世界が君を忘れても [旧題:完成する君と未完成な僕]   作:ねじぇまる

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こちらは不定期です。たぶん。
浮かんできたので書きます。
よろしくお願いします。


1章:異物と原石
第1話 ノイズとロコドル


――Fake Trainer: Minato

 

寒気がする。

季節のせいじゃない。自分が今、立っている場所のあまりの場違い感に、胃の中身を戻しそうになっていた。

 

視界の端がチカチカと明滅している。

まるで接触不良のモニターを見ているような不快な眩暈。

周囲には、テレビの向こう側でしか見たことのない景色が広がっていた。

 

トレセン学園の選抜模擬レース会場。

綺麗に整備されたターフを蹴る蹄鉄の音。飛び交う指示、関係者たちのざわめき、煌めく汗。

そして、人間離れした速度で目の前を駆け抜けていくウマ娘たちが発する、物理的な熱量と風圧。

 

そのすべてが、あまりにも鮮烈で、暴力的で、そして――俺という存在を拒絶しているように思えた。

 

(……帰りたい)

 

切実にそう思った。

これが夢なら、さっさと覚めてくれ。

もし現実だとしたら、俺みたいな人間がいていい場所じゃない。

 

俺の名前は湊明良。32歳。

ただの、しがないレースファンだ。

画面の向こうの物語を消費し、バ券を握りしめて一喜一憂し、掲示板で顔も知らない誰かと議論するだけの、モブ以下の存在だったはずだ。

それなのに、気がつけば俺の首にはトレーナーと記されたプラスチックのパスが下がっていて、手には安っぽいバインダーが握られている。

 

どういう冗談だ。ドッキリか?

それとも、流行りの異世界転移というやつか?

どちらにせよ、ここに俺の居場所がないことだけは確かだった。

 

周囲を見渡せば、パリッとしたブランド物のスーツを着こなしたエリートトレーナーたちが、鋭い眼光で原石たちを品定めしている。彼らの会話からは「血統」だの「ラップタイム」だの、高度な専門用語が飛び交っている。

彼らは選ぶ側の人間だ。自信に満ち溢れ、未来を見据えている。

 

その中に混じった、ユニクロですらなさそうな量販店のダウンジャケットを着た男。

何年も着古して、袖口が少し擦り切れた、くすんだオリーブ色のダウン。中身の羽毛も随分とへたって、ぺらぺらになっている。

異物。ノイズ。シミ。

俺という存在は、この煌びやかな世界に紛れ込んだバグそのものだった。

 

誰かに見咎められる前に、こっそりと出口へ向かおう。

不法侵入で捕まるのは御免だ。それに、この場に漂う本物たちの熱気に、俺の貧弱な自我が焼き尽くされそうだった。

 

そう決めて、逃げるように視線を彷徨わせた時だった。

 

 

 

▪ ▪ ▪

 

 

 

視界の端に、()()が映り込んだ。

 

『――ホッコータルマエです! よろしくお願いします』

 

まだあどけない、デビュー前の彼女。

深く濃い、まるで濡れたような黒鹿毛に近い焦げ茶色のロングヘア。それを二つに結ったおさげ髪が、緊張で強張った肩の上で揺れている。

そして何より目を引くのは、その前髪に入った、ひと房だけの鮮やかな白の流星。

暗い色合いの中で、そこだけが雪のように白く、凛とした意志を感じさせた。

 

彼女は模擬レースのエントリーシートを両手で抱え、あるトレーナーに深々と頭を下げていた。

 

瞬間、俺の脳裏に激しいノイズが走った。

 

キィン、と耳鳴りがする。

視界が歪む。

目の前の光景に、別の映像が二重写しになる。

 

――暗いドーム。

――空席だらけの客席。

――スポットライトの下、たった一人。

――前髪の白を揺らしながら、「ごめんなさい」と震える姿。

 

吐き気がした。

胃酸が喉の奥までせり上がってくる。

 

それは、俺が前の世界で見た彼女の結末だ。

史実とも違う、とある世界線のバッドエンド。ゲームオーバーの画面。

実力はあるのに、方向性を間違え、誰にも愛されずに消えていった地味なウマ娘の末路。

あの時、画面の前で俺がどれだけ歯噛みし、どれだけ救いたいと願ったか。

 

