北東の空地に夜風が吹き抜けていく。
ゼータが「二体だけじゃない」と呟いてから三十分が経っていた。調査班が記録の全データを検索し、第三の波形が記録された時間帯と方位を絞り込む。結果が出たのは十分前だ。方角は北東。距離は不明だが、波形の減衰パターンから概ね二キロ以内。市街地の反対側だ。
俺は救護班の車両に腰を下ろしたまま、通信を開いていた。
「ゼータ、デルタ」
『聞こえてる』
ゼータの声が通信から届く。風の音が混じっている。外にいる。
『方位、北東〇・七度。観測器の反応、徐々に強まってる。方向は合ってる』
「無理するな。反応が強くなっても接触するな。確認だけだ」
『了解』
短い返事。あいつは余計なことを言わない。
通信の向こうで風が吹いている。俺のいる救護車両の周りとは違う風だ。もっと乾いて、もっと冷たい。荒野の風だ。
『ツカサ、あたし何か匂いする』
デルタの声が割り込んできた。こいつはいつもそうだ。報告というより思ったことをそのまま口にする。
「匂い?」
『うん。あのデカい奴と似た匂い。でもちょっと違う。薄い。でも確実に同じ系統』
デルタの鼻は嘘をつかない。あいつが「似ている」と言えば似ている。「違う」と言えば違う。匂いの成分を分析しているわけじゃない。獣の本能が判定している。そしてあいつの本能は、大抵の場合正しい。
俺は救護車両の担架に腰を下ろしたまま、膝の感覚を確かめた。まだ少し重い。ブレイキングマンモスの負荷は完全には消えていない。だが意識はクリアだ。通信を聞き、判断を下し、指示を出すことはできる。
「ゼータ、観測器の波形は」
『デルタの言う通り。巨大個体の波形と基本周期が一致してる。ただし振幅は小さい。地下個体の波形とも一致する。三つの波形が同じ系統』
三つの波形。巨大個体、地下個体、そして今追っている第三の反応。すべて同じ根源。
「はやて」
『聞こえてる。方位データと波形解析結果をこっちでも照合してる。ゼータ達の進路、問題ない。ただし条件がある』
「条件」
『接触せずに確認だけ。周囲の安全を最優先。何か見つけたら報告してから動く』
「了解だ」
俺が伝える前に、はやてが同じことを言った。あいつも学習している。俺たちが無茶をしないとは思っていない。
通信の向こうで、二人の足音が聞こえる。いや、聞こえるのはデルタの足音だけだ。ゼータは音を立てない。だが二人とも歩いている。荒野に続く道を。
『ツカサ』
ゼータの声が再び届いた。
『道が変わった。轍がある。車の轍だが古い。草が生えてる。使われてない道』
使われていない道。市街地から離れた荒野に、使われていない搬入路。何かの施設があったか、あるいは建設途中で放棄された現場か。
「進め。ただし気配には気をつけろ」
『わかってる』
風の音が変わった。金属が鳴る音が混じる。薄い鉄板が風に煽られて叩き合う音だ。放置された資材だ。誰も管理していない場所にある放置された資材。
『資材置き場みたい。鉄板とかパイプとかが置いてある。でも誰もいない』
デルタの声が周囲を見回しながら報告する。あいつの声に緊張はない。だが完全に気を抜いているわけでもない。鼻が働いている。常に匂いを拾っている。
「観測器は」
『反応、強くなってる。方向は…あっち。資材置き場の奥』
ゼータの声がわずかに低くなった。緊張ではない。集中だ。あいつは観測器の数値と周囲の状況を同時に読んでいる。
『少し待って』
ゼータが足を止めた。デルタも止まった。二人の気配が止まる。
『脈動、検知。微弱だけど確実に。周期は三秒。巨大個体と同じ』
三秒。あのリズムだ。俺の足の裏で感じていた脈動と同じ周期。だが微弱。大型個体ではないかもしれない。俺はその可能性を頭の隅に置いた。脈動が弱いからといって小型とは限らない。巨大個体も活動停止前は微弱な脈動しか出していなかった。だが今は、大型個体の存在を決めつける根拠はない。
「デルタ、匂いは」
『強くなってる。あのデカい奴と同じ匂い。でも…もっと静か。生きてる感じがあまりしない』
