紅魔館の地下大図書館は、静かだ。
音を立ててはいけない、という意味ではない。むしろ本そのものが、騒がしい。棚に収まる魔導書は一冊一冊が癖を持ち、勝手に開いたり、閉じたり、鳴いたり、燃えたりする。だがそれらは「通常運転」であり、紙の擦れる音、ページを捲る音、魔力が定着した装丁が、わずかに鳴る気配。それらを“静か”として許容できる者だけが、この場所で働ける。
そのため問題が起きるとすれば、だいたい外部要因だ。
彼は増えた。
今日は、八人だ。そう決めていた。
理由は単純で、図書館の整理が入ったからである。
「じゃ、役割分担ね」
咲夜の声が落ちる。
「本棚整理」
「書庫奥の分類」
「閲覧席の清掃」
「予備書架の補修」
淡々と告げられ、最後に一言が付け足された。
「……パチュリー様の、補助」
沈黙。
増えた彼らは顔を見合わせた。誰も声に出さない。出せない。
――あれは、当たりか。
――それとも、ハズレか。
「公平に決めよう」
そう言ったのは、彼自身だった。
「じゃんけんで」
反論はなかった。全員が一斉に拳を出す。
結果は、あっけなかった。負けた一人が、扇を手に取る。
その背中を、他の七人が心の中で見送った。
「「「「「「「(……あっちじゃなくて、良かった)」」」」」」」
誰もが、同じことを考えていた。
パタ、パタ
扇ぐ。ただ、それだけの仕事だ。
――だが、簡単ではない。
ページがめくれてはいけない。埃が舞ってはいけない。風が止まってもいけない。強すぎても、弱すぎてもいけない。
そして何より、魔女の機嫌を損ねてはいけない。
扇ぐ彼は、神経を研ぎ澄ませていた。呼吸のタイミング、視線の動き、咳の前兆。それらを読み取り、風量を調整する。
「……今の、うるさい」
だが無情にもパチュリーの一言で、すべてが変わる。
彼は即座に風量を落とす。扇の角度を一度だけ変え、振り幅を三分の二にする。
沈黙。ページが、ゆっくりと進む。合格だ。
背中に、じっとりと汗が浮かぶ。
その頃、他の彼らは――
「この棚、分類ズレてるな」
「後でまとめて直そう」
「……あ、これ危険書」
「小悪魔? この配置でもいい? 飛んで上から確認してくれないかな?」
「……スカートを覗かないでくださいね」
比較的、平和だった。そして、その平和は唐突に破られる。
――ドンッ。
天井が、鳴った。
「……来たわね」
パチュリーが呟く。
次の瞬間。
「やっほー! 相変わらず暗くて本だらけだな!借りに来たぜー!」
霧雨魔理沙が、屋根を突き破って降ってきた。パチュリーが即座に魔法を放ち、魔理沙が応戦する。
本棚が倒れる。本が舞う。魔力が暴発する。
「侵入者よ!」
「知ってる知ってる!」
「見りゃわかる!」
屋根が崩落し、何人かの彼が巻き込まれる。扇いでいた彼は余波で吹き飛ばされている。本棚の下敷きになった彼もいた。
声は上げなかった。上げる暇がなかった。別の彼は、小悪魔と一緒に物陰へ飛び込む。
「ひとまず逃げましょう」
小悪魔に手を引かれ、彼は図書館を後にした。
瓦礫の落ちる音がようやく止み、彼らは戻ってきた。
「はいはい、今日はこの辺で!」
魔理沙は笑い、穴をさらに広げて帰っていく。焦げた紙の匂いと、魔力の残滓が図書館に漂っている。残ったのは――沈黙と、瓦礫と、本の山。
「……修理が必要だな」
誰に言うでもなく、そう判断した。そして増えた。
五人……十人……数は数えない。
増えた彼らは、状況を一瞥してから、自然に円を作る。
「じゃ、役割分担だな」
誰かが言った。
「本の回収」
「天井の応急処置」
「瓦礫撤去」
「床の清掃」
「介抱」
そして、間があった。
「……公平に」
拳が、上がりかけた。
「じゃんけん――」
「ちょっと待ってください!!」
甲高い声が、壊れた図書館に響いた。
小悪魔だった。羽をばたつかせて彼らを睨んでいる。
「なに呑気なこと言ってるんですか!パチュリー様が先です!優先順位くらい、分かってください!」
拳は、ゆっくりと下ろされた。誰も言い返さない。彼らは互いに顔を見合わせ、そして――
「……すみません」
全員が、同時に頭を下げた。
「……介抱、俺が行きます」
一人がそう言い、すぐに動く。
他の彼らも、それに続いた。役割分担は、もう言葉にしなくても決まっていた。
小悪魔は一度だけ、深く息を吐いた。
「……本当に、心臓に悪いんですから」
その言葉は、誰に向けたものか分からなかった。
夜になった。
それでも、作業は続く。修復は遅々として進まない。
梁は歪み、魔力で焦げた木材はそのまま使えない。魔導書は分類以前に、封印と安定化が必要だった。床を掃いても、すぐに紙片が落ちてくる。天井を塞げば、別の場所がきしむ。破れた結界紙は、貼り直しても定着しない。
増えても、仕事は減らない。増えた分だけ、「やるべきこと」が見えるだけだ。
灯りが追加され、誰かが無言で茶を淹れ、誰かが床に座り込む。それでも、誰も手を止めない。
ようやく、最後の板がはめ込まれたのは深夜になってからだった。
彼は天井から降り、床に足をつける。埃まみれで、息は荒い。空気には、はっきりと“疲労”が残っていた。
彼は、床に膝をついたまま、最後の汚れを布で拭っていた。図書館は、元通りだった。いや――正確には、「使える状態」に戻っただけだ。
「おー、もう直ってるじゃん!」
頭上の穴から、気楽な声が落ちてきた。霧雨魔理沙だった。ほうきに腰掛け、縁にぶら下がるようにして中を覗いている。
厳密には、天井の穴は完全には塞がっていない。応急処置だ。明日、日が出てから本格的に直す。
「いやー、早いな!さすがだな、増える執事!」
――その瞬間。
誰も、返事をしなかった。
床を掃いていた者も。棚を固定していた者も。パチュリーの傍にいた者も。全員が、ぴたりと動きを止めた。
魔理沙は首を傾げる。
「……ん? どうした?」
彼は手にした布を落としたことを気にも留めず、ゆっくりと立ち上がった。
「……早くは、ないですよ」
声は静かだった。だが、妙に低い。
「昼間から、今までです。途中で何人か、動けなくなりましたし」
魔理沙は、少しだけ笑顔を引っ込める。
「……あー。そう、か」
それ以上、何も言わなかった。軽口の続きを探すように口を開きかけて、やめる。
「じゃ……ま、またな」
魔理沙はそう言って、穴から身を引いた。ほうきの風切り音が、遠ざかっていく。そして逃げるように宴会の場に向かっていった。なぜ、あの侵入者はいつも客扱いなのだろうか。
図書館には、再び静寂が戻る。本の鳴く音だけが、遠くで微かに響いていた。
彼は、床に落とした布を拾い上げる。
直すのが早いのではない。直さなければ、終わらないだけだ。
――だから、増やした。
そう思いながら、彼は最後の一拭きを続けた。