(見るな。関わるな)

 

俺は本能的に顔を背けた。

あれは俺のせいじゃない。俺がどうこうできる問題じゃない。

ここにいる煌びやかなトレーナーたちが、きっと正解へ導くはずだ。

この世界は、俺がいた世界とは違う正史へ向かうはずなんだ。俺みたいな異物は、さっさとこの場から消えるべきなんだ。

 

そう自分に言い聞かせ、踵を返そうとした耳に、会話が飛び込んできた。

 

「……うーん、君さあ。ちょっと地味だよね」

 

足を止める。

心臓が嫌な音を立てた。

ドクン、と脈が飛ぶ。

 

彼女の目の前に立つ、仕立ての良いイタリア製のスーツを着た長身の男。いかにも中央のエリートといった風貌のトレーナーが、彼女のシートを見て渋い顔をしている。

 

「苫小牧? ご当地アイドル? うーん……悪いけど、そういうのは今のトレンドじゃないんだよな」

 

男は、まるで出来の悪い商品を突き返すように、パタパタとシートで自分の肩を叩いた。

その仕草の一つ一つが、彼女の尊厳を軽んじているようで、俺の神経を逆撫でする。

 

「もっとこう、都会的で洗練されたキャラじゃないと、中央じゃ売れないよ。わかる? 君が目指すべきは、地方の泥臭さじゃなくて、スマートな強さだ。まずはその訛りと、田舎っぽい振る舞いを直すところからだね」

 

「……は、はい。ご指摘、ありがとうございます」

 

彼女は深く頭を下げた。

だが、その顔は上がらない。握りしめた拳が微かに震えている。

 

「ですが、私は……ロコドルとして、地元の魅力を発信することを目標としておりまして。その、コンセプトの変更は……」

 

「だから、それが甘いって言ってるの。君、勝ちたくないわけ?」

 

「か、勝ちたいです! 誰よりも速くなりたいです! でも、それが苫小牧のPRに繋がらなければ……私は……」

 

彼女の真面目さが仇になる。

言われた通りに都会的で洗練されたキャラを目指すべきだという正論と、自分の根底にある郷土愛との板挟み。

その矛盾に引き裂かれそうになりながら、それでも彼女は必死に食い下がろうとしていた。

 

だが、エリートトレーナーは冷酷に告げる。

 

「二兎を追う者は一兎をも得ず、だよ。君のそれは、ただのワガママだ」

 

脳裏のノイズが、警報音に変わった。

バッドエンドの映像が、鮮明さを増してフラッシュバックする。

 

――ああ、そうか。

――ここから、間違い始めていたのか。

 

彼女が今、無理やり頷こうとしているその先は、断崖絶壁だ。

画面の向こうなら「あーあ」で済むけれど、ここは現実で、目の前には生きた彼女がいる。呼吸をして、体温を持った、これから走り出すはずの少女がいる。

 

それを見殺しにするのか?

お前は、あの悲しい結末をもう一度見るために、ここに来たのか?

 

強烈な拒否反応が、胃の腑から喉元まで駆け上がった。

理屈じゃない。

俺の魂に刻まれた知識が、その選択を全力で否定していた。

 

 

「……そっちじゃ、ない」

 

 

思考よりも先に、音が漏れていた。

目の前の信号が赤に変わった瞬間、反射的にブレーキを踏み込むような、純粋な拒絶。

そこに止めようという明確な意思なんて介在していない。ただ、「違う」という事実だけが、喉の奥から絞り出された。

 

「……は?」

 

エリートトレーナーが眉をひそめて振り返る。

ホッコータルマエも、前髪の白い流星を揺らして、キョトンとした丸い瞳でこちらを見ている。

 

突き刺さる視線。

そこでようやく、俺の脳みそが状況に追いついた。

 

(……え?)

 

今、喋ったのは俺か?

