受肉転生 ~宿儺と一緒に本気出す~   作:てとらとりす

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九十二話

 

短くなったエリス姉の赤い髪が、朝の薄い光の中で揺れた。

 

長く揺れるものがなくなったせいで、エリス姉の顔が前よりはっきり見える。

目も、頬も、口元も、隠れる場所が少ない。

昨日泣いていたことを思い出すと、見てはいけないものを見てしまったような気がして、私は思わず足を止めた。

 

でも、止まったところで、見てしまったものは見てしまった。

 

 

「え、エリス姉……?」

 

 

声が少し裏返った。

 

エリス姉は、私の顔を見るなり、ほんの少しだけ気まずそうに眉を寄せた。

 

 

「髪どうしちゃったの……?」

 

 

そう言ってから後悔する。

 

聞き方がそのまますぎた。

もっと遠回しに聞くべきだったのかもしれない。

けれど、目の前の変化が大きすぎて、頭の中で言葉を選ぶより先に口が動いていた。

 

エリス姉は短くなった髪を指でつまみ、すぐに離した。

 

 

「そういえば、あんたは早起きだったわね」

 

 

「もしかして……見ちゃ駄目だった?」

 

 

「別にいいわよ」

 

 

エリス姉はそう言ったけれど、口元は少し尖っていた。

 

 

「ただ、こういうのって、物語の剣士なら黙って出ていくものでしょ。だから私も、そうしたかっただけよ」

 

 

「出ていく……?」

 

 

その言葉が、髪を切ったことよりも遅れて胸に入ってきた。

 

私はエリス姉を見上げた。

 

 

「出ていくって……エリス姉、ここに残るんじゃないの?」

 

 

エリス姉の眉が、少しだけ動いた。

 

 

「フィットア領の復興とか……エリス姉は、この領の人なんでしょ? 貴族の家の人で……だから、ここを手伝うのかなって」

 

 

エリス姉は、少しだけ遠くを見た。

 

難民キャンプの向こう。

壊れたものを抱えた人たちの方。

たぶん、昔の自分が知っていたフィットア領の方。

 

それから、はっきりと言った。

 

 

「考えたわ」

 

 

エリス姉の声に迷いはなかった。

 

 

「ここに残って、復興を手伝うことも考えた。私がやらなきゃいけないことも、きっとあるんでしょうね」

 

 

エリス姉はそこで、ぐっと拳を握った。

 

 

「でも、今はそれよりも欲しいものがあるのよ」

 

 

それより。

 

故郷の復興よりも。

失った家のことよりも。

自分の領地のことよりも。

 

欲しいもの。

 

私は、すぐに分かってしまった。

 

 

「それって……ルーデウスお兄さん?」

 

 

エリス姉は一瞬だけ目を細めた。

 

それから、隠す気なんて最初からないみたいに言った。

 

 

「そうよ」

 

 

あっていた。

 

やっぱりそうなのだ。

 

私は少しだけ、エリス姉の心に近づけた気がした。

昨日、涙の前で何もできなかった私が、今だけはエリス姉の中の一つを分かった気がした。

 

好きな人がいる。

 

その人のために、ここを出る。

 

それは、私にも分かる気持ちだ。

 

分かると思えた瞬間、私はまた少しだけ欲張りになった。

 

 

「もしかして、エリス姉が出ていくのって、ルーデウスお兄さんが自分よりすごいって思ったから?」

 

 

そうだったらいいなと思った。

 

もしかしたら、エリス姉は私と同じところにいるのかもしれない。

同じ不安を持っていて、同じように悩んでいて、同じように「釣り合いたい」と思っているのかもしれない。

同じように誰か一人を強く欲しいと思う人が目の前にいたら、私は安心できると思ってしまった。

 

エリス姉は驚くほどまっすぐ頷いた。

 

昨日泣いていた人とは思えないくらい、強い顔だった。

 

 

「そうよ! 私はルーデウスと離れて、ルーデウスと釣り合う女になるのよ」

 

 

私は、息をするのも忘れた。

 

エリス姉の口から出た言葉は、私の中にあったものと同じ形をしているように聞こえた。

 

私もお兄ちゃんに釣り合いたい。

お兄ちゃんの隣に立っても、守られるだけの子どもに見えないくらいになりたい。

お兄ちゃんが一人で背負っているものを、一緒に持てるような人になりたい。

 

同じだ。

 

そう思った。

 

けれど、同じだと思ったのは一瞬だけだった。

 

エリス姉の目は、私と全然違った。

 

辛いことがあって、髪を切って、故郷を置いていくと決めて。

それでも、目の奥の火は揺れていなかった。

痛みで燃えているのかもしれない。

悔しさで燃えているのかもしれない。

それでも、ちゃんと前を向いて燃えていた。

 

それは、エリス姉だからできることなのか。

 

それとも、エリス姉はもう、私がまだ見つけられていない答えを見つけたのか。

 

そう思ったら知りたくなった。

 

どうしてそんなふうに言えるのか。

どうして離れることを選べるのか。

どうして、好きな人と一緒にいたい気持ちを抱えたまま、その人から離れる方向へ足を向けられるのか。

 

私が黙っていると、エリス姉が少し眉を上げた。

 

 

「なによ。なんか言いたげね」

 

 

「エリス姉は、なんでルーデウスお兄さんと釣り合いたいの?」

 

 

エリス姉は、すぐに答えた。

 

 

「私がルーデウスより弱いからよ」

 

 

それは、強いエリス姉らしい答えだった。

 

はっきりしていて、一切迷わなかった。

 

私は首を横に振った。

 

 

「そうじゃなくてさ」

 

 

「?」

 

 

「弱いから強くなりたいのは分かるよ。でもなんで、ルーデウスお兄さんと釣り合いたいって思ったの?」

 

 

言葉にしながら、自分が何を聞こうとしているのか探っていた。

 

強さの話だけなら、エリス姉らしい。

ルーデウスお兄さんがすごい。

だから自分も強くなる。

それは分かる。

 

でも、私が知りたいのは、そのもっと奥だった。

 

好きな人が自分よりすごいから追いつきたい。

それだけなら、私にもある。

お兄ちゃんはすごい。

だから私は、お兄ちゃんの隣に立てるくらいになりたい。

 

けれど、その願いがどこから来ているのか。

ただ好きだからなのか。

ただ隣にいたいからなのか。

置いていかれたくないからなのか。

自分が惨めだからなのか。

それとも、もっと違う何かなのか。

 

そこが知りたかった。

 

エリス姉は、少しだけ黙った。

 

さっきまでのまっすぐな勢いが、一度だけ止まる。

短くなった赤い髪が、風に吹かれて小さく揺れた。

ギレーヌさんは口を挟んでこない。

ただ、私たちの会話を見守っている。

 

エリス姉は、ゆっくり口を開いた。

 

 

「……ルーデウスは子どもでしょ?」

 

 

私は、思わず瞬きをした。

 

 

「うん。ルーデウスお兄さんは子どもだね」

 

 

ルーデウスお兄さんは、私より年上だけど、大人ではない。

背も大人ほど高くないし、顔にもまだ子どもっぽいところがある。

時々、変なところに目が行ったり、変なことを言ってエリス姉に殴られたりするけれど、それも含めてまだ子どもだと思う。

 

もちろん、中に大人がいるのは知っている。

お兄ちゃんと同じように、普通の子どもではない。

けれど、今この世界での体が子どもなのは、間違いない。

 

エリス姉は、私の返事を聞いて、少しだけ辛そうな顔をした。

 

 

「……あんたは賢いわね」

 

 

「え?」

 

 

「ちゃんと気づけてるもの」

 

 

エリス姉は、自分の手を見下ろした。

 

 

「私は今日まで気づけなかった。ルーデウスは私より年下で、私より小さい……子どもだったのよ」

 

 

私も、少し前までお兄ちゃんをそう見ていた。

 

お兄ちゃんはお兄ちゃんだから大丈夫。

お兄ちゃんは分かってくれる。

お兄ちゃんは受け止めてくれる。

お兄ちゃんは私の気持ちを見つけてくれる。

 

そう思っていた。

 

お兄ちゃんだって怖い。

お兄ちゃんだって疲れる。

お兄ちゃんだって、誰かに寄りかかりたい時がある。

それを頭では分かっていても、私はずっと、お兄ちゃんの優しさを受け取る側にいた。

 

だから、私はエリス姉に「賢い」と言われても、うまく受け取れなかった。

 

最近までの私だって、同じだったのだから。

 

エリス姉は、目の前にいないルーデウスお兄さんを思い出すように、両腕を少しだけ前へ出した。

 

抱きしめるような動きだった。

 

