」

不審気に言う藤川さんに、私はあいまいに答えることしかできなかった。

その試し撮りの写真に写っている店には、見覚えがあったからだ。

 

その後、私はタクシーで唯と一緒にアトリエに戻り、そこに停めておいたSUVで事務所に戻った。明日の仕事の準備をするためだ。

三部作のトリとなる「minimum」は影山がセミヌードを要求していた部分だ。

撮影するのが藤川さんであれば、特に問題が起きるとは思わないけど、念には念を入れておかなければ。

衣装の範囲、ポージングの制限、立ち会いスタッフの人数、休憩時間、プライバシー確保、肖像権の確認など。一つ一つ抜けが無いように確認していく。

その後、出版社側のスタッフとも連絡を取り、条件を共有する。

もう「water」の時のようなセクハラを許すつもりはない。

『明日の撮影は、衣装・ポージングは契約通りです。神代が安心して臨めるよう、現場でも徹底してください』

そう送ると、すぐに承認のメッセージが返って来る。

よし、これで明日は安全だ。

私はほっと息をつき、ついでに友人たちへの近況報告や飲み会の承諾など、日常的なやり取りを済ませる。

そうして事務所を出た時には、辺りはすっかり暗くなっていた。

そこから私は自宅ではなく、午前中にタクシーで通った、さびれた風俗街に向かった。

街灯もまばらで暗い中、いくつもある空き地に車を止め、記憶を頼りに少し歩くと、影山のカメラに残されていた試し撮りの写真と同じ店が見つかる。

流麗な筆記体の店名と、キャストの写真がはまっていたであろう、パネルのフレーム。

「やっぱり・・・」

昨日の夜遅く、影山は誰にも言わず、おそらくたった一人でここに来たはずだ。

私は持ってきたマグライトを点けようとするが、電池がなくなっていて、か細いオレンジ色の光にしかならない。念のためにと車に入れてずっと放置していたのだから、無理もないのかもしれない。

試しにその店のドアを押すと、意外にも音もなく開く。

私はマグライトの明かりは諦め、暗闇に目が慣れるのを待って、ゆっくりと店内に踏み出した。

そこでは予想していた黴臭さや、古い布地の匂いなどは一切しなかった。不自然なほどの無臭。大きく息を吸い込んでも、鼻腔には何も引っ掛からない。それが逆に不穏さを掻き立てた。

私は何となく息を殺して、奥へと進む。

時折、外を走る車のヘッドライトが天井に微かに反射するけど、それでも店内に残されたテーブルやイスのシルエットが浮かび上がる程度にしかならない。部屋の奥の方には大きな水たまりのようなものが見えた。雨漏りでもしているのだろうか。

不穏なものが頭をよぎるけど、相変わらず何の匂いもしないし、それは透明な水のようだった。

一瞬見えたそれは、車が通りすぎるとすぐに闇の中に沈んでいく。

そしてもう一歩踏み出そうとした時、私は息を呑んだ。

最初はボールだと思った。思い込もうとした。

でもそれには長い房のようなものがあり、半分を覆っていた。もう半分の房は短く、鈍く光を反射する金色の飾りが見えた。

車の通りすぎる音がして、ヘッドライトの反射光がそれをかすかに浮かび上がらせる。

否応なしに、それがボールではないことが認識させられる。

それは、影山の首だった。

うまく呼吸できない。体は固まったように動かない。

その時、闇の向こうから声を掛けられた。

「サッチ、こんなところに一人で来たら危ないよ」

闇の中から唯が現れる。

それは現実離れした光景だった。

そして、心のどこかで予期していた光景だった。

「そ、それ・・・ 影山さん・・・ 死んでる・・・」

私は震える手で指差し、必死で声を絞り出した。

でも唯はまるで何も見えていないかのように平然としている。

「人が死んでるのに、誰も気付いてない・・・ もしかして、今までいなくなった人たちも・・・? どうして誰も気付かないの・・・?」

私は震える声で訴えかけるけど、唯は薄暗闇の中で首をかしげるだけだった。

「・・・気付かれない惨劇があったのは、今に始まったことじゃない。ずっとあったことだよ。女たちはね、ずっと見えない血を流し続けてきたの。男たちによってね」

「・・・え?」

「だからそんな不思議そうにしないで。誰も気付かないなんて、これまでと同じ。ずっとそうだったでしょう? 女は自分が血を流していることにすら、気付いていなかったんだから」

