世界が君を忘れても [旧題:完成する君と未完成な僕] 作:ねじぇまる
――Trainer: Minato
みやこS、3着。
結果を告げる電光掲示板を見上げながら、俺は攻略ノートのページをめくった。
『みやこS ── 3着。シニア級の壁。種まきの時期』
ノートに書いてある通りだ。
タルマエはレパードSを勝って以降、シニア級との混合戦に挑み始めている。当然、相手は格上ばかりだ。条件戦を連勝していた頃のように簡単にはいかない。
「トレーナーさん……3着、でした」
タルマエが息を切らしながら戻ってきた。
悔しそうだが、崩れてはいない。ジャパンダートダービーで5着に沈んだ時のような虚脱感はなかった。
「上出来だ。相手が違う。ここからは経験を積む時期だから」
俺は言った。
言いながら、内心では「ノートにそう書いてあるから」としか説明できない自分に苛立っていた。
「種まきの時期」——その言葉はノートの受け売りだ。なぜ今が種まきなのか、いつ花が開くのか、俺には論理的に説明できない。
「次のレースは?」
「……ジャパンカップダート。年末の大一番だ」
「ジャパンカップ……!」
タルマエの目が輝いた。
ダートのGI。テレビ中継もある。
もっとも、同じ「ジャパンカップ」でも芝の方は年末の国民的行事だ。スポーツ紙の一面を飾り、普段レースを見ない層までテレビの前に集まる。ダートの方もテレビ中継はあるし、ファンも多い。だが芝に比べると、やはり一段落ちる。
だが、タルマエにとってはそんなことは関係ない。
GIの舞台で、ウイニングライブで、全国放送のカメラの前で苫小牧の名前を叫ぶチャンス。
芝よりメディア露出が少ないダートだからこそ、自力で名前を売ることに意味がある。
ただ、俺がノートを見て凍りついたのは、出走予定メンバーの中に一つの名前を見つけたからだった。
ワンダーアキュート。
ダートの古強者。何年も第一線で走り続けている、いぶし銀のベテラン。
攻略ノートには彼女の名前が何度も出てくる。タルマエのキャリアの節目節目に、必ず近くにいる存在だ。
「……来たか」
▪ ▪ ▪
ジャパンカップダートの出走メンバーが正式に発表された日。
タルマエはトレーニング後に寮のカフェテリアで出走表を眺めていた。
「9番人気……ですか」
タルマエの声に、少しだけ寂しさが滲む。
無理もない。GIのメンバーの中で、彼女はまだ無名に等しい。レパードSを勝ったとはいえ、重賞1勝のジュニア級。シニア級のGI戦線では格下もいいところだ。
仮に芝の大レースなら、9番人気でもスポーツ紙に名前くらいは出る。だがダートのGIの9番人気となると、専門紙ですら印がつかない。
「9番人気なら、誰も注目してないってことですよね。苫小牧のPRチャンスとしては、ちょっと……」
「いや」
俺は出走表から顔を上げた。
「9番人気だからこそ、だ」
「え?」
「9番人気で好走したら、それだけでニュースになる。ダートの専門メディアだけじゃない。『あの無名のジュニア級が』って、一般のスポーツニュースにも拾われる可能性がある」
最後の一言は心の中で付け足した。
実際、攻略ノートには『JCダート ── 9番人気・3着。名前を売るレース』と書いてある。3着。勝てないが、名前は売れる。そういうレースらしい。
「タルマエ」
「はい」
「今日は3着でいい」
「……3着で、いい?」
「ああ。でも、ダートの枠を超えて名前を売る走りをしろ」
我ながら大きく出たものだ。
「3着でいい」——この言葉の根拠は、ノートに「3着」と書いてあるからに過ぎない。本当に3着に入れるかどうか、その確証は俺にはない。
