世界が君を忘れても [旧題:完成する君と未完成な僕] 作:ねじぇまる
――Heroine: Hokko Tarumae
クラシック級。
年が明けて、私のレースは新しいステージに入りました。
最初のレースは東海S。中京レース場。
初めての1番人気。
パドックに出た瞬間、空気が違うことに気づきました。
今まで私を見ていたのは、ダートの熱心なファンだけでした。でも今日は違う。年末のJCダートで9番人気から3着に飛び込んだニュースが、少しだけ波紋を広げたらしい。スポーツ紙のダート欄に、小さいけれど私の名前が載っていました。
「1番人気……」
胸が締め付けられます。
今まで追いかける側だったのに、今日は追いかけられる側。周囲の視線が、期待と品定めの両方を含んでいる。
結果は、3着。
勝てませんでした。
先行集団に取りついたまでは良かったのですが、最終直線で伸びきれなかった。1番人気で3着。掲示板の数字が、重くのしかかります。
「……すみません。期待に応えられなくて」
レース後、トレーナーさんに頭を下げました。
トレーナーさんはノートをめくりながら、静かに言いました。
「想定内だ。ここから巻き返す」
その声には、いつもの淡々とした自信がありました。
根拠はわからない。でも、トレーナーさんが「想定内」と言うなら、きっとそうなのだと思います。
▪ ▪ ▪
「次は佐賀記念。佐賀レース場だ」
「佐賀……!」
地方レース場。
芝のGIが行われる中央の大舞台とは違う、もっと小さくて、土の匂いがする場所。
佐賀レース場に着いた時、まず驚いたのはその素朴さでした。
スタンドは古くて、観客席の椅子は色褪せていて、ターフビジョンもこぢんまりとしている。中央の阪神や東京を見慣れた目には、正直、地味に映ります。
でも——なんだか、落ち着く。
「……苫小牧に、似ています」
思わず呟いていました。
華やかではないけれど、ここにはここの空気がある。地元に根を張った人たちが、自分たちのレース場を大事にしている。その温度感が、苫小牧のロコドル活動で感じるものと同じだったのです。
「トレーナーさん。チラシ、配っていいですか?」
「……レース前に?」
「はい! せっかく地方に来たんですから。苫小牧のことを知ってもらうチャンスです」
トレーナーさんは一瞬、何か言いたそうな顔をしました。
でも結局、小さくため息をついて「時間管理だけはしろよ」と言ってくれました。
佐賀レース場のスタンドで、私はとまこまい通信Vol.6を配りました。
Vol.6の特集は「苫小牧ホッキ貝食べ歩きマップ」。リッキーさんに「ピンクは人気運アップの色☆」と教えてもらって、表紙をホッキ貝のピンクで統一した自信作です。
「お姉さん、なにこれ?」
「苫小牧の観光ガイドです! ホッキ貝が日本一美味しいまちなんですよ!」
「へぇ、苫小牧ねぇ……あんた、今日走る子?」
「はい! とまこまい観光大使、ホッコータルマエです!」
「はは、変わった子だねぇ。じゃあ応援するよ」
たった一人。でも、一人のファンが増えた。
それだけで、チラシを刷った甲斐がある。
佐賀記念。結果——1着。
小さなレース場のウイニングライブで、私はセンターに立ちました。
持ち歌はまだない。汎用曲の振り付けに合わせて踊りながら、MCの時間が来た瞬間——
「とまこまい観光大使、ホッコータルマエだべ! 佐賀のみなさん、苫小牧にも遊びに来てください!」
客席がざわめく。笑い声が混じる。「なんだあの子」「面白いね」。
チラシを受け取ってくれたおじさんが、手を振ってくれていました。
▪ ▪ ▪
名古屋大賞典。名古屋レース場。
ここも地方レース場です。佐賀より少し大きいけれど、中央に比べれば素朴な空気は変わりません。
名古屋に着いてすぐ、私はまたチラシを配り始めました。
今回はトレーナーさんも手伝ってくれました。と言っても、荷物持ちですけど。
「トレーナーさん、ここの手羽先、おいしいですね」
「……俺は苫小牧の宣伝に来たんだか、名古屋めしを食べに来たんだかわからなくなってきた」
「両方です! 各地のおいしいものを知ることも、ロコドルの勉強ですから!」
移動の電車の中で、私はメモ帳を広げてキャッチフレーズを練っていました。
「苫小牧の海からこんにちは! ホッコーホキホキホッキガイ☆ ……なんか爪痕残せそうじゃないですか?」
「……語呂は……まあ……悪くない、かな……」
トレーナーさんは窓の外を見ながら苦笑しています。
こういう微妙な反応の時は、だいたい「もっと練れ」という意味です。
「じゃあ、北の港から飛んできた、紙の翼の渡り鳥♪ 苫小牧ロコドル、ホッコータルマエ! ……こっちの方がいいですか?」
「そっちの方が品がある」
「品! 品ですか。ロコドルに品は必要でしょうか」
「……必要だと思うぞ」
メモ帳に丸をつけて、「渡り鳥」の方を採用。
