悪魔と呼ばれ慣れて 3rd   作:ボルメテウスさん

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崩壊した街の救援

土煙が夜風に薄ぎられていく。

 

視界の奥で横たわる黒い巨体は、もう脈動していない。ブレイキングインパクトの衝撃でひび割れた体表からは、時折かすかな崩落音が響くだけだ。だが、俺は装甲の内側で息を殺し、足の裏に神経を集中させていた。

 

地下からの振動は消えた。だが、消えたからといって終わりではない。あいつが再び共鳴を試みない保証はない。

 

「ツカサ」

 

ゼータの声が右足元から届いた。振り返らずともわかる。あいつは巨大個体の残骸から目を離さずに立っている。

 

「地下の振動、まだない」

 

「ああ。だが油断はできない」

 

俺は短く返し、マンモスの装甲越しに地面の微細な揺れを探り続けた。何も来ない。空白の時間が長引くほど、終わったという感覚が麻痺していく。戦いが終わったと決めつけるのは、いつも一番危険な瞬間だ。

 

遠くから鋭い音が切り裂いてきた。

 

救護車両の警報音。それに重なるのは、夜空を震わせる回転翼の音だ。ヘリだ。はやてが手配した増援か、あるいは救護班か。ビルの谷間を縫って、赤と青の光が交互に夜を照らしていく。

 

破壊されたアスファルトと土煙の残滓の中に、救護班の車両が滑り込んできた。白衣と装甲服を纏った人影が飛び出し、手際よく担架を展開する。

 

「こちら、生存者六名確認! うち一名重傷! 即時搬送お願いします!」

 

救護班のリーダーの声が響く。地下から救出した大人たちが抱えられ、担架に乗せられる。女性案内人もだ。彼女の顔色は蒼白だったが、呼吸は確実に動いていた。

 

その様子を、ゼータは少し離れた瓦礫の上で見守っていた。周囲への警戒は解いていない。だが、俺にはわかる。あいつの金色の瞳が、運び出される人影を一つ、二つと追い、そのたびに唇が微かに動いている。

 

数えているのだ。六人。六人全員が出たか。あいつ自身の手で地下から引き上げた命の数を、確かめている。

 

デルタが通りの向こうから戻ってきた。瓦礫まみれの服を気にする様子もなく、救護班の動きをじっと見ている。尻尾が低い位置でゆっくりと揺れていた。戦いの高揚感がまだ残っているのか、それとも無事に終わったことに安堵しているのか。あいつの場合、両方だろう。

 

「六名確認! 女性案内人含め全員生存! 搬送開始します!」

 

救護班の報告が夜気に響いた。

 

その声を聞いた瞬間、俺の肩からふっと力が抜けた。ブレイキングマンモスの重厚な装甲が、急に質量を増したように感じる。いや、実際に俺自身の気の張り糸が切れたのだ。

 

最後の担架が救護車両へ収容される。ドアが閉まり、エンジンの音が高まった。

 

その直前だ。

 

担架に乗せられていた男の子が、閉まりゆくドアの隙間から顔を出した。視線の先にあるのは、瓦礫の上に立つゼータだった。

 

「ありがとう、お姉ちゃん」

 

か細い声だった。車両のエンジン音にかき消されそうなほど小さな声。

 

ゼータは一瞬だけ瞳をわずかに見開いた。

 

「……仕事をしただけ」

 

感情のない平坦な声。いつもの返しだ。だが、車両が動き出し、赤いテールランプが遠ざかっていくまで、あいつは視線を外さなかった。伏せていた獣耳が微かに立ち上がり、張り詰めていた肩のラインが少しだけ緩んでいく。あいつなりの安堵だ。

 

俺はそれを見ていた。茶化す気にはなれなかった。

 

「これで目的は達成だ」

 

俺は静かに告げた。マンモスの装甲が光の粒子となって分解され、マゼンタの光を経て、いつもの黒いジャケットへと戻る。解放された身体はやはり重く、膝が微かに揺れた。

 

ゼータがようやくこちらを向いた。表情はいつもと変わらない、淡々とした無表情。だが、その金色の瞳には長い夜の終わりが映っていた。

 

「戻るぞ。報告がある」

 

俺は二人に背を向け、夜風の吹く通りへ足を踏み出した。

 

背後には停止した巨大個体の残骸と、砕けたアスファルトだけが残された。遠ざかっていく救護車両の警報音が、無事に全員が生還したことを夜の街に告げていた。

 

変身が解けた瞬間、世界の重さが戻ってきた。

 