でも、そこには誰もいない。

腕の中にあるはずの人はいなくて、エリス姉の手は空を抱いているだけだった。

その動きが、少し変だった。

 

何かを思い出しているのだと分かった。

 

昨日のことかもしれない。

もっと近い何かかもしれない。

ルーデウスお兄さんの体温とか、重さとか、震えとか、そういう言葉にしにくいものを、エリス姉はその腕で思い出しているのかもしれない。

 

私は、見てはいけないものを見たような気持ちになって、少しだけ目を伏せた。

 

エリス姉は、そんな私に気づいているのかいないのか、低い声で続けた。

 

 

「小さかったのよ」

 

 

それだけ言って、唇を噛む。

 

 

「私よりも、ずっと……」

 

 

私は黙っていた。

 

エリス姉の言葉は少なかった。

でも、その少なさの中に、たくさんのものが詰まっている気がした。

 

ルーデウスお兄さんが子供だったこと。

自分より小さかったこと。

守ってくれる人だと思っていた相手が、本当は自分が守らなければいけないくらいの体をしていたこと。

それなのに、今までずっと頼っていたこと。

 

きっと、エリス姉はそれを見てしまったのだ。

 

 

「だから釣り合うの」

 

 

そこで、エリス姉は拳を握った。

 

 

「好きな人の足を引っ張りたくなんてないし、ルーデウスが死ぬところなんて……もう絶対に見たくないもの……」

 

 

その瞬間、私は思い出した。

 

お兄ちゃんと離れた日。

 

あの時のことを、エリス姉は言っているのだ。

 

好きな人が、自分のせいで死にかける。

 

それは、きっと死にたくなるほど苦しいものだろう。

 

想像しただけで、背中が冷たくなった。

 

お兄ちゃんが私を庇って倒れる。

私が足を引っ張ったせいで、お兄ちゃんが死にそうになる。

お兄ちゃんが私を守るために、自分の命を投げ出そうとする。

 

転移した時のことを思い出して、私は思わず声を出していた。

 

 

「わ、私も……!」

 

 

エリス姉が驚いたようにこちらを見る。

 

私は、自分でも止まれなかった。

 

 

「私も、お兄ちゃんの足を引っ張らずに支えたい! 守られるだけじゃ嫌なの。隣に立ちたい。釣り合いたい。私もちゃんと……ちゃんと、支えたい!」

 

 

言い切ってから、息が上がっていることに気づいた。

 

私は何をしているのだろう。

 

エリス姉の話を聞いていたはずなのに、また自分の話になっている。

でも、今だけは止められなかった。

エリス姉の「好きな人の足を引っ張りたくない」という言葉が、私の中にあったものを引っ張り出してしまった。

 

エリス姉は少しだけ首を傾げて、私を見た。

 

 

「お兄ちゃんって……ルーデウスじゃないわよね」

 

 

「う、うん」

 

 

「カインって奴よね?」

 

 

「うん」

 

 

私は頷いた。

 

お兄ちゃんの名前を出されると、胸の中で少しだけ火が大きくなる。

それは嬉しさでもあり、恥ずかしさでもあり、痛みでもあった。

 

エリス姉は、少しだけ考えるように私を見てから、ふっと笑った。

 

 

「そう。じゃあ、お互い頑張るしかないわね」

 

 

エリス姉は笑った。

 

まっすぐな笑顔だった。

 

何も難しいことはないみたいに。

好きな人に釣り合いたいなら頑張る。

足を引っ張りたくないなら強くなる。

隣に立ちたいなら走る。

そう決めたら、あとはやるだけ。

 

エリス姉の笑顔は、そう言っているように見えた。

 

でも、私が知りたいのは、それだけじゃなかった。

 

 

「え、エリス姉……!」

 

 

エリス姉が首を傾げる。

 

 

「なに?」

 

 

「えーっと……」

 

 

言いかけて、私は口ごもった。

 

私は、何を聞きたいのだろう。

 

エリス姉が言ったことは間違っていない。

頑張るしかない。

それはその通りだ。

でも、その「頑張る」の中身が知りたいのだ。

 

エリス姉は、私の顔をしばらく見ていた。

それから、少しだけ肩の力を抜いた。

 

 

「ルーデウスには見つかりたくないけど、そんなに急がなくたって別に待つわよ。アイシャ、何が聞きたいの?」

 

 

「……エリス姉は、どうやってルーデウスお兄さんに釣り合おうとしてるの?」

 

 

聞いた瞬間、エリス姉の顔がぱっと明るくなった。

 

悩む気配すらなかった。

 

 

「剣よ!」

 

 

強い声だった。

 

 

「強い剣士になって、釣り合うつもりよ」

 

 

私は、思わずその場で固まった。

 

あまりにもエリス姉らしい答えだった。

まっすぐすぎて、少し眩しかった。

 

剣。

 

エリス姉にとっては、きっと簡単に手を伸ばせる言葉なのだと思う。

もちろん、剣の道そのものが簡単だと言っているわけじゃない。

むしろ、きっとすごく痛い。

手の皮が破れて、腕が震えて、足が動かなくなるまで振って、それでもまだ足りないと言われるような道なのだと思う。

 

でも、それでもエリス姉には、握るものが見えている。

 

自分が何を鍛えるべきか。

何にしがみつけば前へ進めるのか。

どこへ力を込めれば、ルーデウスお兄さんの隣に近づけるのか。

 

それが、ちゃんと分かっているように見えた。

 

私は、ぽつりと呟いた。

 

 

「剣……」

 

 

自分の声なのに、どこか遠くに聞こえた。

 

私は剣士じゃない。

剣を持たないわけではないけれど、エリス姉みたいに、剣だけを見て走れる人ではない。

魔術も使える。

家事もできる。

計算もできる。

交渉もできる。

 

でも、それらは全部、道具みたいに散らばっている。

 

一本の剣には見えない。

 

でも、エリス姉の剣みたいに、これを振ればいいと言える一本の剣には見えなかった。

私の前には、剣ではなく、細い糸がたくさん絡まっている。

どれも大事で、どれもどこかに繋がっている気がするのに、どれを引けばお兄ちゃんの隣へ続くのか分からない。

 

私にとっての剣は、何なのだろう。

 

その問いが、胸の中で転がった。

 

 

「私はルーデウスみたいに、頭を使ったやり方はできないわ。だから剣で強くなるの」

 

 

エリス姉は、自分の手を見下ろした。

指を握って、開いて、また握る。

その手は、私の手よりずっと硬い。

お兄ちゃんと同じように、剣を振ってきた人の手だ。

 

 

「それで、アイシャはどうなの?」

 

 

「え?」

 

 

「何でカインに釣り合いたいのよ」

 

 

急にこちらへ向いた質問に、私は息を詰まらせた。

 

お兄ちゃんに釣り合いたい理由。

 

そんなのとっくに考えた。

考えすぎるくらい考えた。

それなのに、誰かに向かって言おうとすると、言葉が急に足りなくなる。

 

私は、視線を落とした。

 

 

「お兄ちゃんは……私よりずっとすごい人で、ずっと特別な人で……」

 

 

そう言いながら、いつもの痛みが浮かんでくる。

 

お兄ちゃんは特別だ。

私が何度そう思っても、足りないくらい特別だ。

強くて、優しくて、怖がりで、誰かの痛みに気づいて、それなのに自分の痛みは隠してしまう。

私よりずっと先にいる。

私の知らないものを持っている。

私がまだ届かない場所で、ひとりで何かを背負っている。

 

 

「でも、そうやってずっと下から見上げてるだけじゃ……お兄ちゃんを支えられないの」

 

 

私は、ぎゅっと手を握った。

 

小さい手。

何でもできると思っていた手。

でも、お兄ちゃんの重たいものを持とうとしたら、まだ全然足りない手。

 

 

「お兄ちゃんは、私が甘えたら受け止めてくれて、困ったら助けてくれて、私の気持ちも、私よりも先に見つけてくれる。でも、それをもらってるだけじゃ、私はずっとお兄ちゃんの隣には立てない」

 

 

こんなことをエリス姉に話していいのか、分からない。

でも、エリス姉は笑わなかった。

変な顔もしなかった。

ただ、私を見ている。

 

それが、続きを言わせてくれた。

 

 

「だから、お兄ちゃんと……釣り合いたい」

 

 

口に出すと、思っていたより恥ずかしかった。

 

でも、そこで止めたくはなかった。

 

 

「釣り合って、お兄ちゃんの支えになりたいの。私も、お兄ちゃんをちゃんと見たい。守られるだけじゃなくて、支えたい。お兄ちゃんが疲れた時に、私がそばにいてもいいって思えるくらいになりたい」

 

 

