世界が君を忘れても [旧題:完成する君と未完成な僕] 作:ねじぇまる
――Trainer: Minato
事務的な手続きは、驚くほどあっけなく終わった。
学園の管理棟にある窓口。無機質なカウンター越しに、俺は震える手で記入した契約書を提出した。
トレーナー名、湊明良。担当ウマ娘、ホッコータルマエ。
その文字のインクが乾いていくのを眺めながら、俺は自分が取り返しのつかない川を渡ってしまったことを痛感していた。
「……はい、確認いたしました。湊トレーナー、ホッコータルマエさん。本日付でチーム結成を承認します」
事務員の女性が事務的に告げ、エンターキーを叩く。
カチャッ、という乾いた音が響いた瞬間、俺の背筋を冷たいものが駆け抜けた。
――[System]: New Entry Registered. Consistency check... Skipped.
耳鳴りか?
いや、違う。脳の奥で、何かが軋むような音がした。
まるで、本来そこにあるはずのない異物がシステムに混入した瞬間の、世界そのものが上げる悲鳴のようなノイズ。
俺は思わず眉間を押さえたが、隣にいるタルマエは満面の笑みを浮かべていた。
「やりましたね、トレーナーさん! これで正式にチームとまこまい、始動です!」
「……ああ、そうだね。チーム……とまこまい?」
「はい! 今考えました。どうでしょう、響き的に!」
「うん、まあ……わかりやすくていいんじゃないかな」
彼女の圧倒的な「生」のエネルギー。高解像度の笑顔。
その輝きの横に立つと、自分の輪郭が希薄になっていくような感覚に襲われる。
俺は無意識に、着古したダウンジャケットの襟をかき合わせた。この薄汚れたナイロンの感触だけが、俺がここに存在している唯一の
「さて、と。……じゃあ早速だけど、今後のトレーニング方針について話そうか」
俺たちはカフェテリアの隅の席を確保した。
周囲には、スマートなタブレット端末を操りながら、科学的なトレーニング理論を熱心に語り合うエリートトレーナーたちの姿がある。
そんな中、俺はヨレヨレのダウンジャケットのポケットから、一冊の大学ノートを取り出した。
前の世界から持ち込んだ、俺の血と汗と涙の結晶。
あらゆるウマ娘の育成データ、適性、そして「もしも」の可能性を書き殴った、通称「攻略ノート」。
そのページをめくり、真っ白な新しいページに「ホッコータルマエ」と書き込む。
俺は32歳だ。体力もないし、専門的なトレーナー教育も受けていない。
今の俺にあるのは、このノートに詰まった「未来の知識」と、ファンとしての「解釈」だけ。
ならば、それをフル活用して戦うしかない。この世界が俺を異物として排除しようとする前に、彼女を「完成」させなければならない。
「タルマエ。君の目標は『とまこまい観光大使』として有名になり、故郷を盛り上げることだったね?」
「はい! 苫小牧の良さを、全国の人に知ってもらいたいです! そのために、私はもっと強く、もっと有名にならなきゃいけないんです」
「そのためには、まずレースで勝たなきゃいけない。これは絶対条件だ。勝てばメディアに取り上げられる。ウイニングライブのセンターに立てば、そこで君が『とまこまい』をアピールする時間も増える」
至極まっとうな理屈だ。
タルマエは真剣な表情で、コクコクと頷いている。
手元にはメモ帳とペン。彼女のこういう勤勉なところは、本当に好感が持てる。
「そこでだ。君のデビュー戦までのトレーニングメニューを考えてきた」
俺はバインダーに挟んだ一枚の紙を彼女に見せた。
そこに書かれた内容を見た瞬間、タルマエの手が止まった。
丸い瞳が、さらに丸くなる。
「えっと……トレーナーさん? これ……」
「不満か?」
「いえ、不満というか……その、字が読みづら……じゃなくて、内容が……」
彼女は戸惑いながら、その項目を読み上げた。
「……『市内全域への観光チラシ配り(ダッシュ)』、『ダートコース最深部・砂浜想定ランニング』、『ハスカップ摘み動作によるスクワット』……?」
彼女の声が次第に小さくなっていく。
当然だ。中央のトレセン学園で行われている、最新科学に基づいたトレーニング理論とはかけ離れている。
まるで昭和のスポ根漫画か、あるいは地域の町内会のボランティア活動だ。
