紅魔館の朝は、いつもより少しだけ静かだった。
静かだといっても、音がないわけではない。廊下を渡る風の音も、窓辺で妖精が羽を鳴らす気配もある。ただ――いつもなら聞こえているはずの、甲高い笑い声が、いくつか抜け落ちている。
「……あれ?」
妖精メイドの一人が、盆を抱えたまま立ち止まった。
「今日、少なくない?」
言われてみれば、そうだった。廊下を行き交う影が少ない。配膳の列も短い。誰かが遅刻しているというより、最初から“いない”感じがする。
「季節、変わったからじゃない?」
「昨日、風の匂い違ったよね」
「外に行っちゃった子、多いのかも」
理由はすぐに見つかったし、深く考える者はいなかった。妖精にとって、季節の変わり目はそういうものだ。集まったり、散ったり、気分で動く。それだけの話だった。
その日、紅魔館では宴会の準備が入っていた。新しい季節を迎えるための、いつもの宴会だ。特別な意味はない。ただ、変わったから祝う。それが吸血鬼の館の流儀だった。
問題は、準備の量だった。
「お皿、足りないよ!」
「厨房、手が回ってない!」
「装飾、まだ途中なのに!」
声は上がるが、怒鳴る者はいない。ただ、忙しい。明らかに人手が足りていなかった。
そこに、執事が現れた。
白い手袋。黒い服。いつも通りの姿だ。彼は一度だけ周囲を見回し、状況を把握すると、特に表情を変えずに言った。
「……少ないですね」
「でしょ?」
「今日、ちょっと大変なんだよ」
妖精メイドが軽く返す。
その背後で、気配が重なった。気づけば、同じ服装の執事が、もう一人立っていた。
「……あ、増えた」
誰かが言った。
「助かる〜!」
それだけだった。
増えた理由を問う者も、数を数える者もいない。仕事は再び動き出し、廊下に音が戻ってくる。
新しい季節は、そうやって始まろうとしていた。
増えたことで、仕事は一時的に回り始めた。
「助かるー」
「ほんと便利」
妖精メイドたちの声が、少し軽くなる。
「ねえ、ちょっと肩」
「脚がだるくてさ」
「背中、そこ」
彼は一瞬だけ言葉に詰まり、手を止めた。
「……それは」
「何してるの」
低い声が落ちる。十六夜咲夜だった。
「彼は雑用係ではありません。私的な用事に使わないで」
その言い方は、庇うようでいて、線を引くようでもあった。
「えー」
「ちょっとくらいいいじゃん」
「よくありません」
咲夜は視線を逸らさず言い切った。妖精たちは肩をすくめ散っていく。
「じゃ、外行こ」
「今日は休みー」
数が、また減った。
彼は何も言わず、仕事に戻った。足りなくなることは、想定していた。
宴会が始まると、紅魔館は一気に騒がしくなった。
楽団の音が鳴り、杯が打ち合わされ、妖精メイドたちが忙しなく飛び回る。足りないはずだった人手は、いつの間にか問題にならなくなっていた。
料理は滞らない。酒は切れない。皿は溜まらない。
誰かが転びそうになれば、腕が伸びる。誰かが呼べば、返事がある。
――執事がいる。
それだけで、場は回っていた。
彼は増えていた。だが、その数を把握する必要はなかった。
一人が配膳をし、一人がグラスを回収し、一人が床の汚れを拭い、また一人が、妖精メイドの後ろにそっと立つ。
誰も合図を出さない。彼らは目を合わせず、声も交わさず、それぞれの役割を埋めていく。
妖精メイドたちは、もう気にしていなかった。
「次、肉!」
「はーい!」
「グラス足りない!」
「来てる来てる!」
呼び声が上がるたび、対応は間に合う。
間に合うから、不安は生まれない。
不安がなければ、疑問も生まれなかった。
宴もたけなわという頃、咲夜は一歩引いた位置から全体を見渡していた。
時計は見ない。数も数えない。
ただ、“回っているかどうか”だけを確認する。
彼女の視線が、ふと執事に向いた。
正面にいるのは、一人。だが、視界の端で、同じ動きが重なった気がした。
咲夜は気に留めなかった。
仕事が終われば、問題は解決する。足りなければ、彼がいる。それだけで、誰も困らなかった。それで今まで問題は起きていない。
宴の終盤、客の動きが落ち着き始めた頃。咲夜は彼に近づいた。
「……今日は、忙しかったわね」
彼は一瞬だけ間を置いて、頷く。
「回っていた?」
「問題なく」
咲夜はそれ以上踏み込まなかった。
「なら、いいわ」
それで会話は終わるはずだった。
「ねえ」
横から、軽い声が割り込んだ。
盆を抱えた妖精メイドが、彼を見上げている。
「結局さ、あんた何人なの?」
周囲の妖精たちも、つられてこちらを見る。問いは軽い。深刻さはない。ただの興味だ。
彼は、すぐには答えなかった。数を思い浮かべようとして――やめる。
「……必要な分だけです」
一拍。
妖精メイドはきょとんとして、それからぱっと笑った。
「あ、じゃあさ」
「足りる分だけの執事、じゃん」
その場に、妙な間が落ちた。
次の瞬間、
「分かりやすいね」
「それでいいじゃん」
「呼びやすい!」
誰かが繰り返す。別の誰かも、同じ言葉を口にする。
「足りる分だけの執事」
「ね、足りる分だけいればいいし」
言葉は、あっという間に定着した。
彼は何も言わなかった。否定する理由が、見つからなかったからだ。
咲夜は、その様子を少し離れた場所から見ていた。何も言わず、止めもしない。ただ一度だけ、視線を細める。
宴は続く。仕事は回る。
紅魔館には、人手が足りない夜がある。だが、その夜に困ったことはなかった。
――足りる分だけの執事が、いる限りは。