世界が君を忘れても [旧題:完成する君と未完成な僕]   作:ねじぇまる

6 / 8
第6話 九番人気だからこそ

――Trainer: Minato

 

みやこS、3着。

 

結果を告げる電光掲示板を見上げながら、俺は攻略ノートのページをめくった。

 

『みやこS ── 3着。シニア級の壁。種まきの時期』

 

ノートに書いてある通りだ。

タルマエはレパードSを勝って以降、シニア級との混合戦に挑み始めている。当然、相手は格上ばかりだ。条件戦を連勝していた頃のように簡単にはいかない。

 

「トレーナーさん……3着、でした」

 

タルマエが息を切らしながら戻ってきた。

悔しそうだが、崩れてはいない。ジャパンダートダービーで5着に沈んだ時のような虚脱感はなかった。

 

「上出来だ。相手が違う。ここからは経験を積む時期だから」

 

俺は言った。

言いながら、内心では「ノートにそう書いてあるから」としか説明できない自分に苛立っていた。

「種まきの時期」——その言葉はノートの受け売りだ。なぜ今が種まきなのか、いつ花が開くのか、俺には論理的に説明できない。

 

「次のレースは?」

 

「……ジャパンカップダート。年末の大一番だ」

 

「ジャパンカップ……!」

 

タルマエの目が輝いた。

ダートのGI。テレビ中継もある。

もっとも、同じ「ジャパンカップ」でも芝の方は年末の国民的行事だ。スポーツ紙の一面を飾り、普段レースを見ない層までテレビの前に集まる。ダートの方もテレビ中継はあるし、ファンも多い。だが芝に比べると、やはり一段落ちる。

 

だが、タルマエにとってはそんなことは関係ない。

GIの舞台で、ウイニングライブで、全国放送のカメラの前で苫小牧の名前を叫ぶチャンス。

芝よりメディア露出が少ないダートだからこそ、自力で名前を売ることに意味がある。

 

ただ、俺がノートを見て凍りついたのは、出走予定メンバーの中に一つの名前を見つけたからだった。

 

ワンダーアキュート。

 

ダートの古強者。何年も第一線で走り続けている、いぶし銀のベテラン。

攻略ノートには彼女の名前が何度も出てくる。タルマエのキャリアの節目節目に、必ず近くにいる存在だ。

 

「……来たか」

 

▪ ▪ ▪

 

ジャパンカップダートの出走メンバーが正式に発表された日。

タルマエはトレーニング後に寮のカフェテリアで出走表を眺めていた。

 

「9番人気……ですか」

 

タルマエの声に、少しだけ寂しさが滲む。

無理もない。GIのメンバーの中で、彼女はまだ無名に等しい。レパードSを勝ったとはいえ、重賞1勝のジュニア級。シニア級のGI戦線では格下もいいところだ。

仮に芝の大レースなら、9番人気でもスポーツ紙に名前くらいは出る。だがダートのGIの9番人気となると、専門紙ですら印がつかない。

 

「9番人気なら、誰も注目してないってことですよね。苫小牧のPRチャンスとしては、ちょっと……」

 

「いや」

 

俺は出走表から顔を上げた。

 

「9番人気だからこそ、だ」

 

「え?」

 

「9番人気で好走したら、それだけでニュースになる。ダートの専門メディアだけじゃない。『あの無名のジュニア級が』って、一般のスポーツニュースにも拾われる可能性がある」

 

最後の一言は心の中で付け足した。

実際、攻略ノートには『JCダート ── 9番人気・3着。名前を売るレース』と書いてある。3着。勝てないが、名前は売れる。そういうレースらしい。

 

「タルマエ」

 

「はい」

 

「今日は3着でいい」

 

「……3着で、いい?」

 

「ああ。でも、ダートの枠を超えて名前を売る走りをしろ」

 

我ながら大きく出たものだ。

「3着でいい」——この言葉の根拠は、ノートに「3着」と書いてあるからに過ぎない。本当に3着に入れるかどうか、その確証は俺にはない。

 

だがタルマエは、俺の言葉を真剣な目で受け止めた。

 

「……わかりました。9番人気の私が、どれだけやれるか——見せてきます」

 

▪ ▪ ▪

 

レース前日。

出走会見が終わった後、タルマエが会場の片隅で一人のウマ娘と話していた。

 