自分の口元に手をやる。熱い。唇が乾いている。

 

――ああ、やってしまった。

ヨレヨレのダウンジャケットを着た部外者が、エリートたちの会話に水を差してしまった。

最悪だ。心臓が早鐘を打っている。脇の下から冷や汗が流れるのがわかる。

 

「な、なんですか君は。部外者は立ち入り禁止の……」

 

トレーナーが露骨な不快感を露わにする。

当然だ。謝って逃げるべきだ。

今ならまだ、「すみません、独り言です」と言って走り去れば、変な奴だったで済むかもしれない。

 

なのに。

一度正解を口にしてしまった口は、もう止まってくれなかった。

俺の網膜に焼き付いた、あの日の彼女の涙が、俺に逃げることを許さなかった。

 

「……逆、なんです」

 

俺は視線を泳がせながら、震える声で言葉を継いだ。

逃げたいのに、彼女を崖から引き剥がさなきゃという本能だけが、俺をその場に縫い止めていた。

 

「逆?」

エリートトレーナーが怪訝そうに聞き返す。

 

「え、ええ。その……都会に染まったら、埋もれるだけです」

 

自分でも驚くほど、声が上ずっていた。

でも、言葉の内容だけは確信に満ちていた。それは俺の意見じゃない。未来の記(データ)だからだ。

 

「彼女の武器は、その……『とまこまい』なので。無理に洗練させるんじゃなくて、その泥臭さを……じゃなくて、郷土愛を、もっと全面に出すべきで……」

 

「はあ? 何を根拠に……」

 

「根拠というか、その……」

 

俺は必死に言葉を探した。

未来を知っています、なんて言えるわけがない。

俺の視線が、彼女のエントリーシートの備考欄に吸い寄せられる。そこには小さく、『趣味:苫小牧のPR活動』『特技:苫小牧クイズ、山登り』と書かれていた。

 

「……それが、一番の差別化になるからです」

 

苦し紛れに、ビジネス用語っぽい言葉を選んだ。

その瞬間、タルマエの耳がピクリと反応した。

 

「差別化……?」

 

「ええ。中央には、洗練されたエリートなんて山ほどいます。その中で埋没しないためには、強烈な個が必要です。彼女の『とまこまい』への熱量は、それだけで強力なフックになる。……ファンは、そういう一貫性のある物語に惹かれるんです」

 

俺は早口でまくし立てた。

オタク特有の早口だ。自分でも気持ち悪いと思う。

だが、タルマエは俺の言葉を嘲笑わなかった。むしろ、その瞳に真剣な光を宿し、俺を凝視していた。

 

「……一貫性のある、物語。……フックになる……」

 

彼女はブツブツと反芻している。

彼女は真面目だ。

俺の感情論を、彼女なりに「ロコドルとしての戦略」として咀嚼しようとしているのだ。

 

「それに、彼女が一番輝くのは、故郷を背負って走る時です。それを捨てさせるのは、エンジンの燃料を捨てさせるのと同じだ!」

 

エリートトレーナーは呆れ果てたようにため息をついた。

そして、値踏みするように俺のヨレヨレのダウンジャケットと、首から下げたパスを交互に見る。

その視線には、隠そうともしない侮蔑の色があった。

 

「……ふん。どこのチームの人間か知らないけど、無責任なことを言うね。まあいいや」

 

彼は興味を失ったように、タルマエに向き直ることなく手を振った。

 

「君には縁がなかったってことで。そういう地味な方針がお好みなら、そこの彼に見てもらえばいい」

 

捨て台詞を残し、彼は踵を返して去っていった。

コツコツと響く革靴の音が遠ざかっていく。

 

あとには、気まずい沈黙と、取り残された二人だけが残った。

 

(……終わった)

 

俺は天を仰ぎたかった。

完全にやらかした。目立ちたくなかったのに。

これで俺は、学園のエリート層から変な奴としてマークされたかもしれない。

いや、それ以前に彼女のチャンスを一つ潰してしまったのだ。

 

「あの……」

 

恐る恐る、といった声が聞こえた。

ビクリとして視線を戻すと、ホッコータルマエが俺を見つめていた。

怒っているだろうか。勝手なことを言って、キャリアの邪魔をしたのだから。

俺は慌てて頭を下げる。

 

「す、すみません! 横から口出しして……邪魔しました」

 

「い、いえ! 謝らないでください!」

 

彼女は慌てて手を振り、そして一歩、俺に近づいてきた。

その瞳の色は、先ほどの死んだような従順さとは違い、明確な熱量と知性を帯びていた。

 

「その……今の話、もう少し詳しく聞かせていただけませんか?」

 

「え?」

 