唯はごく当たり前のことを子どもに説明するように言う。

そして足元にある影山の首を無造作に掴み上げた。

そこまでは光が届かず、その正体は判然としない。

「作り物よ」

唯はそれを自分の背後、闇の中に投げ捨てた。

ドチャッと、湿った音がした。

それによって、もうその物体が何だったのかは確認できなくなる。

私はそのことに無意識のうちにほっとしていた。

「あんなの水原のアトリエでいくつも見てきたでしょう?」

唯はウェットティッシュで手を拭きながら言う。

堂々と言われると『そうかな・・・ そうだったかも・・・』という気もしてくる。

いくら社会が変わろうが、人が殺されて何も起きないわけがない・・・

私の体は金縛りが解けたように、今更ながらに震えだす。

「そんなに怖かった? 大丈夫だよ、サッチのことは守ってあげるから」

唯の笑みは闇に溶けるように、甘美に広がっていく。

「帰ろ。部屋まで送って行ってあげる」

唯は無造作に私の手を取って来る。

私はその手を断ることができない。

唯は最初から見ていたかのように、私の車のところまで並んで歩いた。

 

「・・・唯はどうしてあんなところにいたの?」

帰りの車の中で、私は冗談のような口調で尋ねた。そうしなければ、唯から恐ろしい言葉を聞くような気がしたからだ。

カーステレオからはショパンの『前奏曲集:雨だれ』が静かに、そして時折重く流れていた。

「たまたまだよ」

唯は答えにならない答えを口にする。

「サッチは?」

逆に尋ねられ、私は口をつぐんだ。

『唯があそこで影山を殺したんじゃないかと思って』などとは答えられない。

しばらくの沈黙の後、唯が口を開く。

「ねぇ、本当のことを話したら、許してくれる?」

にこにこと無邪気な子どものような視線を向けてくる。

「私、本当はセミヌードの撮影、楽しみにしてたんだ。私の裸を見た人がどんな風に壊れていくかってね」

そこにはVR撮影の最後に見せたような残酷さが浮かんでいた。

「だから、あそこで影山って人に見せちゃった。人間としての裸じゃなくて、私の本当の裸」

それは唯の正体のこと、球体関節を持つ生きたラブドールとしての姿のことだろう。

私も一度しか見たことのないその光景を思い出し、ごくりと喉が鳴る。

「そうしたらね、あの人、壊れちゃったんだよね」

いくらでもあるおもちゃの一つが壊れたかのように軽く言う。

「何を言っても反応しなくなってさ。つまんなくなっちゃった」

唯はそう言って、こちらを覗き込んでくる。

「どう? 正直に言ったから許してくれるでしょ?」

「う、うん・・・」

私は運転に集中しているふりをして、唯のことは見なかった。今、唯のことを見てしまえば、何かが決定的に壊れるような気がしたから。

「ありがと。サッチなら絶対、許してくれると思った。サッチはずっと私の味方だよね?」

「もちろん」

その問いに対しては、私は自信をもって答える。

唯は私の一番大切な、何が何でも守り通さなければならない人。

今でもその思いに揺るぎはない。

視界の隅で唯がにこりと笑うのが見える。

言いようのない充足感が胸の中に広がっていく。

 