灰色がかった髪に、穏やかな表情。手には——大根のぬか漬けが入ったタッパーウェア。

 

「あらぁ、あんたがホッコータルマエちゃんかい? 苫小牧のロコドルちゃんって聞いとるよぉ」

 

ワンダーアキュート。

高等部のベテラン。ダートの第一線で何年も戦い続けている、いぶし銀の先輩。

芝に比べればメディア露出の少ないダート戦線にあって、ひたむきに走り続ける姿で固定ファンを持つ。派手さはないが、知る人は知っている——そういう存在だ。

 

「は、はい! ホッコータルマエです! 明日はよろしくお願いします!」

 

「まあまあ、そう固くならんでもええよぉ。ほれ、ぽりぽりさん食べるかい?」

 

「ぽりぽり……さん?」

 

「大根のぬか漬けよぉ。寮のぬか床で漬けたんじゃ。レース前の塩分補給にちょうどええのよぉ」

 

タルマエは差し出されたぬか漬けを受け取った。

ぽりぽり、と音を立てて噛む。

 

「……おいしいです」

 

「おいしいと思えるなら大丈夫じゃ。明日も元気いっぱい走れるよぉ」

 

穏やかな声。ゆったりとした物腰。

とてもGIを何度も走ってきたベテランには見えない。おばあちゃんの家に遊びに来たような安心感がある。

 

だが、俺は知っている。

この人がレースになると一変すること。「研ぐ」と形容されるほど体を絞り込み、シャドーボクシングで闘志を燃やす姿を。攻略ノートには、彼女の名前が「壁」として何度も登場する。

 

「アキュートさんは、明日のレース……どんな気持ちで走るんですか?」

 

タルマエが尋ねた。

アキュートはぬか漬けをもう一切れ口に運び、ゆっくりと噛みながら答えた。

 

「そうじゃねぇ……いちばん大事なのは『諦めない』ことかねぇ」

 

「諦めない……」

 

「格上も格下も関係ないのよぉ。自分にできることをコツコツ積み上げて、最後まで粘る。それだけじゃ」

 

言葉はのんびりしている。

だが、その目の奥に、静かだが確かな炎が灯っていた。

 

「タルマエちゃん。あんたの走りはこないだのみやこSで見たよぉ。地面を掴むような、泥臭くていい走りだったねぇ」

 

「見てくださってたんですか……!」

 

「ええ。あたしも昔はね、誰にも注目されんかった。ダートじゃ尚更じゃろう? 芝のスターさんたちみたいに、黙ってても取材が来るわけじゃないもの。でもねぇ、コツコツやってたら、いつの間にかここにおるのよぉ」

 

アキュートは立ち上がり、軽くストレッチを始めた。

その動作の一つ一つが、穏やかな見た目に反して、恐ろしく滑らかで無駄がない。

 

「明日は手加減せんよぉ。あたしも、勝ちにいくつもりじゃから」

 

「はい! 私も全力で走ります!」

 

「ふふ、いい返事じゃ。……ほれ、もう一切れいるかい?」

 

「いただきます!」

 

タルマエとアキュートが、ぬか漬けを挟んで談笑している。

俺はその光景を少し離れた場所から見ていた。

 

穏やかで、温かくて——だが明日は、あの穏やかな人がタルマエの前に立ちはだかる。

ノートによれば、明日の結果は「1着ニホンピロアワーズ、2着アキュート、3着タルマエ」。

アキュートは格上だ。今のタルマエでは届かない。

 

だが、3着でいい。

今は、名前を売る時だ。

 

▪ ▪ ▪

 

レース前日の夜。

カフェテリアで、タルマエが嬉しそうにメモ帳を広げていた。

 

「トレーナーさん! 苫小牧フェアの企画、食堂の責任者の方に了承いただけそうなんです!」

 

「苫小牧フェア?」

 

「はい! メニューにホッキカレーとハスカップスムージーを追加して、テーブルにとまこまい通信を置いてもらう企画です。責任者の方が『面白いじゃない』って」

 

彼女は目を輝かせて、メニュー案のスケッチを見せてくれた。

ホッキカレーのイラストが妙にうまい。ホッキ貝の断面図まで描き込んでいる。

 

「リッキーさんに色の配置を相談したら、『ピンクと白は人気運アップの配色だよ☆』って教えてくれて。それでポスターの色味も——」

 