生きている感じがしない。だが匂いはする。死骸なのか、それとも活動を停止しているだけなのか。デルタの「生きてる感じ」という表現は曖昧だが、あいつの感覚は曖昧な言葉で正確な判断を下す。
『ハヤテ』
ゼータが通信で呼んだ。
『資材置き場の奥、土が掘り返されてる。新しい土。周囲は古い土と草で覆われてるけど、ここだけ違う』
掘り返された土。新しい。誰かが最近ここを掘った。あるいは何かが。
『接触せずに周囲を確認。指示を待って』
はやての声が即座に返った。総督の判断だ。安易に接近させない。
『了解』
ゼータが応答し、観測器を握り直す音が通信越しに届いた。俺は救護車両の縁で拳を握った。現場にいないのがもどかしい。だが今は膝が言うことを聞かない。通信越しに聞くしかできない。
沈黙が流れた。風の音だけが通信から届く。鉄板が鳴る音。砂が転がる音。そしてデルタの鼻が地面に近づく音。
『ツカサ』
デルタの声が低かった。さっきまでの報告の声じゃない。獣の声だ。
『この土の中に、あの匂いがする。濃い。デカい奴の匂いと同じ。でも質が少し違う。あのデカい奴は生きてる匂いだった。これは…もっと薄い。でも腐ってない』
生きてはいないが腐ってもいない。活動を停止している状態。巨大個体の残骸と同じか。だが巨大個体は空地に横たわっている。ここにあるのは何だ。
『ゼータ、波形どう』
デルタがゼータに問いかけた。二人が別々の手掛かりを突き合わせる時だ。匂いと波形。鼻と観測器。それぞれが別の方法で同じものに近づいている。
『一致してる。巨大個体の波形と基本周期が同じ。振幅はさらに小さい。でも波形の形は完全に同じ系統』
『じゃあやっぱり同じ種類』
『同じ系統。でも同じ個体とは言えない』
同じ系統。同じ周期。だが同じ個体ではない。第三の存在。巨大個体でも地下個体でもない、もう一つ。
『ハヤテ』
ゼータが再び呼んだ。
『掘り返された土の表面に、何か見える。金属。土の隙間から光ってる。小さい。観測器の反応は最も強い』
金属。土の中に金属。自然物じゃない。何かが埋め込まれている。
『接触しないで。画像送って』
はやての指示が飛ぶ。ゼータが端末を構う音が届く。
『送った』
数秒の沈黙。はやてが画像を確認している時間だ。俺も通信越しに待つ。救護車両の冷たい金属の縁を握りしめながら。
『…これは』
はやての声が変わった。総督の声から、何かを見つけた研究者の声へ。いや、違う。はやては研究者ではない。だがあいつの声には、見たことのないものを見た時の響きがある。
『金属製の器具。何かの装置の一部やないかこれ。自然のものやない。誰かが意図的に埋めた』
誰かが。自然に発生したのではない。誰かが意図的に。
『土の隙間からもう一つ見える。金属の横に。黒い。有機物の可能性』
ゼータの声が低くなった。あいつの声が低くなる時は、確信に近い何かを持っている時だ。
『有機物?』
デルタが尋ねた。
『組織片。巨大個体の体表と同じ質感。色も、表面の質感も一致してる。ただしサイズはずっと小さい』
組織片。巨大個体と同じ質感の組織片。金属製の器具に食い込んでいる。誰かが、巨大個体と同じ系統の組織を、金属製の器具に取り付けて、地中に埋めた。
俺は拳を握りしめた。自然の現象じゃない。人為的だ。誰かがやった。誰かが、侵略種と同じ系統の組織を、器具に取り付けて、この場所に埋めた。
『ハヤテ』
俺は呼んだ。
『ツカサ』
「これを回収させるんだ。だが今は接触するな。周囲の安全確認を最優先に」
『わかってる。解析班を向かわせる。ゼータ、デルタ、その場を維持。周囲に他の反応がないか確認して』
『了解』
ゼータの声が淡々と応答する。
『デルタ、周囲の匂い。他にないか』
『ない。この場所だけ。でも…』
デルタが言葉を止めた。
『でも?』
『風が変わった時、もっと遠くから同じ匂いがした。一瞬だけ。すぐ消えたけど』
もっと遠く。一瞬だけ。風が運んだ匂い。
『距離はわかるか』
ゼータがデルタに問いかけた。
