それは見事な晴天だった。
適当観に来てからと言うもの、修行やら復興やら、はたまたラマニアンホロウに突っ込んだりと様々な変化があった。妹のリンも、慌ただしい変化に付いてきて、その才能を開花させたりと目を見張る変化があったのだが。そして、暫くしてからだが、正式に儀玄さんに師弟として認められたりして。
漸く一息付けるか、と日常が帰ってきた頃。
門下生の人と共に、洗濯物なんてやっていた日だった。
今日はよく乾きそうだね〜。
そうですね〜。
なんて日常会話をしながら、ふと。本当に何も考えずに適当観の最も大きな建物の上に視線が向いた。本堂なのか本殿なのか、それ程詳しくは無いのだがーー。
そこに長い銀髪が揺れていた。棟の向こう側、頭だけが少し見えるような場所。
こんな隠れたみたいに、何をしているんだろうーー?
この日は、それだけで終わった。
翌日。また同じ頃合いに、気になって空を眺めるフリをして、其処を見てみた。
……やっぱり居る。確実だ。
ただ、今日は少し曇天で、皆外には出ていない。
だから、なのか。……その銀髪を靡かせる人物ーー『師匠』は、棟の上に座っていた。
片手に煙草を持って。
紫煙を燻らす姿は、普段の少し真面目だが掴み所が無く、放任主義そのものの師匠とは少し違って見えて。思わず凝視してしまった。
……それが悪かったのか。一度口に含んだ煙をふぅ、と吐き出した師匠が、こちらに気付いてぱったり視線が合うのは直ぐのことだった。
あー……、と言いたげな何とも言えない表情。そして人差し指を徐に立てたかと思えば、その人差し指を唇の前に立てる。所謂、『しー』と言うやつだ。内緒にしてほしいらしい。
その時の表情は、悪戯が見つかった子供の様な、困った様な、はにかんだ様な、何とも言えない表情をしていた。妙に淡々とした何時もの表情とは違う。
取り敢えず、ここは一つ頷いて、視線を外し部屋に戻る事にした。
更に翌日。
今日は晴天。また洗濯物をしていた。自分達の物もあれば、他の人の物もある。あとはタオルケットとか、適当観全体で使う物とか。
また素知らぬ顔をして空を見る。
今度はまた棟の向こう側に居た。それでも頭が見えているのだから、長身も悩みものなのだろう。
今度はあっさり気付かれた。見た時には、後頭部だった筈なのに振り返ってこちらを見ている。片手には煙草。案外頻回だな……なんて思っていれば、また『しー』されて、次は面白そうに笑っていた。そしてそのまま、僕の部屋の方面を指差す。待ち合わせでもしたいようだ。
取り敢えず門下生に気付かれては不味いのだろう。そう思って日常会話をしながら、洗濯物を干す作業に戻った。
こんこんこん、と部屋の扉を叩く音がする。
直ぐに訪問の主は分かった。師匠だ。
「邪魔するぞ」
と、一言言うだけで返答待ちなんてことは無かった。軽い足音共に、屏風の向こうを通って、僕の腰掛ける寝台の所までやって来る。
「師匠……」
そう言い淀むと、師匠は口元に手を運び、少し面白そうに肩を揺らして小さくだが笑う。その切れ長の目が、真っ直ぐこちらを見据える。
「バレてしまっては仕方がない。少し子供の頃にやった“悪戯”が原因で辞められなくなってな」
「だからあんな所で……?」
「ああ。そうだ。お前さんは吸わないんだろう?」
「いや、未経験ではないけれど……」
思い出してみれば手を出した事はある。あるにはあるが、滅茶苦茶噎せて、何でこんなものを……? と考えた位だ。お陰で依存症にはなっていない。
「こんなの俗物だからな、堂々とそうする訳にも行かないだろう」
「……まあ、師匠の立場的には」
そりゃあそう。と、そう答えるしかなかった。
きっと僕は難しい顔をしていたのだろう。その様子にまた師匠が笑う。
「あそこは眺めも良いんだ。あまり非喫煙者を連れて行くのもどうかと思うが、どうだ? 登ってみるか?」
「それは興味あるかも……?」
はっきりした返事は出せなかったが、師匠はそれでも良さげに踵を返した。付いてこい、と言われているようで、僕も立ち上がってその後を追う。
