紅魔館の朝は遅い。
幻想郷の人間の多くが農に従事し、夜明けとともに身体を起こす。朝五つというのは、十分すぎるほど遅い時間だろう。だが、それは決して彼が惰眠を貪った結果ではない。
主人は吸血鬼であり、活動の主は夜だ。従者として付き合えば、昼夜が反転するのは自然な成り行きだった。
結果として、彼の睡眠時間は多く見積もっても二刻半。紅魔館において「朝は寝床でグーグー言っている」という妖怪側の定番からすると、むしろ彼は例外に近い。
目が覚めたとき、彼は自分がどれくらい眠ったのかを考えなかった。紅魔館では、眠った時間の長さは評価に含まれない。起きて動けるかどうか、それだけが重要だった。
天井は見慣れている。赤い意匠も、装飾もない客室用の簡素な造りだ。豪奢な館の中では最も飾り気のない場所だった。
彼は上体を起こす。きし、と背骨が鳴った。痛みはある。だが数える必要がある痛みは、もっと深いところに溜まっている。
ベッドの端に腰を下ろし、しばらく動かない。心拍が落ち着くのを待つのは、毎朝の癖だった。立ち上がるタイミングを誤ると、視界が暗転することがある。時間を置いてようやく足を床につける。
冷たい。
それでいい、と彼は思う。冷たさは、まだ生きている証拠だ。
部屋に備え付けられた洗面台の前に立つ。鏡の中の男は、相変わらず冴えない顔をしていた。
目の下には濃い隈。肌は血色が薄く、唇は乾いている。
――まあ、こんなものだ。
評価はそれだけだった。
蛇口をひねる。水音が静かな空間に響く。両手ですくい、顔を洗う。冷水が皮膚を打ち、意識がはっきりする。タオルで水気を拭き取る。乱暴ではないが、丁寧でもない。
次に髭剃り。剃刀を当てる角度は決まっている。肌を切らないよう、血が出ると面倒だ。
白い泡を洗い流し、もう一度鏡を見る。顔は少しだけ“仕事用”になっていた。
歯を磨く。力は入れない。うがいをして、コップを戻す。
髪は、櫛を使わない。手櫛で十分だった。数秒で形が整う。執事として不快感を与えない程度。
白いシャツに腕を通し、前を留める。動きに無駄はなく、迷いもない。執事服はすでに身体の一部のように馴染んでいた。
――彼の視線が、洗面台の端に置かれた腕時計に向いた。一瞬、手が伸びる。だが、指先が触れる前に止まった。彼は、腕時計を取らなかった。
時間を管理するのは、自分の仕事ではない。それは、上司の役目だ。
十六夜咲夜。完全瀟洒の異名をとる、紅魔館の誇るメイド長。彼女が「今だ」と言えば今であり、「まだだ」と言えばまだなのだ。だから彼は、時計を身につけない。時間に追われる必要はあっても、時間を持つ必要はなかった。
ベストを着て、最後に黒い執事服のジャケットを羽織る。それを羽織った瞬間、背筋が自然と伸びる。鏡の中の男は、さっきより“役割”を帯びていた。
机の端に置かれた白い手袋を取る。布越しの感触が、少し遠くなる。それで十分だった。
――増えたのは、俺じゃない。
――“執事の俺”だ。
その考えは、もう違和感なく胸に収まる。
袖口を整えたところで、深呼吸を一つ。ため息にはならない。ドアノブに手をかける。
今日も仕事は多い。足りなければ、増えればいい。彼はそう思いながら、部屋を出た。
紅魔館の一日は、もう始まっている。
食堂には、既に湯気が立っていた。油の弾ける音と、焼けた肉の匂い。それだけで、空腹が自覚できる程度には、彼の感覚はまだ鈍っていない。
皿の上には、カリカリに焼かれたベーコンと、半熟の目玉焼き。黄身はまだ柔らかく、白身の縁だけがこんがりと色づいている。
彼が席に着くのを待っていたかのように、向かいの椅子が引かれた。十六夜咲夜が、静かに腰を下ろす。彼女は肘をテーブルにつき、頬杖をついた。表情は柔らかいが、視線は逸れない。
管理のために。それ以上でも、それ以下でもない。
彼はフォークを取り、ベーコンを一切れ口に運ぶ。噛む音が、妙に大きく響いた。
「……焼きすぎじゃないですか」
そう言うと、咲夜は少しだけ眉を上げる。
