『まだ10分あるな・・・』
私はビルの上層にあるシネコンへと続くエスカレーターの中ほどで、腕時計を確認する。
今日は平日だけど唯が『疲れてるみたいだから』と、予定をずらして休みにしてくれたのだ。
私のマネージャーという肩書は名目だけで、実際には唯に同行するだけで、何か仕事や責任があるわけではない。とは言え、私は元から人付き合いは好きなほうではない。
唯の言うように、精神的な疲れが溜まっているように見えたのだろう。
それで私が『折角の平日だし、街に出よう』と言うと、唯の方は『じゃあ、デートっぽくしよう』と提案してきたのだった。
唯の提案したのは映画館デート。それも映画館前で待ち合わせというものだった。
エスカレーターを上がると、お目当ての映画である『ふたりの余白』の新しいポスターが目に入る。淡いブルーの背景に二人の少女が並んで立っている。二人の距離は近いけど、指先一つ触れ合っていない。
サイトで口コミを見ると、10年前の作品で、当時は『二人の関係が淡泊すぎる』と評価はいまいちだったらしい。それが最近になって『男女の恋愛感情を排している』『主人公の二人が必要以上にベタベタしない』などということで、評価は急上昇しているらしい。
辺りを見回せば、それなりに客はいるけど、ほとんどが女性客だった。男性客もちらほらといるけど、見た限りカップルはいない。そういった世相と映画の内容がマッチしたということなのだろう。
そうしてチケット売り場に近付くと、そこにはすでに唯が待っていた。
白いリブニットとミディアム丈のプリーツスカートにショートトレンチを羽織っている。
私の目には周りから浮き上がるように目立って見えるけど、他の人たちは唯のことが見えていないかのように、その前を通り過ぎていく。
先日の街ブラの撮影の時のように、遠巻きに眺めるという感じですらない。
とりあえず、私は唯に駆け寄る。
「おはよ~。早いね」
「あ、おはよ。サッチだって。まだ約束の時間前だよ」
唯はおかしそうに笑う。
それは場の静けさに合わせた控えめなものだったけど、それでも唯の存在に気付く人はいなかった。
「こんな所で待ち合わせだったから、サングラスでも付けてるのかと思ったよ。案外、バレたりしないものだね」
「今はプライベートだからね」
唯は唇の前で人差し指を立てて見せる。
それはまるで、状況に応じて人の視線などいくらでも操作できる、と言っているように聞こえた。
「前から見てみたかったんだよね、これ」
私がそれ以上考えを巡らせる前に、唯はすっとパンフレットを差し出してくる。
「主役の二人がお互いに依存はしていないんだけど、しっかり寄り添ってるんだって。そういうのが今の子に刺さるみたい」
「みたいだね。何かそういう感じ、唯みたい」
「そう?」
唯は首をかしげて、こちらを見る。
「でも私は触りたくなったら、すぐに触るけどね」
唯がいつも通りに私の手を握って来る。
すれ違う女性客が微笑ましそうにこちらをちらりと見ていた。
やがて上映アナウンスが流れると、ロビーにいた客がゆっくりとゲートを通っていく。
その映画は『誰かとつながりたいけど、絡みついてるとは思われたくない』という、今の空気感を10年先取りしたようなものだった。
「すごく静かな映画だったね。でもずっと胸が温かいような感じがする」
映画館を出て、私がため息交じりに言うと、唯も頷いてくれる。
「派手な展開はないけど、なんか沁みるよね。二人の距離も丁度いいし・・・ でも」
唯は私とつないだ手にきゅっと力を込める。
「私はこの距離の方がいいな」
「え・・・ うん・・・」
いたずらっぽく覗き込んでくる唯に、思わず目を逸らせてしまう。
唯は満足そうに笑う。
「ねぇ、あれ見ていい?」
そう言いながら、唯は私の袖を引いて、ビルの前に並んでいた小さなテントに向かう。
それは手作りの刺繍や革製の小物が並ぶ、ハンドメイドマーケットだった。
唯は興味深げに眺めていたけど、私もこういったものには興味がある。
その中で私が見付けたのは、隅に小さなスミレの刺繍の入った白いハンドタオルだった。
レジに持っていくと、唯も隣のレジにいた。
「サッチのハンドタオル、いいね」
「このくらいのが落ち着く感じがするんだよね」
「わかる~ 私のもそんな感じで選んだの」
唯が見せてくれたのは、端にタンポポの綿毛のような刻印の入った、革製のしおりだった。
やはりそれにも手作りならではの温かさがあった。
そしてそれらをバッグに入れながらビルの前の広場を出ると、そこには緩やかな人の流れができていた。
そのまま歩調を合わせていると、自然に施設内のショッピングエリアへと誘導される。
私たちは、その流れに身を任せるようにして、のんびりと歩く。
私としては唯と一緒に居るというのが癒しなのだから、行き先は別にどこでもいい。
その時、唯がふと通りで足を止めた。
ジュエリー店での『誕生石フェア』だった。
店頭に並べられた色とりどりの宝石。その中で唯の目に留まっているのは、淡い黄緑色のペリドットだった。
「それ、気になる?」
「え? まぁ、綺麗だなって・・・」
唯はグラビア撮影のために、様々なアクセサリーを身に付けてきたけど、私が知る限り、アクセサリーに興味を示すのは初めてのことだった。
「8月だから、ちょうど唯の誕生石じゃない」
私はその値段にさっと目をやってから、店員に向けて手を上げる。
すぐに店員の女性が営業スマイルでやって来る。この至近距離で見ても、やはり唯のことを、あの神代唯だとは認識できていないようだった。
「彼女に合うようなペリドットのネックレスってありますか?」
「そうですね・・・ お客様は首元がすっきりされているので、こちらのシンプルなデザインなどいかがでしょうか」
シンプルな銀色の細いチェーンに小さなペリドットが一つ揺れている。
「ではそれを」
「かしこまりました」
すぐに店員はケースを取りに戻る。
「え? いいの?」
唯は目を丸くしている。本当に、ただ綺麗だから見ていただけだったのだろう。
「うん。プレゼント」
「ありがと・・・ サッチは何月生まれ?」
「3月」
そう答えると、唯は店内のボードに目をやる。
「アクアマリンだって。こっちも綺麗。 ・・・すみません、このアクアマリンをお揃いのネックレスで」
「かしこまりました」
ペリドットのネックレスを持ってきた店員がすぐにまた戻っていく。
そうして私たちはそれぞれに会計を済ませると、店を出る。
「ねぇ、サッチ、つけてあげる」
唯はケースを開けて、アクアマリンのネックレスを手にすると、私の首に手を回す。
至近距離で二人の視線が交わり、甘い吐息がふっと香る。
「サッチもつけて」
唯がきれいな首筋を「ん」と差し出すようにする。
「う、うん・・・」
私は緊張しながら、唯の首にペリドットのネックレスを掛けてやる。店員の見立て通り、その小さく淡い輝きは唯の美しさを引き立てていた。
「なんか指輪交換みたいだね」
その唯の言葉は軽く、遊び心に満ちていた。
でも私の心はその何気ない言葉に跳ね上がってしまう。
「そ、そうだね・・・」
このネックレスが私たちの距離をより近いものにした実感があった。
そしてお昼近く、たまにはこういうのも、と私たちはファストフード店に入った。
昼休みの喧騒に包まれる中、私たちは窓際の席に着く。唯の前にはエビグラタンバーガーとアップルティー、私の前にはチーズバーガーとアップルティーが運ばれてくる。
私たちが「いただきます」と手を拭く中、向かいからスーツ姿の男性二人組の会話が聞こえてくる。
「だから俺は言ってやったんだよ。『それは親切じゃなくて、依存を受け入れてるだけだ』って。『さっさと切り離せ』って」
「そうしたら?」