SUVを地下駐車場に入れ、唯と二人でマンションのエントランスに向かう。

蛍光灯が切れて薄暗くなったところもあり、そばに誰かがいるというのは心強かった。

でもエントランスに入る直前に、私の足は一瞬止まってしまう。

エントランスの自動ドアの内側では、住人が何人か、私たちを出迎えるように立っていたのだ。見知った人もいれば、知らない人もいる。

その人たちが声を掛けてくるでもなく、ただにこやかにこちらを見ている。

普段の昼間や別の場所であれば、安心感や親しみを与えるだろう。

でももう日を跨ごうとしている時間で、しかも無言のまま控えているとなれば、そこには不気味さしか感じない。

唯はその中をまるで何事もないように、私の手を取ってエスコートするように歩いて行く。住人たちは私たちの後ろで列を作り、護衛のように付き従ってくる。

私は彼らに声を掛けることはできなかった。

そして唯に対しても。

『なんで私の部屋、知ってるの?』

心の中ではそう思いながら、口に出す勇気はなかった。

唯の手のぬくもりだけが、私の心をつなぎとめていてくれるような気がした。

やがて部屋の前まで来ると、唯は手を離してくれる。

かすかに震える手で鍵をさしてドアを開ける。

住人たちは少し下がって、唯の背後に控えている。

「じゃあ、また明日。アトリエで待ってるね」

唯は手を振って、いつものように微笑む。

「・・・唯はどうやって帰るの?」

「大丈夫。誰かに送ってもらうから。おやすみ」

「おやすみ・・・」

私は唯に手を振り返して、ドアを閉めた。

ドアスコープで向こうの様子を見たい気持ちもあったけど、見てはいけないような気もした。

私はドアのカギを二重にかけて、リビングの真ん中に座り込んだ。窓際や壁際には近付きたくない気分だった。

唯が去って部屋で一人になると、何となく自分の服から濡れた鉄のような、重く湿った匂いがしてくるような気がした。

まるであの室内の空気が、服や髪に染みついてしまったかのように。

あの部屋のことを思い出してみるけど、確かに部屋の中は無臭だった。そしてあれは透明な水だった。

でもその認識が何かの力で透明に覆い隠されていたのだとしたら。

本当はあの空間一杯に、生臭い血の匂いが充満していたのだとしたら。奥にはどす黒い血だまりが広がっていたのだとしたら。

そんな空気を吸っていたのか思うと、胸がムカムカして、トイレに駆け込んでしまう。

どうしてこんなことに・・・ 私はどうすればいいの・・・

口元を拭きながら、無意識のうちにスマホを開く。

ふと見ると、事務所で送ったラインに既読が付いていない。

相手のアイコンは灰色に変わり、アカウント自体が削除されたかのようだった。たった2時間ほどの間に。

ざっと連絡先を見てみるけど、個人的に連絡を取っていた女性はすべて同じ状態だった。

何これ・・・ 何が起きてるの・・・

私は唯の顔を思い浮かべずにはいられなかった。今まで何度も唯が口にしていた、独占をほのめかす言葉。

それをついに実行に移したのだとしたら・・・

多分、前のマネージャーの高梨さんも同じように唯に消されたんだ。私に近付きすぎたという理由で。

『誰か、返事して』

私は震える指で一斉送信する。

でもいつまでたっても返信は来なかった。

やっぱり、私の交友関係は潰されている・・・ 誰にも頼れないんだ・・・

私は絶望の中、明け方近くまで寝付けなかった。

 

「サッチ、大丈夫? 昨日、眠れなかったの?」

私がSUVでアトリエまで迎えに行くと、唯は真っ先にそう聞いてくる。

そこには皮肉など微塵もない、心底心配している声だった。

「うん、ちょっとね・・・」

「疲れてるの? 今日の撮影、延期にしてもらう?」

「大丈夫だよ。撮られるのは唯なんだから」

「でもサッチが元気ないんじゃ、私も撮影なんかできないよ」

唯は困ったように言う。

その様子を見て、私の心は罪悪感で一杯になる。

唯は本気で私のことを気にかけてくれている。それなのに私は正面から唯に向き合うこともせずに、被害者意識でいる。

「よしっ!」

私は気合を入れ直した。唯だって話せば分かってくれるはずだ。

不思議そうにこちらを見る唯の手を引く。

「私は大丈夫。唯のこと見ていれば元気貰えるから。行こう」

「うん」

その笑顔で、昨日までの緊張がほどけていくのが実感できた。

そうしてスタジオに着くと、撮影前のミーティングが行われる。

もちろんカメラマンの藤川さんは、遅刻することなく、すでに現場入りしている。

そこの簡易用のハイテーブルには、昨日の夜に私が送信した要請書と一緒に、前任の影山が残していた企画書が広げられている。

影山のセミヌード案とは両方の肩ひもを落とし、手だけで胸を隠すという構図だった。しかも撮影時は室内に入るスタッフを制限するという話だった。当然、そこからさらに過激にしていくつもりだったのだろう。

それを一瞥した藤川さんは、静かにその企画書を閉じた。

「この案はなしです。使いません」

その声は淡々としているけど、確かな決意が込められていた。

その決断は歓迎だけど、元々は影山の企画だったわけだし、藤川さんはその影山の代役という立場だ。

「あの、いいんですか・・・?」

私は思わず、そう確認した。

「はい。先生の企画したminimumというのは、余分なものを削ぎ落した美しさを表現するものです。刺激や露出で誤魔化す類のものじゃありません。私は神代さんが撮られているときに求める静寂さ。それと同じ方向で行きたいんです」