『わかんない。でも遠い。あたしの鼻でも届かないくらい遠い』
届かない距離。だが風が運んだ。それだけの量がある。
通信が沈黙した。風の音だけが流れる。鉄板が鳴る音。砂が転がる音。何も襲ってこない静けさ。だがこの静けさは、何もいないという意味じゃない。見えていないだけだ。
俺は救護車両の縁から立ち上がった。膝が揺れた。だが立った。通信越しに聞いているだけの自分がもどかしい。だが今はこれしかできない。
「ゼータ」
『なんだ』
「その場所を離れるな。解析班が到着するまで維持しろ」
『わかってる』
「デルタ」
『なに』
「風の匂い、もう一度来たら教えろ。どの方角か」
『うん』
短い返事。だが確実な返事。あいつは嘘をつかない。匂いが来れば教える。来なければ来ないと言う。
俺は夜の空地を見た。巨大個体の残骸が照明の下で横たわっている。あいつを倒した。地下の個体も止まった。だが第三の反応がある。そしてそれは自然の現象じゃない。誰かが意図的に置いたものだ。
誰が。なぜ。何のために。
答えはまだ出ない。だが一つだけ確かなことがある。この件は、今夜で終わりじゃない。
夜風が冷たい。救護車両の金属の縁が手のひらを冷やす。だが拳はまだ握れる。
通信の向こうで、ゼータが観測器を握り直す音が届いた。デルタが地面に鼻を近づける気配が伝わる。二人ともまだ動いている。動ける。
なら、俺も動く。
照明が変わった。
ゼータが懐中灯の角度を低くした。光が地面を這うように、掘り返された土の表面を舐めていく。土の粒一つ一つに影が落ち、その影の隙間から金属が光った。
『見える?』
ゼータの声が通信から届く。低い。現場の空気がそのまま声に乗っている。
「ああ。送れ」
『送る。角度変えて三枚。まず一枚目』
端末に画像が届いた。救護車両の荷台に置いたままの端末だ。暗い画面の中に、土と金属の境界が浮かぶ。
金属製の器具だ。土の隙間から覗く部分は指先ほどの大きさだが、埋まっている部分はもっと大きいかもしれない。表面に錆はない。風化してもいない。比較的新しい。そしてその器具の先端に、黒い有機物が食い込んでいる。
『二枚目。照明を右に振った』
角度が変わった。金属の輪郭がより鮮明になる。器具は一本ではない。二本、いや三本の細い金属の腕が、一定の間隔で組織片を挟んでいる。挟む、というより——固定している。
『三枚目。もっと近い』
三枚目で、ゼータが何を見せたかったのかが分かった。
導線だ。
器具の基部から、細い導線が伸びている。土の中へ潛り込んでいる。切れているのか、続いているのかは画像からでは判別できない。だが導線がある。この器具は単なる板じゃない。何かを繋ぐための装置だ。
そしてゼータが照明をさらに傾けた。画像には入っていないが、通信越しにあいつの声が続く。
『器具の周囲。土だけじゃない。組織片の周辺に、切り口がある』
「切り口」
『裂けてない。揃ってる。刃物か何かで切った跡。自然に剥がれたんと違う』
揃った切り口。裂傷ではない。意図的に切った跡。
通信が少し沈んだ。ゼータが現場で立ち上がる気配が伝わる。懐中灯の光が揺れる。
『ツカサ。これ、脈動と関係ある?』
ゼータの問いは単純だが、中身は重い。あいつは聞いている——この器具が、組織片の脈動を制御していたのか、それともただ観測していたのか。
俺は救護車両の荷台に端末を置いたまま、通信を切らずに考えた。
制御か。観測か。
導線が伸びている。器具が組織片を一定の間隔で挟んでいる。脈動の周期は三秒。巨大個体と同じ。もし器具が脈動を制御していたなら、この組織片は巨大個体と同じリズムで動かされていたことになる。誰かが意図的に。
だが観測だけなら、脈動そのものは組織片が自発的に出している。器具はそれを記録していたか、あるいは外部へ伝達していた。
どちらも可能性としては存在する。今の手がかりだけでどちらかを断定することはできない。
それにもう一つ、ある。
「ハヤテ」
『聞こえてる』
「この器具、治療に使われた可能性はあるか」