こうやって、レースとレースの合間にキャッチフレーズを練り、チラシの次号の構成を考え、各地の特産品をリサーチする。旅するロコドルの日々。
名古屋大賞典、1着。
ウイニングライブで、今度は名古屋のファンに向かって苫小牧をPRしました。
▪ ▪ ▪
アンタレスS。阪神レース場。
中央に戻ってきました。地方の転戦から一転、大きなスタンドと大きなターフビジョン。
ここでも1番人気。
でも今回は、東海Sの時のような怯えはありませんでした。佐賀と名古屋で2連勝した自信が、足元を固めてくれている。
(苫小牧の海風は、もっと冷たい)
いつものおまじない。
ゲートが開く。先行集団の3番手。落ち着いて、自分のリズムで走る。
最終直線で仕掛けて、前を捉え——
1着。
3連勝。
佐賀、名古屋、阪神。地方と中央を跨いで、3連勝。
ウイニングライブの後、トレーナーさんが珍しく笑っていました。
「3連勝だ。上出来だ」
「はい! ……でも、まだ足りないです」
「足りない?」
「GI、です。重賞は勝てました。でも、ダートのGIはまだ。……芝のGIに比べたら注目度は低いかもしれないけど、GIはGIです。あの舞台に立って、苫小牧の名前を叫びたい」
私は真っ直ぐにトレーナーさんの目を見ました。
「私、GIに挑みたいです」
トレーナーさんは少し黙って、ノートをめくりました。
何かを確認するように、ページを指でなぞる。
「……次はかしわ記念だ。船橋レース場。ダートのGI」
「かしわ記念……!」
「ただし」
トレーナーさんの声が、少しだけ低くなりました。
「出走メンバーを見ろ」
手渡された出走予定リストに、一つの名前がありました。
エスポワールシチー。
名前は知っています。ダートの最前線を走るシニア級の実力者。複数のGIタイトルを持つ強豪。
「……エスポワールシチーさん」
「ああ。この壁を越えなきゃ、GIには届かない」
トレーナーさんの表情が引き締まっていました。
いつもの淡々とした口調の中に、僅かな緊張が滲んでいる。
「……はい。越えます」
私はメモ帳を閉じ、帽子の角度を直しました。
赤いラインが左耳のやや上。いつもの位置。
ロコドル街道はここまで。
次のステージは、GIの舞台です。
▪ ▪ ▪
――Trainer: Minato
アンタレスSの翌日。
俺は次のレースの準備のために、事務手続きで船橋レース場の事務局に連絡を入れた。
「かしわ記念の出走登録の件で——」
「はい、ホッコータルマエさんのトレーナーの方ですね。お名前を確認させてください」
「湊です。湊明良」
「……えーと、少々お待ちください」
保留音が流れる。
30秒。1分。
「お待たせしました。確認が取れました。失礼ですが……以前にも船橋レース場にいらしたことはありますか?」
「……ええ。去年のJCダートの下見で一度」
「そうでしたか。申し訳ありません、記録が見当たらなかったもので」
記録が見当たらない。
去年、確かにこの事務局で手続きをした。名前も書いた。IDも提示した。
「……登録お願いします」
「はい、承りました。えーと、お名前はミナトアキ……」
「明良。アキラです」
「アキラさん。失礼しました」
電話を切った。
(……記録が見当たらない、か)
去年の学園の名簿消失。カフェテリアでのコーヒーの注文忘れ。そして今度は、地方レース場の来訪記録が残っていない。
偶然。全部偶然だ。
年度が変わって記録が整理されただけ。事務員が忙しくて確認漏れがあっただけ。
(……偶然は、何回重なれば偶然でなくなるのだろう)
新潟レース場の席の件以来、この問いが頭の中に棲みついている。
だが、考えている暇はない。次のレースはかしわ記念。タルマエにとって初のGI挑戦になる。
攻略ノートのページをめくる。
『かしわ記念 ── GI初勝利』
……初勝利。
このレースで、タルマエはGIウマ娘になる。
ノートがそう言っている。俺はそれを信じるしかない。
俺はノートを閉じ、旅行鞄を開けた。
地方転戦用の荷物を入れ替える。佐賀の泥が靴底にこびりついている。名古屋で買った手羽先の空き袋がポケットから出てきた。
ふと、旅先のホテルの予約確認メールが目に入った。
『ご予約内容:シングルルーム×1名様』
1名。
俺は確かに2名で予約したはずだ。タルマエと俺の分。
予約サイトを開き直す。
履歴を確認する。
『宿泊者:ホッコータルマエ様 1名』
俺の名前がない。
タルマエの分だけが残り、俺の分が消えている。
「…………」
画面を閉じた。
窓の外で、春の風が吹いている。
ダウンジャケットの季節は、もうすぐ終わる。
だが俺は、まだこの防寒着を脱ぐ気にはなれなかった。
――[System]: Consecutive victories logged. Historical alignment increasing. Trainer visibility: declining.