世界が君を忘れても [旧題:完成する君と未完成な僕]   作:ねじぇまる

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第4話 渡り鳥の試練

――Trainer: Minato

 

朝の六時半。

栗東寮の薄暗い廊下に、規則正しい足音が響いている。

足音の主は俺ではない。俺はまだトレーナー室のソファで寝ぼけ眼をこすっている時間帯だ。

 

「……もう少し右。いや、右すぎた。もう一ミリ左……ここ? ここかな? ……うーん、違う」

 

足音は、タルマエの部屋から聞こえてくる。

彼女が何をしているかは聞くまでもない。帽子だ。

外出前に帽子の角度を納得いくまで整える——それが彼女のマイルールであり、毎朝の儀式だった。

 

「タルマエさん。あと三分で朝食の時間です」

 

同室のヴィルシーナの声が、冷静だが穏やかなトーンで響く。

 

「わっ、もうそんな時間!? あと少しだけ……!」

 

「……昨日も同じことを言っていましたね」

 

静かなため息。

俺がトレーナー室に向かう途中で偶然この光景を知ったのは三日前のことだが、どうやら毎朝の恒例行事らしい。

 

ヴィルシーナ。

タルマエの同室にして、芝の中距離路線で戦うエリートウマ娘だ。

容姿端麗、成績優秀。どこか貴族的な佇まいの彼女と、泥だらけのロコドルが同じ部屋で暮らしているというのは、なかなかにシュールな組み合わせだった。

 

「よしっ、決まった! 今日の角度、完璧です!」

 

タルマエが意気揚々と部屋を飛び出してきた。

白い帽子が、朝日を受けて柔らかく光っている。赤いラインがアクセント。前髪の白い流星がひと房、帽子の縁からのぞいている。

彼女にとって帽子は単なるファッションではない。ロコドルとしてのスイッチであり、鎧であり、看板だった。

 

「おはようございます、トレーナーさん! 今日もけっぱるべ!」

 

「おう。……ところでタルマエ、今日の予定覚えてるか?」

 

「はい! 午前中はとまこまい通信Vol.4のポスティング。午後は坂道インターバル。夜は明後日のレースに向けた最終調整……ですよね?」

 

「……完璧だ」

 

彼女はメモ帳を取り出してちらりと確認してから、満足げに頷いた。

俺の指示を一言一句メモに取るその几帳面さは、いつ見ても頭が下がる。俺自身の指示がどれだけ怪しいかを知っているだけに、余計に。

 

▪ ▪ ▪

 

午前。学園周辺の住宅街。

 

「こんにちは! とまこまい通信です! 今号はハスカップを使った美容法の特集で——」

 

タルマエが一軒一軒、丁寧にチラシを手渡していく。

Vol.4の特集は「ハスカップ美容法と、苫小牧の工場夜景ガイド」。表紙にはタルマエが自分で描いたハスカップのイラストが載っている。なかなかの画力だ。

 

驚いたことに、最近は受け取ってくれる人が増えていた。

「ああ、苫小牧の子ね」「前のジャムの作り方、試してみたのよ」——そんな声がちらほらと聞こえる。地道なドブ板営業が、少しずつ実を結び始めている。

 

「トレーナーさん! あの奥さん、Vol.2から読んでくれてるって言ってました! リピーターです!」

 

「おお、それは嬉しいな」

 

俺は曖昧に頷いた。

マーケティングの知識なんて皆無に等しい。固定ファンが大事だということくらいは、オタクとして直感的に知っているが、それ以上のことは何も言えない。

幸いタルマエは俺の相槌だけで勝手に前向きな解釈をしてくれるので、助かっている。助かっているが、心苦しくもある。

 

「……あの」

 

ポスティングの合間に、タルマエがふと足を止めた。

 

「トレーナーさん。明後日の……ジャパンダートダービーのこと、なんですけど」

 

「ああ」

 

「大井レース場ですよね。テレビ中継もある大きなレース。……ここで勝てば、苫小牧の名前が全国に届くと思うんです」

 

彼女の目が、じわりと熱を帯びる。

苫小牧トークのスイッチとは違う、静かで真剣な炎だ。

 