通信が一瞬止まった。はやてが俺の言葉を咀嚼している時間だ。
『治療?』
「組織片を挟んで固定し、導線を繋ぐ。侵略種の生態を調べるための実験なら器具を埋めて放置するのが自然だ。だが切り口が揃っているなら、誰かが組織を切開して器具を取り付けた。実験なら切開はありえる。だが捕獲した個体の手当てをして、その後器具を残したまま放置した可能性もある」
俺自身、言いながら可能性の幅を広げていた。実験後の放置。捕獲時の処置。治療の痕跡。どれも導線と器具の存在で説明がつく。だがどれも、今の情報だけで断定はできない。
『…確かにそうやね。用途を一つに絞るのは早すぎる』
はやての声が応じた。あいつも同じ結論に至った。
『ゼータ、デルタ。そっちで聞こえた?』
『聞こえてる』
ゼータの声が返る。
『ツカサの言う通りや。今は用途を決めつけない。できるだけ多くの情報を残す』
通信の向こうで、ゼータが再び身を低くした気配が伝わった。懐中灯の光が組織片の表面を掠める。
『了解。照明角度変えて追加撮影する。切り口の周囲も』
ゼータの動きに迷いはない。あいつは結論を出さないまま行動できる。事実を集めることと、結論を出すことは別だ。あいつはその区別を知っている。
その時だ。
『あ』
デルタの声が小さく割り込んだ。
通信越しに衣が擦れる音が届いた。手が伸びた音だ。デルタの手。
『触るな』
ゼータの声が即座に飛んだ。鋭い。だが怒っているわけではない。制止だ。
衣の摩擦音が止まった。
俺は通信越しに二人の間の空気を感じた。デルタの手が空中で止まっている。ゼータの手がそれを押さえたのではない。言葉だけで止めた。デルタはゼータの制止を聞いて、自分で止めた。
沈黙が数秒流れた。
『…切り口、見える』
デルタの声が変わった。さっきまでの手を伸ばした時の勢いはない。低い声。あいつの獣の目が暗闇の中で何かを見ている。
『揃ってる。ゼータの言う通り。自然に剥がれたんじゃない。何かで切った』
デルタは地面に片手をついた気配がした。爪が土に触れる微かな音が届く。
『誰かに切られたの? これ』
デルタの問いは単純だった。あいつは単純な問いの中に一番重いものを入れる。
ゼータはすぐには答えなかった。懐中灯の光を切り口から器具へ、器具から組織片へ、ゆっくり移している。見ている。読んでいる。
『処置された跡はある』
ゼータの声は淡々としていた。
『目的はまだ分からない』
それだけ。あいつはそれ以上言わなかった。見えたものだけを言葉にする。見えなかったものは見えないと言う。
通信越しに、デルタの手がゆっくり下ろされる気配が伝わった。爪が土から離れる音。衣が戻る音。勢いで伸ばした手を、自分の意志で引っ込めた。
ゼータも動いた。組織片から半歩下がった気配。懐中灯の光が組織片から外れ、周囲の地面へ移った。
『足跡を探す』
ゼータが短く告げた。視線はもう組織片には向いていない。周囲の土、草、資材の影。人が立ち入った痕跡を探している。
『ハヤテ』
『うん』
『現状保存で。専門班を送る』
はやての声が即座に応じた。総督の判断だ。
『器具だけやない。搬入の跡、作業の跡も探して。足跡、車輪の跡、工具の痕跡。人がここで何かをして、去った証拠を全部残す』
『了解』
ゼータが懐中灯を資材置き場の奥へ向けた。光が鉄板の縁を掠め、地面に長い影を落とす。
『ここに車が入った跡がある。轍と一致してる』
さっき報告した轍だ。使われていない道。だが誰かがここへ来た。車で。
デルタが鼻を上げた気配がした。
『匂いは変わんない。この土の中だけ。でも…』
『でも?』
『器具の周りの土だけ匂いが濃い。他の土は普通の土の匂い。ここだけ違う』
器具の周囲の土だけ、侵略種と同じ系統の匂いが濃い。組織片からの拡散か。それとも土そのものに何かが混ざっているのか。
『撮影する。土も』
ゼータが淡々と告げ、懐中灯を器具の周囲の土へ向けた。