だがタルマエは、俺の言葉を真剣な目で受け止めた。
「……わかりました。9番人気の私が、どれだけやれるか——見せてきます」
▪ ▪ ▪
レース前日。
出走会見が終わった後、タルマエが会場の片隅で一人のウマ娘と話していた。
灰色がかった髪に、穏やかな表情。手には——大根のぬか漬けが入ったタッパーウェア。
「あらぁ、あんたがホッコータルマエちゃんかい? 苫小牧のロコドルちゃんって聞いとるよぉ」
ワンダーアキュート。
高等部のベテラン。ダートの第一線で何年も戦い続けている、いぶし銀の先輩。
芝に比べればメディア露出の少ないダート戦線にあって、ひたむきに走り続ける姿で固定ファンを持つ。派手さはないが、知る人は知っている——そういう存在だ。
「は、はい! ホッコータルマエです! 明日はよろしくお願いします!」
「まあまあ、そう固くならんでもええよぉ。ほれ、ぽりぽりさん食べるかい?」
「ぽりぽり……さん?」
「大根のぬか漬けよぉ。寮のぬか床で漬けたんじゃ。レース前の塩分補給にちょうどええのよぉ」
タルマエは差し出されたぬか漬けを受け取った。
ぽりぽり、と音を立てて噛む。
「……おいしいです」
「おいしいと思えるなら大丈夫じゃ。明日も元気いっぱい走れるよぉ」
穏やかな声。ゆったりとした物腰。
とてもGIを何度も走ってきたベテランには見えない。おばあちゃんの家に遊びに来たような安心感がある。
だが、俺は知っている。
この人がレースになると一変すること。「研ぐ」と形容されるほど体を絞り込み、シャドーボクシングで闘志を燃やす姿を。攻略ノートには、彼女の名前が「壁」として何度も登場する。
「アキュートさんは、明日のレース……どんな気持ちで走るんですか?」
タルマエが尋ねた。
アキュートはぬか漬けをもう一切れ口に運び、ゆっくりと噛みながら答えた。
「そうじゃねぇ……いちばん大事なのは『諦めない』ことかねぇ」
「諦めない……」
「格上も格下も関係ないのよぉ。自分にできることをコツコツ積み上げて、最後まで粘る。それだけじゃ」
言葉はのんびりしている。
だが、その目の奥に、静かだが確かな炎が灯っていた。
「タルマエちゃん。あんたの走りはこないだのみやこSで見たよぉ。地面を掴むような、泥臭くていい走りだったねぇ」
「見てくださってたんですか……!」
「ええ。あたしも昔はね、誰にも注目されんかった。ダートじゃ尚更じゃろう? 芝のスターさんたちみたいに、黙ってても取材が来るわけじゃないもの。でもねぇ、コツコツやってたら、いつの間にかここにおるのよぉ」
アキュートは立ち上がり、軽くストレッチを始めた。
その動作の一つ一つが、穏やかな見た目に反して、恐ろしく滑らかで無駄がない。
「明日は手加減せんよぉ。あたしも、勝ちにいくつもりじゃから」
「はい! 私も全力で走ります!」
「ふふ、いい返事じゃ。……ほれ、もう一切れいるかい?」
「いただきます!」
タルマエとアキュートが、ぬか漬けを挟んで談笑している。
俺はその光景を少し離れた場所から見ていた。
穏やかで、温かくて——だが明日は、あの穏やかな人がタルマエの前に立ちはだかる。
ノートによれば、明日の結果は「1着ニホンピロアワーズ、2着アキュート、3着タルマエ」。
アキュートは格上だ。今のタルマエでは届かない。
だが、3着でいい。
今は、名前を売る時だ。
▪ ▪ ▪
レース前日の夜。
カフェテリアで、タルマエが嬉しそうにメモ帳を広げていた。
「トレーナーさん! 苫小牧フェアの企画、食堂の責任者の方に了承いただけそうなんです!」
「苫小牧フェア?」