「脂が残ると、動きが鈍るでしょう」
理屈は正しい。彼はそれ以上何も言わず、目玉焼きにフォークを入れた。黄身が、とろりと流れる。それを見て、咲夜は満足そうに目を細めた。
「ちゃんと食べなさい。今日は、長いわよ」
彼は一瞬、返事に迷ってから頷いた。
「……今日は、どのくらい必要ですか?」
咲夜は一瞬だけ考え、視線を逸らさずに答えた。
「足りる分だけ」
彼はそれ以上、何も聞かなかった。
朝食を終えると、彼は無言で立ち上がった。椅子を戻す音が静かに床に溶ける。
咲夜が何も言わないのを確認してから、彼は仕事道具のある倉庫へ向かった。
最初は正面玄関ホールの銅像だ。装飾過多な吸血鬼趣味のそれは、青銅ではなく真鍮製だった。湿気の多い幻想郷では、放っておくとすぐに曇る。
彼は布で埃を払ったあと、真鍮ブラシを手に取る。毛先は硬すぎず、柔らかすぎない。力は入れない。円を描くように、表面だけを撫でる。磨く音は、ほとんどしない。
文は、いつの間にかメモを取る手を止めていた。
「……銅像って、こんなに静かに磨けるものなんですね」
「磨いてるんじゃなくて、起こしてるだけなんで」
彼はそう言って、次の面に移る。装飾の隙間に溜まった埃を掻き出した後、乾いた布で表面を整え、最後に薄く油を引く。曇りが消え、鈍い光沢が戻る。やりすぎれば、光りすぎる。顔が映るほどにはしない、この館ではそれは下品だ。
次は廊下のカーペット。
赤いそれはペルシャ風だが、素材はウール製のキリムだった。染料が弱く、熱に弱い。
彼は桶に冷水を張る。お湯は使わない。そこに、頭髪用の中性洗剤を少量。泡立たせず、溶かすだけ。
さらに、塩をひとつまみ。
「……塩?」
「染料止めです。色が逃げると、レミリア様が嫌がるんで」
説明はそれだけだった。端から、叩くように汚れを浮かせ、洗剤水で拭き取り、すぐに真水で中和する。手際は良いが、急がない。
床に伏せ、目線を低くして、毛並みの向きを揃える。光の当たり方が変わり、模様が一段はっきりした。
昼前には、階段の手すりの修理に取りかかった。
昨夜、妖精メイドが滑って欠けた箇所だ。
木材は古く、釘を打つと割れる。彼は木工用の膠を温め、欠けた部分を合わせる。固定具で圧をかけ、乾くまで待つ。
「すぐ直さないんですね」
「急ぐと、また壊れます」
乾くのを待つ間、彼は別の仕事に移った。
午後、彼は一度だけ増えた。その瞬間、文は「今、何人いたか」を思い出せなくなった。
二人になった彼らは、何も言わずに役割を分ける。一人は窓の修理。一人は厨房の器具点検。
文は、その光景を見て、思わず笑った。
「便利ですねえ」
二人の彼は、同時にこちらを見る。
「「……そう見えます?」」
その声は、完全に重なっていた。
「今日は、何人分の仕事を?」
「「足りる分だけです」」
彼らはそう答えて、何事もなかったように道具を片付け始めた。
作業場の一角で、彼は小さな布を広げた。増えた彼の姿は、その後誰にも確認されなかった。説明はない。確認もしない。
中央に並ぶのは、銀のナイフ。
咲夜のものだ。
戦闘用であり、道具であり、彼女自身の延長でもある。
まずは一本ずつ、状態を確かめる。刃こぼれはない。だが、微細な歪みと、指紋が残っている。
彼は素手で触れない。彼はシルバーダスターを手に取った。銀専用の、きめの細かい布。磨くのではない。撫でる。刃の根元から、先へ。一定の速度で、呼吸に合わせて。指紋が消え、光だけが残る。
柄の滑り止めの刻みは、汚れが溜まりやすい。手汗が最も付着しやすい部分だ。綿棒を使い、溝をなぞる。一本ずつ。妥協はしない。最後に極薄く油を塗る。余分は布で拭き取る。ナイフを一本ずつ、同じ角度、同じ圧で拭っていく。
彼はただ、銀が銀である状態に戻す。並べ直されたナイフは、光を受けて、静かに揃っていた。
いつの間にか、背後に気配があった。彼が最後の布を畳んだ、その瞬間。十六夜咲夜は、ナイフに一度だけ視線を落とし、それから彼を見た。
「……手を抜かないのね」
