世界が君を忘れても [旧題:完成する君と未完成な僕]   作:ねじぇまる

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第3話 砂の上のアイドル

――Trainer: Minato

 

中央トレセン学園の朝は早い。

東の空が白む頃には、すでに蹄鉄が土を叩く音が響き始める。

ターフの緑が朝露に濡れて輝くその光景は、まさに「選ばれし者たちの聖域」と呼ぶにふさわしい清廉さに満ちていた。

 

だが、俺たちが向かうのは、そんな煌びやかなメインコースではない。

学園の敷地の外れ。あまり使用する者がおらず、雑草がまばらに生えかけた、旧式のダートコースのさらに奥。

通称「地獄の砂場」と呼ばれる、メンテナンス用のバンカーだ。

 

「よし、到着だ。……相変わらず、いい具合に荒れてるな」

 

俺はヨレヨレのダウンジャケットのポケットに手を突っ込み、その殺風景な場所を見下ろした。

足元のスニーカーが、砂埃で白く汚れる。

隣に立つホッコータルマエは、エンジ色のジャージの袖をまくり上げ、真剣な眼差しでその「砂の海」を睨みつけていた。

 

「トレーナーさん。今日のメニューは、ここを20周……でしたよね?」

 

「ああ。ただし、ただ走るだけじゃない。いいか、イメージするんだ」

 

俺はもっともらしく指を立てた。

正直、専門的なフィジカルトレーニングの理論なんて持ち合わせていない。俺にあるのは、未来の知識と、少しばかりの《こじつけ》だけだ。

 

「ここは府中じゃない。真冬の苫小牧、勇払(ゆうふつ)の海岸だ。足元は重い雪と砂利。吹き付ける風は氷点下。一歩踏み外せば、冷たいオホーツクの海にドボンだ」

 

「ひゃあ……! それは厳しいです!」

 

「だが、地元の漁師たちはそんな環境でも、歯を食いしばって網を引く。……そうだろ?」

 

俺が問いかけると、タルマエの表情が一変した。

怯えの色が消え、代わりに「郷土の誇り」という名の炎が瞳に灯る。

 

「……はい! その通りです! 苫小牧の漁師さんは、日本一カッコいいんです!」

 

「なら、その魂を脚に宿せ。スマートな走りは必要ない。泥臭く、地面を鷲掴みにするような走りで、この砂地獄を制圧するんだ」

 

「わかりました! 行ってきます!」

 

彼女は威勢よく返事をすると、深々と積もった砂の中へと飛び込んでいった。

ズボッ、ズボッ、と足が埋まる音が響く。

普通のウマ娘なら、足を取られてバランスを崩し、数歩で嫌気が差すような劣悪な路面だ。

だが、彼女は違った。

体幹を低く保ち、太ももの筋肉をフル稼働させて、一歩一歩、確実に砂を掻き出していく。

 

(……すごいな)

 

俺はバインダーに挟んだストップウォッチを押しながら、心の中で舌を巻いた。

俺の適当な精神論を、彼女は純粋なメンタリティで「物理的な駆動力」に変換してしまっている。

彼女の最大の才能は、この「信じ込む力」なのかもしれない。

 

▪ ▪ ▪

 

デビュー戦の勝利から数週間。

ホッコータルマエの快進撃は続いていた。

2戦目の500万下(1勝クラス)、3戦目のオープン戦。

条件戦をトントン拍子で勝ち上がり、その名は徐々にダート界に知れ渡りつつあった。

 

だが、学園内での扱いは、決して華々しいものではない。

掲示板やスポーツ新聞の一面を飾るのは、決まって(ターフ)を走る良血統のエリートたちだ。

華麗なフォームでレコードタイムを叩き出し、ライブでは洗練されたダンスを披露する彼女たちこそが、この世界の「主役」なのだ。

 

対して俺たちは、泥まみれになりながら地方の砂場を這い回る「脇役」。

記事になっても『泥んこのアイドル』『地方の根性娘』といった、色物扱いの見出しが躍るだけ。

それでもタルマエは、「記事に載っただけで、苫小牧の宣伝になります!」と喜んでいたが……俺としては、もう少し彼女を正当に評価してやりたいという焦りもあった。

 

「……38秒2。前回より縮めてきたか」

 

20周を走り終え、砂まみれになって戻ってきた彼女にタオルを渡す。

息は上がっているが、その目は死んでいない。

 

「お疲れ様。いい走りだったぞ」

 

