横浜の埠頭は、異国の香りと活気に満ちていた。
だが、神原鉄馬がその地に降り立ち、最初に感じたのは「不快感」だった。
鼻を突く石炭の匂い。浮ついた洋装の男たち。それらすべてが、彼の中に眠る「古き都」の記憶を逆撫でする。
鉄馬は、人混みを避けるように波止場の隅に立ち、水平線を見つめた。
海風に吹かれながら、意識は十数年前の、あの湿り気を帯びた京都の夜へと滑り落ちていく。
【幕末・京都】
二条城に近い、暗い路地裏。
「京都見廻組」の黒い紋付きに身を包んだ鉄馬は、闇に溶け込み、一人の不逞浪士を追い詰めていた。
「見廻組だ!御用改である!神妙にしろ!」
冷徹な宣告。相手が抜刀するよりも早く、鉄馬の右手にはコルト・ネイビーリボルバーが握られていた。
当時はまだ珍しかった連発銃。火薬の爆ぜる音と共に、浪士の膝が砕ける。
「き、汚ねぇぞ…武士がぁ…飛び道具なんて……!」
悶絶する浪士を、鉄馬は感情の失せた目で見下ろした。
「へ、カビの生えた武士道なんてものを守った所で…飛び道具に勝てるわけねぇだろうがよ」
それが、見廻組としての鉄馬の日常だった。
壬生狼と呼ばれた新撰組が、血飛沫の中で「誠」の旗を振りかざしている横で、鉄馬はただ、会津藩の「影」として、音もなく牙を剥き続けていた。
【慶応四年・会津若松】
だが、そんな平穏な「掃除」の日々は、紅蓮の炎に包まれた会津の戦場で終わりを告げた。
京都の路地裏とは違う、圧倒的な鉄の雨。
耳を劈くアームストロング砲の砲声。
立ち込める煙と硝煙の香り。
守るべきはずの若松が…会津城が、見るも無残に削り取られていく。
「神原……あとは頼む……」
隣で顔の半分を吹き飛ばされた戦友。
白虎隊の少年たちが、自ら腹を掻き切る血の匂い。
鉄馬の手には、熱を持ちすぎて引き金が重くなったルフォーショー・リボルバーが一梃。
「クソッタレがよ…」
【現在:横浜埠頭】
「……っ」
鉄馬は突如、激しい眩暈に襲われたように、深く眉間に皺を寄せた。
指先が、無意識にコートの中のS&W No.3を探る。冷たい金属の感触だけが、彼を「今」に繋ぎ止めてくれる唯一の錨だった。
「やな事思い出しちまったなぁ…帰ってくるべきじゃなかったかな」
独り言のように呟き、鉄馬は深く帽子を被り直した。
彼にとって、この明治の眩しい光は、目を焼くほどに疎ましい。
「おい、あんた。邪魔だ、そこを退け!」
荷車を引いた男が鉄馬を怒鳴りつける。
鉄馬は一瞥もせず、ただ静かに歩き出した。
横浜の喧騒を離れ、鉄馬が足を踏み入れたのは、石畳が続く外国人居留地だった。
煉瓦造りの建物が並び、異国の言葉が飛び交うその場所は、かつての京都とも若松とも違う、奇妙な無機質さに満ちている。
鉄馬が目的もなく歩いていると…不意に、硝子を叩き割るような鋭い音と、英語の罵声が響いた。
「
居留地の一角にある、外国人相手の骨董屋『
そこから、懐に盗品を詰め込んだ三人の巨漢の外国人が飛び出してきた。犯人たちは、偶然にもその逃走進路を塞ぐ形になった鉄馬を、力尽くで撥ね除けようと突進してくる。
「
鉄馬は、眉間の皺を動かすことさえしなかった。
腰の銃を抜く代わりに、彼は肩に掛けていた旅の荷物から、一本の太い縄を滑らせた。アメリカの荒野で、牛を追うカウボーイたちから学んだ「ラッソ」だ。
「おら、ジタバタすんな…。地獄へ行くには、まだ時間が早い」
鉄馬の腕がしなやかに動く。
空中で輪を描いた縄が、先頭の男の首を正確に捉えた。間髪入れず、鉄馬は縄の端を街灯の鉄柱に巻き付け、鋭く引く。
「Guh!?」
首を絞められた男が地面に転がると同時に、鉄馬は残る二人の足元へ、地を這うような勢いで余った縄を投げ入れた。剣術の間合いを見極める鋭い眼光。二人の足首が面白いように縄に絡め取られ、巨漢たちは石畳の上に無様に重なった。
わずか数秒。銃声ひとつ立てない、完璧な拘束だった。
「
店の中から、形部屋の主人である中年の白人男性が息を切らして駆け出してきた。
主人は犯人たちが縛り上げられているのを見て、鉄馬の手を握りしめんばかりに感謝した。
「助かりました! 素晴らしい腕前だ。お礼をさせてください、謝礼金を……」
主人が財布を取り出そうとするのを、鉄馬は片手で制した。
「……金はいらねぇ。俺はただぁ…前を塞ぐ邪魔な野良犬を片付けただけだ」
鉄馬は冷たく言い捨て、再び歩き出そうとする。
その、どこか世捨て人のような、それでいて圧倒的な強さを秘めた後ろ姿に、主人は何かを感じ取った。
「待ってください、ミスター! もし行く当てがないのなら……我が家に来ませんか? この『形部屋』の二階に空き部屋がある。家賃なんて気にしなくていい、あなたのような用心棒がいてくれたら…とても心強いんだ」
鉄馬は足を止め、振り返った。
夕暮れに染まる横浜の街。今さら旅館を当たるのも、警察と関わるのも煩わしい。
「この店にゃあ…酒はあるか?」
「最高のが揃ってますよ」
鉄馬は、深く眉間の皺を寄せたまま、小さく鼻で笑った。
「なら、暫く厄介になるぜ。俺はぁ…柔らかい布団よりは、酒の匂いの方が寝付ける性分でな…無論、酒代は払わせてもらう」
こうして、猟犬は寝床を手にしたのだった
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