エリス姉は、私の言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。

 

そして、すぐに頷いた。

 

 

「そうね。ルーデウスも、私なんかよりずーっとすごいんだもの。追いつけるように頑張らなくちゃね」

 

 

ずーっと、のところを強く言った。

 

悔しそうで、でもどこか誇らしそうだった。

自分より相手がすごいことを認めるのは、きっと悔しい。

けれど、好きな人がすごいことは嬉しい。

 

けど……

 

 

「頑張る……」

 

 

小さく繰り返す。

 

頑張る。

 

簡単な言葉だ。

 

言われ慣れている。

言うのも簡単だ。

私は頑張るのが得意だった。

人より早く覚えて、人よりうまくやって、人より綺麗に仕上げる。

頑張れば、たいていのことはできた。

 

でも、今の「頑張る」は、今までのものと全然違う。

 

エリス姉は、そんな私の顔を見て、少しむっとした。

 

 

「なによ。最近のアイシャは、元気がないわね……」

 

 

「……ぅ」

 

 

「前はもっと、ふふんって感じだったじゃない」

 

 

エリス姉は胸を張るような仕草をした。

 

私の真似をしているのだと思う。

雑だった。

あんまり似ていない。

というかそのポーズは、ほとんどいつものエリス姉だ。

 

でも、言いたいことは分かった。

 

私は、少し前までなら、自分はできる子だとちゃんと胸を張っていた。

 

でも今は、その「できる」が信用できない。

 

できるだけでは、お兄ちゃんの隣には立てない気がしてしまったから。

 

私は、エリス姉を見上げた。

 

 

「エリス姉は……怖くないの?」

 

 

私がそう聞くと、エリス姉はむすっとした。

 

 

「何がよ」

 

 

本当に分からない、という顔だった。

 

口を少し尖らせて、眉を寄せて、腕を組む少し前みたいな顔。

エリス姉にとって、私の質問は少しずれて聞こえたのかもしれない。

 

でも、私は止まれなかった。

 

 

「だって、ルーデウスお兄さんはエリス姉よりもずーっとすごいんでしょ? エリス姉は追いつけるように頑張るって簡単に言うけどさ……それって、どこなの?」

 

 

エリス姉の眉が、少し動いた。

 

 

「どこまで行けばいいの?」

 

 

「……」

 

 

これは、エリス姉に聞いている。

でも、私が本当に聞きたいのは、お兄ちゃんとの距離のことだった。

 

つまり、私のことだ。

 

どこまで行けば、お兄ちゃんに追いつけるのか。

 

どれくらい強くなればいい。

どれくらい賢くなればいい。

どれくらい大人になればいい。

どれくらい人の気持ちが分かるようになればいい。

どれくらい頑張れば、私は「守られるだけの子」じゃなくなるか。

 

分からない。

 

分からないから、怖い。

 

どこへ向かえばいいのか分からない努力は怖い。

 

走っても走っても、近づいているのか分からない。

積み上げても積み上げても、そもそも積む場所が合っているのか分からない。

それが怖い。

 

エリス姉は簡単に言っているように見える。

でも、本当に簡単なのだろうか。

遠い相手に追いつくというのは、そんなふうに言い切れるものなのだろうか。

 

エリス姉の顔が、さらにむすっとした。

 

 

「別に、簡単に言ったわけじゃないわよ」

 

 

「ごめん……」

 

 

私はすぐに謝った。

 

エリス姉が軽く言っているわけではないことは分かっている。

痛いものを抱えて、それでも言っているのだ。

それを「簡単に」と言ってしまうのは、絶対に違った。

 

でも、聞きたいことは消えない。

 

 

「でも、エリス姉は……どれくらい進めばルーデウスお兄さんに追いつけるのか、分かるの?」

 

 

エリス姉は、眉間に皺を寄せたまま答えた。

 

 

「そんなの分かんないわよ」

 

 

あまりにも当然のごとく、そう言われてしまった。

 

分からないのに行くの?

 

ゴールがどこにあるか分からないのに。

終わりが見えないのに。

どれだけ努力すればいいか分からないのに。

本当に届くかどうかも分からないのに。

 

それでも、エリス姉は行くと言っている。

 

 

「怖くないの?」

 

 

エリス姉は黙った。

 

私は止まらなかった。

 

 

「ゴールがどこにあるか分かんないんだよ? いつ終わるかも、どれだけ頑張ればいいのかも分かんない。そもそも、どれだけ頑張っても追いつけないかもしれない……」

 

 

言葉が速くなる。

 

自分でも分かっていた。

これはエリス姉への質問だけじゃない。

私の不安を、エリス姉にぶつけてしまっている。

 

それでも、止められなかった。

 

私の中にあった怖さが一気に口から出てしまった。

 

 

「好きな人はずっと先にいて、こっちが頑張ってる間にもっと遠くへ行っちゃうかもしれないよ? 戻った時には、もう違うものを見てるかもしれないんだよ?」

 

 

言い過ぎだ。

 

そう思った。

 

でも止まらなかった。

 

これはエリス姉への言葉じゃない。

ほとんど私自身への言葉だった。

 

お兄ちゃんに追いつけないかもしれない。

どれだけ頑張っても、お兄ちゃんは私を子どもとしてしか見ないかもしれない。

お兄ちゃんが求める支えと、私がなりたいものがずれているかもしれない。

私が全部やったって、それでも選ばれないかもしれない。

 

そういう怖さが、口から溢れていた。

 

 

「エリス姉は、不安じゃないの……?」

 

 

最後の言葉は、あきらかに弱くなった。

 

言い終わってから、私は息が荒くなっていることに気づいた。

 

エリス姉の決意に、自分の不安をぶつけてしまった。

 

エリス姉が怒るかもしれないと思った。

何をぐだぐだ言っているのよ、と言われるかもしれない。

そんなの考えても仕方ないでしょ、と鼻で笑われるかもしれない。

 

でも、エリス姉は笑わなかった。

 

怒りもしなかった。

 

ただ、私をまっすぐ見ていた。

 

その顔は、私の不安を笑っていなかった。

面倒くさいとも、くだらないとも言っていなかった。

ただ、受け止めていた。

 

そして、エリス姉は言った。

 

 

「それでもやるの」

 

 

短い一言だった。

 

けれど、その一言には、有無を言わせない強さがあった。

 

怖いからどうしたの。

分からないからどうしたの。

届かないかもしれないから、それで何なの。

そんなふうに、不安の全部を、乱暴に踏み越えていくような言葉だった。

 

エリス姉は腕を組んだ。

 

 

「相手はルイジェルドでも太刀打ちできなかったオルステッドに傷をつけたルーデウスだもの。私が簡単に釣り合える相手じゃないのは分かってるわ」

 

 

分かってるんだ。

 

エリス姉は、ちゃんと分かっている。

ルーデウスお兄さんが遠いこと。

自分が簡単に届く相手ではないこと。

ただ剣を振ればすぐ追いつけるなんて、そんな甘い話ではないこと。

 

分かっていて、それでも行くと言っている。

 

それが、私にはもっと怖かった。

 

怖いものを怖いと分かっていて、そこへ向かうのは、怖さを知らずに走るよりずっと難しいはずだ。

見えないから進めるのではなく、見えているからこそ足がすくむことだってある。

遠いと分かっているから、最初の一歩が重くなることだってある。

 

 

「じゃあ……」

 

 

私が言いかけると、エリス姉は鼻を鳴らした。

 

 

「ふん、上等よ!」

 

 

その声が、朝の空気をまっすぐ裂いた。

 

私は目を丸くした。

 

上等。

 

それは、怖さに対して出てくる言葉ではない。

不安なら、震える。

怖いなら、迷う。

分からないなら、立ち止まる。

少なくとも私はそうだ。

分からないことがあると、私はまず考える。

どこに道があるのか、何を選べばいいのか、どうすれば一番損が少ないのか。

 

 

「ふ、不安じゃないの? 怖くないの?」

 

 

私は思わず聞き返していた。

 

エリス姉は、むっとした顔で私を見た。

 

 

「だから、そんなの上等だって言ってるのよ!」

 

 

怒られた。

 

でも、怒鳴りつけて黙らせようとしているわけではなかった。

むしろ、怖いという言葉を、真正面から受け取ったうえで、叩き返してきたみたいだった。

 

 

「私だって不安もあるし、怖くもあるわ!」

 

 

エリス姉も怖い。

 

当たり前のことだ。

昨日泣いていたのだから。

ルーデウスお兄さんと離れようとしているのだから。

家族も、故郷も、好きな人も、全部胸の中に抱えたまま行こうとしているのだから、怖くないわけがない。

 

『怖い』

 