俺は救護車両の縁で端末を見ていた。画像が追加されていく。金属製の器具。導線。切り口。土。轍。一つ一つの事実が蓄積されていく。だが結論はまだ見えない。
誰かがここで何かをした。その事実だけが明確に残っている。
「ゼータ」
『なんだ』
「轍の先を追え。どこから入ってきたか」
『もう追ってる』
当然のように返ってきた。あいつは先を行っていた。俺が指示を出す前に。
なら良い。
通信の向こうで、ゼータの足音が資材置き場の奥へ進んでいく。デルタの爪が土を踏む音が続く。
夜風がまだ吹いている。冷たい風だ。
だが二人は動いている。そして俺も、もう膝の感覚が戻りかけている。
資材の陰に、空箱があった。
ゼータが懐中灯を横に向けた時、光の縁が鉄板の裏側で四角い影を拾った。最初は資材の一部かと思った。だが光を当て直した瞬間、違うと分かった。箱だ。金属製の箱。蓋が開いている。中は空だ。
『ツカサ』
ゼータの声が届く。あいつは報告の前に名前を呼ぶ。重要なものを見つけた合図だ。
「見ている」
『空箱。資材の陰に隠すように置いてある。蓋に刻印がある』
照明が動いた。箱の表面に文字が浮かぶ。数字だ。英字と数字の組み合わせ。型番か、管理番号か。
『EX-0742。箱の側面にも同じ番号』
EX-0742。俺は端末の画像を開いた。さっきゼータが送った組織片の器具の画像。土の隙間から覇く金属の表面。そこにも刻印があった。照明の角度のせいで読み取りにくかったが、ゼータが追加撮影した三枚目で確認できる。
EX-0742。
同じだ。
「番号が一致する」
『うん。箱と器具が対。元はこの箱に入ってた』
ゼータの声に迷いはない。事実を事実として置く。あいつの声はいつもそうだ。
箱の中は空だ。器具は土の中にある。誰かが箱から器具を取り出し、組織片に取り付け、地中に埋めた。そして空箱を資材の陰に置いた。隠すように。
『もう一つ』
ゼータの照明が動いた。箱の横。地面に杭が刺さっている。金属の杭だ。長さは三十センチほどか。地面に半分ほど打ち込まれ、頭だけが土から出ている。
『固定用の杭。資材を支えるためのものじゃない。位置が違う。それに——』
照明が杭の根元に近づいた。土が盛り上がっている。打ち込んだ跡だ。だが一つじゃない。杭の周囲に、同じくぼみがいくつか並んでいる。かつて杭が立っていた場所だ。抜かれた後。
『何度も打ち直してる。同じ場所で』
何度も。同じ場所で。杭を打ち込み、抜き、また打ち込む。一回の作業ではない。
『導線もある』
ゼータの照明が地面を這った。土の表面に、細い線が見える。切断された導線だ。組織片の器具から伸びていたものと同じ材質。だがこっちは地表を走っている。土に埋まっていない。切断された端が風に晒されている。
『土の中から出てる。本数は……三本。全部切られてる。刃物で切ったんじゃない。断端が潰れてる。工具で挟み切った跡』
挟み切った。工具で。つまり作業用の器具を使った。手で引きちぎったのではない。
俺は救護車両の縁で端末を握り直した。情報が揃っていく。空箱。刻印。固定用の杭。切断された導線。作業用工具の痕跡。一つ一つは小さい。だが集まると、やっていることの規模が見えてくる。
『ツカサ』
ゼータがまた呼んだ。
『地面。見て』
照明が広範囲に向けられた。資材置き場の地面。土と草と砂利が混じる荒地。だがゼータの照明が捉えたのは、その荒れた地面に残った凹凸だ。
『靴跡。一つじゃない』
画像が届いた。地面に刻まれた靴底の紋。サイズが違う。パターンが違う。少なくとも三種類。一つは作業用の底の厚い靴。一つは底の浅いもの。もう一つは——紋がほとんどない。底が平らな靴か、あるいは長靴だ。
『三種類以上。同じ場所を歩いてる。重なってる』
重なっている。同じ場所を、違う靴で、複数回歩いた。
『それと轍』
照明が資材置き場の入口に向けられた。さっきゼータが報告した轍だ。使われていない道についていた車の轍。だが照明を近づけると、轍の深さが一様ではないことが分かる。
『深さが違う。同じ轍の中に、浅い層と深い層がある。何度も通ってる。荷が重い時と軽い時で、跡の深さが変わる』