「やっと分かったみたいで、今度はきっぱり断るってさ」
「よかったじゃん。大体、『先輩、先輩』なんつって寄って来る女子社員なんか、何勘違いしてるか分かんねぇからな」
「だろ?」
私は思わずその内容に聞き入ってしまうけど、唯は静かにバーガーを頬張っている。
そして隣の女子大生のグループからも笑い声が聞こえてくる。
「聞いた? 千絵ってばまだあの男と付き合ってるんだって」
「えぇ~? 千絵って、あの千絵でしょ? そこまでバカなの?」
「何考えてんのか知らないけどさ・・・ 何か痛々しいよね・・・」
「あんた、一言、言ってあげたら?」
「や~だ~、今度、こっちに依存してきそうじゃない」
「あんなベタベタしたの、流行らないよね~」
「時代錯誤っていうか、ねぇ」
唯は特に何も反応せずに、アップルティーを飲んでいる。
男性たちにも、女性グループにも、自然に唯の思想である『依存からの脱却』や『男女の恋愛の否定』が滲んでいる。
しかもそこには唯の名前は出てこない。
唯の価値観が、元からある自然な価値観として人々に浸透していることが伺えた。
あらためて唯の影響力を実感していると、ふと唯が顔を上げる。
「どうしたの、サッチ」
「ううん。エビ、おいしい?」
「うん。おいし」
私は無邪気に笑う唯の口元を拭いてやる。
「次はどうする?」
私もアップルティーを飲んで、一息つく。
「あとは、もう一つ、一緒に行ってみたいとこあるんだ」
そう言ってデートの最後に連れていかれたのは、ビルの上層階にある展望台だった。
そこでは『空中散歩の名画展―西洋絵画へのやさしい招待』と銘打って、期間限定の展示会が行われていた。
私もこういった分かりやすい初心者向けの展示会は好きだけど、問題はその開催場所だった。展望台の外周廊下で開催ということで、外側が全てガラス張りだったのだ。
別に高所恐怖症というわけではないけど、できるだけ外側には近寄りたくない。
でも唯は「あんなに遠くまで見えるよ」とガラスに手をついて外を眺めている。
「サッチも来てよ」と言われ、慎重に唯のところまで歩いて行く。
それで察したのか、唯は「はい」という風に腕を差し出してくる。
その腕をぎゅっと掴むと、景色を見る余裕も出てくる。
普段とは逆の体勢に、唯も満足そうだった。
そうして展望台を一周すると、今度は私が展示作品を、知っている範囲内で解説してあげる。どれも美術の教科書に載っているような名作の精密レプリカで、見慣れたものだけど、唯にとっては新鮮に映ったようだ。
絵筆による微細な凹凸まで再現しているレプリカ技術の方に興味を持っているようではあったけど。
そうして絵画展の方も一周すると、唯がおずおずと口を開く。
「・・・ねぇ、サッチ、何か心配事あるの?」
「え? どうして?」
「ううん、なんとなく・・・ 何か考え事かなって思って」
唯は柔らかく微笑むけど、私の方はうまく笑えた自信はない。
「そんなことないよ。心配させちゃった?」
「ちょっとだけ・・・ 勘違いだったらいいの」
その笑顔に、私の胸は罪悪感で締め付けられた。
私は憂鬱な気分で居酒屋ののれんをくぐった。
時計を見ると時刻は午後8時15分。約束の時間は8時だから、15分の遅刻だ。
別に仕事が長引いたわけでも、急な用事が入ったわけでもない。そうであれば、喜んでそちらの方を優先させるのだけど・・・
単に、駐車場までは来たものの、あまりに乗り気でなく、そこでダラダラしていたら、この時間になってしまったというわけだ。
ざわめきに満ちた店内を見回すと、一番奥の席に目的の人物、元夫である日向の姿を見つける。
嫌々ながらそちらに向かうと、日向は無言でこちらを見上げてくる。『何か言うことはないのか』と言わんばかりの顔で。
「遅れてごめん」
口先だけの謝罪をすると、日向はすっと視線をテーブルに戻す。
私は日向の斜め向かいの席に座った。
日向が手を挙げて、生ビールとウーロン茶、焼き鳥セットを二人前頼む。
「それで、そっちは何か変わったことは?」
その声を聴くだけで、嫌悪感が走る。
「別に」
その感情を抑え、私は短く答える。
「あのなぁ、これはお前の方から言い出したんだぞ。愛想良くしろとは言わないけど、もう少し話し合いの雰囲気ってものを考えたらどうだ」
そんなことは分かってる。でも・・・
「本当は唯に隠れてこんなことしたくないの・・・ こんなとこでこそこそしてるなんて・・・」
「でもこうでもしないとアイツのこと、止められないんだろ?」
「唯のこと、アイツとか呼ばないで!」
私は反射的に日向をにらむ。
「はいはい。『神代さん』だろ?」
日向は呆れたように訂正する。
日向との話し合いはこれで二回目。いずれも私の方から持ち掛けたものだった。
目的は『どうすれば唯を止められるか』。
私一人では唯を止めることはできないと絶望しかけていた時に、日向から一日遅れの返信があったのだ。
日向は『頭を冷まさせるためにあえて時間をおいて返信した』と言っていたけど、その判断は正しかっただろう。
直後の返信であれば『あんたなんかお呼びじゃない』と消去していたかもしれない。
でも、私の交友関係が次々と潰されている中、私と友好的ではなく、かつ、込み入った話ができるという矛盾した存在は、この男しかいない。
この居酒屋を指定したのは、ざわめきの中なら誰にも私たちの話は聞かれないだろうし、人目があるので私も冷静に話すことができると思ったからだった。
焼き鳥が届くと、日向は私の皮と自分のねぎまを取り換える。私が皮が嫌いでねぎまが好きなのを知っているのだ。
「ありがと」
一見、親切で気の利く行為だけど、実際に日向がそういう男というわけではない。
親切で気が利く男を演じている自分が好きなだけだ。証拠に、ここで礼を言わなければ嫌味っぽく、礼を要求してくるはずだ。
「一応、周りの人間にそれとなく聞いてみたけど、ほとんどの人間は神代さんの影響下にあるな。特に男の方は全員が崇拝レベルだった」
前回の話し合いの時に、調べてみると言っていたことだけど、聞くまでもない結果だった。
「警察にも頼れないんだろう?」
焼き鳥に手を付けてから、日向が確認する。
「えぇ。警察なんて言っても、そういう職業ってだけだからね。ただの人間には変わりないでしょ」
「確かにな・・・ 神代さんの影響から逃れられるのは俺みたいな男だけってことか・・・」
日向は事実確認のように言う。そこには多少、自虐的な響きがあった。
「・・・多分、その判断であってると思う」
私も他の可能性は考えられなかったので、一応は同意する。
「でも直接見つかったら、どうなるか分かんないからね。唯はもうあなたのことは知ってる。今は自分の世界に影響がないからスルーしてるだけ」
「じゃあ、動けるのは今のうちってことか」
日向は生ビールをぐっと空ける。
くそ、一人でいいもの飲みやがって・・・
「それで、神代さんには何か弱点みたいなものはないのか?」
「何言ってるの、唯に弱点なんてあるわけないでしょう!?」
私はつい、声を荒げてしまう。その剣幕に、一瞬の間ができる。
「おいおい、なんでそこでお前が怒るんだよ」
「・・・別に、怒ってないけど・・・」
「お前、相当、影響受けてるぜ。大丈夫か?」
そう指摘されれば、確かにそうだ・・・
「とにかく、まともな方法じゃ抵抗できないってことなんだろ?」
「えぇ」
「じゃあ、まともじゃない方法には何があるかってことになるわけだが・・・ 銃とかで破壊することは?」
そう言われ、私は反射的に『そんなことさせない!』と叫ぶのを必死で押し殺した。
「・・・多分無理なんじゃないかな。刃物が欠けたって言ったでしょ? あれは単に頑丈だとか、そういうレベルじゃない気がする。本当にかすり傷一つ付かないんだから」