エリス姉はそう言った。

 

でも、その言葉のあとに俯いたりはしなかった。

 

 

「それでも、ルーデウスと釣り合うためには、やるしかないじゃない!」

 

 

やるしかない。

 

その単純さが、痛いくらい眩しかった。

 

どれだけ怖くても。

どれだけ遠くても。

届く保証がなくても。

好きな人が先へ行ってしまうかもしれなくても。

自分だけが必死になって終わるかもしれなくても。

 

それでも、やるしかない。

 

そう言われて、私はまた言葉に詰まった。

 

 

「そう、だけどさ……」

 

 

そうなのだ。

 

やるしかない。

 

それは分かる。

分かるから苦しい。

分かっただけで動けるなら、私はもうとっくに走っている。

お兄ちゃんに釣り合いたい。

支えたい。

守られるだけじゃ嫌だ。

そんなの、ずっと思っている。

 

でも、私にはその「やる」がどこへ向かうのか分からない。

 

エリス姉は、私の煮え切らない声に眉を寄せた。

 

 

「何が分かんないのよ? 言ってみなさい! あんたが好きな人の……カインのことなんでしょ?」

 

 

その名前を出されて、私は逃げられなくなった。

 

カイン。

 

お兄ちゃん。

 

その名前が熱を持つ。

どれだけ隠しても、その名前が出るだけで私は反応してしまう。

嬉しいような、恥ずかしいような、痛いような、息が少し詰まるような感じがした。

 

私は、ゆっくり頷いた。

 

 

「私は……お兄ちゃんに、好きって言いたいの」

 

 

声は小さかった。

 

でも、その言葉は、私の中ではずっと大きかった。

何度も何度も心の中で言っている。

お兄ちゃん大好き。

お兄ちゃんに会いたい。

お兄ちゃんの隣にいたい。

昔から、それは何度も言ってきたはずなのに、今言おうとしている「好き」は、昔のそれとは違う。

 

お兄ちゃんとして好き、では足りない。

 

男の人として好き。

 

その言葉をいつかちゃんと言いたい。

 

でも……

 

 

「でも、きっと私の言葉なんて届かない」

 

 

エリス姉は首を傾げた。

 

 

「子ども扱いされてるの?」

 

 

「違う」

 

 

私はすぐに首を横に振った。

 

お兄ちゃんは、ただ子供だからといって私の言葉を笑う人ではない。

頭ごなしに否定する人でもない。

私が真剣に言えば、きっと真剣に聞いてくれる。

言葉を選んで、私が傷つかないようにしながら、それでもちゃんと受け止めようとしてくれる。

 

 

「お兄ちゃんはね、そういう『好き』って言葉を怖がって、信じきれない人なの」

 

 

お兄ちゃんが誰かの気持ちを疑っている顔。

優しくされても、それがいつか消えるものだとどこかで身構えている顔。

人を信じたいのに、信じた先で傷つくことを怖がっている顔。

 

私は、それを見てきた。

 

 

「……でもね、私が悲しそうな顔をしたり、泣きそうになったりすると、お兄ちゃんは自分の怖さなんて全部どこかに押し込んで、無理をしてでも私の手をギュッと握って、助けてくれちゃう人なの」

 

 

好きと言って届くのなら、どれだけ楽だっただろう。

大好きだよ、と抱きついて、お兄ちゃんが困ったように笑って、それで同じものを返してくれるなら、どれだけ簡単だっただろう。

 

でも、お兄ちゃんは違う。

 

優しいから受け止める。

寂しそうだから手を伸ばす。

泣きそうだから抱きしめる。

そういうことを、自分の気持ちより先にやってしまう人だ。

 

エリス姉は少し黙った。

 

それから、短く言った。

 

 

「面倒だけど……いい奴ね」

 

 

「うん」

 

 

私はすぐに頷いた。

 

そこは絶対に否定したくなかった。

 

 

「すごく、いい人」

 

 

……だからこそ、私は怖いのだ。

 

お兄ちゃんが冷たい人なら、私はもっと簡単だった。

突き放されれば泣ける。

怒られれば諦められるかもしれない。

嫌われれば、苦しくても答えは出る。

 

でも、お兄ちゃんはそうじゃない。

 

私が泣いたら困る。

困って、自分の怖さを後ろへやって、私を傷つけない言葉を探してくれる。

私が好きと言えば、その言葉を疑いながらも、私が傷つかないように受け止めようとしてくれる。

それが優しさなのだと分かっているから、私はその優しさを利用したくない。

 

 

「だから……」

 

 

私は拳を握った。

 

 

「そんな優しいお兄ちゃんに釣り合って、隣に立って……私の言葉を、お兄ちゃんが信じられるものにしてから、その言葉を言いたいの」

 

 

届いてから。

 

その場所がどこなのかも分からないのに、私はそんなふうに思っている。

ちゃんと届く場所へ行ってから、好きと言いたい。

お兄ちゃんの優しさに引っかかるんじゃなくて、お兄ちゃん自身の気持ちに届く場所から言いたい。

 

 

「けど……私は私よりずっと特別なお兄ちゃんと釣り合うやり方が分かんない」

 

 

最後は、ほとんど吐き出すような声になった。

 

胸の中から、大きな塊を取り出したような気がした。

けれど、取り出したそれは綺麗なものではなかった。

不安と欲と憧れと怖さと、全部が絡まったままのものだった。

 

エリス姉は、しばらく黙っていた。

 

朝の風が、短い赤髪を揺らす。

ギレーヌさんは、まだ何も言わない。

キャンプの方からは、人が動く音が聞こえてくる。

でも、今の私には、エリス姉の次の言葉だけがやけに遠くて近かった。

 

エリス姉は、ふっと微笑んだ。

 

 

「……そう。アイシャは、やっぱり賢い子ね」

 

 

「賢くなんて……」

 

 

「賢いわよ」

 

 

反射的に言いかけた私を、エリス姉は目で止めた。

 

 

「好きって気持ちだけで相手に触れる前に、ちゃんと人のことが見えてるんだもの」

 

 

……私は本当に見ているのだろうか。

お兄ちゃんのことを見たいと思っているだけで、結局は自分の欲ばかり見ているのではないか。

そう思っていた。

 

でも、エリス姉には、少なくともそうは見えなかったらしい。

 

やがてエリス姉は、すぐにいつもの強い顔に戻った。

 

 

「カインに追いつけるくらい、頑張ればいいのよ」

 

 

まただ。

 

エリス姉は、さっきからそればっかりだ。

 

頑張ればいい。

やるしかない。

追いつけるくらい頑張る。

強くなる。

 

単純だ。

 

でも、私が知りたいのはそこじゃない。

 

 

「頑張ればいいって……何を頑張ればいいの?」

 

 

「強くなればいいの? 賢くなればいいの? 綺麗になればいいの? 大人になればいいの?」

 

 

言葉を重ねるたびに、自分の中でずっと回っていた問いが外へ出ていく。

 

一つ一つ、何度も考えたものだった。

強くなれば、お兄ちゃんの隣で戦えるかもしれない。

賢くなれば、お兄ちゃんの考えに届くかもしれない。

綺麗になれば、女の子として見てもらえるかもしれない。

大人になれば、子どもの夢だと思われないかもしれない。

 

でも、どれも違う気がする。

どれも必要な気がする。

どれも足りない気がする。

 

 

「どれを頑張れば、お兄ちゃんのところまで行けるの……?」

 

 

エリス姉が黙った。

 

本当に少しの間だけだったけど、その沈黙がやけに長く感じた。

さっきまでの勢いが一度止まって、エリス姉の瞳が私をじっと見る。

怒っているのか、考えているのか、呆れているのか、私には分からなかった。

 

エリス姉は腕を組んだまま、眉間にしわを寄せた。

 

そして。

 

 

「ああ、もう! まどろっこしいわね!」

 

 

急に声を上げた。

 

私はびくっと肩を跳ねさせる。

 

 

「全部よ! 全部やりなさい!」

 

 

言い切られた。

 

あまりにも乱暴で、あまりにもエリス姉らしい答えだった。

 

私は思わず声を出した。

 

 

「な、何それ……なんか、雑になってない?」

 

 

「なってないわよ!」

 

 

「なってるよ……」

 

 

小さく言い返した瞬間、両頬をぱちんっと挟まれた。

 

 

「ひゃっ」

 

 

変な声が出た。

 

エリス姉の両手が、私の頬を左右から挟んでいた。

逃げられないくらいにはしっかり押さえられている。

手のひらが熱い。

剣を振ってきた人の手だからか、私の頬には少し硬く感じた。

 

……お兄ちゃんと一緒だ。

 

エリス姉の顔が近い。

 