何度も。車が何度も往復した。荷物を積んで来て、荷物を降ろして帰り、また荷物を積んで来た。その繰り返しが轍の深さに残っている。
俺は端末の画面を見つめたまま、考えた。
統一された規格の器具。管理番号。作業用の工具。複数の靴跡。繰り返し通った車両の轍。
これは単独の作業ではない。設備を持っている。人員がいる。車両がある。器材に管理番号が振られている。そして同じ場所で作業を繰り返した。
「ゼータ」
『なに?』
「器具の規格、統一されているか」
『している。箱も器具も同じ規格。番号体系も同じ。市販品じゃない。組織的な管理のもとで製造されたものだと思う』
組織的な管理。ゼータはそこまで言った。あいつは推測をあまり口にしない。だが事実が推測の形を取る時、あいつはそれを言葉にする。
「はやて」
『聞こえてる』
「公的な調査隊の残置物という可能性は残るか。国連の調査班か、あるいは瑞穂の機関か。三十年間侵略種と接してきた組織なら、こうした器材を使うだろう」
俺は可能性を広げた。意図的に。ゼータの見立てが正しければ集団の関与が疑われる。だが集団が関与したからといって、それが違法とは限らない。公的な調査隊が現場調査の後に器材を回収し忘れた可能性もある。三十年間、世界中で侵略種への調査が行われている。その中には野外での実験や観測も含まれるはずだ。
『可能性はある』
はやての声が応じた。だが声の端に、俺と同じものが見えている気配があった。
『ただし公的な調査隊やないと断定できる材料もない。器材の番号体系、うちの機関でも国連の他部門でも見たことない。もちろん見たことないだけで存在しないとは言えないけど』
見たことない。はやてはEXCEEDSの総督だ。国連系の機関で使われる器材の番号体系に精通している。あいつが見たことない番号体系なら、少なくともEXCEEDSの管轄ではない。
『照会を出す。国連の他部門と、瑞穂の関係機関に。該当する器材の番号体系がないか』
「頼む」
通信の向こうで、はやてが端末を操作する音が届いた。
その時だ。
『あ』
デルタの声と共に、通信越しに衣が擦れる音が届いた。足音が続く。歩き出した。あいつの足音は分かる。爪の着力が他と違う。獣の歩き方だ。地面を押すのではなく、地面を掴む。
『ゼータ』
デルタの声は轍の先に向かっていた。
『この道の先に何かある。匂いが変わる。土の匂いが濃くなる。あの器具の周りと同じ匂いが、もっと遠くから薄く漂ってる』
歩き出した。轍の先へ。搬入路が続く方向へ。
『待て』
ゼータの声が飛んだ。同時に衣が動く音が届いた。腕が伸びた。ゼータの腕。デルタの肩か腕を掴んだのではない。腕を伸ばして、行く手を遮った。物理的な制止ではなく、意思としての制止。
デルタの足音が止まった。
通信越しに二人の沈黙が届く。風が吹いている。鉄板が鳴る音が遠い。
『…分かってる』
デルタの声が低い。不満ではない。分かっているのだ。ここから先は二人で進んでいい場所ではない。あいつもそれを理解している。だが体が先に動いた。匂いがあればそちらへ向かう。それがあいつだ。
『戻って』
ゼータの声は静かだ。叱責ではない。事実として、戻れと言っている。
衣が動く音が逆方向に流れた。デルタが戻った。二歩、三歩。ゼータの横へ。
二人とも搬入路から目を離していない。通信越しに伝わる。視線が、轍の続く方向に固定されている。
『ツカサ』
ゼータが呼んだ。
俺は返事をしようとして、一拍遅れた。
膝が揺れたからだ。救護車両の縁に座ったまま、立ち上がろうとして、膝に力が入らなかった。ブレイキングマンモスの負荷がまだ残っている。右膝が特に重い。完全に回復していない身体で無理に立とうとして、筋肉が拒否した。
衣が擦れる音が通信に混じった。俺の衣だ。救護車両の金属の縁で身体が滑った音。小さいが、通信は拾っている。
『…大丈夫?』
デルタの声が届いた。あいつは俺の衣の音を聞いた。それが何を意味するか、あいつの耳は知っている。