外はたっぷり夕刻だった。あと30分もすれば、星が煌めき始めるだろう。自宅のある門下生は用がなければ既に帰路に付いている時間だし、それは師匠にとっても思わしいタイミングの様で。
青溟鳥を肩に乗せながら、僕の方を振り向いたかと思えば、ーーあっさりと。ごく自然に。拒否する間もなく。
……見事な姫抱きをされていた。
もうちょっと運び方があったのでは……? と思う節はあるが、師匠が飛び上がるにはこちらの方が良いのかも知れない。と、自分を納得させた。
黒い墨汁と金の筋を持った翼がバサリと現れる。そのまま一瞬で何時も師匠がいた棟の上に居た。
「お前さんは、もう少し食べた方がいい。それとも筋力の修行でも増やすか?」
「何方も考えておきます……」
リンにも言われているが、確かにその自覚はあるのだ。多少適当観に来てから筋力は付いたとは思うが、前線で戦う女性陣にさえ程遠い。
そんな思案をしている僕を放置して、師匠は棟に腰掛けた。ふぅ、と背伸びをしながら、何処からともなく煙草を取り出す。追加で携帯灰皿と、マッチ箱も出てきた。手慣れた手つきからして、その行動は短いものでない事が伺える。
「どれ、1本吸ってみるか?」
「……噎せても笑わないでくださいね」
「ふふ、そんなことで笑いはしないさ」
そう言って一箱から、二本を取り出して、片方を差し出してきた。大人しく受け取る。これまた手慣れた手つきで、師匠はそれを咥えた。しゅっと音を立てて擦られるマッチもまた、違和感を覚える前に受け入れてしまうような自然な動きで。
ほれ、とでも言うように自分の煙草に火を着けてから、じわじわ燃えるマッチを差し出される。火傷なんてさせる訳にも行かないし、僕も慌てて口に咥えて、その火を受け取った。……苦い。
「ふふふふ。これでお前さんも同罪だ」
含み笑いをしながら、マッチを振り、火を消す。それを携帯灰皿に突っ込んで、その手で煙草を人差し指と中指の間に挟む。そこですう、と吸い込んで紫煙を吐き出した。
習うように、僕もそうしてみるのだがーー。
「げっほ! ごほごほ!」
派手に咳き込んだ。違和感というか、重たいものが喉に張り付いてそのまま上手く吸い込めない。呼吸とは違う感覚。
少し目を丸くした師匠が、直ぐに目を細めた。面白いものを見た、と言わんばかりの反応だ。
「最初はそんなものだな、非喫煙者というのは」
「師匠ってヘビースモーカーなんですか……?」
「否定は出来ないが」
ああ、だから棟を見上げる度に見掛けていた訳だ。
「子供の頃の悪戯の結果さ。ついつい癖になってしまった。依存症になるんじゃないぞ」
「噎せてる僕に言うかな……それ」
「まあ、念の為だ」
そう言いながら、ごく自然なことの様に煙草を吸うものだから。それも含めて、師匠を形作るものなんだな、と感じてしまって。
「吸えないなら……ほら、景色でも見てみろ」
煙草を咥えたままの師匠が、見回す様に周りを示す。……確かに。良い眺めだ。衛非地区の方面を見れば、少し邪魔な物もあるが、街が見え。海の方を見れば、綺麗な夕暮れが見える。……少しホロウが邪魔だが、それが無ければさぞ綺麗だった事だろう。
「平穏……ですね」
「今は、な。また何が起こるか、なんて。確証ありきで話せる事ではない」
「せめて師匠がゆっくり煙草が吸えるタイミングがあると良いですね」
「内緒にしてくれ。気付いている者もいるだろうが。煙草の匂いが少しでも残らない様にここで吸っている」
「風通しは確かに良いですもんね」
ああ、空が星空になってきた。これも綺麗だ。
少し意外な一面が見れて、少し得したような気もする。
ふと師匠の方を見れば、煙草を咥えたままの師匠が、いつの間にか吸い終えていて、携帯灰皿にそれをねじ込んでいる所だった。そしてそのままの手で、もう直ぐ火傷しただろう位置まで燃え尽きた僕の煙草を引っ手繰る。
「これは私とお前さんの秘密だぞ」
念を押すようにそう言いながら、ごく自然に悪戯っぽく師匠は笑った。