昨日泣いていたはずなのに、今はその涙ごと前へ向いている目。

 

その目に、私は正面から捕まった。

 

 

「私はね、昔から剣だけはよく褒められてきたの」

 

 

エリス姉の手に少しだけ力が入った。

 

頬がむにっとなる。

 

でも、私は何も言わなかった。

 

 

「才能があるって。強いって。見込みがあるって。そういうのは、ずっと言われてきたわ。だから、剣だけは私のものだった……」

 

 

エリス姉が、少しだけ視線を横へ動かした。

 

ギレーヌさんがいる方だった。

ギレーヌさんは何も言わない。

ただ、エリス姉を見ている。

その沈黙の中に、いろんな時間があるように見えた。

 

エリス姉は、すぐに私へ視線を戻した。

 

 

「まあ、ルーデウスと会ってからは、一度も自分が強いなんて思ったことないけどね……」

 

 

「……」

 

 

「ルーデウスには助けられてばっかりだし、ルイジェルドにはまだまだ全然届かないし、オルステッド相手に私は何もできなかった。あと、カインって奴にも負けてるらしいし……」

 

 

私は黙って聞いていた。

 

エリス姉は、苦々しそうに続けた。

 

 

「私は魔術もできないわ。算術だって好きじゃない。旅の細かいことだって、ルーデウスとか、あんたに任せっぱなしよ」

 

 

エリス姉は、少しだけ唇を尖らせた。

 

言葉にすると悔しいのだと思う。

自分で認めたくないことも、今は私に分からせるために言っている。

エリス姉は、説明が上手い人ではない。

細かく気持ちを言葉にするのも、たぶん得意ではない。

それでも今、私の頬を挟んでまで、自分の中にあるものを渡そうとしてくれている。

 

 

「だから、私は剣で頑張るの。唯一私のものだっていえる特技だもの」

 

 

唯一。

 

その言葉は、エリス姉の中で剣がどれだけ大きいものなのか、すごく分かりやすく教えてくれた。

 

エリス姉にとって剣は、ただ戦うための道具じゃないのだ。

誰かに認められたもの。

負けても、足りなくても、それでも自分が積み上げてきたと言えるもの。

好きな人に釣り合うために差し出せる、自分の一番。

 

これが、自分の一番だと言えるものが、エリス姉にはある。

 

それが羨ましかった。

 

本当に羨ましかった。

 

そして……エリス姉が、なんだかすごくかっこよく見えた。

 

得意なもので好きな人に釣り合うと、こんなにまっすぐ言えることに。

自分にはこれがあると、迷わず握れることに。

足りない自分を恥じるだけじゃなくて、じゃあこれで届かせると決められることに。

 

 

「でも、あんたは違うわ!」

 

 

エリス姉が、私の頬を挟んだまま、ぐいっと顔を近づけた。

 

 

「わ、わたゃひ……?」

 

 

近い。

それに、頬がつぶれている。

真面目な話をしているのに、私の顔はちっとも真面目じゃない。

 

 

「ええ。アイシャ、あんたは何でもできる子なんでしょ?」

 

 

その言い方は、確認というより決めつけだった。

 

何でもできる子。

 

昔なら、そこで胸を張っていたかもしれない。

そうだよ、私はできる子だよ、と得意げに言えたかもしれない。

だって実際、できたのだから。

 

でも今は、その言葉をそのまま受け取るのが怖かった。

 

だから私は、少しだけ目を逸らして曖昧に答えた。

 

 

「何でもかは分からないけど……苦手なことは、あんまりないよ」

 

 

……お兄ちゃんのこと以外は。

 

そう、心の中でこっそりと付け足した。

 

私は、お兄ちゃんのことになると途端に駄目になる。

いつもなら見える道が見えなくなって、いつもなら選べる言葉が選べなくなって、いつもなら得意なはずの「考える」が、ただぐるぐる回るだけになる。

 

でも、それは私の中だけの話だ。

 

エリス姉の前では、私はまだ「何でもできる子」に見えているらしい。

 

それが少しだけ苦しくて、少しだけ悔しくて、でも少しだけ嬉しかった。

 

何でもできる子だと思われること自体は、やっぱり嫌いじゃないのだ。

お兄ちゃんにそう見られたいと思っていた頃の私が、まだ私の中に残っている。

できる子だね、すごいね、よく考えたね、って言われたら、きっと今でも嬉しい。

ただ、それだけでは足りないと知ってしまっただけで。

 

エリス姉は、そんな私の言い方に満足したように頷いた。

 

 

「だから、全部やるのよ」

 

 

「全部……」

 

 

「そうよ。何でもできるあんたが、全部やるの!」

 

 

エリス姉の声は、朝の空気の中でもよく通った。

 

 

「強くなりたいなら、賢くなりたいなら、綺麗になりたいなら、大人になりたいなら、なればいいのよ! 料理でも魔術でも何でも、あんたができる子だっていうんなら全部やればいいじゃない!」

 

 

「そんな……」

 

 

そんなに簡単に言われても困る。

 

そう思った。

 

でも、エリス姉は本気だった。

 

 

「それを積み重ねるのよ」

 

 

エリス姉は、自分の手を胸の前で動かした。

手のひらを一つ置いて、その上にもう一つ置く動き。

 

 

「何でもできるあんたが、何でもかんでも積んでいくの」

 

 

その言い方は、やっぱりすごく雑だった。

 

けれど、その雑な言葉の中に、今の私が一番欲しかったものが少しだけあった。

 

どれを選べばいいのか分からないなら。

選ばなくていい。

全部、持っていけばいい。

 

 

「それで、あんたより特別だっていうカインに、釣り合えるところまで上がっていけばいいのよ!」

 

 

エリス姉はそう言い切った。

 

私は、すぐには返事ができなかった。

 

全部やる。

 

その言葉が、頭の中でゆっくり形を変えていく。

 

強くなる。

賢くなる。

綺麗になる。

大人になる。

料理も、家事も、魔術も、交渉も、人の気持ちを考えることも、全部。

何か一つを、お兄ちゃんに届くための正解として選ぶのではなく、全部を積み上げる。

 

積み上げる。

 

理屈はめちゃくちゃだ。

 

だって、人は積み木じゃない。

努力は、ただ積めば高くなるものではない。

全部をやれば全部が綺麗に繋がって、お兄ちゃんに届く階段になるなんて、そんな都合のいい話があるわけじゃない。

そんなことは分かっている。

 

でも。

 

一理あるかもしれない。

 

どれか一つを完璧にしても、お兄ちゃんの高さに届かないのなら。

強くなるだけでは足りないのなら。

賢くなるだけでは、お兄ちゃんの怖さに触れられないのなら。

綺麗になるだけでは、お兄ちゃんの目が私を女の子として見ても、その奥までは届かないのなら。

大人になったつもりでも、人の痛みを分からないままなら、お兄ちゃんの隣には立てないのなら。

 

もう一つ、重ねればいい。

それでも届かなければ、もう一つ。

まだ足りなければ、さらにもう一つ。

いくつもいくつも、私が持てるものを重ねていく。

 

強さに、賢さを。

賢さに、優しさを。

優しさに、我慢じゃなくて相手を見られる目を。

家事も、料理も、魔術も、交渉も、算術も、気遣いも。

私ができるであろうものを、可能性だけで終わらせずに、実現して積み上げていく。

 

ひとつひとつは、お兄ちゃんに届かないかもしれない。

 

でも、いくつもいくつもそれを重ねた先でなら、もしかしたら。

 

ほんの少しだけでも、お兄ちゃんと同じ高さの景色が見えるかもしれない。

 

 

「全部やって……お兄ちゃんのところに……」

 

 

自分で呟いた声が震えた。

 

それは、まだ答えではなかった。

道がはっきり見えたわけでもない。

ただ、真っ暗だった足元に、小さな熱がひとつ置かれた感じだった。

 

エリス姉は、満足そうに頷いた。

 

 

「そうよ」

 

 

でも、その熱はすぐに、不安に触れた。

 

 

「それって……本当にいいの?」

 

 

「何がよ」

 

 

「全部やるって、欲張りっていうか、なんか……わがままじゃない?」

 

 

全部欲しい。

強さも、賢さも、綺麗さも、大人っぽさも、人の気持ちが分かることも、料理も、魔術も、家事も、全部。

それを全部積んで、お兄ちゃんのところへ行きたい。

 

それは、あまりにも欲張りではないだろうか。

 

私は、自分の欲深さが怖い。

ひとつ欲しがるだけでも、こんなに苦しい。

なのに全部欲しいなんて言い出したら、私はどこまで行ってしまうのだろう。

私は、結局また自分の欲を大きくしているだけではないのだろうか。

 