「はい! メニューにホッキカレーとハスカップスムージーを追加して、テーブルにとまこまい通信を置いてもらう企画です。責任者の方が『面白いじゃない』って」
彼女は目を輝かせて、メニュー案のスケッチを見せてくれた。
ホッキカレーのイラストが妙にうまい。ホッキ貝の断面図まで描き込んでいる。
「リッキーさんに色の配置を相談したら、『ピンクと白は人気運アップの配色だよ☆』って教えてくれて。それでポスターの色味も——」
レースの前日だというのに、彼女の頭はロコドル活動でいっぱいだ。
第4話で俺が「走る前からライブのことを考えるな」と言ったのは、まさにこういう状態を懸念してのことだったが——
いや、今回は違う。
あの時は大舞台に浮足立っていた。今は違う。苫小牧のことを考えているが、地に足がついている。レースの準備はとっくに終わっている。
それに、ダートのウマ娘がレースだけで名前を売るのは難しい。芝のGIウマ娘なら勝てば翌日のワイドショーに出られるが、ダートはそうはいかない。だからこそ、レース以外の発信——チラシ配り、カフェテリアフェア、ウマッター——が必要になる。
彼女のロコドル活動は、単なる趣味ではない。ダートという日陰の道で名前を売るための、地道で切実な営業活動だ。
「……いい企画じゃないか」
俺は素直にそう言った。
「えへへ。レースが終わったら、本格的に動きます!」
俺はコーヒーを一口飲んだ。
——いや、飲もうとした。
カウンターで注文したはずのコーヒーが、まだ来ていない。
注文してからもう10分は経っている。
俺はカウンターに戻った。
「すみません、コーヒーを——」
「あ、はい。ご注文は?」
「……いえ、さっき注文したんですが」
「え? ……すみません、入ってなかったみたいで。もう一度お願いできますか?」
店員は申し訳なさそうに頭を下げた。
忙しい時間帯だ。注文が飛ぶことくらい、あるだろう。
(……まあ、そういうこともある)
俺はもう一度注文して、席に戻った。
タルマエはまだメニュー案に夢中で、俺が席を外していたことにも気づいていない。
……気づいていない、か。
▪ ▪ ▪
――Heroine: Hokko Tarumae
ジャパンカップダート当日。阪神レース場。
ゲート裏で、私は深呼吸をしていました。
9番人気。
スポーツ紙の印は無印。ダートの専門メディアですら、私の名前に触れている記事はほとんどありません。
芝のジャパンカップなら、9番人気でもファンの予想は盛り上がる。ダートの方も注目されないわけではないが、盛り上がりは芝には一歩劣る。
でも、トレーナーさんは言いました。
「今日は3着でいい。でも、ダートの枠を超えて名前を売る走りをしろ」
3着でいい。
それはつまり、「3着に入れる力がお前にはある」と信じてくれているということです。
9番人気の私を、トレーナーさんだけが信じてくれている。
ゲートが開きます。
最初の100m。集団の中に飲み込まれます。
GIのペースは速い。みやこSとは空気が違う。周囲のウマ娘たちの纏うオーラが、物理的な圧力になって押し寄せてくる。
(苫小牧の海風は、もっと冷たい)
トレーナーさんが教えてくれた言葉を、心の中で繰り返します。
砂を踏みしめる。一歩、一歩。デビュー戦の泥の中を走った時の感覚を思い出す。
先行集団の5番手。少し後ろめだけど、悪くない。
第三コーナーから第四コーナーにかけて、じわじわとポジションを上げていく。
前には何人ものシニア級が壁を作っている。あのアキュートさんも、その中にいる。
最終直線。
先頭を走るニホンピロアワーズは遠い。あの背中には今日は届かない。
でも、2番手のアキュートさんの背中が——見える。
(届け。届け。届け——!)