「私、このレースは絶対に勝ちたいです。条件戦とは違う。全国放送のGIで、センターのライブで、苫小牧を——」

 

「タルマエ」

 

俺は彼女の言葉を遮った。

正直、何を言うべきかわからなかった。攻略ノートには結果が書いてある。だがそれをどう伝えるかは、俺の貧弱なコミュニケーション能力に委ねられている。

 

「……走る前から、ライブのことを考えるな」

 

思いつきで口にした言葉だ。

だが、言ってから「あ、これは間違ってない気がする」と思った。

 

「ライブは勝ってから考えればいい。ゲートが開いたら、苫小牧のことも、PRのことも、全部忘れろ。……目の前の砂だけを見ろ」

 

「でも、苫小牧のためにこそ——」

 

「苫小牧のためにこそ、今は勝つことだけに集中するんだ」

 

我ながら、偉そうなことを言ったものだ。

俺は攻略ノートに書いてある「5着。物見をして位置取り失敗」という一行を知っているから言えているだけだ。この結果になる理由がわかっているんじゃない。結果だけ知っていて、原因を推測しているに過ぎない。

もし俺の推測が外れていて、本当の敗因が別のところにあったら——この助言は的外れもいいところだ。

 

タルマエは少し考え込むように俯き、それからゆっくりと顔を上げた。

 

「……わかりました。トレーナーさんの言う通りにします」

 

頷いてはいる。

だが、彼女の瞳にはまだ「苫小牧を背負う炎」が揺れていた。

たぶん、走り出したら忘れられない。それが彼女だ。

 

攻略ノートの「5着」という数字が、ポケットの中で鈍く重い。

 

▪ ▪ ▪

 

大井レース場。

東京の夜景を背景に浮かぶ、巨大なナイターレース場。

ジャパンダートダービーは、ジュニア級ダート路線の頂点を決めるGI級レースだ。

 

これまでの条件戦とは空気が違った。

観客の数、報道陣の数、出走ウマ娘たちの纏うオーラ。すべてが格上の世界だった。

 

「すごい……こんなにたくさんの人が……」

 

タルマエが息を呑む。

その目は、レース場の壮大さに圧倒されながらも、同時にキラキラと輝いていた。

 

(……まずいな、あの目)

 

俺は内心で焦った。

彼女の瞳に映っているのは、競走の舞台ではなく「PR会場」だ。こんなに大勢の前でライブができたら、苫小牧を知ってもらえたら——そんな思考が透けて見える。

だが俺に言えることはもう言った。これ以上何かできるかと問われると、正直自信がない。

 

出走受付に向かう。

俺がトレーナーIDをゲートにかざした。

 

ピッ——エラー。

 

「……?」

 

赤いランプが点滅する。

俺はもう一度、カードをかざした。

 

ピッ——エラー。

 

心臓が嫌な音を立てる。

三度目。今度はゆっくりと、確実にセンサーの上を通す。

 

ピッ——……ピッ。

 

緑のランプ。ゲートが開く。

 

「お通りください」

 

受付のスタッフが事務的に告げた。

何事もなかったかのように。たぶん、本当に何事もなかったのだろう。

機械の調子が悪いことなんて、日常茶飯事だ。

最近こういう小さな不具合が妙に多い気もするが——まあ、古い施設だし。

 

俺はポケットの中で拳を握り、先に進んだ。

 

▪ ▪ ▪

 

パドックでタルマエに最後の指示を出す。

 

「先行策で。スタートから3番手以内につけろ。最終コーナーで仕掛けて、直線で押し切れ」

 

言いながら、これで合っているのか内心ではまったく自信がなかった。

攻略ノートには「先行策」とだけ書いてある。具体的なペース配分も、仕掛けのタイミングも書いていない。そもそも俺はレース展開の読み方を体系的に学んだことがない。テレビで見た知識をそれっぽく並べているだけだ。

 

「はい!」

 

彼女の返事は元気だった。元気すぎるくらいに。

この人は俺の指示を「プロの分析」だと思って信頼してくれている。実態は「ノートに書いてあった結果から逆算した推測」でしかないのに。

 

「……気をつけてな」

 

「行ってきます! 苫小牧の名前、みんなに覚えてもらってきます!」

 