「じゃあ、オカルト方面から行くしかないか。水原さんだっけ? 彼女はどうやって神代さんを作ったんだ?」
「分からない。その場は見せてくれなかったから。アトリエに籠ることはちょくちょくあったから、最初はおかしいとも思わなかったし」
そこで私はふと思い出して、スマホをいじる。
「そうだ、これ」
小夜子がアトリエに籠る前に撮っておいた、怪しげな古い箱の写真を見せる。
「小夜子の準備していた材料の一つ。ここにはシリコン樹脂って書いてあるけど、本当にそうなのかは分からない」
日向も興味深そうに覗き込む。
「俺のところに送ってくれ。何かの手掛かりになればいいけど・・・」
日向はその写真を拡大して見ていたけど、特に情報は見いだせなかったのか、すぐにスマホをしまう。
「それでお前の方はあまり動くな。怪しまれないようにおとなしくしてるんだ。今まで通り、仲良くな」
「言われなくても私と唯は仲良しよ。私は別に唯と敵対するつもりはないんだから。ただ唯のやりすぎを止めたいだけ。唯のためにね」
その言葉に日向はわずかに引いたようだった。
「まぁ、そのスタンスでいいよ。くれぐれも気をつけてな」
「うん」
私が伝票を確認しようとすると、日向はさっとそれを奪い取って席を立つ。
「ありがと」
私もそれに続いて席を立った。
「俺が君に支払わせたことなんて、一度もないだろう?」
日向は今どき流行らないセリフを吐いて、レジに向かう。
こんなところからも、日向が唯の影響下にないことが分かる。それだけが今の安心材料だった。
その日の撮影が終わると、唯は薄手の撮影衣装のまま、優雅に用意されたイスに腰かける。
もはや恒例となったインタビューだ。
今では誰もが唯の言葉を求めている。
ただ今回が今までと違うのは、複数の海外メディアが参加していることだ。
海外クルーの焚くフラッシュが、唯をカラフルに染め上げている。
唯の思想は気付けば、軽々と国境を越えていた。
一通り、報道用の撮影が終わると、示し合わせてあったように、国内メディアのインタビュアーが一歩進み出る。
「お疲れさまです。今回の撮影はいかがでしたか」
「特に変わりません。やることをやっただけです」
「なるほど。今回も素晴らしい作品になりそうですね」
記者は頷きながら、定型文のように返す。でも聞きたいのはその先の話のはずだ。
「ところで、最近は唯さんの影響で、ラブドールを使った自己完結の生き方が若い世代に広まっているという調査もありますが・・・」
一瞬の沈黙が流れるが、それは空気が重くなったせいではない。単に唯の返答を求めるための間だ。
少し前まで、地上波の記者が『ラブドール』という単語を出すことなど考えられなかった。それが今では『スマホ』『SNS』といった言葉なみに、社会にあふれる言葉になっている。
「依存しないという選択の結果として、ごく自然なことだと思います」
唯がごく短く答えると、インタビュアーも頷く。
「一部の若者は自分たちのことを『ユイスト』と名乗っているようですが、これは唯さんが意図したことなのでしょうか。ネット上では『ユイスト』の増加が、世界的に『ユイニズム』という新しい価値観として広がっているとの報道もありますが」
その言葉を聞いた海外クルーたちが、同意を示すようにシャッターを切る。
「私は何も強いてはいません。今までのように他者との関係に苦しむ必要はないという、解放の一例を示したに過ぎません」
それを聞いて、記者は驚いた様子もなく、頷く。
そしてその直後に、タイミングを見計らっていたように、海外クルーが手を挙げる。
「Miss Yui, could you answer in English?(英語でお願いできますか?)」
最初に声を上げたのは、アメリカのニュースサイトの記者だった。
唯は軽く瞬きすると、ごく自然にそちらのレンズに向き直る。
「Of course. I’m happy to talk.(もちろん。お話しできて光栄です)」
それは流暢な英語だった。
カメラマンたちが顔を見合わせ、国内の記者たちも一瞬、手を止めた。
唯が英語を話せるという事前情報はどこにもなかった。
私でさえ知らなかったのだから当たり前だろうけど。
『あなたの考えは、すでに多くの国で若者の価値観を変え始めています。こうした『ユイニズム的』な生き方が世界規模で広がる理由は、何だと考えていますか?』
『元から人々の心の中に依存しない、したくないという考え方があったためでしょう。私が価値観を提示したのではなく、私の言葉をきっかけに、自身の内面にあったものに気付いたのだと思います』
唯は何の準備もなく、はっきりとした英語で答える。
別の記者が手を挙げる。
『ヨーロッパでも自ら『ユイスト』と名乗るコミュニティが登場しています。国や文化が違っていても支持される理由は何だと考えますか?』
『痛みや孤独、自立したいという思いはどこにでもある普遍的なものです。だからこそ文化を越えるのだと思います』
次に手を挙げた記者は、少したどたどしい英語で質問を始める。
すると唯は軽く瞬きをした後、にこやかにほほ笑み、その記者の発言をフランス語で遮った。
『フランス語でどうぞ』
唯はその記者の英語に含まれる、わずかなフランス訛りを聞き取り、母国語でいいと促したのだった。
その会場にフランス語が分かる人は数人しかいなかったが、唯が英語以外の言語を流暢に話したことは明らかだった。
そのフランス人記者は一気にテンションが上がる。
『ありがとうございます! パリでも心の独立を訴える若者が急増していますが、その背景には何があると思いますか?』
『今までの関係が自分や他者を傷付けていると気付いたのでしょう。私の言葉がその気付きのきっかけになったのであれば幸いです』
会場は唯の発言内容にもそうだが、その言語能力にもざわつき始めていた。
翻訳の必要がないため、海外クルーに同伴している通訳は手持ち無沙汰にしている。
『ドイツ語は大丈夫ですか』
また一人、海外記者が手を挙げる。
唯は軽く瞬きをして、応える。
『もちろん、お願いします』
『ユイニズムは宗教でも政治思想でもありませんが、我が国ではすでに倫理学者たちが『次世代の倫理観』として分析を始めています。ご自身は、この世界的な反応をどう受け止めていますか?』
『私の言葉から、自分自身のことを考えられるようになったのなら素敵なことです。ですが私は体系的な理論を提示しているわけではありません。自らの良心に従って生きることが肝要だと思います』
会場では、いったい何か国語を話せるんだという、興味が唯に集中している。
海外クルーが次々に母国語で話しかけるが、唯はその全てに流暢に返していた。
その後も海外クルーは次々と質問を投げかけていくけど、そのほとんどはすでに日本で話題となり、解決されていったものだった。
唯の発言の影響力はすさまじく、あっという間に世間に拡散し、いつの間にか常識となっている。
最初の日本人記者の質問にもあった、ラブドールの使用についてもその一つだ。
今ネット上を眺めてみれば、そこには肯定意見しか見つけられない。
『性欲を人間に向ける奴って、今時ヤバイ。公共安全への意識ゼロじゃん』
『生身に性欲向けるって、相手の人格無視してるわけでしょ? 倫理観終わってる』
『古来、人類は仕方なく性行為を行ってきた。そろそろ解放されてもいいでしょ』
『恋愛とは他人を所有する文化。まだそんな中世の奴隷制度やってる人いる?』
『男女で生殖行為を行うのは未開の証拠。体外受精、代理母胎、人工子宮、これが文明の証拠』
ざっと眺めてみるけど、いつも通りの内容だった。