「あの、これ……トレーニングなんですか? ロコドル活動の一環とかではなく?」
「大真面目なトレーニングだ」
俺はキッパリと言い切った。
内心では「ごめん、俺もどうかと思う」と冷や汗をかいているが、表面上は自信満々な敏腕トレーナー(偽)の仮面を被る。
「いいかい、タルマエ。君の適性はダート……つまり砂の上を走ることだ。芝と違って、ダートは足を取られる。パワーとスタミナ、そして何より『忍耐力』が必要なんだ」
俺はもっともらしい理屈を並べ立てる。
「チラシ配りは、一軒一軒、確実に足を止めては走り出すインターバルトレーニングになる。しかも、断られてもめげずに笑顔で配り続けることで、レース中の苦しい展開でも心を折らないメンタルが鍛えられる」
「め、メンタル……!」
「そして、砂浜想定ランニングだ。これは学園のダートコースを使うが、整備された中央(コース)は走らせない。コースの一番外側、あるいはバンカー……誰も走らない、砂が深くて重い場所だけを選んで走ってもらう」
「砂が深い場所だけ、ですか?」
「そうだ。エリートたちは脚を取られるのを嫌って避ける場所だ。だが、そこを『苫小牧の海岸』だと思って走れ。足元が埋まる感覚、前に進まない焦り……それをねじ伏せるパワーを身につけるんだ」
実践的な負荷と、精神的な意味付け。
前の世界で、彼女が伸び悩んだ原因の一つは「スマートに走ろうとしすぎた」ことにあった。
彼女の本質は、泥臭く、地味で、それでも一歩ずつ前に進むひたむきさにある。
その在り方を肉体に刻み込むには、洗練されたジムのマシンよりも、こういう泥臭い特訓の方が合っている――と、俺の攻略ノートは告げていた。
「どうだ? キツいと思うが、やれるか?」
俺が問うと、タルマエは少し考えてから、顔を上げた。
その瞳に、迷いはなかった。
むしろ、「戦略的意義」を見出したかのように、キリッとした光を宿している。
「なるほど……一見奇抜に見えますが、理にかなっています。ロコドル活動と基礎体力作りを同時に行い、さらにダートに必要な足腰も養う……効率的なタイムパフォーマンスです!」
「え、あ、うん。そう、タイパがいいんだよ」
まさかそこまで肯定的に受け取られるとは思っていなかったが、彼女の解釈能力に感謝する。
「やります! 私、苫小牧のためなら、なんだってやります! けっぱるべ!」
「よし、いい返事だ。……じゃあ、まずはこれだ」
俺は足元に置いてあった段ボール箱をドンと机に置いた。
中には、俺がコンビニのコピー機で夜なべして印刷した、手作りのチラシがぎっしりと詰まっている。
タイトルは『ようこそ! 北の玄関口・苫小牧へ!』。
白黒印刷だが、情熱だけは込められている。
「えっ、これトレーナーさんが作ったんですか? すごい……ウトナイ湖の写真に、マルトマ食堂の営業時間まで! これ、完璧なガイドマップじゃないですか!」
「まあな。……さあ、行くぞ。まずは学園内から攻略だ」
▪ ▪ ▪
――Heroine: Hokko Tarumae
トレーナーさんとの日々は、想像以上にハードでした。
もっと座学でレース展開を学んだり、フォームのチェックをしたりするものだと思っていました。
でも、実際に始まったのは、学園の敷地内を駆け回りながら、すれ違うウマ娘やトレーナーさんたちにチラシを配るという、奇妙なトレーニングでした。
「こ、こんにちは! ホッコータルマエです! これ、私の故郷の紹介なんですけど、よかったら読んでください!」
私は大きな声で挨拶をして、チラシを差し出します。
トレーニングウェアではなく、学校指定のジャージ姿。それも、袖を捲り上げて、汗だくになりながら。
受け取ってくれる子もいれば、怪訝な顔をして通り過ぎる人もいます。
「え、なにこれ? 苫小牧? ……ふーん」
「あの子、デビュー前の子だよね? なんでチラシ配りなんかしてるの?」
「なんか変わったトレーナーがついたらしいよ。いっつもヨレヨレの服着たおじさん」
背中越しに、クスクスという笑い声が聞こえてきます。
耳が良いウマ娘には、聞きたくない声まで聞こえてしまうのが辛いところです。
恥ずかしくないと言えば、嘘になります。
周りのみんなは、綺麗なブランドもののウェアを着て、最新鋭のターフを颯爽と走っているのに。
私だけ、泥臭い営業活動みたいなことをしているなんて。