わがまま。

 

その言葉は、私の中でいいものではなかった。

 

 

「ふん、別にいいじゃない」

 

 

「いいの?」

 

 

「そりゃいいわよ。欲しいものがあるなら、欲しいって思えばいいじゃない。あんたの周りに、それを止める奴なんていないでしょ」

 

 

あまりにもあっさり言われて、私はまた返事に詰まった。

 

止める人。

 

お母さんなら、どう言うだろう。

ノコパラなら、口は悪くても止めはしないかもしれない。

ブレイズさんも、無理をするなとは言うだろうけど、私が決めたことなら見守ってくれる気がする。

お兄ちゃんは……どうだろう。

 

心配はしそうだ。

 

でも、私が本気で変わろうとしているなら、きっと馬鹿にはしない。

 

止める人は……今のところいない。

 

でも、それでいいのだろうか。

 

私がそう思った時、今まで黙っていたギレーヌさんが口を開いた。

 

 

「わがままな奴は強い」

 

 

低い声だった。

 

私もエリス姉も、そちらを見る。

 

ギレーヌさんは、腕を組んだまま淡々と言った。

 

 

「私の師匠もそう言っていた。わがままな奴が、わがままにやれば、誰にも止められないから……とな」

 

 

わがままな奴は強い。

 

その言葉が、私の中にゆっくりと落ちてきた。

 

私は、わがままという言葉を、ずっと子どもの証だと思っていた。

 

自分の気持ちを我慢できないから、わがままを言う。

相手の都合を考えられないから、わがままになる。

欲しいものを欲しいと泣いて、誰かに叶えてもらおうとするから、子どもなのだと。

 

だから、わがままは直さないといけないものだと思っていた。

 

少なくとも、お兄ちゃんの隣に立ちたいなら、そんな子どものままでは駄目なのだと。

 

でも、ギレーヌさんは強いと言った。

 

わがままな奴が、わがままにやれば、誰にも止められない。

 

それは、私が知っているわがままとは違う響きだった。

 

誰かに叶えてもらうためのわがままではない。

自分で叶えに行くためのわがまま。

欲しいものを欲しいと決めて、そこへ向かうことをやめない強さ。

周りにどう言われても、それでも手を伸ばし続ける強さ。

 

もし、わがままがそういうものでもあるのなら。

 

わがままが、ただ迷惑なだけのものではなくて、誰にも止められないくらい前へ進む力にもなるのなら……

 

エリス姉が、ぱっと顔を明るくした。

 

 

「そうね!」

 

 

ギレーヌさんの方を振り返り、すぐにまた私へ向く。

 

 

「止めてくる奴がいたとしても、ギレーヌの言う通り、誰にも止められないくらい、わがままにやってやればいいじゃない!」

 

 

ギレーヌさんが、わずかに眉を動かした。

 

 

「私の言ったことでは……」

 

 

ギレーヌさんは、そう短く否定した。

 

でも、エリス姉は気にしていなかった。

もしかしたら、耳に入っていないのかもしれない。

 

 

「アイシャ、あんたはそれができるんでしょ?」

 

 

また、エリス姉のまっすぐな目に射抜かれて聞かれた。

 

全部やる。

わがままにやる。

誰にも止められないくらい、自分の欲しいものへ向かう。

 

私は、私の中に小さく火が灯るのを感じたが、すぐにまた別の不安がかぶさってきた。

 

 

「でもさ、それって……すごく難しくて、遠い道のりじゃない?」

 

 

エリス姉がこちらを見る。

 

私は、さっきよりも小さな声で続けた。

 

 

「私に、できるの?」

 

 

言ってしまってから、自分で嫌になった。

 

まただ。

 

できるかどうかを聞いている。

保証を欲しがっている。

行けると言ってほしい。

大丈夫だと言ってほしい。

 

成功するよと、誰かに言ってほしい。

 

そんなもの、誰にも分かるわけがないのに。

 

全部やる。

積み重ねる。

わがままに進む。

 

どれも、言葉にするとかっこよくは聞こえる。

 

でも実際には、どれも非現実的なことだ。

 

私が何年も何年も努力して、それでもお兄ちゃんに届くかは分からない。

お兄ちゃんが私をどう見るかも分からない。

お兄ちゃんが私の言葉を信じてくれるかも分からない。

何より、私が途中でまた迷わずにいられるのかも分からない。

 

届くかどうか分からないものに、私はどれだけの時間を使えばいいのだろう。

どれだけ自分を変えればいいのだろう。

どれだけ積めば、お兄ちゃんの隣に届く高さになるのだろう。

 

エリス姉は、私の言葉を聞いて、むすっとした顔で固まった。

 

また困らせた。

 

すぐにそう思った。

 

エリス姉は、きっとそういう細かい不安に答えるのが得意ではない。

それなのに、私はまた答えのないことをぶつけている。

エリス姉がせっかく前に押そうと励ましてくれているのに、私はその手を掴みながら、でも怖い、でも分からないと、駄々を捏ねている。

 

嫌な子だ。

 

こんなの、答えを欲しがっているんじゃなくて、誰かに「大丈夫」と言わせたいだけみたいだ。

 

私は一歩下がろうとした。

 

 

「ごめん、エリス姉。今のは――」

 

 

最後まで言えなかった。

 

エリス姉の両手が、私の肩をぎゅっと掴んだからだ。

 

頬を挟まれた時よりも強かった。

逃げるなと言われているみたいだった。

今度は少し痛い。

ただ、その分エリス姉の熱が肩から伝わってくる。

 

エリス姉の顔は、さっきまでのむすっとした顔とは違った。

怒っているように見えるのに、ただ怒っているわけではない。

私を黙らせたいのではなく、どうしても聞かせたいことがある人の顔だった。

 

 

「聞きなさい、アイシャ」

 

 

「は、はい」

 

 

反射で返事をした。

 

エリス姉は、少しだけ息を吸った。

 

 

「私ね、今でもオルステッドのこと考えるだけで足が震えるの。実際、あの場で私は足が震えて動けなかったしね」

 

 

エリス姉の声は、苦しそうだった。

 

私は、あの日のことを思い出した。

 

オルステッドという人の手が、私の頬を掠った瞬間。

体が固まった。

頭の中が真っ白になった。

逃げるとか、防ぐとか、そういう考えすら出てこなかった。

周りにはノコパラもブレイズさんもいたのに、私はただ、お兄ちゃんに助けを求めて叫んだ。

 

エリス姉も動けなかった。

 

その事実は、少しだけ私を安心させた。

 

でも、同時にもっと怖くなった。

 

エリス姉でさえそうなら、私はどうしたらいいのだろう。

 

 

「でもね……ルーデウスが死ぬってなった時は、そんな震えなんてなかったかのように足が動いたの」

 

 

肩を掴む手に、力がこもる。

 

 

「怖くて怖くてたまらなかったはずなのに、その怖さが全部吹っ飛んでいって、足が動いたの」

 

 

エリス姉の目が揺れた。

 

泣きそうだったわけじゃない。

でも、その目の奥に、あの日の光景がまだ残っているのが分かった。

ルーデウスお兄さんが死ぬかもしれない瞬間。

怖いものが目の前にいて、自分ではどうにもならなくて、それでも体が動いた瞬間。

 

 

「どうしてかわかる?」

 

 

分からなかった。

 

どうしてそんなことができるのだろう。

 

怖いなら動けない。

勝てないなら止まる。

分からないなら考える。

私はそうだった。

そうやって、自分を守ってきた。

 

なのに、エリス姉は違うと言う。

 

私は、肩を掴まれたまま、声を漏らした。

 

 

「なんで……?」

 

 

エリス姉は、私の肩を掴んだまま、急に空を見上げた。

 

朝の空は、もう夜ではなかった。

でも、まだ明るくもない。

青でも黒でもない、薄い灰色が広がっていて、その奥から光がじわじわと滲んでくる。

 

エリス姉は、その空に向かって思いっきり息を吸いこんだ。

 

何をするのだろうと思った次の瞬間、エリス姉は叫んだ。

 

 

「私が! ルーデウスを愛してるからよ!!」

 

 

朝のキャンプに響くほどの声だった。

 

私は、びくりと肩を震わせた。

 

近くにいた何人かが振り向いた気がした。

鳥が数羽、近くの森から飛び立った。

ギレーヌさんも、反射的に耳を伏せたように見えた。

 

でも、そんなことは私の中に入ってこなかった。

 

愛してる。

 

説明なんてなかった。

理屈もなかった。

強さがどうとか、釣り合うために何が必要かとか、そういう細かいものを全部吹き飛ばして、そこにある気持ちをそのまま叫んでいた。

 