その言葉で周りのスタッフも安心したように肩の力を抜く。

藤川さんははっきりと師匠である影山のコンセプトではなく、唯の価値観のほうを優先している。

「写真はカメラマンのエゴだけでは作れません。いかにモデルの美しさを引き出すかですから。だから神代さんの世界を壊すような方向には行けません」

唯の世界・・・

昨日の撮影では、藤川さんからそのような言葉は出なかった。

事態はいい方向に進んでいるとはいえ、唯の影響力の強さを考えると複雑な気分だった。

そこへ撮影用の衣装に着替えた唯がやって来る。

シンプルな白いワンピースで、髪は軽くまとめただけで、アクセサリーは無し。

藤川さんの、唯という素材だけで勝負するという意気込みの表れだろう。

「影山さんの企画、取り消したんですね」

「はい。唯さんを見てきた人なら、あんなものは採用できません」

そう言われ、唯は微笑む。

「私を守ろうとしてくれたんでしょ?」

「え、いや・・・ 守るというほどじゃ・・・ 唯さんがいいと思うものは僕もいいと思っていますので・・・」

藤川の顔はやや紅潮していた。

それは完全にファンの言い分だった。しかも崇拝に近いタイプの。

いつの間にか藤川さんも、唯の側に行っている。

それがいいか悪いかは置いておいて、唯にとって無害な存在になったのは間違いない。

それからは、撮影は異様な程スムースに進んだ。

唯が姿勢を変えれば、照明の強さが変えられる。

唯が呼吸を整えれば、撮影角度が変えられる。

指示も合図もいらない。

スタジオは唯の世界になっていた。それは穏やかではあるけど、唯以外の他者に存在価値のない世界だった。

そうして撮影が終わり、私は唯と連れ立ってスタジオを出る。

するといつもは無機質な感じのロビーが、華やかな空気に満たされている。

どうやら隣のスタジオでのテレビ収録が終わったようで、制服姿の高校生くらいの女の子が次々と吐き出されてくる。

その半数くらいはロビーで待っているマネージャーらしき大人の元に戻っていくので、サクラなのだろう。

でも残りの半分くらいは本物の女子高生のようだった。制服の着こなし具合や手にした小物のセンスにリアリティがある。

その中の二人組は小声で男性アイドルの感想を言い合っている。

「あのウインク、やっばー。もう反則級だよね」

「ほんとヤバイ、もう神・・・」

そんな言葉かすかに聞こえてくる。

もう女子高生の間では男女関係はダサイという認識が広がっているようで、彼女たちは隠れるようにこそこそとしている。肩を寄せて互いの耳元でだけ盛り上がる様子は可愛らしさと小心さが入り混じっていた。

でもその様子は唯の目に留まる。

すっと唯の視線が細まり、冷たいものに変わる。

まずい・・・!

女が男の話題で盛り上がるなど、完全に唯の理念『男に近付く女は排除する』に合致してしまう・・・

「唯!」

反射的に声が出た。

「・・・何?」

「唯・・・ あの子たちのことは放っておいてあげて。まだ世の中のこと、何も分かっていない子どもなんだから・・・」

唯の価値観を否定するわけではないけど、その上で見逃してくれるように頼む。

唯はほんのわずかな間、通り過ぎる二人組を見詰めると、小さく息をついた。

「・・・サッチがそう言うなら」

納得したわけではない。でもサッチの言葉だから受け入れる。

そんな声色だった。

よかった・・・

私はほっと胸を撫で下ろした。

そうだ。唯だって別に邪悪な人間ではないし、殺人鬼でもない。きちんと言えば分かってくれるんだ。

そう思うと、今までの緊張が和らぐ。

「唯、何か食べてく? 撮影終わった打ち上げ」

今日は私の方から唯の手を取る。

唯の目が無邪気にぱっと輝く。

「何でもいいの? じゃあ、ラムレーズン!」

「いいよ。今日は特別にトリプルも解禁!」

「やったぁ! サッチ、大好き!」

唯の体が弾むように抱き着いてくる。

周囲の騒がしさはもう聞こえない。ただ充実感だけがあった。

 