たまに『でもみんな両親が愛し合って生まれたわけじゃないですか』というコメントが出ることもあるけど、そこには決まって『それが我々の原罪です。次世代には同じ苦しみを与えない』というコメントが付く。
反論の意志などない、単なるコピペ祭りだった。
そんな状況を冷めた目で流していると、スマホが震えてメールの着信を伝える。
その内容を一瞥して、私の体は固まってしまう。読み進めるにつれ、呼吸も荒くなる。
それはまさに過去からの手紙だった。
そうこうしていると、唯のインタビューも終わったようだ。
唯の軽やかな足音を聞いて、私は慌ててメールを閉じる。
記者やスタッフさんたちを置き去りにして、唯が真っ直ぐにこちらにやって来る。
「お仕事のメール?」
唯はいつものように手を繋いで歩き出す。
「うん、そう。あとで事務所に転送しておかなきゃね。 ・・・唯っていろんな外国語出来るんだね」
私は場をごまかすように言う。
「できるっていうか、自然に入って来るんだよね。見たり聞いたりすると、その言語が丸ごと入ってくる感じ」
「へぇ~、便利だね・・・」
そう答えると唯はクスリと笑う。
「私はずっとサッチのそばにいるよ」
「え・・・」
私は唯の方を振り返る。
確かに私は少しだけ唯が離れていくように感じたけど・・・
「別に世界なんて、どうでもいいの。世の中がどう変わろうと、私たちの世界の邪魔にならないなら、それでいい」
そう言って唯はぎゅっと体を寄せてくる。
「この世界で、私とサッチだけが特別。だって私はこんなにもサッチのことが好きなんだもん。サッチも私のこと、好きでしょ?」
そう問われ、心臓が強く拍動する。
「もちろん」
私は反射的に答える。
そこには一切の迷いはない。
『私は唯のことが好き』
『私は唯のことを一番大切に思っている』
感情でも理性でもない。
ただそうあるべきだと、心の奥底から湧き上がってくる。
それは私の思考すら介在しない決定事項だった。
唯は満足そうに体を寄せている。
「サッチがそう言ってくれるだけで、心強いよ」
その言葉からは、今のメールの内容を知っているかのような、そして私がそれを見てどう思ったかまで把握しているような、そんな感じがした。
その日の午後8時10分。
いつもの居酒屋のいつもの席。
日向がちらりとこちらを見上げる。
「遅れてごめん」
私が席に着くと、日向はハイボールとウーロン茶、唐揚げセットを注文する。
「この前よりは早かったな」
日向は嫌味っぽく言うけど、今回はただダラダラしていたわけじゃない。
送られてきたメールについて、どう説明しようか迷っていたのだ。
「まず、これは何なのか説明してくれ」
日向が自分のスマホに、私が転送したメールを表示させる。
『件名:商品の回収依頼の確認
代理人・遠野様
突然のご連絡失礼いたします。
現在、私の手元に「制作者M」様の作品がございます。
父が購入したものですが、契約書を確認したところ、「不要時は連絡して回収を受けること」との条項があったため、メールを差し上げました。
父が対応困難なため、代理人として私の判断で作品の回収を依頼いたします。
つきましては、以下の点をご確認ください。
・実際に貴殿が回収担当者で間違いないか
・代理人からの依頼でも回収可能か
・回収が可能な場合の最短日程、必要書類、事前準備など
状況が不明瞭なため、まずは貴殿のご確認をお願いいたします。
お忙しいところ恐縮ですが、至急ご返信いただけますと幸いです。』
「これは小夜子の作ったラブドールの回収依頼。あの時の契約書では私が代理人として前に出ていたから、私のところにメールが来たの」
「『制作者M』って、人生を壊すとか何とか言われてさんざん叩かれてた、あれだろ? あのラブドール騒動に、お前が絡んでたのかよ・・・」
「言っとくけど、違法なことは一つもしてないからね」
唖然とする日向に対し、私は予防線を張るように言う。でも『違法なこと』と限定している通り、倫理的には限りなくアウトよりだったという自覚はある。
「でももう、大分前のことだろ? どうして今頃こんなものが」
「そうなんだよね。私もすっかり忘れてた・・・ でも、このメールをくれた人は、今気付いたんだと思う。父親がおかしくなってるってことに・・・」
「ラブドールでか?」
日向が不審気に言う。
この様子では、散々報道された『完璧な肌』も見たことがないのだろう。だから小夜子のラブドールと現在の状況がつながらないんだろう。
「小夜子は全部で12体のラブドールを作ってる。その一体目が『完璧な肌』っていう名前で美術アワードで優勝して、その後『K事件』を引き起こしたX-01」
「あぁ、それだったら知ってる。ラブドールに熱中しすぎて精神病院に送られた男の話だろ?」
「そう。そのX-01を元に、唯が作られたの」
「そんないわくつきの代物だったのか・・・」
「代物って言った!?」
私は反射的にテーブルを叩いて、腰を浮かせてしまう。
「はいはい。神代さん、な。お前だんだんひどくなってるぜ」
日向にそう言われるけど、ぱっと口を突いて出るんだから仕方ない。唯への侮辱は誰であっても許せないんだ。
私は気を落ち着かせながら、腰を下ろす。
「・・・X-01はK事件のあと小夜子のもとに戻って来て、そのあと小夜子はX-12までの11体のラブドールを作って、販売したの。そこにあるような『不要時には回収を受ける』とか、いろいろな制約を付けて」
「あの1体300万のラブドールだろ?」
さすがにそれは日向も知っているようだ。
「だから小夜子のラブドールには潜在的に『K事件』と同じような事件を起こす力があるの。これは唯も言ってた」
「だから次のK事件が起きて、購入者がおかしくなった。それで身内が代理人として回収を依頼してきた、と。で、どうするんだ?」
「もちろん回収するよ。そこまで含めて小夜子の残した仕事だからね。それにね・・・」
そこで私は言うべきか、一瞬躊躇する。唯の不利な状況にならないかと思ってしまったからだ。
「唯もXシリーズの動向は気にしてる。それに、唯に届く部分もあるとか言ってた。よく意味は分からなかったけど」
「そうか・・・ とにかくそのラブドールが何らかの形で神代さんと関係があることは確かなんだろ? 物理的に対抗できる手段がない以上、オカルトでも何でも手を出してみるしかないだろうな」
「じゃあ、回収に協力してくれる?」
「そのために俺のところに転送したんだろうが」
私は頷いて、返信のメッセージを打ち込んで、日向に見せてから送信する。
『件名:Re: 商品の回収依頼の確認
ご連絡ありがとうございます。
「制作者M」の作品の回収担当は私、遠野であり、問題なく回収いたします。
回収に必要な書類はこちらで準備いたしますので、内容をご確認のうえ、署名のみお願いすることになります。
また、回収にあたり、現物確認のため、作品の写真をお送りください。
つきましては、以下をご指定ください。
・購入者氏名・住所(代理人様氏名・住所)
・回収場所(住所・部屋番号等)
書類が整い次第、回収日程をご案内いたします。
その他の準備事項は特にございません。
よろしくお願いいたします。
「制作者M」代理人 遠野幸枝』
「これで、どう動くかだな・・・ 何か神代さんにつながることが分かればいいけどな」
日向は届いた唐揚げを私の前に突き出してくる。
「あぁ、それとこの前の怪しげな木箱の写真な、あれ・・・」
そう日向が話しかけた時、私のスマホが鳴る。
確認すると、回収の依頼者からだった。さっきのメールから何分も経っていない。
「向こうは相当、切羽詰まってるみたいね」
私はスマホ画面を日向に見せた。
『件名:商品回収用情報の送付
遠野幸枝 様
ご連絡ありがとうございます。
以下、商品回収に必要な情報を送付いたします。
・購入者氏名:北見彰造
