就業時刻は過ぎている。
それでも席を立ったのは、上司が帰ったのを確認してからだった。特別に忙しかったわけではない。手を動かしているふりをしているうちに、時間だけが進んでいった。
会社を出ると、空はすっかり暗くなっていた。昼の名残はどこにもなく、街灯の光だけが路地を照らしている。夕方と夜の境目は、いつの間にか通り過ぎていたらしい。
家とは反対方向にあるスーパーへ向かう。帰宅途中に寄るには少し遠回りだが、冷蔵庫の中身を思い出すまでもなく、行く理由はあった。歩きながら、今日一日を振り返ろうとしてやめた。振り返るほどのものが、何もない。
自動ドアが開くと、蛍光灯の白い光と、油の匂いが同時に押し寄せてきた。店内は思ったより人が少ない。惣菜売り場には、値引きされた弁当が整然と並んでいる。透明な蓋の上に貼られた赤いシールが、やけに目立った。どれも似たようなものだ。違いは名前と、わずかな色味だけ。少し考えるふりをしてから、半額の弁当を一つ手に取る。選んだ理由は、安いからだ。それ以外の理由は思いつかない。
酒の棚の前で足を止める。並んだ缶を端から眺め、結局いつものストロング缶をかごに入れた。最初に飲んだとき、正直なところ美味いとは思わなかった。苦くて、喉に引っかかる感じがして、それでも気づけばこうして手に取るようになっていた。何杯か飲めば、その苦さもどうでもよくなることを、もう知っている。
レジへ向かう途中、ガラスに映った自分が視界に入った。スーツの肩は落ち、表情はよく分からない。悪くもなさそうで、良くもなさそうだった。無為にここまで来てしまった、という言葉だけが浮かび、すぐに形を失った。
会計を済ませ、袋を受け取る。思っていたより軽い。これで今日も終わるのだと思った。
家に着く。鍵を回し、靴を脱ぐ。部屋は静かで、電気をつける前から間取りが分かる。手を洗い、鞄を定位置に置く。流れは決まっている。考えなくても身体が動く。
弁当を電子レンジに入れる。温めのボタンを押すと、低い音が部屋に響いた。その間に、ストロング缶のプルタブを引く。ガスの抜ける音がやけに大きく聞こえた。
レンジが止まり、弁当を取り出す。湯気は思ったより少ない。テーブルに置き、箸を割る。最初の一口を口に運び、すぐに酒を流し込む。味はよく分からない。
テレビをつける気にはならず、スマートフォンを手に取る。特に用事はない。通知もない。画面を眺めていると、少し遅れてメッセージが一件届いた。
大学時代の友人だった。
――元気にやってるか?
短い文だった。元気かどうかと聞かれて、返事に困る。悪くはない。ただ、それ以上の言葉が出てこない。少し考えてから、無難な返事を打つ。
――なんとか。
すぐに既読がつき、続けてメッセージが来た。
近況がいくつか並び、やがて、共通の友人の名前が出る。どうやら結婚するらしい、という一文が混じっていた。本人から聞いたわけじゃない、と付け足されている。
そうなんだ、と思う。驚きはなかった。あいつなら、そうなるだろうとも思った。弁当を一口食べ、酒を飲む。画面を伏せる。胸の奥に、名前のつかない感情が沈んでいく。
画面を伏せたまま、しばらく箸を動かしていた。弁当はもう半分以上なくなっている。味の記憶は残っていない。
高校時代の彼女のことを、ふと思い出す。理由は分からない。共通の友人の名前を見たからかもしれないし、ただ手が止まったからかもしれない。
元気にしているだろうか、と思う。最後に会ったのは、もうずいぶん前だ。連絡先も消えている。今どこで何をしているのか、想像することしかできない。
振られた日のことは、なぜかよく覚えている。放課後の校舎裏で、彼女は少し間を置いてから、もう会えないと言った。言葉を選ぶ彼女を、ただ黙って見ていた。理由は聞かなかった。聞いても仕方がないと思ったし、引き止める言葉も浮かばなかった。
ただ、うなずいた。それで話は終わった。
喉に残った苦さで、今に引き戻される。
あの頃から、あまり変わっていないような気がする。何かを選ぶでもなく、強く望むでもなく、流れに任せてここまで来た。変わらないまま時間だけが過ぎていく感覚が、今も身体のどこかに残っている。
缶の中身を飲み干す。空になった弁当の容器を重ね、袋を結ぶ。明日の朝、忘れないように、玄関に置いた。もう少し何か入れたいと思った。
やがて、今日が終わる。