彼女は駆けていった。

背中に帽子の白が揺れる。赤いラインが、夜のライトに照らされてちらちらと光る。

 

(頼む……俺の推測が、的外れじゃありませんように)

 

祈るような気持ちで、俺はスタンドの隅に向かった。

 

▪ ▪ ▪

 

レースが始まった。

 

ゲートが開く。

タルマエは好スタートを切った——はずだった。

 

だが、第一コーナーを回る前に、彼女の視線が一瞬、スタンドへ向いた。

大勢の観客。テレビカメラ。煌びやかなネオン。

条件戦では見たことのない規模の「舞台」が、彼女の視界いっぱいに広がっていた。

 

その一瞬で、ポジションが崩れた。

 

先行集団から二馬身遅れ、中団に沈む。

タルマエは慌てて挽回しようとしたが、既にリズムが狂っていた。

最終コーナーを回った時には、前には4人のウマ娘が壁を作っている。

 

直線。

タルマエは必死に追い上げた。漁師の脚は嘘をつかない。地面を掻くような泥臭い走りで、一人、二人と差していく。

だが、先頭には届かない。

 

5着。

 

▪ ▪ ▪

 

検量室の前。

タルマエは俯いていた。

泣いてはいない。だが、顔が強張って、唇がわずかに震えていた。

 

「……5着じゃ、PRにはなりません」

 

その声は、いつもの元気な彼女とは別人のように静かだった。

 

「テレビに映るのは、せいぜい3着まで。5着なんて、誰の記憶にも残らない。……苫小牧の名前も、届かなかった」

 

俺は何も言わず、黙ってタオルを差し出した。

彼女はそれを受け取り、ぎゅっと握りしめた。

 

「……さっき言ったこと、わかった気がします。走る前からライブのこと考えるなって。……私、スタンドを見ちゃったんです。こんなにたくさんの人がいるんだって思ったら、ここでPRしなきゃって、焦っちゃって」

 

ノートに書いてあった通りだ。「物見をして位置取り失敗」——その「物見」の正体が、苫小牧への愛着だったとは。

推測が当たっていたことに安堵する一方で、彼女の悔しそうな横顔を見ていると、手放しでは喜べなかった。

 

「でも——」と、俺は言葉を探した。

 

攻略ノートには「力負けではない」とも書いてあった。だからたぶん、これは言ってもいい。

 

「お前は5着だった。だが、力負けじゃない。位置取りを間違えただけだ。……脚は最後まで動いていた。追い上げは見事だった」

 

たぶん、合っている。たぶん。

「力負けではない」というのがノートの記述なのか、俺の希望的観測なのか、もう自分でもわからなくなっている。だが、彼女には自信を持ってほしかった。

 

「タルマエ。お前が今日学んだことは、100回の条件戦よりも価値がある」

 

彼女が顔を上げた。

目が赤い。泣いてはいないが、泣く寸前だった。

 

「大舞台で浮足立った。それを知れた。次は同じ失敗をしない。……そうだろ?」

 

「……はい」

 

「なら、今日は合格だ。5着でも、合格」

 

タルマエはタオルに顔を埋めた。

数秒の沈黙。肩が一度だけ、小さく震えた。

だが、顔を上げた時、彼女の目にはもう涙はなかった。代わりに、静かだが確かな決意が灯っていた。

 

「……次のレースは、いつですか」

 

「来月。レパードステークス。新潟だ。重賞だぞ」

 

「重賞……」

 

「ここで勝てば、もう一段上のステージに立てる。その時こそ、センターのライブで存分にPRすればいい」

 

我ながら大きく出たものだ。ノートには「レパードS・1着」と書いてあるから言えているだけで、勝てる根拠を論理的に説明しろと言われたら、俺には何もない。

 

彼女は深く息を吸い、吐いた。

 

「わかりました。……次は、砂だけを見ます」

 

▪ ▪ ▪

 

その夜。

俺は大井レース場のスタンド裏のベンチに一人で座り、攻略ノートを開いていた。

 

『ジャパンダートダービー ── 5着。物見をして位置取り失敗。力負けではない』

 

その下に、俺は赤ペンで小さくチェックマークをつけた。

ノートに書いてある通りだった。5着。物見。力負けではない。

 

チェックマークをつけながら、奇妙な気分になった。

デビュー戦は大雨の中、3バ身差で圧勝した。あれは俺が「変えた」結果だ。

だが今回は——何もしなかった。結果はノートに書いてある通りになった。

 

そのことに、ほっとしている自分がいた。

ノートが正しいということは、この先も正しいということだ。次のレパードSは勝てる。その次も、その次も、ノートに従っていれば——

 

(……いや、待て)

 

それで、俺は何をしているんだ?

