なんだかとってもヤバいけん~勇者の剣を棄てにいく~ 作:陸一じゅん
『秋の賢者』が王宮を……というより、姫を訪ねてきたのは、姫が目覚めた夏が過ぎ、告白を聞いた秋が過ぎ、冬のおとずれを告げる渡り鳥たちが湖にやってくるころ。
亡くなった王子の喪が明け、姫がようやく支えなしに三歩歩けるほどになったある日。
静かなひんやりとした午前のことだった。
賢者とは、この世に五人だけ存在できる魔導士のことだ。
位は大賢者の次、上から二番目の権威ある魔導士で、伝道師でもある。
アビの知る限りにおいて、賢者の称号を持つひとを敬わない国や王は、北にあるというモーグアムという国だけだった。
その例に違わず、国王も『秋の賢者』をよろこんで歓待することを、鐘を鳴らしてすぐに城中に告げた。
主賓が望む以上、姫も宴に出なければならない。
その知らせを持ってきた執事とほとんど同時に、姫の身支度のために五人もの侍女と、その下につく下女が三人もやってきた。
衣装を選び、宝飾品をあわせ、湯を使い、髪を結い、化粧をし、衣装を着付けする――――そこに、アビのような護衛が手を出せる余地はひとつもない。
さいきんは室内の壁際で護衛をしていたが、こうなってはとてもその場にいられず、アビはすこし前のように扉の脇に立って、燭台のようにじっとしていた。
昼前に支度が始まり、午後に差し掛かったころだろうか。
「まあアビ! あなた、そこで何をしているの! 」
お世話の采配のために、部屋にこもりきりだった乳母が、扉から体を出した姿勢のままでアビをしかりつけるように言った。
アビは、疑問を表現するために首をかしげる。乳母は、ハッと何かを察した顔をして、アビに向き直った。
どうやらこの経験豊かなご婦人には、アビには見えない視野で何かが見えているらしいと察する。
「あなたも、姫の椅子を引いて晩餐会に出るのよ」
彼女はアビと話すとき、いつもゆっくりと区切るように話してくれる。耳は聞こえるので、その配慮は必要ないのだが、アビは彼女のそうしたところを好ましく思っていた。
そして、それはアビにも分かっている。姫の車輪のついた椅子を押していくのは、乳母ではなくいつもアビだからだ。
あれはなかなかコツもいるし、うっかり段差で転びそうになったりすると、力づくで車輪を制する腕力や体幹があるほうが好ましい。
何度か姫の『外出練習』に移動椅子を用いることになったとき、最初に乳母が使ってみて、それがすぐにわかった。侍従や侍女に任せたこともあったが、何人も試した結果、姫がいちばん気がねせず、事故の防止にもなるということで、アビがその役目を仰せつかった。
しかし椅子を引くだけだ。護衛なので、晩餐会の会場の側、具体的には大食堂と呼ばれるホールの脇にある小食堂にひかえることになるだろうと思っていた。姫が家族と食事をお召しになったりするときは、いつもそうだから。
「違うわよアビ。今回は違うの。王宮の外からやってきた貴賓との晩餐会と、家族との晩餐会は、全然違うものよ。護衛のあなたは姫のすぐ後ろで控えることになるし、そこにわたしは行けないの。わたくしは乳母ですからね。つまり姫様に何か異変があれば、最初に頼るのはあなたということ。ならすることはわかるわね? 」
初耳だった。考えを改めなければならない。アビは使命感をもって、乳母のわずかに金がかかった瞳に、深く頷き、息を吸って腹に力をこめ、常在戦場の面持ちで剣柄に触れてみせた。
「……わかってないわね。いいこと、あなたもその恰好を晩餐会までに改める必要がある、と言っているのよ! 」
華奢な腕が、アビの二の腕をぐいっとつかんだ。小柄な体が、おそるべき力でもってアビを引っ張っていく。
「この世に五人といない、賢者様がおられるのですよ! 美しく主君が着飾っている晩餐会に、いちの護衛が毎日遣いの服で出られるわけがないでしょう? あなたも時間までに、お風呂に入って、髪を整えて、一張羅を着て、万全に整えなければいけないのですよ」
アビは驚いて、歩きながら自分の姿を見下ろした。
膝と胸と肩と手甲に金属のプレートが入った一式の革鎧は、白い塗料で王国の兵士のあかしである猛々しい牛の角の意匠が描いてある、軽装ながら立派なものだ。房のついた白い帽子が王宮の警備兵であることを示し、中心の青いボタンは、なんと本物の宝石を使っている! 王女サーラ姫付きであることを示し、乳母の胸にもついているが、房付きの白い帽子に青い石をつけているのは、この城ではアビだけだった。
――――この格好でもだめなのか!