でも。
「ほらタルマエ、腰が高いぞ! 断られた時こそ、背筋を伸ばして笑顔だ! ロコドルスマイル!」
少し離れたところから、湊トレーナーさんが声を張り上げています。
あのダウンジャケット。
みんなは「ヨレヨレ」って笑うけど、私は知っています。
トレーナーさんが、私と一緒に走り回って、私よりも汗をかいていることを。
私が断られて落ち込みそうになると、絶妙なタイミングで駆け寄ってきて、「今の笑顔、良かったぞ。あの子、チラシを一瞬見たろ? 興味を持った証拠だ」って、前向きな分析をしてくれることを。
(トレーナーさんは、本気だ)
あの日、「都会に染まったら埋もれる」って言ってくれた目。
あの目は、私以上に私のことを信じてくれていました。
だったら、私が疑っちゃダメだ。
これはただのチラシ配りじゃない。
苫小牧のファンを一人でも増やすための活動であり、私の「地道に進む力」を鍛えるためのトレーニングなんだ。
「はいっ! ――こんにちは! 苫小牧、美味しいものいっぱいですよー! ホッキカレー食べたことありますかー!?」
私は声を一段階大きく張り上げて、次のウマ娘へと駆け出しました。
そして、チラシ配りが終われば、今度はダートコースです。
みんなが走る綺麗にならされたコースの内側ではなく、わざとフェンス際、砂が吹き溜まっている深い場所を走ります。
足がズブズブと沈み込み、思うように前に進みません。
「そこを苫小牧の冬の海岸だと思え! あるいは雪道だ! 一歩一歩踏みしめないと転ぶぞ!」
「は、はいっ! けっぱるべ……!」
太ももがパンパンに張っています。息も苦しいです。
でも、不思議と嫌じゃありませんでした。
一歩踏み出すたびに、地面を蹴る感覚が強くなっていく気がしました。
これが、トレーナーさんの言う「ダートの走り」の基礎なのかもしれません。
そうして一週間、二週間と過ぎていきました。
最初は笑っていた周りの目も、少しずつ変わってきました。
「あの子、毎日やってるね」「根性あるじゃん」と、声をかけてくれる先輩も増えました。
リッキーやアキュートさんからは「またやってるの~? 風水的にも継続は力だよ!」なんて応援(?)ももらいました。
そして何より、私自身の身体つきが変わってきました。
鏡で見ると、太ももの筋肉が一回り大きくなって、地面を踏みしめる時の安定感が増しているのがわかります。
「仕上がってきたな」
デビュー戦の前日。
いつものようにチラシ配りを終えた夕暮れ時、トレーナーさんが満足そうに言いました。
手には空っぽになった段ボール箱。
私たちは、学園中のほとんどの人に配り終えていました。
「明日は雨の予報だ。
「雨……ですか」
私は空を見上げました。
どんよりとした雲が垂れ込めています。
雨のレース。泥が跳ねるし、視界は悪いし、走りにくいことばかりです。
普通なら、不安になるところです。
でも、トレーナーさんはニヤリと笑いました。
「チャンスだぞ、タルマエ。周りの綺麗なウマ娘たちは、泥を嫌がる。フォームを崩す。でも、君は違う」
彼は私の、泥と埃で汚れたシューズを指差しました。
毎日、砂の深い場所を走り回って、すっかり薄汚れてしまったトレーニングシューズ。
「君はこの一ヶ月、誰よりも泥臭いことをやってきた。雨も泥も、君の友達だ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなりました。
ああ、そうか。
この奇妙なトレーニングは、全部明日のためだったんだ。
私が「地味」だとか「田舎っぽい」とか言われている部分を、最強の武器に変えるための準備だったんだ。
「はい! 私、泥んこなんてへっちゃらです! 苫小牧の漁師さんは、嵐の中でも船を出すんですから!」
「その意気だ。……よし、今日はもう上がろう。明日に備えて、マルトマ食堂のカレー……は無理だから、俺特製のカレーをご馳走するよ」
「えっ、いいんですか!? やったー! もしかして、隠し味にハスカップジャムとか……?」
「いや、普通のバーモントカレーだけど」
「あ、はい。……ですよね」
私たちは並んで帰路につきました。
夕日に照らされたトレーナーさんの影は、頼もしく伸びていました。
でも、ふと気になりました。
なんだか、トレーナーさんの影だけ、少し色が薄いような……?