褒め言葉でも、命令でもない。だが彼は、それで十分だった。
「仕事ですから」
「これで美鈴の体にも、ちゃんと通るわ」
彼は一瞬だけ言葉に詰まり、
「……それは、良かったです」
そういうしかなかった。
夕刻。窓の外の空が、赤から紫へと滲む頃。
館の空気が、ゆっくりと変わった。音が増えたわけでも、灯りが点いたわけでもない。ただ、静けさの質が変わった。
紅魔館の内部では、目に見えない合図が走る。鐘も、号令もない。ただ――起きたな。彼はそう判断した。
彼は即座に動線を頭に描いた。レミリア様が起きて最初に通りそうな廊下。カーテンの開け閉め。窓の位置。季節によって違う陽光の残滓。
日中に直した手すりに、もう一度だけ手を置く。問題ない。彼は何も言わず、その場を離れた。
彼の仕事は、ここからが本番だ。
主が起きた瞬間から、館は加速する。
妖精メイドたちが動き出す。廊下に灯りが入り、厨房からは音が増える。
彼は、その“隙間”を埋める。配膳の動線を確認し、彼は皿の位置を一枚だけ直した。一センチも動かさない。ほんの数ミリ。それだけで、「食べる気になる配置」になる。
椅子の位置を半歩ずつ直す。妖精が躓きそうな箇所を、目立たないように避けさせる。
この時間帯は、増えない。人手は足りている。足りているなら、増えない。
夜の紅魔館には、客が来る。招かれざる客も含めて。
門番が止める前に、彼は気づく。外套の擦れる音。空気の揺れ。
彼は一歩前に出る。
「本日は、当館へのご用件は?」
それだけで、大抵の妖怪は引き返す。
レミリア様は、気まぐれだ。
「ねえ、あれ」
指差されるのは、天井の装飾。昼間に磨いたばかりの銅像だ。
「もう少し、光ってた方がいいわ」
彼は一瞬だけ考え、頷く。
「承知しました」
増える。
五人。
四人が肩車で道となり、一人が布を取る。数分で終わる仕事だ。だが、確実に終わらせる。終わった後、数は問題にならなかった。それだけだ。
宴会が始まる前。この時間が、最も事故が起きやすい。
彼は、目立たない位置に立ち続ける。誰かが滑りそうになる前に、手が出る距離。視線が届く距離。それが、彼の立ち位置だ。
言っている傍から階段を下りてきた妖精メイドの足が、わずかに滑った。
彼は考えなかった。身体が先に動いた。転倒はなかった。何事もなかったかのように、時間はそのまま流れた。
「……あ」
文は一拍遅れて瞬きをし、「……へえ」とだけ言って、メモを取った。
彼は相手を離し、元の位置に戻る。乱れた袖を直しながら、いつもの調子で答えた。
「よくあることです」
文は一瞬だけ首を傾げたが、その場では彼だけがそれを“普通”だと思っていた。
日の出前。宴が終わり、館が静まる頃。
「今日、何も壊れてない?」
「はい」
「じゃあ上出来ね」
レミリア様のことはメイド長に任せ、彼は最後に廊下を一周する。灯りを落とし、窓を閉め、気配を消す。仕事は終わった。
終わったからといって、達成感はない。ただ、“今日も壊れなかった”という確認だけが残る。
階段を上りきったところで、足音が止まった。十六夜咲夜が、そこに立っている。
「……終わった?」
「はい。異常はありません」
咲夜は一度だけ頷いた。
「休みなさい」
彼は、ほんの一瞬だけ迷ってから口にする。
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
それだけだった。
彼が去った後も、咲夜はしばらくその場に立っていた。
数日後。
「いい取材ができましたよ」
射命丸文は、そう言って新聞を差し出した。見出しにはこうある。『紅魔館の執事、たった一人で大活躍!』勤勉で手際がよく、仕事が早い。妖精たちからの評判も悪くない。
だがそこに「増える」という文字は、一つもない。
「随分、普通ですね」
彼が言うと、
「普通が一番売れるんですよ」
文は笑った。彼は新聞を畳み、脇に置く。
紅魔館の一日が始まる。そして明日も、同じ一日が始まる。
――それだけのことだ。足りている限りは。