ブレイキングマンモスの装甲が光の粒子になって分解され、マゼンタの残光が夜の空地に溶けていく。質量が消える。俺の身体に宿っていた二十五トンの腕力と巨体の重量が消え、代わりに元の服と元の身体が戻る。

 

着地。

 

地面に足がついた瞬間、膝が揺れた。

 

一瞬だけだ。すぐに踏ん張る。大丈夫だ。まだ立っている。立っていればいい。

 

空地の中央には巨大個体の残骸が横たわっている。動かない。脈動も消えた。地下からの振動も届かない。ゼータが確認し、はやてが通信で反応消失を告げた。二体とも止まった。

 

終わった。

 

だが、終わったと決めつけるのはまだ早い。俺は残骸から目を離さず、足の裏で地面の振動を探った。何も来ない。空白が続く。五秒、十秒、三十秒。何も来ない。

 

「後続部隊が到着した。監視を引き継ぐ」

 

通信からはやての声が入った。落ち着いた声だ。総督の声に戻っている。

 

「ツカサ先生、ゼータさん。現場から離脱して。救治班が待ってる」

 

「わかった」

 

俺は短く答え、通信を切った。

 

歩き出す。

 

一歩目は問題なかった。二歩目も。三歩目で視界が揺れた。一瞬だ。すぐに戻る。四歩目。足に力が入らない。まるで地面が海綿みたいに沈む感覚。だが歩いている。歩けている。これでいい。

 

ゼータが俺の右側にいた。音もなく。気配もなく。だが確かにそこにいる。あいつは巨大個体の残骸から目を離さず、周囲への警戒を続けている。

 

そう思っていた。

 

だが五歩目で視界が再び揺れた。今度は一瞬じゃない。二秒ほど続いた。ブレイキングマンモスの負荷が身体に残っている。マンモスの重量は人間の体には厳しい。何度も変身していれば慣れるが、今回は長時間の拘束と共鳴の衝撃を受けた。内臓がまだ揺れている。

 

六歩目。

 

足が止まった。いや、止めたのではない。止まったのだ。膝が曲がる。地面が近くなる。手をつこうとして手が出ない。遅い。身体がついてこない。

 

膝が地面に触れた。

 

アスファルトの冷たさが膝を通じて伝わる。砕けた路面の砂利が服に食い込む。だが痛みは感じない。感覚が鈍っている。

 

「少し疲れただけだ」

 

声が出た。誰に言ったのか。自分だ。自分に言い聞かせるための言葉だ。立て。まだ立てる。立って歩け。救護班は近い。

 

だが膝が言うことを聞かない。

 

腕が伸びてきた。

 

ゼータの腕だ。

 

言葉より先に、あいつが俺の右腕を取った。細い指だ。だが力は強い。猫科の獣人の握力は人間のそれではない。あいつは俺の腕を引いて体を支えた。

 

俺はゼータの顔を見た。金色の瞳が俺を見上げている。表情は変わらない。淡々とした無表情。だが瞳の奥に何かがある。心配ではない。あいつは心配という感情を顔に出さない。だの何かがある。

 

「立てない人の台詞じゃない」

 

ゼータが言った。淡々と。事実を述べるように。感情が乗っていない。だがその声の温度だけが、いつもより少しだけ温かかった。

 

俺は何も答えなかった。答えられなかった。あいつの言う通りだ。立てない人間の「大丈夫」は嘘だ。俺は嘘をつかない。

 

「ツカサ!」

 

通りの向こうから声が届いた。デルタだ。あいつが走ってくる。瓦礫まみれの服を気にする様子もなく、全力でこちらへ走ってきている。

 

「デルタ、あたしが――」

 

あいつが何かを言いかけて、足を止めた。俺の状態を見たのだ。膝をつきゼータに支えられている俺を。

 

デルタの口が開いたまま止まった。何かを言おうとして、やめた。戦いに参加できなかった不満を口にしようとして、やめた。あいつの目が俺の膝から顔へ移る。耳が伏せた。

 

「…ツカサ」

 

あいつはそれしか言わなかった。不満も文句も何もかも飲み込んで、俺の名前だけを呼んだ。

 

「大丈夫だ。少し休めば――」

 

「休むなら救護班で休め」

 

ゼータが遮った。俺の腕を離さないまま。あいつの声は平坦だ。だが譲らない声音だ。

 

「ツカサ、あたしが運ぶ!」

 

デルタが一歩前に出た。俺の左腕を掴もうとする。

 

「デルタ、あたしの方が先に掴んでる」

 

「関係ない! あたしの方が力持ちだもん!」

 