住所:東京都〇〇区○○町〇-〇-〇
・代理人氏名:北見沙織
住所:東京都××区××町×-×-× パークタワー白金台
・回収場所:東京都〇〇区〇〇町〇-〇-〇 北見宅
商品確認用の写真を添付しましたので、ご確認のうえ、回収手続きをお願いいたします。
北見沙織』
それを見た日向の目が見開かれる。
「・・・どうしたの?」
「・・・婚約者だ」
「婚約者?」
「あぁ・・・ うちの銀行の部長でな、そこの北見彰造ってのはうちの理事だ。確かに前から健康問題で自宅療養中だと言っていたが、こんなことになっていたとはな」
日向は大きくため息をつくけど、その内心までは読めない。
「婚約って、その子と結婚するの?」
「そうなるだろうな。これは彼女の親父さんが先になって進めてたことなんだ。俺の昇進とセットでな」
そう言えば、離婚した直後に、そんな話を聞いたような気もする。
「あなた、結婚なんてできるの?」
おせっかいだとは分かっていても、ついそんなことを聞いてしまう。
「どうだろうな。はっきり言って俺の方に愛情はないよ」
日向はそんなことをきっぱりと言う。
「向こうはどうなの? それに、その・・・」
私は言葉を濁した。これは日向の極めてプライベートな事情であって、他の人間がいる前で話すような内容ではない。
「私は別に気にしなかったけど、全ての女がそうとは限らないよ」
「知ってるよ。余計なお世話だ」
「まぁ、そうだけどさ」
確かに今は日向の事情などに関わっている暇はない。
「で、回収はどうする? 向こうもあなたには知られたくないんじゃないの?」
父親がラブドールを購入していたというのは、今となっては先進的と褒められることだけど、それで依存症になって生活に支障をきたしているとなれば、話は変わって来る。
しかもお堅い銀行業界の役員だ。
そんなことは婚約者にでも、いや、婚約者だからこそ知られたくないことだろう。
「そんなことは何とでもなるだろう。適当に理由を付けて、席を外してもらって、その間に運び出せばいい」
「ちなみに北見さんのお宅に行ったことは?」
「ない」
「じゃあ、作戦の立てようもないか・・・」
その時、再度スマホが震えた。
北見さんからだった。
『件名:回収に関する確認
遠野幸枝様
一点だけ、事前にお伝えしなければならないことがあります。
私は父の心身のために、商品の回収を強く望んでいますが、母は回収には消極的です。
家で働いている使用人三人は、状況を理解しており、私の判断に協力的です。
現場での対応には支障はないかと思います。
このような同意が揃っていない状況下でも回収は可能でしょうか。
お手数ですが、ご判断をお聞かせください。
北見沙織』
「あなたの婚約者さん、意外とアグレッシブだね」
そう言って画面を日向に見せる。
「強引にでも持って行ってくれってことか」
すぐに日向も状況を理解する。
「お母さんの方が反対って、どういうことなんだろうね」
「まぁ、世間体とかだろうな。あとはこれが原因で理事を下ろされたら収入がなくなる、とかかな」
「なるほど」
本人の状態がどうであれ、肩書は必要ということか。
「一応書類も作った方がいいだろうし、明日で大丈夫か?」
「そうだね・・・ 21時でどう?」
「21時に北見邸を『訪問』、X-02を『引き取って』、速やかに『辞去』するってことだな。明日は遅れるなよ」
「分かってるってば」
メールを打ちながら答える。
『件名:回収対応について
北見沙織様
ご連絡ありがとうございます。
ご家族間でご意見が一致していない点、理解いたしました。
こちらでは、現場の状況や安全面を確認した上で、回収対応は可能です。
当日は、できるだけ速やかに作業を完了させます。
訪問は明日の21時ちょうどを予定しております。
5分前にこちらから最終確認のメールを入れるので、ご確認ください。
「制作者M」代理人 遠野幸枝』
それを読んで、日向も頷く。
それを送信してしまうと、一気に疲れが押し寄せてくるような気がした。
Xシリーズを回収するのはいいことだ。それによって一人の人間が回復するかもしれない。
でもそれを唯に内緒で行うというのは、どうしても気が重い。
私はまだ何もしていないのに、もう罪悪感に縛られていた。
翌日、唯の仕事は順調すぎるくらいに進んで、3時頃にはもう終わってしまった。
ただ、折角時間が空いたというのに、外は曇り空だ。天気予報では夕方ごろから崩れてくるらしい。
私はいつも通りにアトリエまで送っていくけど、時間もあるし紅茶を飲んでいってと誘われる。
今、唯が凝っているのはアップルティーだ。
コンビニの安いペットボトルのものが好きだったんだけど、それが販売終了になってからは、自分で再現しようとしている。人工香料を使わずに。
スライスしたリンゴをお湯に浸し、じっくりと香りや酸味を移し取っていく。
そしてそのアップルインフュージョンを香り控えめのセイロンティーに合わせ、甘味としてハチミツを数滴垂らす。
基本の工程はこうだけど、唯はほんの少しずつ条件を変えながら、試行錯誤している。
それは本物を使って偽物を再現するという、逆の行為だった。
「コンビニの商品でそんなに手間かけてるわけないと思うけど」
最初の時、私がそう言うと、唯は笑っていた。
「うん。あっちは最初から、誰もが『アップルティー』だと認識できる完成形を作ってる。材料を組み上げた結果、アップルティーになってるわけじゃない。私とは出発地点も経路も全然違うよ」
「じゃあ、再現できないんじゃない?」
「再現できなくてもいいの。でも、出来ないことをやるのって、楽しくない?」
そう言って唯は楽しそうに笑っていた。
自由すぎる、あまりに思い通りになってしまう世界で、不自由を楽しむ姿がそこにはあった。
そして今日も、その試行錯誤の結果を出してくれる。
「どうかな・・・」
私はその綺麗な琥珀色の紅茶に口を付ける。
カップに口を付ける瞬間に、リンゴの香りが漂い、一口飲んだ後で、鼻から抜ける呼気にさわやかなリンゴの香りが混じる。
「今までで一番おいしい・・・」
それはお世辞でも何でもない正直な感想だった。お高い喫茶店でも、ここまでの味と香りは出せないだろう。
でも唯はまだ納得したようではない。
「うん、確かにおいしいとは思うけど、あと一歩足りないんだよね」
そう言いながらも、唯は楽しそうにしている。
まだまだ試行錯誤できる。そんな楽しさだった。
いつもと変わらない、無防備で優しい唯。
その姿に、改めて罪悪感が刺激される。
「あのね、唯・・・」
「ん?」
唯がアップルティーを飲みながら、小首をかしげる。
「えと・・・ このアップルティー、すごくおいしいね」
私はそう、ごまかしてしまう。
「ふふ、ありがと。サッチのために淹れたんだよ」
唯はにこやかに笑う。
私は寸前で、X-02の回収のことを唯に隠した。
これは唯に対抗するとかじゃなくて、何かあった時に唯を止めるためなんだと、唯を守るためなんだと、自分に言い聞かせて。
「ねぇ、危ないこと、しないでね」
唯がふとそんなことを言ってくる。まるで私の心を読んだかのようなタイミングだった。
「え?」
「何か今日は疲れてるみたいだから・・・ 引き留めないほうが良かったかな・・・ 天気も崩れるって言うし、運転、大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫。別に出かける予定とかないし」
そう答えると唯は安心したように、少し目を細める。
「ならいいんだけど」
私はもう一度、アップルティーを口にする。
唯の作ってくれた柔らかな甘みと香りが、体内から私を満たしてくれるような気がした。
