隔壁の奥から届く報告は、さっきまでとは空気が違っていた。
泥と油と錆の匂いがする倉庫で、そこだけがまるで手術室のように整えられている——そんな印象を通信越しに受け取る。
『棚がある。小さい』
ゼータの声が淡々と響く。
『隔壁の手前にあったような大型の設備じゃない。容器を一本ずつ固定するタイプだ。温度記録装置もついてる』
温度記録装置。つまりは冷蔵庫か恒温槽のようなものか。生体の一部を保存するにしても、薬品を管理するにしても、精密な環境が必要だという証左だ。
『大半は空だ』
ゼータが懐中灯の光を走らせる音が届く。
『固定用の金具があるけど何も入ってない。ただ……』
光が止まる。
『底に一本だけ残ってる。密封容器』
一本だけ。他は持ち出されたのか、それとも最初からこれしかなかったのか。
『匂い……』
デルタの声が低く割り込んだ。獣のそれだ。
『すごく薄いけど、あのデカい奴と同じ系統。あと、なんかツンとする匂いもする』
ツンとする匂い。薬品だ。保存液か防腐剤か。
『顔を近づけるな』
俺が言う前にゼータが制止していた。
『分かってるってば』
デルタが不満げに唸るが、素直に下がった気配がする。あいつの鼻は便利だが、不用意に未知の物質を吸い込むのは危険だ。(未知のウイルスだってあり得るだろうが)
「ツカサ」
俺は通信の向こうにいるオペレーターに声をかけた。
『はい』
「あの容器だ。中身は分かるか?」
『現状では判断できません』
ツカサの声は冷静だ。
『処置用の補助薬である可能性もあれば、別の研究に用いる薬品である可能性もあります。分析班がサンプルを採取するまでは何とも』
処置用か研究用か。
俺は救護車両の縁で腕を組んだ。
外にある巨大個体を固定するための荒っぽい設備と、ここにある精密な保存設備。この違いが妙に引っかかる。(まるで暴れ馬を抑える檻と、メスを入れる手術台くらい違う)
一つの工程で行われているとは思えない。複数の段階がある。
「人体実験……なんてことまでは考えなくていいか?」
俺の口から出た言葉に、自分でも少し驚いた。思考が飛躍しすぎだ。
『今の段階で結びつけるのは早計です』
ツカサが即座に否定した。……だが完全には否定しないところがこの世界の恐ろしいところだ。
『ツカサ』
ゼータが再び呼んだ。
『隅に搬送箱がある』
搬送箱。またそれか。
『側面に管理番号と配送先コードがついてる。剥がされかけてるけど読み取れる』
管理番号と配送先コード。
さっき見つけた空箱にあった「EX-0742」と同じ体系か?
『番号を読み上げてくれ』
はやての声が飛ぶ。
『EX-0742-S』
ゼータが読み上げる。
『容器の方にも同じ番号が刻印されてる。対応してる』
対応している。つまり、この容器はこの箱に入れて運ばれるためにここにある。
そして配送先コード。
『配送先は……別のコードが割り当てられてる』
ゼータの声が少し硬くなった。
『ここじゃないどこかへ運ぶ予定だったってことか』
ここから別の場所へ。
採取し、処置し、保存し、そして搬送する。
この倉庫は終点じゃない。中継地点にすぎない。
『ハヤテ』
俺は呼んだ。
『聞こけてる』
はやての声はもう総督のそれだった。素早く事態を飲み込んでいる。
「あの容器は開けるな。そのまま回収させろ。中身の分析は専門班に任せる」
『了解や』
『ゼータ、撮影を優先して。痕跡を残して』
『やってる』
倉庫の中で撮影機器が作動する音がカシャカシャと響く。静寂の中でそれだけがリズムを刻む。
デルタは腕を組んで退屈そうにしているだろうが、あいつも黙って待っている。
『ツカサ』
はやてが言った。
『配送先コードの照会を急ぐ。周辺の輸送記録も洗う。ここから何がどこへ運ばれようとしてたのか、絶対に洗い出す』
「頼む」
俺は短く返した。
目の前にはまだ巨大個体の残骸がある。だが俺たちが見ているのは、この怪物そのものではない。怪物を素材として扱い、運び出そうとしている見えない手だ。