彼にとっての最上級の姿に駄目だしされ、アビは衝撃を受けた。
勝手知ったる乳母は、宮殿のはずれ、宿舎にあるアビの部屋まで引っ張ってくると、クローゼットを開けてすぐに「新品のシャツはないの! 」としかった。
肩を丸めておろおろする若者をしかりつける乳母の姿は、二十歳は若返っている。
アビが新しいシャツを足すときは、古いシャツが着られなくなったときだけだ。
「……もう! 仕方のないこと! いますぐ駆け足でお湯をいただいて、体をよくよく洗ってきなさい。お湯を使って、髪の一本一本、耳の裏と足の指のあいだまで、よーっく洗うんですよ! わたくしはあなたの体にあう綺麗な服を、どならから見繕ってきます。シャツを一枚拝借していきますよ。サイズを把握しなくちゃいけませんからね。時間はきっちり一刻後。わかりましたね! 」
アビはバネがついたように何度も頷いた。
「わかったなら、行きなさい! 駆け足ですよ! 」
アビは廊下を駆け出してから、宿舎が女人禁制だということを思い出した。
身支度が間に合ったアビは、姫の部屋の前で、ようやく一息ついていた。
本番はこれからだと頭では分かっているが、そうはいっても、乳母どののあの脅しの効果は、まだ骨の髄にまで滲みている。
できうるかぎりのことはしたし、してもらったが、どうだろうか。
乳母は、どこからか新品のまっさらなシャツと、きれいな刺繍のついた帯を借りてきていた。
「式典や、こうしたきちんとした席に参列するときには、こうした帯を鎧の上に巻くんですよ」
と、少し長いシャツの袖を一本の針だけを使って鮮やかに微調整し、手ずから鎧の上に帯を着付け、髪を整えてくれた。
大切な帽子も、ブラシをかけられて、ほつれていた糸を切り、乱れた房の先もはさみで整えられている。
「よし。よし。これで大丈夫。思った通り、アビの濃い肌色とその暗い琥珀色の目には、艶のある黒と、ハッと目が覚めるような群青と、柔らかくて明るい白金がよく似合うわね」
アビは、自分に似合う色なんて知らなかったから、これから身に着けるものはその色を選ぼう、と決めた。
部屋の前に立つアビを、聞きなれた乳母の声が呼ぶ。
いつもの黒塗りの移動椅子に座った姫は、明るい青緑のドレスを着ていた。
まだまだ痩せた体を隠すため、膨らんだ袖が腕を覆い隠している。重い金細工はなるべく少なくして、硝子でできたビーズで華やかに飾っていたが、それでも腕輪や指輪が、細い体に重たげに食い込んでいるように感じた。
髪にかかるドレスと同色のヴェールや耳飾りも、どれほど負担となっていることだろうか。
アビのため息を、乳母は勘違いしたようだった。バラ色に染まった頬で、「どうですか! わたくしたちの姫様のこの素晴らしい美しさ! 」と胸をそらしてニコニコしている。大作をともに仕上げた侍女たちも、誇らしげにくすくす笑った。
「姫様、アビも見違えたとは思いませんか? 」
「ええ! まるで御伽噺の貴公子のようですこと! 」
サーラ姫は、紅を引いた唇で悪戯っぽくアビに笑いかけた。アビは、なんとも思っていないような顔をして後ろに回り、移動椅子のハンドルを握った。