ノートに書いてある結果をなぞっているだけじゃないか。

「トレーナー」と名乗っておきながら、やっていることは攻略サイトを見ながらゲームをプレイしているのと大差ない。

 

彼女は俺を「プロのトレーナー」だと思って信頼してくれている。

だが俺がやっているのは、答えが書いてある問題集を見ながら「この問題の答えは5番だ」と教えているだけだ。

なぜ5番なのかは、俺にもわかっていない。

 

ノートの頁をめくる。

次のレース、レパードステークス。結果の欄には「1着」と書いてある。

……書いてある、はずだ。

 

俺は目を凝らした。

「1着」の文字は読める。だが、その横に自分で書き込んだメモの文字が、ほんの少しだけ薄い。

元々雑な字だからか。ボールペンのインクが薄かったのか。

 

ノートを閉じた。

深く考えるのはやめた。今日は疲れている。

 

▪ ▪ ▪

 

帰りの電車。

 

タルマエは窓際の席で、小さなメモ帳に何かを書いては消し、書いては消しを繰り返していた。

 

「……何やってるんだ?」

 

「あ、えっと……新しいキャッチフレーズを考えてるんです」

 

「キャッチフレーズ?」

 

「はい。今のやつ、ちょっとインパクトが弱いかなって。もっとこう、一発で覚えてもらえるような……」

 

彼女はメモ帳を俺に見せた。

そこには、達筆とは言い難い文字でいくつかの候補が並んでいた。

 

『苫小牧からきたハスカップの妖精、ホッコータルマエだべっ☆』

 

「……自分で妖精って言うのは、さすがにちょっと……」

 

「ですよね! じゃあこっちは?」

 

『苫小牧の海からこんにちは! ホッコーホキホキホッキガイ☆ ホッコータルマエだべ~♪』

 

「……爪痕は残りそうだけど、方向性が迷子な気がする」

 

「うーん、難しいなあ……。なんかこう、もっとシンプルで、でも苫小牧が入ってて、ロコドルっぽくて、覚えやすいの……」

 

彼女は真剣に悩んでいる。

ついさっき5着に沈んで打ちひしがれていたのが嘘のように、その横顔は前を向いていた。

 

俺は少し笑った。

声に出さず、口元だけで。

 

こういうところだ。

負けても、凹んでも、足は止まらない。転んだ次の瞬間にはもう、次のキャッチフレーズを考えている。

俺なんかがどうこうしなくても、この子は自分で立ち上がれる。

攻略ノートがなくたって、彼女はきっと——

 

……いや。

それは、考えないでおこう。

 

「……トレーナーさん、笑ってます?」

 

「いや。いい案が浮かんだら教えてくれ」

 

「はいっ! 次のレースまでには決めますね!」

 

電車の窓の外を、東京の夜景が流れていく。

ビル群の灯りがちかちかと瞬いている。

 

タルマエは隣でまだメモ帳と格闘していた。

 

「『とまこまいの渡り鳥、タルマエ参上!』……うーん、参上は古いかな……」

 

日常は続いている。

負けた日の帰り道でも、世界は回っている。

明日もたぶん、朝の六時半に彼女は帽子の角度を調整し、俺はトレーナー室のソファで寝ぼけ眼をこするだろう。

 

そして俺は明日もまた、ノートに書いてある答えを偉そうに読み上げるのだろう。

いつか、「答えを知っているだけの人間」だとバレる日が来るかもしれない。

それが怖くないと言えば、嘘になる。

 

だが、今日だけは。

隣に彼女がいて、苫小牧の渡り鳥のキャッチフレーズを悩んでいる、この穏やかな時間が——悪くなかった。

 

――[System]: Race result matches historical record. Correction index: +2.

 

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