脚が唸る。地面を掻くような泥臭い走り。
一完歩ごとに、前との差が縮まっていく。
だが、アキュートさんの脚もまだ止まらない。
穏やかなおばあちゃんみたいな人が、最終直線で見せる粘りは尋常ではなかった。
一歩踏み出すごとに、こちらの心を折りにくるような、底知れないスタミナ。
届かなかった。
3着。
だけど——走り切った。
GIの舞台で、9番人気で、3着。
「ゴール! 3着に入ったのはホッコータルマエ! 9番人気のジュニア級がシニア級相手に堂々の好走!」
実況が、私の名前を呼んでいます。
芝のビッグレースほどの注目度ではないかもしれない。でも、GIはGI。9番人気が3着に飛び込めば、それだけで話題になる。
初めてだ。GIの実況で、私の名前が呼ばれた。
▪ ▪ ▪
検量室の前。
息を整えていると、背後から穏やかな声がかかりました。
「いい走りだったよぉ」
振り返ると、アキュートさんが立っていました。
レース直後とは思えない穏やかな表情。でも、額にはうっすらと汗が光っていて、さっきまでの激闘の跡が見て取れます。
「アキュートさん……」
「9番人気であの走りはなかなかできんよぉ。地面を掴むような、泥臭くていい走りだったねぇ。次はもっと手強くなりそうじゃ」
「ありがとうございます……!」
胸が熱くなりました。
格上の先輩に——GIの常連に——「いい走り」と言ってもらえた。
それは、今まで聞いたどんな褒め言葉より重くて、温かかった。
「あのね、タルマエちゃん」
アキュートさんはポケットから小さなタッパーを取り出しました。
「レース後のぽりぽりさんは格別においしいのよぉ。塩分補給にもなるし、おひとつどうぞ」
「……はい。いただきます」
ぽりぽり。
昨日食べた時より、おいしく感じました。
「ぽりぽりさん、昨日よりおいしいです」
「ふふ、がんばった後に食べるからよぉ。コツコツ積み上げたものは、ちゃんと味に出るのよ。レースも、ぬか漬けも、同じじゃ」
アキュートさんはそう言って、穏やかに笑いました。
▪ ▪ ▪
――Trainer: Minato
その夜。
俺は一人、トレーナー室で攻略ノートを開いていた。
『ジャパンカップダート ── 9番人気・3着。ニホンピロアワーズ1着、ワンダーアキュート2着。名前を売るレース』
チェックマーク。
ノートの通りだ。今回も。
ジュニア級が終わる。
デビュー戦の圧勝。条件戦の連勝。ダートダービーの5着。レパードSの初重賞勝利。みやこSの3着。JCダートの3着。
全て、ノートに書いてある通りに進んでいる。
「……問題ない」
俺は呟いた。
だが、その言葉と裏腹に——胸の奥に小さな棘が刺さっている。
ふと思い出して、学園のポータルサイトを開いた。
年度末の事務手続きのために、トレーナー名簿を確認する必要があった。
画面をスクロールする。
あ行、か行、さ行、た行——
「……な行」
な行を開く。
名簿に並ぶトレーナーの名前を、一つずつ目で追う。
「……ない」
俺の名前がなかった。
「み」で始まる名前はいくつかある。だが「湊明良」はどこにもない。
別のページに飛ばされたのか。検索してみる。
結果:0件。
心臓が、嫌な速さで脈打っている。
俺は事務室に電話した。
「あ、すみません。トレーナー名簿に自分の名前が載っていないんですが——」
「ああ、すみません。データ入力漏れですね。年末は処理が立て込むので、たまにあるんですよ。すぐ修正しておきますね」
事務員の声は事務的で、何の疑いもなかった。
データ入力漏れ。年末の処理が立て込む。たまにある。
「……そう、ですか。すみません、お手数おかけします」
電話を切った。
トレーナー室は静かだった。
空調の音だけが、低く唸っている。
IDゲートが三度エラーを出したのは、機械の不調。
攻略ノートの文字が薄いのは、インクのせい。
席に座っているのに「空いてますか」と言われたのは——あの時は動揺した。今も、あの時の感覚が胸の奥に残っている。
(そして今度は、名簿から名前が消えた)
偶然だ。
全部、偶然だ。
そう思いたい。
だが——コーヒーの注文が忘れられたことと、名簿から名前が消えたこと。
同じ日に二つ。
偶然は、何回重なれば偶然でなくなるのだろう。
俺はノートを閉じ、トレーナー室の電気を消した。
廊下に出ると、冬の夜の冷気が頬に触れた。
ダウンジャケットの前を合わせる。
ポケットの中の攻略ノートが、鉛のように重い。
年が明ければ、クラシック級が始まる。
タルマエにとって、本当の戦いが始まる。
俺は——そこに、いるだろうか。
――[System]: Junior season complete. Historical alignment: 94%. Trainer data: flagged for review.