エリス姉は私を見下ろした。

 

 

「どれだけ怖くたって、私がルーデウスを愛してるって気持ちに勝てるわけないのよ!!」

 

 

ドクン、と胸が跳ねた。

 

まだ、何が変わるのかは分からない。

言葉にできるほど、はっきりしたものではない。

でも、エリス姉の声が、私の中にあった怖さの塊へまっすぐぶつかったのは分かった。

 

怖さより、好きが強い。

 

そんな単純なことを、私は考えたことがなかった。

 

怖いからできない。

届かないかもしれないから不安。

失敗するかもしれないから立ち止まる。

私はずっと、怖さをどう減らすか、どう避けるか、どう対処するかを考えていた。

 

でもエリス姉は違う。

 

あのオルステッドの前で、エリス姉の足を動かしたもの。

怖さを消したのではなく、怖さの上から体を動かしたもの。

震えをなかったことにしたのではなく、震えより先に走らせたもの。

 

それが、愛しているという気持ちだった。

 

私は、その発想に息を飲んだ。

 

エリス姉は、私の肩を掴んだまま、さらに顔を近づけた。

 

 

「アイシャ! 最後に聞くわ!」

 

 

その言葉に、私の背が自然と伸びる。

 

 

「今言った、全部できないかもしれないって怖さと、カインを好きって気持ち」

 

 

一瞬、世界が静かになった気がした。

 

 

「あんたは、どっちが強いの!」

 

 

怖いものなら、いくらでもある。

 

全部できないかもしれない怖さ。

お兄ちゃんに届かないかもしれない怖さ。

お兄ちゃんが私を選ばないかもしれない怖さ。

私が間違った努力をしてしまうかもしれない怖さ。

いつまで頑張ればいいのか分からない怖さ。

お兄ちゃんの優しさを利用してしまうかもしれない自分への怖さ。

 

たくさんある。

 

数えきれないくらいある。

 

でも。

 

お兄ちゃんを好きな気持ち。

 

それは、それらの怖さよりも弱いのだろうか。

 

エリス姉に、胸の奥にまで手を入れられたような気がした。

 

 

「わ、私は……」

 

 

声が揺れる。

 

ここで黙りたくなんてなかった。

 

だって、エリス姉は、言葉を紡ぐのがきっと上手くはない人だ。

難しい気持ちを、丁寧にほどいて説明できる人ではない。

それでもここまで言ってくれた。

自分の怖さを出して、ルーデウスお兄さんを愛していると叫んでまで、私に問いかけてくれたのだ。

 

それに何より。

 

この質問の答えでだけは、黙りたくなかった。

 

私の中で一番強いものが何かだけは、もうとっくの昔に分かっている。

 

私は、エリス姉の手の下で肩を震わせながら、空を見上げた。

 

朝の空が目に入る。

 

薄く明るくなっていく空。

墓石の前にいた時よりも、白くなった空。

お兄ちゃんがどこかで見ているかもしれない空。

 

その空に向かって、私は思いきり息を吸いこんだ。

 

胸がいっぱいになる。

喉が熱くなる。

怖さも、恥ずかしさも、迷いも、全部そこにある。

 

でも、それより強いものが私の中にしっかりとある。

 

 

「お兄ちゃんが大好きです!!!」

 

 

私は叫んだ。

 

声が自分でも驚くくらい大きく出た。

 

声はキャンプの朝に響いた。

誰かがこっちを見たかもしれない。

聞かれたかもしれない。

 

でも、そんなことはもうどうでもよかった。

 

叫んだあとの胸は、熱かった。

 

息が上がっている。

顔も熱い。

恥ずかしい。

すごく恥ずかしい。

 

でも、それ以上に。

 

すっきりした。

 

お兄ちゃんが好き。

 

その言葉を、こんなに大きな声で言ったのは、初めてかもしれない。

 

怖さよりも。

届かないかもしれない不安よりも。

全部できないかもしれない弱さよりも。

お兄ちゃんを好きだという気持ちの方が、ずっと強い。

 

そんなの、当たり前だったのだ。

 

エリス姉は、満足そうに鼻を鳴らした。

 

 

「ふん。それでいいのよ!」

 

 

「いいんだ……」

 

 

こんなに単純でいいのだろうか。

理屈も順番も足りない。

何をどう頑張るのかも、まだ何も決まっていない。

お兄ちゃんにどう届くのかも、分からないままだ。

それなのに最後は「大好き」という言葉で全部押し切られてしまった。

 

ちょっと……いや、かなりアホっぽい。

 

難しく考えて、怖いものを数えて、失敗する可能性を並べて、ひとつひとつ確認しないと進めない私の前で、エリス姉は「好きが強いならそれでいい」と言った。

保証なんてどこにもないのに。

それでも、そう言った。

 

エリス姉は、私の肩から手を離した。

 

そして、その手をすぐに腰に当てて、胸を張った。

 

 

「当たり前よ。もしかして、カインはあんたに、わがままになるな、なんて言う奴なの?」

 

 

私は首を全力で振った。

 

一回じゃ足りなくて、何度も何度も振った。

 

 

「ならいいじゃない」

 

 

そうだ。

 

お兄ちゃんは、私に何かになれなんて言わなかった。

 

メイドでいろとも、誰かに仕えろとも、賢くあれとも、役に立てとも、可愛い妹でいろとも言わなかった。

叱られたことはあったけど、私にこうあるべきだとか、こうしなきゃいけないとか、そういう形に私を押し込もうとしたことなんてない。

 

むしろ逆だ。

 

私が自分で考えて、自分で選んで、自分の足で進めるように、ずっと見てくれていた。

 

お母さんの言う通りに生きるだけじゃなくて。

誰かに仕えるための私じゃなくて。

ちゃんと、私の人生として悩めばいいと。

考えればいいと。

選べばいいと。

 

そう、お兄ちゃんは言ってくれたじゃないか。

 

そうだった。

 

私は、いつの間にか忘れかけていたのかもしれない。

 

甘えたい私も。

褒められたい私も。

役に立ちたい私も。

自分で選びたい私も。

 

お兄ちゃんは、どんな私も見てくれた。

 

なら。

 

私が強くなりたいと言ったら。

賢くなりたいと言ったら。

綺麗になりたいと言ったら。

大人になりたいと言ったら。

全部やって、お兄ちゃんの隣に行きたいと言ったら。

 

きっと困る。

心配する。

無理はするなと言うかもしれない。

それでも、私が本気で選んだことなら、否定はしない。

 

私が自分で叶えに行くためのわがままなら、きっとお兄ちゃんは否定しない。

 

……そう、確信を持って言える。

 

エリス姉は、私の顔を見て頷いた。

 

 

「アイシャ。手を抜く必要なんてないわ」

 

 

その声は、さっきのように叫んではいなかった。

 

けれど、私の中にはさっきより深く入ってきた。

 

 

「あんたの行きたいところまでとことん行けばいいのよ。とことんね。あんたならできるわ」

 

 

「……とこ、とん」

 

 

そっか、とことん。

 

とことんやっていいんだ。

 

その言葉が、胸の奥で何度も跳ねた。

 

いい子の形に、私を小さく畳まなくていい。

欲張りすぎだと自分を叱って、欲しいものをひとつずつしまい込まなくていい。

強くなりたいなら強くなればいいし、賢くなりたいなら賢くなればいいし、綺麗になりたいなら綺麗になればいい。

お兄ちゃんの隣に立ちたいなら、そのために使えるものを全部使って、私という人間を全部そっちに向けてしまえばいい。

 

そんなに欲しがったら駄目だと私は思っていた。

 

どれか一つにしなければいけない気がしていた。

人は、そんなにたくさん欲しがってはいけないのだと思っていた。

特に私は、お兄ちゃんの優しさを知っているから、欲しがることが怖かった。

欲しがれば欲しがるほど、お兄ちゃんに近づこうとするほど、いつかその欲でお兄ちゃんを困らせてしまう気がした。

 

だから、自分の願いを小さくしようとしていた。

 

欲しいものを一つずつ減らして、残ったものだけを「正しい願い」にしようとしていた。

 

でも、そんなの全然違った。

 

私は、欲しいのだ。

 

全部が欲しい。

 

その瞬間、いつも通り、私の目の前に道が浮かんだ。

 

何かを理解した時、やることが決まった時、私の頭の中にはよく道ができる。

どこから始めて、どこへ進んで、どこで終わればいいのか。

順番が見えて、必要なものが見えて、失敗しそうなところも見える。

私は、ただそこを歩けばよかった。

止まってもいい。

近道してもいい。

少し工夫するだけで、早くゴールできた。

 