レースの前日だというのに、彼女の頭はロコドル活動でいっぱいだ。

第4話で俺が「走る前からライブのことを考えるな」と言ったのは、まさにこういう状態を懸念してのことだったが——

 

いや、今回は違う。

あの時は大舞台に浮足立っていた。今は違う。苫小牧のことを考えているが、地に足がついている。レースの準備はとっくに終わっている。

それに、ダートのウマ娘がレースだけで名前を売るのは難しい。芝のGIウマ娘なら勝てば翌日のワイドショーに出られるが、ダートはそうはいかない。だからこそ、レース以外の発信——チラシ配り、カフェテリアフェア、ウマッター——が必要になる。

彼女のロコドル活動は、単なる趣味ではない。ダートという日陰の道で名前を売るための、地道で切実な営業活動だ。

 

「……いい企画じゃないか」

 

俺は素直にそう言った。

 

「えへへ。レースが終わったら、本格的に動きます!」

 

俺はコーヒーを一口飲んだ。

——いや、飲もうとした。

 

カウンターで注文したはずのコーヒーが、まだ来ていない。

注文してからもう10分は経っている。

 

俺はカウンターに戻った。

 

「すみません、コーヒーを——」

 

「あ、はい。ご注文は?」

 

「……いえ、さっき注文したんですが」

 

「え? ……すみません、入ってなかったみたいで。もう一度お願いできますか?」

 

店員は申し訳なさそうに頭を下げた。

忙しい時間帯だ。注文が飛ぶことくらい、あるだろう。

 

(……まあ、そういうこともある)

 

俺はもう一度注文して、席に戻った。

タルマエはまだメニュー案に夢中で、俺が席を外していたことにも気づいていない。

 

……気づいていない、か。

 

▪ ▪ ▪

 

――Heroine: Hokko Tarumae

 

ジャパンカップダート当日。阪神レース場。

 

ゲート裏で、私は深呼吸をしていました。

 

9番人気。

スポーツ紙の印は無印。ダートの専門メディアですら、私の名前に触れている記事はほとんどありません。

芝のジャパンカップなら、9番人気でもファンの予想は盛り上がる。ダートの方も注目されないわけではないが、盛り上がりは芝には一歩劣る。

 

でも、トレーナーさんは言いました。

 

「今日は3着でいい。でも、ダートの枠を超えて名前を売る走りをしろ」

 

3着でいい。

それはつまり、「3着に入れる力がお前にはある」と信じてくれているということです。

9番人気の私を、トレーナーさんだけが信じてくれている。

 

ゲートが開きます。

 

最初の100m。集団の中に飲み込まれます。

GIのペースは速い。みやこSとは空気が違う。周囲のウマ娘たちの纏うオーラが、物理的な圧力になって押し寄せてくる。

 

(苫小牧の海風は、もっと冷たい)

 

トレーナーさんが教えてくれた言葉を、心の中で繰り返します。

砂を踏みしめる。一歩、一歩。デビュー戦の泥の中を走った時の感覚を思い出す。

 

先行集団の5番手。少し後ろめだけど、悪くない。

第三コーナーから第四コーナーにかけて、じわじわとポジションを上げていく。

前には何人ものシニア級が壁を作っている。あのアキュートさんも、その中にいる。

 

最終直線。

先頭を走るニホンピロアワーズは遠い。あの背中には今日は届かない。

でも、2番手のアキュートさんの背中が——見える。

 

(届け。届け。届け——!)

 

脚が唸る。地面を掻くような泥臭い走り。

一完歩ごとに、前との差が縮まっていく。

 

だが、アキュートさんの脚もまだ止まらない。

穏やかなおばあちゃんみたいな人が、最終直線で見せる粘りは尋常ではなかった。

一歩踏み出すごとに、こちらの心を折りにくるような、底知れないスタミナ。

 

届かなかった。

3着。

 

だけど——走り切った。

GIの舞台で、9番人気で、3着。

 

「ゴール! 3着に入ったのはホッコータルマエ! 9番人気のジュニア級がシニア級相手に堂々の好走!」

 

実況が、私の名前を呼んでいます。

芝のビッグレースほどの注目度ではないかもしれない。でも、GIはGI。9番人気が3着に飛び込めば、それだけで話題になる。

 

初めてだ。GIの実況で、私の名前が呼ばれた。

 