「問題ない」
俺は言った。膝はまだ揺れている。だが声は揺らさなかった。
「ゼータ、報告しろ」
『ここで、何度も作業をしている』
ゼータが報告した。簡潔だ。あいつは簡潔に伝える。
『空箱、固定用の杭、切断された導線。靴跡は三種類以上。轍は同一の搬入路を繰り返し通過している。器具は統一規格。管理番号が振られている。単独の作業じゃない。設備と人員を用意できる集団が関与してる』
集団。あいつは集団と言った。一人ではない。組織か、チームか、あるいは——
『ただし』
ゼータが続けた。
『公的な調査隊の残置物である可能性も残る。ハヤテに照会を求める』
可能性を残す。あいつは必ず残す。見えた事実を述べ、見えない部分は見えないと言う。断定しない。だが見えたものは正確に伝える。
俺は通信の向こうで二人の呼吸を感じながら、言葉を選んだ。
「怪物がいた場所なのか、怪物を置いた場所なのか」
声に出した。俺自身の問いだ。
自然に発生した侵略種の痕跡を調べたのか。それとも侵略種を意図的に持ち込み、ここに置いたのか。問いは二つ。だが意味は一つ。ここにあるのは観測なのか実験なのか。
通信が沈んだ。俺の問いが現場と指揮席の両方に届いた。
『……その両方を想定して調べる』
はやての声が返った。あいつは問いに答えなかった。答えられなかったのだ。今の情報では。だしその上で、両方を想定すると言った。総督の判断だ。一つに絞らず、両方を検証する。
『ただし』
はやての声が変わった。総督の声から、あいつの声になった。なのはやフェイトに言い聞かせる時の声。ゼータとデルタに向けている。
『ゼータ、デルタ。二人だけで搬入路の先へ追跡は禁止。現場を保存して。解析班と調査班を向かわせる』
『了解』
ゼータが応じた。声に不満はない。あいつははやての判断に従う。従うのではなく、それが正しいと知っているから応じる。
『デルタ』
はやてがもう一度呼んだ。
『うん』
デルタの声が短い。不満はない。だが完全に納得しているわけでもない。あいつの声は感情を隠さない。行きたいという気持ちが声の端に残っている。だが行かない。それもまたあいつだ。
『匂いの報告、ありがとう。解析班が到着したら一緒に周辺の匂い調査も頼む』
『うん』
今度の声は少し明るい。あいつはやることがあれば納得する。動けないなら、動ける範囲で動けばいい。あいつはそういう生き物だ。
「はやて」
俺が呼んだ。
『何?』
「搬入路の先。地図で確認できるか」
『やってる』
はやての声と同時に、端末に地図データが届いた。俺の端末にも、ゼータの端末にも。地図上に現在地が表示され、搬入路の推定経路が点線で引かれている。
点線は資材置き場から北東へ伸びている。五百メートルほど先に、建物の輪郭が表示されていた。
『倉庫区域。昔の物流倉庫群。稼働状況は——不明。最新のデータが十年前のもの。それ以降の更新がない』
十年前のデータ。それ以降の更新がない。だが轍は新しい。繰り返し通った跡がある。十年前のデータにない稼働状況が、今ここにある。
『現場保存を優先する。倉庫区域は次の調査対象として手配する。解析班と調査班を編成して、完了後に投入する』
はやての声が総督に戻った。現状の整理と次の手配。あいつはそれを正確に行う。
『ゼータ、デルタ。現場の追加確認はそこまででいい。位置情報を送って。解析班が到着するまで、周囲二百メートルの監視を維持して』
『了解』
ゼータが端末を操作し位置情報を送信した気配が届いた。
俺は救護車両の縁で端末を閉じた。地図の点線が瞼の裏に残っている。五百メートル先の倉庫区域。十年前のデータ。新しい轍。矛盾がその中にある。
風が吹いた。救護車両の金属が冷たい。だが膝の感覚は戻りかけている。もう少しだ。
通信の向こうで、ゼータが懐中灯を消した気配が届いた。周囲の監視に切り替えた。光を消し、目と耳と鼻で周囲を読む。デルタの爪が土を踏み直す音が聞こえる。二人とも動いている。
俺も動く。もう少しだ。