輪郭が滲んでいるというか、アスファルトの染みと同化しているような。
「ん? どうした?」
「あ、いえ! なんでもないです! ……楽しみだなー、カレー!」
気のせいですよね。
私は首を振って、トレーナーさんの背中を追いかけました。
その背中のダウンジャケットが、なんだかとても温かそうに見えて、私は自然と歩幅を合わせました。
▪ ▪ ▪
――Trainer: Minato
そして迎えたデビュー戦当日。
予報通りの大雨だった。
パドックには、指定の汎用体操服を着たウマ娘たちが周回しているが、その表情は一様に暗い。
バシャバシャと音を立てるほどの豪雨。足元はぬかるみ、至る所に水たまりができている。
良血統のエリートお嬢様たちにとって、この環境は不快以外の何物でもないだろう。
だが、その中で一人だけ、平然としているウマ娘がいた。
『一番人気、ホッコータルマエ。少し緊張しているようですが、気合十分といった表情です』
実況の声が響く。
タルマエは、俺が指示した通り、敢えて水たまりのある場所を選んで歩いていた。
泥が跳ね、靴下が汚れる。
隣を歩いていた別のウマ娘が「うわっ」と露骨に嫌な顔をして避けたが、タルマエは気にも留めない。
むしろ、足元の感触を確かめるように、しっかりと踏みしめている。
(いいぞ。その調子だ)
俺はスタンドの片隅、傘もささずにフェンスにしがみついていた。
ダウンジャケットはずぶ濡れになり、重く冷たく肌に張り付いている。
寒気で歯が鳴りそうだが、そんなものはどうでもいい。
これは、俺たちが選んだ「間違い」が、世界に通用するかどうかの最初の試金石だ。
もしここで負ければ、やっぱり「都会派」にするべきだったという声が上がるだろう。俺のやり方は否定され、彼女はまたバッドエンドへの道を歩み始めてしまうかもしれない。
それだけは絶対に阻止しなければならない。
「ファンファーレが鳴り終わりました。各ウマ娘、ゲートイン完了!」
一瞬の静寂。
雨音だけがサーッと響く。
俺は息を止める。
頼む。証明してくれ。
君の「とまこまい」は、世界に通用するんだと。
ガシャン!
ゲートが開いた。
――[System]: Race Mode Initiated. Scenario Branching...
スタートは五分。
飛び出したのは、逃げを打つ一番枠のウマ娘。
しかし、最初のコーナーに入るところで、彼女の足取りが乱れる。
ぬかるんだダートに脚を取られたのだ。
バランスを崩し、失速する。後続のウマ娘たちも、前を走るウマ娘が跳ね上げる泥を嫌がり、顔を背けながら外へ外へと逃げようとする。
集団が外側に膨らむ。
誰もが内側の、一番泥が深いコースを避けている。
ぽっかりと空いたインコース。そこは、茶色い泥水が川のように流れる地獄だ。
だが――俺と彼女にとっては、そこは唯一の「ヴィクトリーロード」だ。
「行けッ! タルマエ!!」
俺の叫び声は雨音にかき消されたかもしれない。
だが、彼女には届いていた。
ホッコータルマエは迷わず、泥沼のインコースへ突っ込んだ。
バシャア! と激しい水しぶきが上がる。
顔面に泥が直撃する。普通なら目を瞑りたくなる状況。
けれど、彼女の目はカッ開かれたままだった。
(苫小牧の海風は、もっと冷たい!)
(チラシ配りと深い砂で鍛えた足腰は、こんな泥には負けない!)
彼女の心の声が聞こえるようだ。
フォームは低く、沈み込むようなストライド。
華麗さの欠片もない。
泥をかき分け、地面を鷲掴みにするような力強さ。
洗練とは程遠い、野暮ったい走り。
だが、速い。
外を回ってオタオタしているエリートたちを、内側からごぼう抜きにしていく。
第3コーナーから第4コーナーへ。
先頭に立つ。
泥だらけの体操服。顔も手足も真っ黒。
その姿は、まるで泥の中から生まれた戦乙女のようだった。
「そのまま! 押し切れえええええッ!!」
俺は喉が裂けよとばかりに絶叫した。
直線。
後続が必死に追いすがってくるが、タルマエの末脚は鈍らない。
むしろ、ゴールが近づくにつれて加速していく。
それは、彼女の中に眠っていた「ダートの才能」が、この悪条件によって完全に目を覚ました証拠だった。
1バ身、2バ身、3バ身。
圧倒的な差をつけて、彼女はゴール板を駆け抜けた。
「――ゴォォール!! 勝ったのはホッコータルマエ! 泥んこバ場を物ともしない、力強い走りでデビュー戦を制しました!」
実況が高らかに宣言する。
掲示板に「1着 ホッコータルマエ」の文字が灯る。
