世界は、かつて“正しく”動いていた。

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失敗作の世界の証

それは多くの者にとって信じがたい主張だろう。

今の世界は···朽ちない都市と一夜で淀み穢れる山河、昨日と同じ日を三度生きる人間、生まれる前に死んだと記録される子ども···そういった不条理で満ちている。

往々にして因果は途切れ、歴史は書き換わる。

 

それでも──彼女は知っていた。

正しさが、秩序が、意味が、確かに存在した時代を。

その記憶が作り話ではないことを証明するために、彼女は歩き続けた。

 

 

◆◆

 

 

彼女が生まれた頃、世界はまだ体裁を保っていた。

 

季節は巡り、死は死として訪れ、生は生として祝福された。

神話は神話であり、現実は現実だった。

説明できない怪異は存在したが、それらは例外であって、基準ではなかった。

 

彼女は英雄でも預言者でもない、名もなき一人の人間だった。

ただ、奇妙なほど長く生きた。

彼女もまたこの世界におけるイレギュラーの一つだったのだ。

 

時代が移り、人が入れ替わり、街が栄えては滅びる中で、彼女だけは置き去りにされるように残った。

見た目こそ青年期のそれだが、老いは緩やかに、しかし確実に進み、死の気配も遠くはなかった。

それでも彼女は生き続けた。

 

理由はなかった。ただ──世界を見ていた。

 

夜ごと、彼女は夢を見ることがあった。

 

深い闇の中心で幼い少女が丸くなって眠っている。

肌は白く、呼吸は浅い。

彼女の周囲では理解不能な“音”が鳴り続けていた。

 

それは法則が定まりきらない軋み。

種々の因果が噛み合わないことによる摩擦。

定義しきれなかった概念の衝突。

──調律に失敗した世界の響き。

 

 

 

彼女はその少女の名を後になって知る。

 

アザトース。

 

眠ることでしか世界を成立させられない、創造主の“失敗作”。

 

 

◆◆

 

 

“それ”は予兆もなく訪れた。

 

空が暗くなったわけでも、地が裂けたわけでもない。

誰もが気づかない一瞬、時間が定義を失った。

 

彼女には分かった。

 

心臓が鼓動を忘れ、呼吸が途中で止まり、思考だけが夢の世界に取り残された。

原因と結果が剥がれ落ち、意味が宙吊りになる感覚。

 

世界が、世界であることをやめかけた瞬間···彼女は見た。

 

夢の中心で少女が目を開けるのを。

 

「···あれ?」

 

怒りも喜びもない。

ただ思っていたものと違う、という困惑。

たったそれだけ。

 

少女は世界を眺めた。

壊れていることは理解した。

しかし、どう壊れているのかは分からない。

直し方も、終わらせ方も知らない。

 

しばらく見てから、少女は目を伏せた。

 

「うまく、できてない···」

 

それは世界への否定ではなかった。

自分への、静かな失望だった。

 

そして少女は再び目を閉じた。

 

 

 

···世界は消えなかった。

少女は未熟で、不完全な“白痴”だったから。

世界の全てを夢に見ることが出来なかった。

そして、“それ”を見た無垢な精神は世界の崩壊を恐れ、現状を維持して逃避した。

 

世界は消えなかった。

そして、修復される可能性を永久に失った。

 

 

◆◆

 

 

目覚めの後も世界は続いた。

 

だが何かが決定的に欠けた。

修正されない歪みが日常となり、人々はそれを当たり前として受け入れていった。

 

彼女だけが違和感を覚えていた。

かつての世界と、今の世界を比較できる最後の観測者として。

 

人々は彼女の語る過去を笑った。

英雄譚は誇張とされ、整合性のある歴史は神話に分類された。

彼女自身もやがて伝説やおとぎ話の登場人物のように扱われる。

 

それでも彼女は理解していた。

自分は救世主ではない。

次にアザトースが目覚める頃、自分は確実に死んでいる。

他人(ひと)より長いが寿命は有限で、世界よりも先に終わる存在でしかない。

 

彼女は世界を救うことを諦めた。

 

代わりに──“証”を集めることにした。

 

 

◆◆

 

 

彼女は旅に出た。

 

目的地はない。

ただ、噂と断片を追った。

かつて理屈が通っていた時代の名残、秩序が確かに存在した証拠を求めて。

 

 

 

最初に見つけたのは本だった。

 

崩れた図書館の地下、湿気と黴に侵された棚の奥にそれらはあった。

論理的に書かれた学術書。

前提があり、結論があり、読み進めるほどに世界が一つの体系として立ち上がってくる文章。

 

中にはアザトースについての文献も存在した。

 

彼女はページをめくりながら、胸の奥が静かに痛むのを感じた。

 

やはり、かつて世界は理解できるものだった。

 

 

 

次に見つけたのは外世界を映すテレビだった。

 

電気の供給はとっくに途絶えているし、画面も罅割れ、内部は焼け焦げている。

しかしそこには、この世界とは異なる星空、異なる物理、異なる可能性が映っていた。

それは少女──アザトースの夢の外側。

こことは違う別の“層”。

 

世界が一つではなかったという事実、それを目の当たりにした彼女は、暫し立ち尽くした。

 

 

 

最後に辿り着いたのは聖遺物だった。

 

奇跡が奇跡として機能していた時代の名残。

祈りが確率を超えて届いていた頃の証拠。

今では力を失い、ただの物体と変わらない。

 

彼女はそれらを、拒まれず、祝福もされず···祈りを捧げる者が居なくなり、廃墟と化した神殿から拾い集めた。

 

 

◆◆

 

 

世界は彼女の旅を妨げなかった。

 

なぜなら彼女の行為は世界にとって無意味だったからだ。

秩序を証明しても誰も理解しないし、そもそも理解できる前提が既に失われている。

 

生き残った数少ない人々は彼女を変わり者として見送り、時には聖者として崇め、あるいは狂人として追い払った。

彼女は抗弁しなかった。

 

自分がしていることは、この地上の誰かに伝えるためではないと決めていたからだ。

 

寿命は確実に近づいていた。

足取りは重くなり、視界は狭まり、毎夜の眠りが深くなった。

それでも彼女は集め続けた。

 

 

◆◆

 

 

やがて、彼女は集めた遺物をひとところに集めた。

植物に侵食され、朽ちた建物の中心。

屋根は抜け、夜空がそのまま天井になった空間。

 

本を並べ、テレビを据え、聖遺物を置く。

収集した雑多な遺物は全て機能しない。

それでも配置には、かつての秩序をなぞるような静かな意図を込めた。

 

彼女は腰を下ろし、一つ一つを丹念に見た。

ページの文字を追い、割れた画面に触れ、摩耗した表面を撫でる。

時間を掛け、全てを目に焼き付ける。

これが自分の知っている世界だったのだ。

 

やがて彼女は立ち上がり、空を見上げた。

 

眠りについた創造主が再び目覚める日は遠い。

その時に自分はもういない。

 

それでも、言葉は必要だった。

 

祈りではなく、願いでもない。

これは創造主への報告と感謝である。

 

「これが──貴方の生み出した世界の、証だ」

 

返事はない。

だがそれでよかった。

彼女は横たわり、目を閉じる。

 

彼女の意識が消え失せた後も、世界は続くだろう。

秩序を失ったまま、管理されない夢の残骸として。

 

それでも確かに、かつて──は存在した。

 

それを知る最後の観測者は、その事実だけを抱え、永遠の眠りについた。

 

 


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