土煙が夜風に薄ぎられていく。
視界の奥で横たわる黒い巨体は、もう脈動していない。ブレイキングインパクトの衝撃でひび割れた体表からは、時折かすかな崩落音が響くだけだ。だが、俺は装甲の内側で息を殺し、足の裏に神経を集中させていた。
地下からの振動は消えた。だが、消えたからといって終わりではない。あいつが再び共鳴を試みない保証はない。
「ツカサ」
ゼータの声が右足元から届いた。振り返らずともわかる。あいつは巨大個体の残骸から目を離さずに立っている。
「地下の振動、まだない」
「ああ。だが油断はできない」
俺は短く返し、マンモスの装甲越しに地面の微細な揺れを探り続けた。何も来ない。空白の時間が長引くほど、終わったという感覚が麻痺していく。戦いが終わったと決めつけるのは、いつも一番危険な瞬間だ。
遠くから鋭い音が切り裂いてきた。
救護車両の警報音。それに重なるのは、夜空を震わせる回転翼の音だ。ヘリだ。はやてが手配した増援か、あるいは救護班か。ビルの谷間を縫って、赤と青の光が交互に夜を照らしていく。
破壊されたアスファルトと土煙の残滓の中に、救護班の車両が滑り込んできた。白衣と装甲服を纏った人影が飛び出し、手際よく担架を展開する。
「こちら、生存者六名確認! うち一名重傷! 即時搬送お願いします!」
救護班のリーダーの声が響く。地下から救出した大人たちが抱えられ、担架に乗せられる。女性案内人もだ。彼女の顔色は蒼白だったが、呼吸は確実に動いていた。
その様子を、ゼータは少し離れた瓦礫の上で見守っていた。周囲への警戒は解いていない。だが、俺にはわかる。あいつの金色の瞳が、運び出される人影を一つ、二つと追い、そのたびに唇が微かに動いている。
数えているのだ。六人。六人全員が出たか。あいつ自身の手で地下から引き上げた命の数を、確かめている。
デルタが通りの向こうから戻ってきた。瓦礫まみれの服を気にする様子もなく、救護班の動きをじっと見ている。尻尾が低い位置でゆっくりと揺れていた。戦いの高揚感がまだ残っているのか、それとも無事に終わったことに安堵しているのか。あいつの場合、両方だろう。
「六名確認! 女性案内人含め全員生存! 搬送開始します!」
救護班の報告が夜気に響いた。
その声を聞いた瞬間、俺の肩からふっと力が抜けた。ブレイキングマンモスの重厚な装甲が、急に質量を増したように感じる。いや、実際に俺自身の気の張り糸が切れたのだ。
最後の担架が救護車両へ収容される。ドアが閉まり、エンジンの音が高まった。
その直前だ。
担架に乗せられていた男の子が、閉まりゆくドアの隙間から顔を出した。視線の先にあるのは、瓦礫の上に立つゼータだった。
「ありがとう、お姉ちゃん」
か細い声だった。車両のエンジン音にかき消されそうなほど小さな声。
ゼータは一瞬だけ瞳をわずかに見開いた。
「……仕事をしただけ」
感情のない平坦な声。いつもの返しだ。だが、車両が動き出し、赤いテールランプが遠ざかっていくまで、あいつは視線を外さなかった。伏せていた獣耳が微かに立ち上がり、張り詰めていた肩のラインが少しだけ緩んでいく。あいつなりの安堵だ。
俺はそれを見ていた。茶化す気にはなれなかった。
「これで目的は達成だ」
俺は静かに告げた。マンモスの装甲が光の粒子となって分解され、マゼンタの光を経て、いつもの黒いジャケットへと戻る。解放された身体はやはり重く、膝が微かに揺れた。
ゼータがようやくこちらを向いた。表情はいつもと変わらない、淡々とした無表情。だが、その金色の瞳には長い夜の終わりが映っていた。
「戻るぞ。報告がある」
俺は二人に背を向け、夜風の吹く通りへ足を踏み出した。
背後には停止した巨大個体の残骸と、砕けたアスファルトだけが残された。遠ざかっていく救護車両の警報音が、無事に全員が生還したことを夜の街に告げていた。
変身が解けた瞬間、世界の重さが戻ってきた。
