紅魔館の中庭は、朝と夜の境目にある。
日が高いわけではない。月が支配しているわけでもない。館の主が眠り、空気がまだ緩んでいる――その隙間に、門番は一人で立つ。
紅美鈴は息を吐き、そのまま一歩、前へ出た。掌を返す。肩を落とす。視線は穏やかなまま、しかし身体は一分の隙もなく、そこに在る。
「来ましたか」
声は柔らかい。だが、その一言で空気は“訓練”へと切り替わった。
彼は黙って頷いた。
いつもの執事服ではない。渡されたのは装飾の少ない、簡素なチャイナ服だった。色は落ち着き、布は軽い。動きやすさを優先した作りで、袖口の締めも緩やかだ。
「……いいんですか、これ」
「いいですよ。制服で転ぶ方が、後で面倒でしょう」
美鈴は笑い、彼はそれ以上何も言わずに袖を整えた。
体を鍛える理由は単純だった。増えたとき、そのまま使えるからだ。
増えた自分は、新しく鍛え直す必要がない。今の自分が、そのまま増える。経験をそのまま使える。
不思議と背筋は伸びなかった。執事服のときだけ、身体が勝手に“役割”を演じる。でも今日は違う。だから、伸びないまま構えを取る。
教わったわけでも、覚えたわけでもない。転ばない位置に立ち、ぶつからない距離を取る。躓かない角度で足を置く。仕事で叩き込まれた習慣が、そのまま“構え”になっていた。
「……変な足運びですね」
美鈴は即座に言った。褒めもせず、貶しもしない。ただ事実を拾い上げる。
「仕事です」
「でしょうね」
頷くと同時に、彼女は距離を詰めた。
踏み込みは速い。速いのに、重い。彼は反射で半歩下がる。椅子や皿を避けるときと同じ距離を、身体が勝手に選んだ。結果として、美鈴の拳は空を切る。
だが、美鈴は崩れない。崩れないまま、次が来る。
彼は後ろへ、横へ逃げる。逃げ方だけは上手かった。廊下で妖精メイドの列を崩さないために身につけた動きが、ここでも同じように働く。
勝つつもりはない。勝てない。だが、倒れない。
それが、この場での唯一の正解だった。
「……少し、手を出しますよ」
言葉と同時に、空気が変わる。
身体が“危ない”と判断した。判断したのに、足が遅れた。美鈴の拳が、真っ直ぐに伸びてくる。彼は反射的に息を呑んだ――その前に、世界の方が先に動いた。
視界が二つに割れる。一人は左へ。一人は右へ。避けるために、二人になった。
美鈴は驚かない。ただ、小さく体を捻った。修正された拳が、右の彼の頬に直撃する。軽いはずの衝撃が骨に響き、痺れが走る。
——ぱきん、と何かが折れる音がした。
残った一人へ、世界は静かに収束する。
――きし。
音は小さい。だが足首の内側に、嫌な熱が生まれた。彼は表情を変えない。変えない癖がある。さっきの無理な回避で足首をひねっていた。
転ばない。転ばないために、一歩踏み替える。
「大丈夫ですか?」
美鈴の声は優しい。だが止めるための優しさではない。続行できるかを測るための、それだ。
「……問題ありません」
口が勝手に答えた。問題はある。だが、立てる。立てるなら続行だ。やめる理由はあっても、やめていい理由は――どこにもない。
次の動きへ移ろうとして、一瞬だけ迷う。足首が遅れる。遅れれば転ぶ。転べば怪我が増える。怪我が増えれば、仕事に響く。
考える必要はない。いつもなら。だが今日は訓練だ。彼は息を吐き、足を置き直した。
今日、増えるとすれば――それは“カンフーの俺”だ。
冗談ではなかった。役割として必要な動きだけを切り出す。それが、俺の“増え方”だった。
今度は三人。三人になった俺達は、言葉を交わさない。交わす必要がない。
美鈴が少しだけ目を細める。
「それでも……増えるんですね」
「「「必要なら」」」
「そうですか」
それだけだった。
驚きも、恐れもない。門番として、紅魔館の“変”には慣れている。
一人が前へ。
一人が横へ。
一人が後ろへ。
囲まない。囲めば攻撃になる。攻撃は不要だ。だが一人ではできないこと。だから増えた。手を貸してもらいたかったからだ。
道を作る。逃げ道を確保する。ぶつからない距離を保つ。仕事と同じ動線管理。
美鈴の拳が走る。彼らは崩れない。崩れないことだけに、全力を注ぐ。
だが――足首の痛みは消えない。
踏むたびに、同じ場所が鈍く叩かれる。三人の動きが同じ拍子で鈍り、同じ角度で重心を崩しかけ、同じ足首を庇った。当然のように、誰もそれをおかしいとは思わなかった。
美鈴が動きを止めた。
「……足、痛めましたね」
否定しなかった。否定する理由がない。
「……はい」
最後に残った彼は、足首を僅かに浮かせて立った。
「今日はここまでです」
「承知しました」
反射で返事をして、ようやく思い出す。――訓練は、仕事ではない。遅かった。その遅さ自体が、怪我だった。
美鈴は木箱から布を取り出し、足首に巻く。手つきは慣れている。門前は、怪我の多い場所だ。軽い対処は出来る。
「歩けますか?」
「歩けます」
嘘ではない。歩ける。歩ける範囲で動けばいい。それが、彼の生き方だ。
「……さっき、増えた理由」
彼は足を止めない。
「一人では、少し足りなかっただけです」
「……手を借りるのは、悪いことじゃないですよ」
返事はなかった。借りた相手が“誰か”ではなく“自分”だった。その違いを、彼は言葉にできない。
美鈴が肩を貸し、歩き出す。パチュリーの治癒魔法を頼るべく図書館に向かう途中、妖精メイドが駆けてきた。いつもなら彼は自然に身体をずらし、ぶつからない位置を取るが、今日は難しいようだ。
「執事さん! 宴会の飾り、足りないんだけどー!」
「分かりました。すぐ行きます」
声は、いつも通りだった。
美鈴は、少しだけ呆れた顔をした。
「……こんな時でも、仕事のことなんですね」
その声は、呆れよりも——少しだけ、心配に近かった。彼は、何も言わなかった。足首の痛みだけが、確かな現実だった。
――増えても、痛みは消えない。
――逃げ場が増えるわけでもない。
それでも、必要なら増えるだろう。正しいかどうかを考える前に。
そういう仕組みで、この館は回っている。止まる気配もなく。
紅魔館は、朝も昼も夜も、同じように続く。