「……っ、よし……!」
俺はフェンスを強く握りしめたまま、力が抜けてその場にしゃがみ込みそうになった。
勝った。
俺たちのやり方は、間違っていなかった。
その事実が、凍えた身体を芯から熱くしてくれた。
コース上では、タルマエが息を切らしながら、こちらに向かって手を振っていた。
顔中泥だらけで、誰だかわからないくらいだ。
でも、その白い歯を見せて笑う表情は、世界中のどの宝石よりも輝いて見えた。
彼女は俺に向かって、親指を立てた。
そして、そのまま観客席に向かって、少しぎこちなく、でも堂々とポーズを決めた。
「とまこまい観光大使、ホッコータルマエだべ!」
まだ誰も知らない、彼女のキャッチフレーズ。
観客は一瞬呆気にとられ、次の瞬間、大きな拍手が湧き起こった。
▪ ▪ ▪
レース後の検量室前。
シャワーを浴びて泥を落とし、さっぱりしたタルマエが戻ってきた。
まだ髪は濡れているが、その表情は晴れやかだ。
「トレーナーさん! 見ましたか? 私、勝ちましたよ! 泥んこでも全然平気でした!」
「ああ、見たよ。最高にかっこよかった。……あの泥の中をあんなスピードで走れるなんて、やっぱり君はダートの申し子だ」
俺がタオルを渡すと、彼女は照れくさそうに笑った。
「えへへ……実は途中、前が見えなくて怖かったんですけど、トレーナーさんの『泥は友達』って言葉を思い出して……そしたら、不思議と力が湧いてきて。本当に、あのトレーニングのおかげです!」
「それはよかった。……さて、それじゃあ記念撮影だ。初勝利の記録を残さないとな」
俺はスマホを取り出した。
ウイニングライブ前の、慌ただしい時間。
背景は薄暗い廊下だが、そんなことは関係ない。
「はい、チーズ」
カシャッ。
二人並んで、ピースサイン。
俺は撮ったばかりの写真を確認する。
画面の中には、満面の笑みのタルマエと、その隣で少しぎこちなく笑う、ずぶ濡れのダウンジャケット男が写っていた。
「……うん、いい写真だ」
俺はそう言って、彼女に画面を見せた。
タルマエも「わあ、私ちょっと髪ボサボサですね」なんて笑っている。
ほっとした。
写真の中の俺は、ちゃんと写っている。
契約の時に感じたあの「ピンボケ」のような違和感はない。
輪郭もはっきりしているし、目鼻立ちもクリアだ。
(……やっぱり、あの時は疲れてただけか)
俺は内心で胸を撫で下ろした。
世界の修正力だとか、消失だとか、SFの見過ぎだ。
俺はここにいる。彼女の隣で、トレーナーとして存在を許されている。
その事実が、この写真に証明されている。
ただ。
俺が画像を拡大して、細部を確認しようとした時だった。
ふと、違和感を覚えた。
写真の俺の「目」だ。
タルマエの瞳には、撮影者である俺のスマホと、廊下の照明が綺麗に映り込んでいる。
生き生きとした、生命力を感じる瞳だ。
しかし、隣に写っている俺の瞳は。
黒く、濁っていた。
まるで、光を反射しない「穴」のように。
そこに映っているはずの景色が、吸い込まれて消えているような、底知れない暗さ。
それは生きた人間の目というよりは、精巧に作られた背景の一部のような無機質さを湛えていた。
――[System]: Minor data corruption detected in visual record. Processing...
「……トレーナーさん? どうかしました?」
タルマエが不思議そうに顔を覗き込んでくる。
俺は慌ててスマホをポケットにしまった。
「い、いや! なんでもない。……さあ、ウイニングライブだ。センターだぞ、行ってこい!」
「はいっ! まだ持ち歌はありませんけど、苫小牧の魂を込めて歌ってきます!」
彼女は元気に駆け出していった。
その背中は、ライトを浴びてキラキラと輝いている。
眩しいくらいの光。
俺は一人、薄暗い検量室の廊下に取り残された。
ポケットの中のスマホが、鉛のように重く感じる。
さっき見た、俺の「目」。
光を吸い込むような、あの黒い穴。
――[System]: Visual record saved. Correlation: 98%... Error.
脳裏に走るノイズを、俺は頭を振って追い払った。
考えるな。今は、勝ったんだ。
「……寒いな」
ずぶ濡れのダウンジャケットが、冷たく肌に張り付いている。
俺は襟元をかき合わせ、ジッパーを一番上まで上げた。
彼女が「温かそうだ」と言ってくれた、このボロボロの防寒着。
今の俺には、その頼りない温もりだけが、唯一の現実だった。