ブレイキングマンモスの装甲が光の粒子になって分解され、マゼンタの残光が夜の空地に溶けていく。質量が消える。俺の身体に宿っていた二十五トンの腕力と巨体の重量が消え、代わりに元の服と元の身体が戻る。
着地。
地面に足がついた瞬間、膝が揺れた。
一瞬だけだ。すぐに踏ん張る。大丈夫だ。まだ立っている。立っていればいい。
空地の中央には巨大個体の残骸が横たわっている。動かない。脈動も消えた。地下からの振動も届かない。ゼータが確認し、はやてが通信で反応消失を告げた。二体とも止まった。
終わった。
だが、終わったと決めつけるのはまだ早い。俺は残骸から目を離さず、足の裏で地面の振動を探った。何も来ない。空白が続く。五秒、十秒、三十秒。何も来ない。
「後続部隊が到着した。監視を引き継ぐ」
通信からはやての声が入った。落ち着いた声だ。総督の声に戻っている。
「ツカサ先生、ゼータさん。現場から離脱して。救治班が待ってる」
「わかった」
俺は短く答え、通信を切った。
歩き出す。
一歩目は問題なかった。二歩目も。三歩目で視界が揺れた。一瞬だ。すぐに戻る。四歩目。足に力が入らない。まるで地面が海綿みたいに沈む感覚。だが歩いている。歩けている。これでいい。
ゼータが俺の右側にいた。音もなく。気配もなく。だが確かにそこにいる。あいつは巨大個体の残骸から目を離さず、周囲への警戒を続けている。
そう思っていた。
だが五歩目で視界が再び揺れた。今度は一瞬じゃない。二秒ほど続いた。ブレイキングマンモスの負荷が身体に残っている。マンモスの重量は人間の体には厳しい。何度も変身していれば慣れるが、今回は長時間の拘束と共鳴の衝撃を受けた。内臓がまだ揺れている。
六歩目。
足が止まった。いや、止めたのではない。止まったのだ。膝が曲がる。地面が近くなる。手をつこうとして手が出ない。遅い。身体がついてこない。
膝が地面に触れた。
アスファルトの冷たさが膝を通じて伝わる。砕けた路面の砂利が服に食い込む。だが痛みは感じない。感覚が鈍っている。
「少し疲れただけだ」
声が出た。誰に言ったのか。自分だ。自分に言い聞かせるための言葉だ。立て。まだ立てる。立って歩け。救護班は近い。
だが膝が言うことを聞かない。
腕が伸びてきた。
ゼータの腕だ。
言葉より先に、あいつが俺の右腕を取った。細い指だ。だが力は強い。猫科の獣人の握力は人間のそれではない。あいつは俺の腕を引いて体を支えた。
俺はゼータの顔を見た。金色の瞳が俺を見上げている。表情は変わらない。淡々とした無表情。だが瞳の奥に何かがある。心配ではない。あいつは心配という感情を顔に出さない。だの何かがある。
「立てない人の台詞じゃない」
ゼータが言った。淡々と。事実を述べるように。感情が乗っていない。だがその声の温度だけが、いつもより少しだけ温かかった。
俺は何も答えなかった。答えられなかった。あいつの言う通りだ。立てない人間の「大丈夫」は嘘だ。俺は嘘をつかない。
「ツカサ!」
通りの向こうから声が届いた。デルタだ。あいつが走ってくる。瓦礫まみれの服を気にする様子もなく、全力でこちらへ走ってきている。
「デルタ、あたしが――」
あいつが何かを言いかけて、足を止めた。俺の状態を見たのだ。膝をつきゼータに支えられている俺を。
デルタの口が開いたまま止まった。何かを言おうとして、やめた。戦いに参加できなかった不満を口にしようとして、やめた。あいつの目が俺の膝から顔へ移る。耳が伏せた。
「…ツカサ」
あいつはそれしか言わなかった。不満も文句も何もかも飲み込んで、俺の名前だけを呼んだ。
「大丈夫だ。少し休めば――」
「休むなら救護班で休め」
ゼータが遮った。俺の腕を離さないまま。あいつの声は平坦だ。だが譲らない声音だ。
「ツカサ、あたしが運ぶ!」
デルタが一歩前に出た。俺の左腕を掴もうとする。
「デルタ、あたしの方が先に掴んでる」
「関係ない! あたしの方が力持ちだもん!」