「『とまこまい』が武器になる、というお話です。私、ずっと悩んでいたんです。郷土愛は私のエゴなんじゃないか、勝負の世界には邪魔なノイズなんじゃないかって。……でも、あなたはそれを差別化だと言ってくれました」

 

彼女は胸に手を当て、真剣な表情で続ける。

 

「私の……『とまこまい』を推したいという気持ちが、ファンの心をつかむ物語になる。……本当に、そう思われますか?」

 

試されている。

いや、確認しようとしているのだ。

彼女は自分の進むべき道を、論理的に、そして感情的に肯定してくれる誰かを探していた。

前の世界では、それがいなかった。

でも今は、俺がいる。

 

俺は、無意識にダウンジャケットのポケットの中で拳を握った。

ここで「適当なことを言いました」と言うのは簡単だ。そうすれば、俺はまたモブに戻れる。

でも、目の前の彼女は、俺の言葉を待っている。

 

「……本当です」

 

気づけば、俺は彼女の目を見ていた。

 

「君の『とまこまい』への愛は、強力な武器になります。ただの地元自慢じゃない。君が走り、勝つことで、その背中にある故郷が輝く。……ファンは、そんな君の生き様を応援したくなるはずです。俺は……そう思います」

 

タルマエの表情が、パァッと輝いた。

それは、前の世界の悲しいライブでは一度も見られなかった、心からの笑顔だった。

 

「トレーナーさん……! ありがとうございます。私の中で、霧が晴れたような気がします!」

 

「ま、まあ、俺はただのファン……みたいなものですから」

 

「ファン? でも、すごく詳しいですよね。あ、もしかしてトレーナーさんも苫小牧出身なんですか?」

 

「いや、出身ってわけじゃ……」

 

出身ではない。

ただ、君のことが好きで、君の聖地巡礼のために何度も足を運んだだけだ。

そんな気持ち悪い事実は伏せて、俺は曖昧に誤魔化す。

 

「……以前、仕事で何度か。駅前のマルトマ食堂のホッキカレー、美味いですよね」

 

俺が何気なく挙げた固有名詞に、彼女は目を見開いた。

 

「えっ!? マルトマ食堂ご存知なんですか!? あそこのホッキカレー、なまら美味しいですよね! 肉厚で甘みがあって……朝早く行かないと並ぶんですけど、並ぶ価値あるっていうか!」

 

食いつきがすごい。

「なまら」という方言が自然に出るほど、彼女のテンションが上がっている。

 

「あと、緑ヶ丘公園の展望台もいいですよね! 夜景が綺麗で!」

「ああ、工場の灯りが一望できてね」

「そうですそうです! 工場夜景は苫小牧の隠れた名スポットですから! わあ、嬉しいなあ……こんなに苫小牧の話が通じるトレーナーさん、初めてです!」

 

彼女は嬉しそうに尻尾をブンブンと振っている。

その無邪気な姿を見ていると、脳裏にこびりついていたノイズが、少しだけ薄れていくような気がした。

 

……ああ、これだ。

俺が見たかったのは、この笑顔だ。

作り笑いじゃない、都会ぶった澄まし顔じゃない、等身大の彼女の笑顔。

 

しばらく故郷トークで盛り上がったあと、ふと彼女が真剣な表情に戻った。

先ほどまでの興奮を静め、居住まいを正す。

その切り替えの早さは、彼女の真面目さの表れだ。

 

「……あの、トレーナーさん」

 

「はい?」

 

「もしよかったら……私の、担当になってもらえませんか?」

 

予想していた言葉。

けれど、実際に言われると、心臓が跳ね上がる。

 

「……え」

 

「私、トレーナーさんとなら、頑張れる気がするんです。私の目指す『ロコドル』としての在り方を、誰よりも理解してくださっている気がして……それに」

 

彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。

 

「さっき庇ってくれた時、すごく嬉しかったんです。私の『とまこまい』を否定しないでくれて、ありがとうございました」

 

真っ直ぐな瞳。

その瞳に映っているのは、ヨレヨレのダウンジャケットを着た、冴えない男だ。

エリートでもない、天才でもない。ただ、「バッドエンドの回避方法」という攻略情報を知っているだけの、ズルい大人。

 

俺は視線を逸らした。

 

「……俺で、いいんですか? 見ての通り、俺はエリートじゃない。実績もないし、こんな安っぽい服しか着てないような奴ですよ」

 