でも、今見えた道は、いつもの道とは全く違った。

 

近くにゴールがないのだ。

 

どこまで続いているのか分からない。

一本の道だけがずっとずっと先に伸びている。

途中で曲がっているのか、登っているのか、沈んでいるのかも分からない。

見えているのは、ただ、その道が終わりなく続いているということだけ。

そして、その道は間違いなく、私の足元から始まっていた。

 

私の胸が、どうしようもなく高鳴っていた。

 

怖いのに、ワクワクした。

遠いのに、逃げたいとは思わなかった。

終わりが見えないのに、ようやく私のためだけの道を見つけたみたいで、息を吸うたびに肺の中が熱くなっていく。

 

この道を私は今から全力で走れるのだ。

 

誰かに用意された短い道じゃない。

できる子として、すぐに終わらせて、褒められて、それでおしまいになる道じゃない。

私の中にあるものを全部使っても、まだ先があるかもしれない道。

疲れても、悔しくても、泣いても、それでも進む意味がなくならない道。

 

そんな道が、初めて私の前にあった。

 

体の中に、火のようなものがついた気がした。

 

さっきまでの不安が消えたわけじゃない。

怖さも、分からなさも、届かないかもしれないという恐ろしさも、ちゃんと残っている。

ちゃんと見えている。

でも、それらの下で、もっと熱いものが動き出していた。

 

ああ、これだ。

 

私は、ずっとこういう道が欲しかったのかもしれない。

 

そんなことを思った。

 

いつだって、私が進んできた道は、私が疲れる前にゴールできてしまう道だった。

 

息が上がる前に終わってしまう道。

汗を拭う前に褒められてしまう道。

難しい顔をする前に答えが見えてしまう道。

 

前はそれでもよかったんだ。

 

そのゴールの先にはお兄ちゃんがいたから。

 

お兄ちゃんが見てくれた。

頑張ったなって言ってくれた。

よく考えたなって褒めてくれた。

頭を撫でてくれた。

私が結果だけじゃなくて、どうしてそこへ行こうとしたのか、どこで工夫したのか、どこで迷ったのかまで見つけてくれた。

 

だから、どんなに短い道であっても、そこにお兄ちゃんがいてくれるなら、私はいくらでも走れた。

 

けれど、そのゴールの先にお兄ちゃんがいなくなってから、私の足は自分でも笑ってしまうくらい簡単に止まった。

 

何かができても、だから何だろうと思ってしまう。

褒められても、欲しい声じゃないと思ってしまう。

できる子でいることが、薄っぺらく感じてしまう。

 

できる。

 

その言葉だけでは、もう足りなかった。

 

そこにお兄ちゃんがいないなら、このたくさんある短い道を何のために走ればいいのか分からなかった。

 

自分でも嫌だった。

お兄ちゃんがいないだけで、こんなにやる気が薄くなる自分が。

役に立つことも、できることも、前と同じようには輝かない自分が。

あまりにもお兄ちゃんに寄りかかっているのだと分かり、情けなくなった。

 

でも。

 

この長い長い道は違う。

 

この先には、お兄ちゃんがいる。

 

正確には、お兄ちゃんが待っているわけじゃない。

ただゴールで待っていて、私を撫でてくれるお兄ちゃんではない。

私が小さな道を走り終えたご褒美として立っているお兄ちゃんではない。

 

この先には、お兄ちゃんに釣り合える私がいる。

 

お兄ちゃんの隣に立つ私がいる。

お兄ちゃんが一人で抱えようとする重さに、横から手を添えられる私がいる。

お兄ちゃんの「大丈夫」を、そのまま飲み込まずに、でも無理やり暴かずに、ちゃんと見つめられる私がいる。

お兄ちゃんが信じてもいいと思えるような「好き」を、胸を張って渡せる私がいる。

 

私のなりたい私がいる。

 

なら。

 

それなら走りきろう。

 

疲れても走ろう。

足が痛くなっても、息が苦しくなっても、泣きたくなっても、また立ち上がって走ろう。

誰かに笑われても、欲張りだと言われても、子どものわがままだと言われても、私はもう自分で自分の欲を小さくしたりなんかしない。

 

躓いても走ろう。

 

どこかで間違えるかもしれない。

頑張り方を間違えるかもしれない。

強くなろうとして、強さの意味を間違えるかもしれない。

賢くなろうとして、また相手を動かすための道具にしてしまうかもしれない。

大人になろうとして、自分の寂しさを押し殺すだけになるかもしれない。

 

それでも、間違えたら直せばいい。

 

お兄ちゃんがそうしてくれたように、私も私の中にあるものを見つけて、名前をつけて、もう一度考え直せばいい。

 

足を引っ張られても走ろう。

 

怖さに引っ張られても。

不安に引っ張られても。

寂しさに引っ張られても。

お兄ちゃんの優しさに甘えたい私が、後ろから足を掴んできても。

 

そんな私も振り切らず、連れていけばいい。

 

甘えたい私も、寂しがりな私も、褒められたい私も、選ばれたい私も、全部私だ。

それを捨てたふりをして進んだら、きっとまたどこかで歪む。

だから全部抱えて、全部見張って、全部使える形に変えて、走ればいい。

 

だって、私はお兄ちゃんが欲しいのだ。

 

この恋も。

この愛も。

この好きも。

 

お兄ちゃんに伝えられなきゃ、私は死んでも死んでも死にきれないのだ。

 

お兄ちゃんが好き。

 

そんな簡単な言葉ひとつに、私はこんなにたくさんのものを詰め込んでしまった。

 

お兄ちゃんに褒めてほしい。

お兄ちゃんに見てほしい。

お兄ちゃんの隣にいたい。

お兄ちゃんを支えたい。

お兄ちゃんを安心させたい。

お兄ちゃんに選ばれたい。

お兄ちゃんが信じられる私になりたい。

 

全部が、その一言の中に入っている。

 

たった二文字なのに、私の中ではこんなにも重くなってしまった。

 

わがままで、欲張りで、どうしようもない願いだ。

 

綺麗なだけの恋じゃない。

優しいだけの愛でもない。

相手の幸せだけを願えるほど、私はまだできた子じゃない。

お兄ちゃんの自由を大事にしたいと思いながら、その自由の先で私を選んでほしいと願っている。

お兄ちゃんを支えたいと思いながら、私が支えになりたいと願っている。

 

ほんと、欲張りだ。

 

けれど、もう手放せない。

 

手放したくもない。

 

私は、欲しいものを減らして妥協するより、欲しいものを全部私の手の中に掴みたい。

 

強さだけでいいなんて言いたくない。

賢さだけでいいなんて思えない。

綺麗になれれば満足なんて、そんな簡単な話じゃない。

大人になれば終わりでもない。

役に立つだけなら、もうできる。

でも、役に立つだけでは嫌だ。

 

全部がほしい。

 

全部を持って、お兄ちゃんのところへ行きたい。

 

心の中で、欲張りだと言う声が聞こえた。

 

わがままだと言う声も聞こえた。

 

私は、その声に頷いた。

 

そうなの。

私は欲張りなの。

私はわがままなの。

 

だから、この欲張りな願いをわがままに叶えるのに、なんの遠慮もいらない。

 

頭の良さも。

覚えの早さも。

器用さも。

料理も、家事も、魔術も、交渉も。

可愛さだって、必要なら使えばいい。

相手の言葉の裏を考えてしまうところも。

欲深いところも。

寂しがりなところも。

お兄ちゃんが好きで好きでたまらないところも。

 

私の中にあるこの特別を、全て使ってしまおう。

 

思えば、私はずっと、どこかで自分を小さくまとめていた。

何でもできる子なのに、何でも欲しがる子にはならないようにしていた。

賢い子なのに、自分の欲には馬鹿なふりをしていた。

お兄ちゃんが好きなのに、その好きがどれだけ大きいのかを、見ないようにしていた。

 

でも、もういい。

 

とことんだ。

 

とことんやろう。

 

私は、今まで無意識に抑えていたものの蓋を、そっと外す。

 

外した瞬間、何かが溢れて暴れ出すかと思った。

でも、そうならなかった。

胸の奥にあった熱が、ゆっくり体の隅まで広がっていく。

指先が温かい。

足の裏に力が入る。

背筋が伸びる。

 

やっと、呼吸が深くなった。

 

……空が明るくなっていく。

 

その明るさを見ながら、私は自分の中にあるこの気持ちを、できるだけ分かりやすい言葉にした。

 

成長するとか、釣り合うとか、選ばれるとか、自分の人生を生きるとか。

 

どれも間違っていない。

 

でも、今の私に一番しっくりくるのは、もっと単純な言葉だった。

 

 

 

本気を出そう

 

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