「力関係ない。安定して運べる方がいい」
「あたしの方が安定するもん!」
「根拠がない」
「あるもん!」
「ない」
二匹が俺の腕を巡って喧嘩を始めた。俺はため息をつきたかったが、ため息をつく余裕すらない。膝が痛い。腕を引っ張られている。この状態で喧嘩されるのは困る。
「やめろ」
俺は二人の声を遮った。短く。だっきりと。二人が同時に黙った。デルタが口を閉じ、ゼータが手を止めた。
「歩ける範囲だけ自分で歩く。支えはいらない」
「ツカサ、今膝ついてるじゃん」
デルタが即座に指摘した。的確だ。反論できない。
「…立てなくなるまでは自分で歩く。それでいいだろ」
俺はゼータの腕を離そうとした。あいつは一瞬だけ指に力を込めた。離すつもりがない。だが俺が立ち上がろうとすると、あいつは手を緩めた。俺の判断を尊重したのだ。
膝を伸ばす。足に力を込める。揺れるが立つ。立った。
「歩くぞ」
俺は救護班の方へ足を踏み出した。一歩。二歩。三歩。揺れる。だが歩けている。ゼータが右側について歩幅を合わせている。いつでも腕を取れる距離。デルタが左側に回り込んだ。同じ距離。いつでも体を支えられる位置。
二人とも何も言わない。ただ歩いている。
通信が入った。
『ツカサ先生』
はやての声だ。
「なんだ」
『救出、全員生還。あんた達がやったことやで』
「ああ」
『でもな』
はやての声が変わった。総督の声だ。
『限界まで戦いすぎや。ブレイキングマンモスの長時間使用は身体への負荷が大きい。ゼータも地下での単独行動は危険やった。二人とも反省せえ』
「必要ない。結果が出ている」
『結果が出てても過程が無茶すぎるんや。次は許さんで』
「次があると思っているのか」
『あるやろ。あんたのことやから』
返す言葉がない。俺のことだから、か。あいつは昔からそうだ。俺の行動パターンを誰よりも正確に読む。
『救護班に身体を預ける。絶対やで。逃げたら追跡するからな』
「わかってる」
通信が切れた。
救護班の車両が近づいてきた。白衣のスタッフが駆け寄ってくる。担架を用意している。
「自分で歩く」と言ったが、あと数歩で視界が再び揺れた。今度は大きい。足が止まる。膝が曲がりかける。
ゼータの腕が右から。デルタの腕が左から。同時に伸びた。
二人に支えられて、俺は救護車両へ辿り着いた。担架に座らされる。救護班のスタッフが血圧を測り、脈を確認し、瞳孔を検査する。俺はされるがままにした。抵抗する力が残っていない。いや、残っている。だが今は抵抗しない。
ゼータが近くの箱に腰を下ろした。救護班が手当をしようとしたが、あいつは「いらない」と短く断った。デルタは救護班のスタッフに「あたしは大丈夫!」と声を上げたが、スタッフに「一応検査させてください」と押し切られていた。
俺は担架に座ったまま、夜の空地を見た。巨大個体の残骸が月光の下で横たわっている。後続部隊が周囲を囲んで監視している。もう俺が見る必要はない。
「ツカサ」
ゼータが俺の横に来た。箱から降りて。あいつは淡々とした顔で俺を見ている。
「なんだ」
「次はもっと早く終わらせる」
「…そうしろ」
俺は短く返した。あいつの提案に同意したわけじゃない。あいつの判断を認めたのだ。次があるなら、次はもっと早く。それは間違いじゃない。
デルタが検査を終えて走ってきた。
「ツカサ、異常ないって! 元気だって!」
「お前は元気すぎるんだよ」
「それ褒めてくれてる?」
「褒めてない」
「褒めてるじゃん!」
褒めていない。だがあいつの元気さは、今は悪くない。この夜の後で、誰かが元気であることは悪くない。
俺は救護車両の担架に身を預け、目を閉じた。
夜風が吹いている。冷たい。だが悪くない風だ。戦いの後の風は、いつも少しだけ冷たい。それが終わった証拠だ。
六名、全員生還。巨大個体、活動停止。地下個体、反応消失。市街地への被害、軽微。
今夜はこれでいい。
俺は目を閉じたまま、深く息を吐いた。