世界が君を忘れても [旧題:完成する君と未完成な僕] 作:ねじぇまる
――Trainer: Minato
攻略ノートを開く。
何度も開いたページ。角が折れ、手汗で少しふやけている。
『かしわ記念 ── GI初勝利』
五文字。それだけだ。
どう勝つか、誰に勝つか、展開はどうなるか——何も書いていない。ただ「GI初勝利」という結果だけが、そっけなく記されている。
俺はそのページを指でなぞった。
(ここだ。ここが、彼女の人生が変わるレースだ)
かしわ記念。船橋競馬場。ダートのGI。
芝のクラシックに比べれば世間の注目度は一段落ちる。だがGIはGIだ。勝てば、タルマエは「GIウマ娘」になる。ダートの歴史に名前が刻まれる。
そして、出走メンバーの中に——エスポワールシチーの名前がある。
第7話で影として予告された、ダートの実力者。複数のGIタイトルを持つシニア級の強豪。
ノートには「GI初勝利」と書いてある。つまり、タルマエはエスポワールシチーに勝つ。
だが、どうやって勝つのか。それは、俺にはわからない。
▪ ▪ ▪
レース2週間前。
寮のカフェテリアで、タルマエが頭を抱えていた。
「うーーーん……」
「どうした?」
「ウマッターのフォロワーが、伸びないんです……」
攻略ノートではなく、スマホの画面を覗き込む。
タルマエのウマッターアカウント。フォロワー数は——まあ、ダートのクラシック級としては多い方だろうが、芝のスター級に比べると桁が違う。
「とまこまい通信をウマッターにも載せてるんですけど、反応がいまいちで。チラシの内容をそのまま載せてるだけだからかなぁ……」
「紙のチラシとウマッターは、届く相手が違うからな。同じ内容じゃ刺さらないだろう」
「でも、ウマッターに何を書いたらいいのか……」
と、その時。
「あ♪ 困ってるなら、カレンに聞いてくれていいよ?」
明るい声が割り込んできた。
振り返ると、ふわふわしたツインテールのウマ娘が、笑顔でこちらを覗き込んでいた。
カレンチャン。
芝のスプリンターだが、SNSのフォロワー数はトレセン学園でもトップクラス。「カワイイ」を武器にファンの心を掴む達人。ダートではなく芝のウマ娘だが、路線に関係なくファンサービスの技術は本物だ。
「カ、カレンチャンさん!?」
「ちゃん付けのさん付けはさすがにくどくない? カレンでいいよ♪」
「か、カレンさん……!」
カレンはタルマエの隣に座り、スマホの画面を覗き込んだ。
「うーんとね、タルマエちゃんの投稿って、情報は多いんだけど……ちょっと一方通行かな」
「一方通行……?」
「うん。『苫小牧はこんなところです!』って教えてくれるのはいいんだけど、読んでる人が『自分も行ってみたい!』って思う仕掛けが足りないの。情報じゃなくて、体験を届けないと♪」
「体験……」
「たとえば、苫小牧のラーメン屋さんを食べ歩いて、ランキングを作るとか! タルマエちゃんが実際に食べて、感想を書いて、写真を撮って。読者はタルマエちゃんの目を通して苫小牧を体験するの」
タルマエの目がキラリと光った。
「食レポ……! 苫小牧ラーメン店人気ランキング!」
「そうそう♪ タルマエちゃんのキャラなら、正直な感想がかえって信頼感になるよ。カワイイだけじゃなくて、共感で繋がるファンが増えるの」
「なるほど……! 共感!」
タルマエがメモ帳を取り出し、猛烈にメモを取り始めた。
カレンは満足そうに微笑んでいる。
「あと、もう一つ。ファンの気持ちになってみて。タルマエちゃんのファンは、タルマエちゃんの何が好きなんだと思う?」
「私の……何が好き?」
「レースの強さ? 苫小牧の知識? それも大事だけど、たぶん一番は——タルマエちゃんが苫小牧を好きでいること、そのものだと思うな♪」
タルマエの手が止まった。
しばらく黙って、それからゆっくりと頷いた。
「……苫小牧が好き、ということ自体が、ファンの人に届いている……」
「うん。だから、無理に面白いことを言おうとしなくていいの。タルマエちゃんが本当に好きなものを、本当に好きな顔で語ればいい。カワイイは、本気から生まれるんだから♪」
カレンはそう言って、ウインクした。
俺はその光景を少し離れた席で見ていた。
カレンの言葉は的確だ。タルマエに足りなかったのは、「自分の好き」をそのまま届ける勇気だった。チラシの体裁に拘りすぎて、彼女自身の熱量がフィルターされていた。
(……ノートには、こういうことは書いてないんだよな)
攻略ノートには「GI初勝利」と書いてある。だがカレンとの出会いも、食レポ連載の企画も、何も書いていない。