「力関係ない。安定して運べる方がいい」

 

「あたしの方が安定するもん!」

 

「根拠がない」

 

「あるもん!」

 

「ない」

 

二匹が俺の腕を巡って喧嘩を始めた。俺はため息をつきたかったが、ため息をつく余裕すらない。膝が痛い。腕を引っ張られている。この状態で喧嘩されるのは困る。

 

「やめろ」

 

俺は二人の声を遮った。短く。はっきりと。二人が同時に黙った。デルタが口を閉じ、ゼータが手を止めた。

 

「歩ける範囲だけ自分で歩く。支えはいらない」

 

「ツカサ、今膝ついてるじゃん」

 

デルタが即座に指摘した。的確だ。反論できない。

 

「…立てなくなるまでは自分で歩く。それでいいだろ」

 

俺はゼータの腕を離そうとした。あいつは一瞬だけ指に力を込めた。離すつもりがない。だが俺が立ち上がろうとすると、あいつは手を緩めた。俺の判断を尊重したのだ。

 

膝を伸ばす。足に力を込める。揺れるが立つ。立った。

 

「歩くぞ」

 

俺は救護班の方へ足を踏み出した。一歩。二歩。三歩。揺れる。だが歩けている。ゼータが右側について歩幅を合わせている。いつでも腕を取れる距離。デルタが左側に回り込んだ。同じ距離。いつでも体を支えられる位置。

 

二人とも何も言わない。ただ歩いている。

 

通信が入った。

 

『ツカサ先生』

 

はやての声だ。

 

「なんだ」

 

『救出、全員生還。あんた達がやったことやで』

 

「ああ」

 

『でもな』

 

はやての声が変わった。総督の声だ。

 

『限界まで戦いすぎや。ブレイキングマンモスの長時間使用は身体への負荷が大きい。ゼータも地下での単独行動は危険やった。二人とも反省せえ』

 

「必要ない。結果が出ている」

 

『結果が出てても過程が無茶すぎるんや。次は許さんで』

 

「次があると思っているのか」

 

『あるやろ。あんたのことやから』

 

返す言葉がない。俺のことだから、か。あいつは昔からそうだ。俺の行動パターンを誰よりも正確に読む。

 

『救護班に身体を預ける。絶対やで。逃げたら追跡するからな』

 

「わかってる」

 

通信が切れた。

 

救護班の車両が近づいてきた。白衣のスタッフが駆け寄ってくる。担架を用意している。

 

「自分で歩く」と言ったが、あと数歩で視界が再び揺れた。今度は大きい。足が止まる。膝が曲がりかける。

 

ゼータの腕が右から。デルタの腕が左から。同時に伸びた。

 

二人に支えられて、俺は救護車両へ辿り着いた。担架に座らされる。救護班のスタッフが血圧を測り、脈を確認し、瞳孔を検査する。俺はされるがままにした。抵抗する力が残っていない。いや、残っている。だが今は抵抗しない。

 

ゼータが近くの箱に腰を下ろした。救護班が手当をしようとしたが、あいつは「いらない」と短く断った。デルタは救護班のスタッフに「あたしは大丈夫!」と声を上げたが、スタッフに「一応検査させてください」と押し切られていた。

 

俺は担架に座ったまま、夜の空地を見た。巨大個体の残骸が月光の下で横たわっている。後続部隊が周囲を囲んで監視している。もう俺が見る必要はない。

 

「ツカサ」

 

ゼータが俺の横に来た。箱から降りて。あいつは淡々とした顔で俺を見ている。

 

「なんだ」

 

「次はもっと早く終わらせる」

 

「…そうしろ」

 

俺は短く返した。あいつの提案に同意したわけじゃない。あいつの判断を認めたのだ。次があるなら、次はもっと早く。それは間違いじゃない。

 

デルタが検査を終えて走ってきた。

 

「ツカサ、異常ないって! 元気だって!」

 

「お前は元気すぎるんだよ」

 

「それ褒めてくれてる?」

 

「褒めてない」

 

「褒めてるじゃん!」

 

褒めていない。だがあいつの元気さは、今は悪くない。この夜の後で、誰かが元気であることは悪くない。

 

俺は救護車両の担架に身を預け、目を閉じた。

 

夜風が吹いている。冷たい。だが悪くない風だ。戦いの後の風は、いつも少しだけ冷たい。それが終わった証拠だ。

 

六名、全員生還。巨大個体、活動停止。地下個体、反応消失。市街地への被害、軽微。

 

今夜はこれでいい。

 

俺は目を閉じたまま、深く息を吐いた。

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