これは謙遜じゃない。事実だ。

俺が彼女の隣に立つことで、彼女の評価まで下がってしまうかもしれない。

普通なら、ここで断って、もっとまともなトレーナーを探させるべきだ。

 

だが、彼女は首を横に振った。

 

「服なんて関係ないです。……それに」

 

彼女は少し悪戯っぽく笑って、俺のダウンジャケットを指差した。

 

「そのダウン、温かそうじゃないですか。私は、寒がりなので。……それに、なんだか苫小牧の漁師さんみたいで、安心感があります」

 

漁師さん、か。

おしゃれとは程遠いが、彼女にとっては最高の褒め言葉なのかもしれない。

 

俺は言葉を詰まらせた。

断る言葉が見つからない。

それに、もしここで俺が手を離したら、彼女はまたあのアホなエリートの元へ戻り、あの悲しい未来へ一直線に進んでしまうかもしれない。

それだけは、絶対に避けなきゃいけない。

 

(……やるしか、ないのか)

 

自分がトレーナーとして何ができるかなんて分からない。

パスが本物かどうかも怪しい。

すぐに「やっぱ無理でした」と逃げ出すことになるかもしれない。

それでも、今、ここで頷けるのは俺しかいない。

 

俺はバインダーを抱え直し、腹を括った。

いや、括れてなんていない。心臓はバクバクしているし、膝も笑っている。

ただのやけっぱちだ。

 

「……わかりました。契約、お受けします」

 

その瞬間、俺の中の何かが音を立てて切り替わった。

それは、ただのファンという安全地帯から、当事者という戦場へ踏み込む音だった。

 

――Trainer: Minato

 

「本当ですか!?」

 

「あ、でも期待しないでくださいよ! 俺、本当に何の実績もないただの……ファンみたいなもんですから。すぐクビになるかもしれないし」

 

精一杯の予防線を張る。

俺はすごい奴じゃない。ただの詳しいおじさんだ。そこだけは勘違いしないでほしい。

君が輝き出して、本物のトレーナーが必要になったら、俺はすぐに身を引くつもりだ。

俺はあくまで、君を正史へ送り届けるまでの中継ぎなのだから。

 

しかし、タルマエはそんな俺の情けない言い訳なんて聞いていなかった。

彼女はパァッと表情を輝かせ、勢いよく俺の手を握りしめた。

 

「はい! よろしくお願いします、トレーナーさん! 私、絶対に『とまこまい』の星になってみせますから! 二人三脚で、けっぱるべ!」

 

「う、うん……けっぱろう……」

 

彼女の手は、驚くほど温かくて、強かった。

モニター越しには決して感じられなかった、生きた体温と握力。

その熱が、俺に現実を突きつけてくる。

 

(とんでもないことになっちまった……)

 

こうして、俺たちの奇妙な二人三脚が始まってしまった。

地方から中央へ。

地味で泥臭い、でも誰よりも熱いダートの頂点へ。

 

この先どうなるかなんて、まるで分からない。

夢なら覚めてほしいし、現実ならあまりに荷が重い。

ただ、彼女の隣にいられる今だけは、悪い気分じゃなかった。

 

ふと、近くにあったガラス窓に、俺たちの姿が映り込んだ。

 

 

 

▪ ▪ ▪

 

 

 

笑顔のタルマエの隣。

そこに映る俺の姿だけが、なぜか少し、ピンボケしているように見えた。

 

 

――[System]: Warning. Identification instability detected.

 

 

(……乱視か? 眼鏡、合わなくなったのかな)

 

俺は目をこすり、その違和感を見て見ぬふりをした。

今はそれどころじゃない。

俺は、とんでもなく重いバトンを受け取ってしまったのだから。

 

窓の外では、冷たい風が吹き始めていた。

俺は無意識にダウンジャケットの前を合わせる。

彼女が「温かそうだ」と言ってくれた、このヨレヨレの防寒着だけが、今の俺を守る唯一の鎧だった。

 

前の世界で、彼女は忘れられた。

空席だらけのライブで、たった一人、「ごめんなさい」と震えていた。

あの時、画面の前の俺には何もできなかった。

 

けど、今度は違う。

 

俺だけは、忘れない。

たとえ、世界が君を忘れても。

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