彼女のロコドル活動がどう発展していくか。それだけは、ノートの外側で起きている。
▪ ▪ ▪
レース1週間前。夜。
栗東寮の部屋で、タルマエが勝負服の手入れをしていた。
ブラシで丁寧に埃を払い、ボタンの緩みがないか確認し、裾のラインを指でなぞる。
その背中を、ベッドの上で本を読んでいたヴィルシーナが静かに見ていた。
「……タルマエさん」
「はい?」
「緊張してる?」
タルマエの手が一瞬止まった。
それから、小さく笑った。
「してます。すごく」
「そう」
ヴィルシーナは本を閉じ、ベッドの縁に腰掛けた。
「……でも、不思議なんです。怖いけど、逃げたくはないんです。前のダートダービーの時は、逃げたくて仕方なかった。でも今は……」
タルマエは勝負服を胸に抱きしめた。
「苫小牧のみんなが見守ってくれてるから。お父さんとお母さんも。漁港のおっちゃんたちも。それに、リッキーさん、アキュートさん、トレーナーさん。みんなが応援してくれてるって思うと——怖くても、前に進める」
ヴィルシーナはしばらく黙っていた。
それから、ほんの僅かに——口元を緩めた。
「……タルマエさんは、強くなりましたね」
「え?」
「入学した頃は、帽子の角度ばかり気にしていたのに」
「い、今も気にしてますけど!」
「ふふ……。知ってるわ」
ヴィルシーナは窓際に移動し、カーテンの隙間から夜空を見上げた。
「勝ってきなさい。……ルームメイトとして、応援しています」
その言葉は短くて、素っ気なくて。
でもヴィルシーナさんなりの、精一杯の応援だと、タルマエにはわかっていた。
▪ ▪ ▪
――Trainer: Minato
かしわ記念当日。船橋競馬場。
地方競馬場の空気は、中央とは違う。
規模は小さいが、その分ファンとの距離が近い。スタンドから聞こえる声援が、直接肌に触れるような感覚。
ダートのGIとしてはかしわ記念は伝統のある一戦で、地元のファンを中心に熱気は十分だ。
パドックでタルマエの姿を確認する。
帽子は外し、勝負服のウエストを最終調整している。表情は引き締まっているが、崩れてはいない。JCダートの時と同じ——いや、あの時より一段、目が座っている。
出走会見を終えたタルマエが、柵越しに声をかけてきた。
「トレーナーさん」
「ん?」
「今日は、誰かのためとか、苫小牧のためとか——それも全部含めてですけど」
彼女は一呼吸置いて、言った。
「勝ちたいです。私が。私のために」
「……ああ」
初めてだ。
彼女が「私のために勝ちたい」と言ったのは。
いつも「苫小牧のため」「ファンのため」「トレーナーさんのため」だった彼女が、初めて自分自身の欲として「勝利」を口にした。
俺はポケットの中で攻略ノートを握りしめた。
(頼むぞ、ノート。今回も——当たってくれ)
▪ ▪ ▪
ゲートが開く。
先行したのはエスポワールシチーだった。
スタートからグングンと前に出ていく。その走りには、ダートの先行者としての矜持と火力が詰まっている。
タルマエは3番手。
エスポワールの背中を睨みながら、じっと脚を溜めている。
JCダートではシニア級の壁に阻まれた。だが今回は違う。佐賀、名古屋、阪神と3連勝して培った自信が、彼女の走りを安定させている。
第三コーナー。第四コーナー。
じわじわと差が縮まっていく。
最終直線。
タルマエが仕掛けた。
漁師の脚が唸りを上げる。地面を掻く。泥を蹴る。一完歩ごとに、エスポワールシチーの背中が近づいてくる。
エスポワールは振り返らない。
歯を食いしばって、前を向いたまま、最後の力を振り絞っている。
——だがその背中が、わずかに揺れた。
タルマエが並ぶ。
半馬身。鼻差。
ゴール。
場内が一瞬、静まった。
それから、爆発するような歓声が船橋競馬場を揺らした。
「ゴール! 先頭はホッコータルマエ! かしわ記念を制したのは、クラシック級のホッコータルマエ! GI初制覇です!!」
俺はスタンドの隅で、拳を握りしめていた。
声が出ない。ただ、攻略ノートのページが頭の中で開いて、そこに書かれた五文字が白く焼き付いている。
『GI初勝利』
当たった。
今回も、当たった。
▪ ▪ ▪
ウイニングライブ。
GI級ライブのセンターに、ホッコータルマエが立っている。
初めてのGIセンター。スポットライトが真上から降り注ぎ、彼女の勝負服のピンクが眩しく輝いている。
『UNLIMITED BEAT』のイントロが会場を揺らす。
タルマエが踊り出した。振り付けは完璧とは言い難い。ステップが少しもたつく。腕の角度が甘い。
だが、表情だけは——誰にも負けていなかった。