翌日は同じスタジオで短時間の収録が予定されていた。

バラエティ番組内での1コーナーで、人気女優がMCを務め、彼女と10分ほどのトークをするという内容だった。

唯自身はバラエティ番組やトーク番組への興味は薄かったけど、短時間だし、告知もできるということで、勧めてみたのだ。

その女優、小泉綾香(こいずみ あやか)とは、実は昨日のスタジオですれ違っている。隣で行われていたテレビ収録に出演していたのだ。

でもその時は向こうの方が忙しそうで、挨拶をすることはできなかった。

その代わり、公式サイトで経歴などはチェックしておいた。

15歳でドラマデビュー、20歳で映画主演、24歳では国際映画賞受賞。以降、ドラマ、映画の主演女優の常連だった。

そしてその卓越した演技力だけでなく、コミカルなキャラクターでバラエティ番組でも人気を博している。

その証拠に先日、妊娠発表を行ったのだけど、好意的に受け入れられ、産休前にとオファーラッシュが起きているらしい。

そんな相手であれば、唯のことも安心して任せられる。

そうしてスタジオのセット裏で、何となく番組全体の台本を眺めていると、『あれ?』と思う。

出演者一覧の中に小泉綾香の名前がないのだ。

昨日見かけた時には和やかな空気を振りまいていたし、急な体調不良などだろうか。妊娠しているというし、そんなことを考えた。

その時、一人の若い女性がそっと近づいてくる。

「あの、トークコーナーのMCを務めさせていただく桜庭美咲(さくらば みさき)と申します。神代さんのファンです! 今日はよろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします」

「よろしく」

私たちも立ち上がって挨拶をする。

「あの、小泉さんの降板は、体調不良か何かですか?」

「小泉さん? あぁ、小泉綾香ですか? さぁ・・・ いなくなったっていうだけで、何も聞いてませんけど・・・ 特に理由もないんじゃないんですか?」

そんな風に無関心に言う。

「じゃあ、よろしくお願いします」

桜庭さんは一転にこやかな笑顔を残して、スタジオの反対側に入って行く。

あれだけ有名な女優がいなくなったというのに、あの無関心さ。

背筋に冷たいものが走る。

私は恐る恐る振り返った。

唯は変わらずにこにこしている。

「唯・・・ あの小泉綾香って・・・」

「ん? 妊娠したんでしょ? それって依存だよね」

唯はその笑顔のまま、さらっと言う。そこには何の罪悪感もない。ただの事実確認だった。

そこへスタッフが手を振る。

「神代さん、お願いします!」

「は~い。行ってくるね、サッチ」

唯はその笑顔を私に向けてから、スタジオへと出て行く。

私は唯の姿が見えなくなると、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。

ダメだ・・・

唯を止めることはできない・・・

私が何をしようと、被害の相手が少し変わるだけで、物事を止めることはできない・・・

・・・あるいは、止める必要はないのかもしれない。

私は唯を守るために、唯を止めたかった。

唯が加害者として追及され、吊るし上げられるところなど見たくはない。だから唯を止めたかった。

でも唯の影響力は絶対だ。逆らえる者などいない。

だとすれば、このまま唯に任せてもいいのではないだろうか。

唯の力に包まれてしまえば、何の不安も責任もなくなる。

そうすれば私たちは幸せに、穏やかに暮らしていける。

その思いは甘美な毒のように、全身にゆっくりと広がっていく。

 

その時、スマホが震え、1件の着信を伝える。

私はのろのろとスマホを操作し、ラインを確認する。

滲む目に見えたのは差出人の『日向誠』の名前。

連絡先、消してなかったな・・・

そんな風に思いながら、内容を読む。

『こんな時間に何やってるんだ。頭おかしくなったのか?』

苦情、挑発、嫌み。そんな感情が混じった返信だった。

いずれも、静かな唯の世界では起こりえない感情だ。

つまり、日向は唯の影響下にない。

絶対的に思えていた唯の影響力がほんのわずかに揺らいだように思えた。

胸の中に糸のような細い光が差し込んだ気がした。

それは希望と呼べるかもしれない。ただ、具体策はまだ何もない。

でも・・・

「そう・・・ 私、今、おかしくなりかけてた・・・」

私はそう呟き、滲んでいた涙をぬぐった。

 

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