▪ ▪ ▪

 

検量室の前。

 

息を整えていると、背後から穏やかな声がかかりました。

 

「いい走りだったよぉ」

 

振り返ると、アキュートさんが立っていました。

レース直後とは思えない穏やかな表情。でも、額にはうっすらと汗が光っていて、さっきまでの激闘の跡が見て取れます。

 

「アキュートさん……」

 

「9番人気であの走りはなかなかできんよぉ。地面を掴むような、泥臭くていい走りだったねぇ。次はもっと手強くなりそうじゃ」

 

「ありがとうございます……!」

 

胸が熱くなりました。

格上の先輩に——GIの常連に——「いい走り」と言ってもらえた。

それは、今まで聞いたどんな褒め言葉より重くて、温かかった。

 

「あのね、タルマエちゃん」

 

アキュートさんはポケットから小さなタッパーを取り出しました。

 

「レース後のぽりぽりさんは格別においしいのよぉ。塩分補給にもなるし、おひとつどうぞ」

 

「……はい。いただきます」

 

ぽりぽり。

昨日食べた時より、おいしく感じました。

 

「ぽりぽりさん、昨日よりおいしいです」

 

「ふふ、がんばった後に食べるからよぉ。コツコツ積み上げたものは、ちゃんと味に出るのよ。レースも、ぬか漬けも、同じじゃ」

 

アキュートさんはそう言って、穏やかに笑いました。

 

▪ ▪ ▪

 

――Trainer: Minato

 

その夜。

俺は一人、トレーナー室で攻略ノートを開いていた。

 

『ジャパンカップダート ── 9番人気・3着。ニホンピロアワーズ1着、ワンダーアキュート2着。名前を売るレース』

 

チェックマーク。

ノートの通りだ。今回も。

 

ジュニア級が終わる。

デビュー戦の圧勝。条件戦の連勝。ダートダービーの5着。レパードSの初重賞勝利。みやこSの3着。JCダートの3着。

全て、ノートに書いてある通りに進んでいる。

 

「……問題ない」

 

俺は呟いた。

だが、その言葉と裏腹に——胸の奥に小さな棘が刺さっている。

 

ふと思い出して、学園のポータルサイトを開いた。

年度末の事務手続きのために、トレーナー名簿を確認する必要があった。

 

画面をスクロールする。

あ行、か行、さ行、た行——

 

「……な行」

 

な行を開く。

名簿に並ぶトレーナーの名前を、一つずつ目で追う。

 

「……ない」

 

俺の名前がなかった。

 

「み」で始まる名前はいくつかある。だが「湊明良」はどこにもない。

別のページに飛ばされたのか。検索してみる。

 

結果:0件。

 

心臓が、嫌な速さで脈打っている。

 

俺は事務室に電話した。

 

「あ、すみません。トレーナー名簿に自分の名前が載っていないんですが——」

 

「ああ、すみません。データ入力漏れですね。年末は処理が立て込むので、たまにあるんですよ。すぐ修正しておきますね」

 

事務員の声は事務的で、何の疑いもなかった。

データ入力漏れ。年末の処理が立て込む。たまにある。

 

「……そう、ですか。すみません、お手数おかけします」

 

電話を切った。

 

トレーナー室は静かだった。

空調の音だけが、低く唸っている。

 

IDゲートが三度エラーを出したのは、機械の不調。

攻略ノートの文字が薄いのは、インクのせい。

席に座っているのに「空いてますか」と言われたのは——あの時は動揺した。今も、あの時の感覚が胸の奥に残っている。

 

(そして今度は、名簿から名前が消えた)

 

偶然だ。

全部、偶然だ。

そう思いたい。

 

だが——コーヒーの注文が忘れられたことと、名簿から名前が消えたこと。

同じ日に二つ。

偶然は、何回重なれば偶然でなくなるのだろう。

 

俺はノートを閉じ、トレーナー室の電気を消した。

廊下に出ると、冬の夜の冷気が頬に触れた。

 

ダウンジャケットの前を合わせる。

ポケットの中の攻略ノートが、鉛のように重い。

 

年が明ければ、クラシック級が始まる。

タルマエにとって、本当の戦いが始まる。

 

俺は——そこに、いるだろうか。

 

――[System]: Junior season complete. Historical alignment: 94%. Trainer data: flagged for review.

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。