「はぁ、はぁ……ありがとうございます! 途中、本当に冷たい海風を感じた気がして……負けるもんかって、必死でした!」

 

彼女はタオルで顔の泥を拭いながら、屈託のない笑顔を見せる。

この笑顔だ。

この笑顔を守るために、俺はこの世界にいる。

 

「さて、クールダウンを兼ねて、次のメニューだ。……今日は学園裏の『心臓破りの坂』でダッシュ20本。そのあと、商店街へ移動して『とまこまい通信 Vol.3』のポスティングを行う」

 

「はいっ! Vol.3は『ハスカップの効能と美味しいジャムの作り方』特集ですよね! 自信作なので、たくさんの人に配りたいです!」

 

「ああ。栄養価の高さをアピールして、健康志向の主婦層を狙う作戦だ」

 

「さすがトレーナーさん! マーケティングも完璧ですね!」

 

完璧なわけがない。

ただの、泥臭いドブ板営業だ。

今の時代、SNSで拡散したほうがよっぽど効率的だろう。

だが、俺にはわかっていた。今の彼女に必要なのは、画面の中の数字じゃない。自分の足で稼いだ「ファンとの繋がり」という実感と、それを支える強靭な足腰だ。

……というのは建前で、単純に俺がSNSの運用に疎く、炎上が怖くて手を出せていないだけなのだが。彼女はそれを「高度な戦略」と解釈してくれている。

 

「よし、移動しようか」

 

俺たちはバンカーを後にし、夕暮れに染まり始めた学園の敷地を歩き出した。

すれ違う生徒たちが、泥だらけのタルマエを見てギョッとした顔をする。

『あの子、またやってるよ』

『泥んこになって、あんなトレーニングして恥ずかしくないのかな』

そんなひそひそ話が、風に乗って聞こえてくる。

 

ふと気づいた。

囁きの主語は、すべて「あの子」だ。

『あの子』と『トレーナーさん』のセットではなく、『あの子』ひとり。

俺が隣にいることは——誰の目にも入っていないのだろうか。

 

俺は無意識に、タルマエを庇うように一歩前に出ようとした。

だが、彼女は気にした様子もなく、堂々と胸を張っていた。

 

「見られてますね、トレーナーさん!」

 

「あ、ああ……そうだな」

 

「注目されている証拠です! ここで私が胸を張っていれば、『苫小牧の子は元気だな』って思ってもらえますから!」

 

……強いな。

前の世界で、彼女が自信を失って俯いていた姿が嘘のようだ。

やはり、彼女の本質は「芯の強さ」にある。俺はただ、その芯が折れないように添え木をしているに過ぎない。

 

学園裏の長い坂道に到着する。

ここは傾斜がきつく、一般の生徒は避けて通る難所だ。

夕日が坂の上から差し込み、長い影を落としている。

 

「じゃあ、行きます!」

 

タルマエがスタートの構えをとる。

その時だった。

 

▪ ▪ ▪

 

「やっほー☆ こんなところで頑張ってる子、発見しちゃった!」

 

頭上から、場違いなほどに明るく、そしてとびきりキュートな声が降ってきた。

鈴を転がしたような、愛らしさと自信に満ちた声。

 

俺とタルマエは同時に顔を上げた。

坂の上。

ガードレールに腰掛け、夕日を背に足をぶらつかせているウマ娘がいた。

 

燃えるような夕日よりも鮮やかな、明るい栗毛。

特徴的な大きなリボンの髪飾り。

そして何より、そこにいるだけで周囲の空気を「自分のステージ」に変えてしまうような、圧倒的なキラキラオーラ。

 

見間違えるはずがない。

ダートグレード競走を総なめにし、地方レースの救世主と呼ばれた絶対王者。

そして、全てのウマドルの頂点に君臨するトップスター。

 

スマートファルコン。

 

「……! す、スマートファルコンさん……!?」

 

俺は思わず直立不動になり、声が裏返った。

まさか、こんな場所で雲の上の存在に遭遇するとは。

俺の攻略ノートには『この時期、彼女は地方巡業で忙しいはず』とあったはずだが、予定が変わったのか?