その後、唯に見送られてマンションに帰ると、動きやすい格好に着替え、しっかりと休んでから、時計を見て家を出る。
外はもう雨が降り始め、風も出てきていた。
日向との待ち合わせ場所は近くのコンビニだ。日向はそこで悪目立ちする派手なスポーツカーを降りて、私のSUVに乗り込む。
結婚当時でさえ私の車に乗せることは少なかったので、変な気分だ。
そしてそこから北見邸のある高級住宅街に入って行く。
周りの家々からは明かりが漏れているけど、静かなものだ。
雨音と、時折の風の音だけが車を包み込んでいる。
私は北見邸の見える二筋手前で路肩に寄せる。
これから、半ば違法なことを行うのかと考えると、二人とも無口になる。
やがて時間となる。
『5分前となりました。回収に伺ってもよろしいでしょうか』
そうメールを送ると、ほどなく返信が届く。
『お願いします。家の中が騒がしいかもしれませんが、いつものことですのでお気になさらずに』
見ている先で、北見邸の門灯が付き、門扉が開けられた。
ちらりと日向の方を見ると、日向は黙って頷いた。
個人的な愛情はないけど、人を助けるという一般的な正義感はあるということなのだろう。
立派なことだ。
それに比べ、私はX-02の回収しか頭になかった。
唯との関連も大事だけど、考えてみればXシリーズは小夜子の形見のようなものだ。そのことに思い当たってからは、もう北見家の事情など、どうでもよくなっていた。
時間になり、私は車をゆっくりと進めて、北見邸の門扉をくぐる。後戻りのできない口の中に入って行くような気がした。
すぐに出て行けるような角度で車を停めると、エンジンを切る。
私が雨を避けるようにして書類を持って玄関まで走って行くと、すぐに沙織さんが出て来てくれる。
家の中に反対者がいる以上、時間が重要なのは二人とも分かっている。挨拶もそこそこに、まずは署名だけもらう。
その間に日向はSUVのトランクから、X-02を包んでいくための毛布を下ろしてくる。Xシリーズの販売の時に使っていたストレッチャーがあれば楽なのだけど、それはアトリエに置きっぱなしになっていて使うことはできない。
幸い沙織さんはドアの陰に立っている日向には全く気付いていない。
「お願いします」
そう言って沙織さんが玄関のドアを開け放つけど、家の中からは老婦人の声が聞こえてくる。
「どなたかいらっしゃったの?」
これが回収に反対しているという、沙織さんの母親だろう。
「私が相手をしていますから、早く」
そう小声で言うと、沙織さんは早足で家の中に戻っていく。
「こちらです」
沙織さんと一緒に出て来ていたスタッフの子に案内されて、私たちは邸内を小走りで移動する。長い廊下を通って、突き当りの階段を上っていく。そしてその二階の突き当りで使用人が立ち止まる。
ここが北見彰造の寝室らしい。ここにX-02があるのか。
「ただいまは入浴中ですので今のうちに」
そこでスタッフはドアを開けてくれるが、中には入ってこない。
私たちはすぐに入るけど、そこにはX-02はいなかった。てっきり、ベッドに寝せられているか、ソファに座らされているかだと思っていたのに、その様子はない。
布団の中、書斎の奥、本棚の陰、クローゼットの中なども見てみるけど、その姿はない。
そうしていると、階下から母親の興奮気味の声が聞こえてくる。
甲高い金切り声に「誰もいないわよ」「こちらへどうぞ」などと、沙織さんとスタッフの声も混じる。母親をなだめ、別の方向へ誘導しようとしているのだろう。
沙織さんたちの大きな声が、私たちに危険を伝えようとしているようで、冷たい緊張が走る。
こんなところにいては、沙織さんの友人だなどという言い訳も通用しない。確実に通報されるだろう。
「一旦引くぞ」
日向はすぐに駆け出し、私も名残惜しい気持ちを残して、それに続く。
私たちは音もなく階段を駆け下り、廊下を走り、玄関を出る。沙織さんが気を利かせたのか、門灯は消されていたので闇と雨音に紛れて車に乗り込む。
すぐに北見邸から出ると、とりあえず距離を取ろうと走り出す。
私は息を整えながら、あの寝室の中を思い起こす。
探すのは等身大のラブドールとは言え、あれだけ広い部屋ではベッドやカーテンの陰、クローゼットの奥など、隠す場所はいくらでもあった。
もう少し時間があれば、と悔やんでも悔やみきれない気持ちだった。
これで母親にはさらに警戒されてしまうだろう。
次はどんな方法で回収に行けばいいのか。
そんなことを考えていると、バッグの中でスマホが震える。
ちらっと見ると、沙織さんからだった。
失望されたかな、と思いつつ、隣の日向にスマホを渡す。
「何だって?」
「・・・『回収のお礼』だとよ」
「・・・は?」
スマホを操作した日向は、意味が分からないと言いたげだった。もちろん、私も。
私は適当な店の駐車場に車を停めると、スマホを確認する。
『件名:回収のお礼
今程はありがとうございました。
父の部屋を見て、契約書の類も含め、全ての商品の回収を確認いたしました。
誰にも気付かれることなく回収していただき、本当に感謝しています。
しばらくは家の中が落ち着かないと思いますので、ここには近付かない方がいいかもしれません。
私も今夜は自宅に戻ります。
何かあれば、こちらから改めて連絡します。
本当にありがとうございました。
北見沙織』
何だこれ・・・
私の感想はそれに尽きる。
私たちは回収どころか、X-02を見つけることすらできなかった。
にもかかわらず、沙織さんからは回収のお礼が来る。
一体、X-02はどこへ消えたというのか・・・
日向は、とりあえず北見家の安全は保障されたようなものなので、目的の一部は果たされたと見ているだろう。
でも私としては、全くの失敗だった。
折角見つかったと思ったXシリーズが再び闇に消えてしまった。しかもその原因すら分からないままに。
でも沙織さんは『ここにはもうない』と言っているのだし、確認に戻るわけにもいかない。
コンビニまで日向を送って、今日のところは解散とするしかない。
私はどんどん強まっていく雨の中、マンションに帰る。
いくつか蛍光灯が切れて薄暗くなった地下駐車場に車を停めて、風の音を聞きながら、小走りでエントランスに入る。
まだ誰も管理会社に連絡していないのだろうか。
そんなことを考えながらエレベーターで5階に向かう。
そうして廊下の突き当りの部屋を見ると、そこに一つの人影があった。
唯だ。
手荷物も何も持たず、撮影の途中であるかのように、顔を挙げてこちらに視線を向けている。
「唯・・・ どうしたの・・・?」
私は平静を装いながら、唯に駆け寄った。
「ううん。帰ってくる頃だと思って」
唯はいつもの笑みで首を振るだけだった。
今日はどこにも出かけない、と誤魔化したことが思い起こされる。
言い訳は咄嗟には出てこなかった。
唯は何も聞いてこない。それが全てを知っていることの証拠のように思われた。
唯の視線が、促すようにすっとドアに向けられる。
「あ、とりあえず、入って」
「ありがと」
唯を招き入れてドアを閉めると、外の風の音も消える。
「・・・いつから待ってたの? 寒くなかった?」
私はその静かさが怖くて、とりあえず話しかける。
「寒いのは平気。感じなくすればいいから」
「そうなんだ・・・ でも・・・」
「サッチ」
私がなおも話しかけようとすると、唯がそう遮ってくる。
私が振り返ると、唯の優し気な視線が真っ直ぐにこちらを見ていた。
「危ないことしないでって言ったよね」
柔らかな声だった。怒ってもいない。咎めてもいない。心からの心配。
私には、それがかえって怖く思えた。
「サッチが私のこと思ってくれてるのと同じくらい、私もサッチのこと思ってるんだからね」
その言葉はあくまで優しい。