泥臭いレースを走り切った直後とは思えないほどの、全力の笑顔。
曲が終わり、拍手が波のように広がる。
息を切らしたタルマエの手に、マイクが渡された。
MCの時間。
通常なら、関係者への感謝やファンへのお礼を手短に述べて終わる。
だがタルマエは、一拍の間を置いてから、客席を真っ直ぐに見据えた。そして、深く息を吸い込んだ。
「——とまこまい観光大使、ホッコータルマエだべ!」
歓声。笑い声。拍手。
レパードSの時の困惑混じりのざわめきとは違う。今度は——温かい。
「今日はGI、勝てました! でも、この勝利は私一人の力じゃありません。トレーナーさん、寮のみんな、リッキーさん、アキュートさん——そして、苫小牧のみなさんのおかげです!」
彼女の声が、船橋競馬場に響いている。
「苫小牧に来たら、ホッキ貝食べてくださいね! マルトマ食堂のホッキカレーは並ぶ価値あります! それから工場夜景も——」
話し始めたら止まらない。
ロコドルモードのスイッチが入った彼女は、もう誰にも止められない。
制限時間が来てマイクを回収されるまで、彼女は一心不乱に苫小牧をPRし続けた。
スタッフが苦笑している。客席からスマホで撮影している人がいる。
「またあの子だ」「面白いなぁ」——その声に、もう嘲笑の色はなかった。
俺はスタンドの隅で、それを見ていた。
涙を堪えている。
なんで泣きそうなのか、自分でもわからない。彼女が勝ったから? GIウマ娘になったから? それもある。だが、それだけじゃない。
彼女が、輝いている。
あの暗いドームの空席の中で「ごめんなさい」と震えていた世界線は——もう、ここにはない。
俺がやったことは、ノートの答えを読み上げただけだ。だが彼女は、その答えの上に、自分の力で、自分の人生を積み上げた。
これが正史だ。
これが、ホッコータルマエの物語だ。
俺はもう一度涙を拭おうとした時——隣で、声がした。
「すみません、そこの隣、空いてますか?」
男が一人、俺の隣に座っている観客に向かって、俺の席を指差していた。
「あの——座ってます」
俺が声を上げると、男はようやくこちらを見た。
「あ……すみません。気づかなくて」
男はおかしいな、と戸惑ったように頭を掻きながら去っていった。
また、だ。
レパードSの時と同じ。目の前に座っている人間が「いない」と認識される。
あの時は一度きりだから「気のせいだ」で流せた。だが二度目となると——偶然という言葉が、急に薄っぺらくなる。
俺は椅子の肘掛けを握った。
ステージの上で、タルマエがまだ苫小牧をPRしている。
その声が、さっきまでより遠く聞こえる。
▪ ▪ ▪
ライブ後。
関係者通路を歩いていると、警備員に止められた。
「失礼します。IDを見せていただけますか」
「はい」
首から下げたトレーナーパスを見せる。
警備員はパスをじっと見た。
それから俺の顔を見て、もう一度パスを見て——妙に長い間があった。
「……ホッコータルマエさんの、トレーナーの方……ですよね?」
確認というより、自分に言い聞かせるような口調だった。
普通のIDチェックなら数秒で終わる。なのに、この警備員はパスと俺の顔を三度見比べた。
まるで、目の前の情報と、認識が噛み合っていないかのように。
「……はい。そうです」
「失礼しました。どうぞ」
通してもらえた。
だが、あの妙な間は何だったのか。
パスは本物だ。写真も名前も載っている。なのに、それを持っている人間を認識するのに、あれほど時間がかかるものだろうか。
俺は足を速めた。
ダウンジャケットのポケットの中で攻略ノートを握りしめる。
(気のせいだ。……たぶん)
その四文字が、回を追うごとに重くなっていく。
通路の先で、タルマエの声が聞こえた。
「トレーナーさーん! 勝ちましたよ! GI、勝ちました!」
彼女は満面の笑顔で走ってきた。
汗と砂にまみれた勝負服。目には涙の跡。それでも、今まで見た中で一番輝いている顔。
「……ああ。おめでとう」
「えへへ……苫小牧の名前、ちゃんと言えました。マルトマ食堂のことも、工場夜景のことも。全部!」
「聞こえてた。……全部、聞こえてたよ」
彼女は嬉しそうに笑った。
俺の顔を真っ直ぐに見て、迷いなく。
彼女だけは、俺を見ている。
彼女の目には、俺がちゃんと映っている。
今は——まだ。
――[System]: GI victory #1 registered. Historical alignment: 97%. Initiating Trainer data compression...