 

彼女はひらりとガードレールから飛び降りると、重力を感じさせない軽やかなステップで坂を下りてきた。

まるでステージの花道を歩くように。この人は常に「見られている」ことを前提に動いている。

 

そして、真っ直ぐにタルマエの前に立つと、キラキラと目を輝かせた。

 

「きみがホッコータルマエちゃんだよね!? ファル子、さっき砂場でトレーニングしてるの見てたんだ☆」

 

「え……見て、たんですか?」

 

「うん! すっごい走りだったよ! 泥んこになりながらガシガシ突き進んでてさ、もうなんかこう……グッときちゃって☆ 一目で気に入っちゃった!」

 

「あ、ありがとうございます! あの、私、ファル子さんのライブ映像を見て、ずっと憧れてて……!」

 

勢い余って前のめりになるタルマエ。

ファル子は少しも引くことなく、差し出された手をガシッと握り返した。

 

「いいよいいよー☆ 握手握手! うん、いい手だね! マメがいっぱいあって、すっごく努力してるんだ☆ ファル子、こういう手大好き!」

 

「は、はい……! 感激です……一生手を洗いません!」

 

「あはは、それは洗おうよ☆ アイドルは清潔感が大事だからね!」

 

二人は楽しそうに笑い合った。

新旧ダートアイドルの邂逅。

夕日に照らされたその光景は、一枚の絵画のように美しく、尊かった。

俺は少し離れた場所から、その様子を見守っていた。

邪魔をしてはいけない。これは彼女たちの時間だ。

 

「タルマエちゃん、手書きのチラシ配りもやってるんでしょ? 苫小牧の! ファル子、あれすっごく気になってたの☆」

 

「えっ、ご存知なんですか!?」

 

「うん! ファル子もね、手書きPOP作るの好きなんだ! 仲間だね仲間☆ 今度見せて見せて!」

 

「はい! もちろんです! Vol.3は『ハスカップの効能』特集で、イラストにもこだわったんですよ!」

 

「ハスカップ! あの紫のやつだよね? スイーツにも使えるって聞いたことあるー!」

 

タルマエの耳がピクリと動いた。

まずい。苫小牧トークのスイッチが入ってしまった。

 

「ハスカップはですね! 色よし味よし栄養よしの最強フルーツで! ジャムにしても美味しいし、スイーツにも万能で、しかも美容にもいいんです! 苫小牧では農家さんのところに手摘みに行けるんですけど、実が柔らかいから一粒ずつ丁寧に——」

 

「わあ、タルマエちゃん詳しいね~! すっごくキラキラしてる☆ ねえ、その話もっと聞きたいんだけど、今度ゆっくりお茶しながらでもいい?」

 

ファル子がそう言うと、タルマエはハッと我に返った。

 

「す、すみません! つい熱くなってしまって……」

 

「ぜーんぜん☆ 好きなものへの情熱って、一番のキラキラだと思うよ!」

 

ファル子はそう言って、ふとこちらを——俺のほうを向いた。

 

「トレーナーさんも、大変だよね☆ こんなに元気いっぱいな子を毎日見てるんでしょ?」

 

「ええ、まあ……退屈はしませんね」

 

「えへへ、でもいいコンビだと思うな☆ タルマエちゃんのトレーニング、泥臭いけどすっごく理に適ってるし。チラシ配りで足腰鍛えながらPRもするなんて、なかなか考えたなーって☆」

 

……見抜かれている。

いや、彼女はトップアイドルだ。草の根のドサ回りを誰よりも知っている人間が、俺たちの活動を「色物」ではなく「戦略」として評価してくれている。

 

「ただ、トレーナーさん」

 

「は、はい」

 

「そのダウンはちょっと……ウマドルを支えるスタッフとして、もう少しキラキラしたほうがいいかも☆」

 

ビシッと、ピンクのネイルが施された人差し指が俺のダウンジャケットを指した。

だが、その表情に嫌味はない。後輩の大切なパートナーを放っておけない、先輩としての善意がにじんでいた。

 

「夢を届ける仕事でしょ? スタッフさんもキラキラじゃなきゃ☆ ファル子のトレーナーさんなんて、いつだってファル子の横に立てるように、ビシッとしてるよ?」

 

自分のトレーナーへの信頼と、少しののろけ。

彼女の背後には、共に歩んできた優秀なトレーナーの姿が透けて見えるようだった。

 

「……善処します」

 

「ま、いっか☆ ダートを盛り上げてくれる仲間が増えるのは大歓迎だしね!」

 

ファル子はパンッと両手を合わせると、弾むような声で続けた。

 

「そうだ! タルマエちゃん、せっかくだからツーショット撮ろ☆ ファル子のウマスタにアップしてあげる! それと今度、コパノリッキーちゃんも紹介するから、みんなでダートウマ娘会しよ☆ キラキラしちゃおー!」