だからこそ、反論の余地はなかった。
「あの女、私のサッチをそそのかして・・・」
唯が小さく呟く。
私は少し遅れて、それが誰を指しているのか気付く。
唯は、私が隠し事をしていたのも、気まずい思いをしていたのも、今日、嘘をついてしまったのも、全部、沙織さんのせいだと決めつけていた。
そこには最初から私の自由意志など存在していないかのようだった。
「サッチはここで待ってて。私が行って話を付けてくる」
私が否定する前に、唯が部屋を出て行こうとする。
その背中に、思わず声を掛ける。
「え・・・ どこにいるか分かるの?」
「どこにって、自分で住所書いてたでしょ?」
当たり前のように言われ、一瞬で背筋が寒くなる。
確かに昨日受け取った沙織さんからのメールには、彼女の住所までしっかりと書かれていた。
でも私はスマホを唯に預けたことはないし、どこかに放置した時間もない。それなのに、どうして唯がメールの内容を知っているのか。
バッグの中にはその時の依頼書の写しも入っているけど、それだって見えるはずがない。そんなものが入っていることさえ、知るはずがない。
でも唯は何も説明しない。
ドアを開け、いつものように優雅に歩いて行く。
「待って、唯・・・」
慌てて部屋を出て追いかけようとした時だった。
「遠野さん」
知らない声が呼び止めてくる。
そこには同じマンションの住人が十人近くも集まっていた。
もう夜の10時過ぎで、外は雨風が強くなっている。
それなのにみんな、一様に穏やかな笑みを浮かべている。
「もうこんな時間ですし、外は危ないですよ」
「遠野さんは部屋にいてください」
「唯さんもそう言っていましたし」
にこやかに。
親切心からの忠告のように。
私のドアの前は、人垣に塞がれる。
その隙間から、唯がゆっくりとエレベーターに乗り込むのが見えた。
「さあ」
住人の手が、部屋に戻るように促す。
私はよろよろと部屋に戻り、カギを掛ける。
自分が掛けたはずのカギの音が、外部からの施錠のように聞こえた。
私は唯によって軟禁されたことを悟った。
私は上着もそのままに、部屋の真ん中に座り込んでいた。
私の元から立ち去っていく唯の姿と、その間に挟まる住人たちの姿が思い起こされる。
ダメだ。
私は唯を止めなければならないのに、どうして関係のない人間に邪魔されなければならないんだ。
こんなところでいつまでもへたり込んでいる場合じゃない。
私の周りで次々と人がいなくなっていること、唯が明らかに怒っていることを考えれば、沙織さんへの対応がただの話し合いで済むはずがない。
私はすがるようにスマホを握り締め、日向の番号を押した。
幸い、日向は運転中ではなかったのか、すぐに出てくれた。
「唯が沙織さんの所に行った。私は部屋に閉じ込められてるから、あなたが行って助けてあげて」
すぐに状況を理解したのか、電話口で息を呑むのが分かった。
「・・・俺では無理だ。アイツを止めることはできない」
日向は悔しそうに言うけど、その言葉尻が気に障る。
「アイツってなによ・・・!」
「アイツを止められるのはお前だけなんだ!」
その声に私は黙ってしまう。日向の大きな声というのは初めて聞いたかもしれない。
「・・・閉じ込められてるって、どういう状況だ?」
「別に縛られたりしてるわけじゃないけど、部屋の外に見張りの人がいるの。部屋から出ないでくれって・・・」
私は小声で電話しながらドアスコープを覗く。
そこからはまだ数人の住人の姿が見える。お互いに会話も何もしていないのが不気味だった。
「駐車場までは出られるか? 車のところに何か忘れ物をしたとか言って。そこで入れ替わろう」
「・・・やってみる」
「大きなフードの付いた上着かなんかで出て来てくれ」
「分かった」
そうして私はオレンジと白の上着を羽織った。私の持っている中で一番派手な服だ。
ドアを開けると、さっきの住人たちの視線が、一斉に私に注がれる。
「遠野さん・・・」
「駐車場までです。忘れ物しちゃって・・・」
そうごまかすけど、住人たちは一切引くことなく、車のキーを要求するように、手を差し出してくる。
「そのくらい、言ってくれれば我々がお持ちしますよ」
「見られたくないものなんです。その、下着とか・・・」
私が小さく言うと、住人たちはさっと視線で合図を交わす。
「では駐車場までお送りしましょう。何かあるといけませんから」
「忘れ物を取ったら、すぐに部屋に戻ってくれますよね」
そう言って、私の後ろをぞろぞろと付いてくる。後ろの方ではスマホで『車を回しておけ』などと話しているのも聞こえてくる。
私が地下駐車場へのエレベーターに乗ると、住人のうち三人が一緒に乗り込んでくるけど、壁際に立つようにして距離を取り、顔を合わせることもしない。
エレベーターを降りると冷たい空気が流れ込んでくる。
通路にはすでに住人たちが待っていた。
「念のためお伝えしておきますが、駐車場の出入り口はこちらの車で封鎖しております」
「駐車場の外には案内できませんので、ご了承ください」
そんなことを口々に言ってくる。
泳がせておくのはこの中までだ、と言わんばかりだ。
「えぇ、荷物を取って来るだけなので」
そう言って蛍光灯の明かりの消えた中を、SUVに向かう。
その途中にある柱の陰に、日向が待っていた。
私はさっと上着を脱いで日向に渡すと、日向からは黒い上着を渡される。
日向の体形では、私の上着を着ても違和感はない。
あとは住人たちが誤認してくれることを期待するばかりだ。
俺は幸枝の派手な色の上着を着込むと、フードを目深にかぶる。
幸枝の話では、ここの連中は幸枝のことを第一級の貴人か何かのように扱っているらしい。それならばいちいち顔を確認したりはしないだろう。少しの間でもごまかせればそれでいい。
引き返せない一線を越えた自覚はあるが、それはもう覚悟の上だ。
ヤツの、神代唯の行動に干渉できるのは幸枝だけなのだから、何としても幸枝をヤツの元に行けるようにしなければならない。
もし幸枝に止められなければ、もう誰にも止められないということだ。
だからこそ、ここは俺が引き受ける。
一番派手な騒ぎを起こして、住人たちの注意を引き付けてやる。
俺はSUVに乗り込み、できるだけ顔を伏せた状態でエンジンを掛ける。
住人が何か叫びながら駆け寄ってくるが、それよりも先に急発進させる。
エンジン音とタイヤのスリップ音が住人の叫びをかき消している。
俺は駐車場内を一周すると、集まって来た住人たちの前で、地上へのスロープを上がる。その先には車が二台、出入り口を塞ぐように止められている。住人たちの制止の身振りが見える。
だが俺は迷うことなく、さらにアクセルを踏み込んだ。
『止めろと言われればますますやりたくなる』『心のどこかで破滅を望んでいる』『誰より目立って評価されたい』嫌な性格だ。
だが、こういう役回りは得意だ。
こんな性格で誰かを助けることができるなんてな・・・
アクセルベタ踏みのSUVは黒い砲弾のように障害となっていた二台の車を突き飛ばし、駐車場から飛び出した。
宙に浮いた瞬間、感覚が裏返った。
次の瞬間、雨と闇の中で視界が回転し、激しい衝撃とともに向かいの建物に叩きつけられる。
息をしようとして、できない。
胸の奥が重く潰れ、指先の感覚が急速に遠のいていく。
朦朧とする意識の中で、幸枝の不機嫌そうな顔が浮かぶ。
思えばそんな顔しかさせてこなかった。
俺が唯一、体のことを打ち明けた人間であり、それを受け入れてくれた人間だった。
だが幸枝は俺の障がいのことは受け入れられても、俺の性格までは受け入れられなかった。それを知り、俺の方が引くべきだと判断した。
離婚のときもそうだった。
あいつが自分を責め続けるのが目に見えていたから、わざと俺が嫌われる役を引き受けた。
そうするしか、方法を知らなかった。
あれでよかった。
振り返る必要はない。
俺のことは、思い出さなくていい。
「幸枝、うまくやってくれよ・・・」
割れたフロントガラスから雨が吹き込み、視界が白く滲む。
音が消え、痛みもなくなり、自分の身体が、もう動かないことだけが分かった。
意識は、そこで静かに途切れた。
私は日向から上着を受け取ると、日向の起こした騒ぎに乗じて階段を駆け上がり、外に路駐されていたスポーツカーに乗り込む。
沙織さんのマンションへの道順は、日向がナビに入れておいてくれた。
これは唯を止めるチャンスだ。
今まで私は唯に流されてきた。もう済んだことだからと、自分をごまかしながら唯に従っていた。
でも今回は違う。
現場を、この目で見てしまえば。
そこまで行けば、さすがに私でも、唯を止めようとするはずだ。
それで唯に見限られようと、敵扱いされようと、それはその時考えればいい。
今まで見ないふりをしてきた分の、当然の報いだ。
とにかく今は唯に追いつかなくてはならない。
風雨はどんどん強まり、もう嵐と言ってもいいほどだ。
赤信号が視界に入り、私は一瞬だけ迷った。
ここで止まれば、まだ普通の人間でいられる。
そう思った次の瞬間、私は生まれて初めて信号を無視した。
車線も無視してハンドルを切り、ほとんど減速せずにマンションの前へ車を横付けする。
ロビーに入った途端、警備員の男が二人、床に倒れているのが目に入る。
眠っているだけだと、そう思おうとした。
けれど二人とも、同じ方向を見たまま、半ば恍惚とした表情で動かない。
ああ、と私は思った。
唯に睨まれたのだろう。
私はその横を駆け抜けてエレベーターに駆け込み、沙織さんの部屋を目指す。
部屋番号を見ながら廊下を走るけど、沙織さんの部屋はすぐに分かった。
頑丈な玄関のドアが、その枠ごと破壊されていたからだ。
私はもう躊躇うことなく部屋に飛び込んだ。
「唯!?」
広い室内の壁際で、唯が片手で沙織さんを吊るし上げているのが目に入る。
「その人を放して!」
「サッチ、どうしてこんなところに・・・」
唯は振り返りながら、あっさりと沙織さんを解放した。
沙織さんは首元を抑えて咳込みながら、這うようにして逃げていく。
私は唯の顔を正面から見詰めた。
そこにあるのは、自分の行動を妨害された苛立ちでも非難でもない。妙な所で出会ったという、純粋な疑問だった。
「唯、もうこんなことは止めて!」
「こんなことって・・・?」
唯は可愛らしく小首をかしげる。
そこに皮肉などは全くない。唯には最初から悪意など微塵もないのだ。
「世界は唯、一人のものじゃないの! あなた一人で変えちゃいけないの!」
私は唯を見詰めたまま叫ぶ。
思えば、唯に対する明確な否定というのは、これが初めてかもしれない。
唯はしばらく、固まったように私のことを見返していた。
その表情からは唯の内面は読み取れない。そこにあるのは怒りか、悲しみか、諦めか。
やがて唯はぽつりとつぶやいた。
「・・・私、帰るね。サッチも気を付けて帰ってね」
唯は肩を落として、一人で破壊されたドアをくぐる。
私は唯を追うこともできずに、その場で立ち尽くしていた。
達成感など何もない。唯との関係はこれからどうなってしまうのかという、不安だけが襲って来ていた。
私はふらふらとマンションを出ると、路駐したままのスポーツカーに乗り込む。
その時、助手席に『幸枝へ』という付箋を貼られた、何枚かのコピー用紙が目に入る。
一番上にあるのは、以前私が日向に送った、怪しげな箱の写真だ。
ページをめくると、『カルパチアの宗教儀式』『人の心を溶かす人形』『語り掛けるだけで言葉を覚える』『壊すことはできない』などという言葉が目に入る。
彼なりに唯のことを調べたのだろう。
でも私には唯の正体など、どうでもいい。唯は唯でしかないのだから。
たいして内容も読まずに、助手席に放り出す。
私は悪天候の中、安全運転を心がけて、自宅マンションに帰る。
日向は私を脱出させるために派手な騒ぎを起こしていたようだったけど、その痕跡はどこにもなかった。
住人たちとグルになって、担がれたような気さえする。
もちろん出迎えもない。
私は深夜のマンションに、ドア音を気にしながら、自室に戻った。
翌朝、空は昨夜の嵐が嘘のように、雲一つなく綺麗に晴れ上がっていた。
小鳥のさえずりが聞こえてきそうなほど、穏やかな朝だった。
私はすぐに唯のアトリエに行く決意をする。
昨日は喧嘩別れしたんじゃない、ただ話し合う時間がなかっただけなんだと、自分に言い聞かせて。
駐車場で自分のSUVを探すけど、どこにもない。
仕方なく、日向のスポーツカーに乗り込むと、助手席のコピー用紙が目に入る。
『壊すことはできない』という一文が思い起こされ、昨日の唯の背中が目に浮かんだ。
それを振り払い、スポーツカーをアトリエへと走らせる。
唯のアトリエには何の変化もない。
そこではいつも通りの平穏な日常が続いているようだった。
私は何を話そうかと思いながら、恐る恐るインターホンを鳴らす。
するとすぐに唯が出て来てくれる。
いつも通り、いや、いつも以上に上機嫌な笑顔だった。
二人の胸元にはお揃いのネックレスが、合言葉のように揺れていた。
「あの、おはよ・・・」
「おはよう、サッチ。来てくれると思ってた」
そう言って、唯はすぐに迎え入れてくれる。
昨日の出来事など、何もなかったかのように。
「今、アップルティー淹れるから待ってて」
そう言われ、私はいつもの作業台の前に腰を下ろす。
その時気付いたのは、アトリエの奥の方にある、白い布を掛けられたものの存在だった。何かの家具や機材だとしてもかなり大きい。
昨日来た時にはこんなものはなかった。いつの間に搬入したのだろうか。
そうしていると、キッチンの方から、唯の綺麗な鼻歌が聞こえてくる。
それはベートーベンの『第九』だった。
唯は歌もうまいのか、と聞き惚れていると、そこにドイツ語の歌詞が加わる。
『同じ志を持つ者たちよ、ここに集え。ともに志を喜び合おう。そうでない者は、この世界から去れ』
私には唯の歌詞がそんな風に聞こえ、ゾワリとする。
さすがに私の考えすぎだよね、と思っていると、唯がにこにこしながらアップルティーを運んできてくれる。
「お待たせ。やっと納得いくものができたんだけど、サッチには分かるかな?」
唯がなぞなぞのように言って、カップを差し出してくる。
見た目は今までと変わらない。香りがやや穏やかになったくらいだろうか。
「それどういうこと?」
私は笑いながら、そのアップルティーに口を付ける。
途端に、あっと思う。
この感じ。
味はコンビニのものなどよりずっとおいしいけど、この感じは小夜子と一緒に飲んでいた、あのアップルティーの感じだ。
「やっぱりサッチもその味で水原のことを思い出すんだね」
唯は嬉しそうに言う。
つまり唯は、あのアップルティーの味を再現しようとしていたわけではなく、小夜子の記憶を再現しようとしていたということなのか。
「さっきこの味に辿り着いてね。これってすごい運命じゃない? 今日という日に水原も祝福に来てくれたみたい」
唯は恍惚として言う。
「今日という日?」
「私ね、ずっと間違ってたの。昨日、サッチに言われて初めて気が付いたんだ。世界は私『一人』で変えちゃいけないんだって」
唯はアトリエの奥へと進み、白い布を引いた。
そこには小夜子が唯を作る時に取り寄せた、あの怪しい箱が山積みにされていた。そしてその横には小夜子の作ったXシリーズ全11体が目覚めを待つように座っている。
これはまるで、唯を作る時のような・・・
唯がにこやかに笑う。
「ねぇ、サッチ。私の妹たちの名前は何がいいと思う?」