 

「えっ、いいんですか!? あのスマートファルコンさんのウマスタに!? やったー! お願いします!」

 

タルマエが大はしゃぎで自分のスマホを取り出す。

そして、当然のように俺の方を振り返った。

 

「トレーナーさん! すみません、シャッター押してください!」

 

「ああ、任せてくれ」

 

俺は一歩進み出て、スマホを受け取った。

 

「じゃあ、撮りますよ。はい、チーズ」

 

カシャッ。

 

画面の中には、輝く二人のアイドル。

夕日を浴びて、キラキラと発光するような存在感。

そしてその写真を撮っている俺は、当然ながらそこには写っていない。

ただの撮影係。ただの裏方。

 

「ありがとー、トレーナーさん☆ タルマエちゃん、またね! いいライブにしよーね、おー!」

 

「はいっ! ぜひお願いします!」

 

ファル子は大きく手を振り、夕日の中へ消えていった。

最後まで完璧に「ウマドル」だった。嵐のように来て、太陽のように照らして、春風のように去っていった。

そしてタルマエの目には、確かな憧れの光が灯っていた。

 

▪ ▪ ▪

 

「……すごい人でしたね」

 

「ああ。あれがトップアイドルだ」

 

「私もいつか、あんなふうに……ダートの上で輝けるようになりたいです」

 

彼女の横顔は、夕日に照らされて赤く染まっていた。

ファル子という太陽を間近で見て、自分もああなりたいと願う表情。

 

それは美しい光景だった。

だが、俺は同時に気づいていた。

太陽が眩しければ眩しいほど、影は濃く、深くなる。

そして影の中にいる者は——太陽からは見えない。

 

「……トレーナーさん? どうしました?」

 

「いや。……たいしたことじゃない」

 

俺はダウンジャケットの袖をポンと叩いた。

 

「それに、俺は君が輝くための踏み台みたいなもんだ。黒子が目立ちすぎちゃいけない」

 

俺がそう言うと、タルマエは少し悲しそうな顔をして、それから強く首を横に振った。

 

「違います」

 

「え?」

 

「トレーナーさんは、踏み台なんかじゃありません」

 

彼女は真っ直ぐに俺を見た。

ロコドルモードではない。キャッチフレーズも方言もない、素のホッコータルマエの声だった。

 

「私にとっては、一番の『パートナー』で、一番の『ファン』ですから」

 

その瞳には、俺の姿がしっかりと映っている。

ピンボケもしていない。ノイズも走っていない。

明確な輪郭を持った「湊明良」という人間が、そこにいた。

 

「……そっか。ありがとう」

 

俺は短く礼を言い、視線を逸らした。

これ以上見つめられると、泣きそうになってしまう気がしたからだ。

情けない大人だ。

 

「よし、休憩終わり! 坂道ダッシュの再開だ! ファル子さんに認められたふくらはぎ、もっといじめ抜くぞ!」

 

「はいっ! 望むところです! けっぱるべー!」

 

彼女は再び、気合の入った掛け声とともに坂道を駆け上がっていった。

その背中を見送りながら、俺は大きく息を吐いた。

 

足元を見る。

アスファルトに伸びる俺の影。

夕日に照らされて、長く伸びている。

 

——いや。

わずかに目を凝らして、違和感に気づいた。

隣にタルマエの影が長く伸びている。その影は坂の上まで力強く届いている。

だが、俺の影は。

同じ角度で同じ光を浴びているはずなのに、彼女の影より少しだけ——短い。薄い。まるで、光が俺の体を半分すり抜けているかのように。

 

(……気のせいだ)

 

俺は首を振り、坂道を見上げた。

タルマエの背中が、夕日の中で小さくなっていく。

 

今はまだ、俺はここにいる。

影が薄くても、誰かに見落とされても。

彼女だけは、俺を「パートナー」と呼んでくれる。

――それだけで、十分だろう。

今は、まだ。

 

――[System]: Update complete. Priority: "Idol" > "Trainer". Re-indexing memories...

 

風の音に混じって、何か無機質な電子音が聞こえた気がした。

俺は小指で耳をほじり、気のせいだと自分に言い聞かせる。

 

ただの耳鳴りだ。

最近、少し疲れが溜まっているのかもしれない。

今日は帰ったら、少し高めの栄養ドリンクでも飲んで、泥のように眠ろう。

明日はまた、ポスティングという名の戦いが待っているのだから。

 

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