よろしくお願いいたします。
0:七月十九日
七月一九日。本日の学園都市は、嫌がらせレベルの熱波と無遠慮すぎる夏虫によって最悪の環境である。
そんな、四方八方からの地獄が意識をボヤけさせる午後五時半。
第七学区の歩道を、一人の少年が疲労困憊で歩いていた。
手にはコンビニのビニール袋。中身は特売の野菜ジュースと明日の朝用のサバ缶、そして壊滅的な点数を叩き出した期末テストの答案を冷却するためのアイスクリームだ。
「……あー、クソ。補習確定とかマジかよ。小萌先生のあの笑顔で『補習ですよー』って言われるのが、一番精神に来るんだよな~……」
独り言は、熱せられた虚空に溶けて誰にも届かない。
木寺一桁は、学園都市に二三〇万人いる生徒の一人であり、カリキュラムを受けても針の一本も浮かせられない『無能力者』……レベル0だ。
街中の大型モニターでは、本日も高位能力者たちの華々しい活躍がニュースになっている。
同じ年代、同じ教科書で学んでいるはずなのに、彼らは選ばれ、自分は弾かれた。そんなうろんとしたコンプレックスを胸の奥に沈殿させながら、彼は普通の高校生活というぬるま湯に浸かっていた。
「どけえェェェッ! 死にたくなかったら道空けやがれェぇ!」
突如、前方から怒号が響いた。顔を上げると、十数人の不良たちが、まるで怪獣映画に特別出演したかのように、必死の形相でこちらへ全力疾走してくるのが見えた。そして、その先頭を走っているのは──
「うわぁぁぁ! 不幸だーッ! なんで俺まで追われる側になってんだよチクショウ! ええいくそっ!! マジで不幸すぎますーっ!」
同じクラスの、上条当麻だった。特徴的なツンツン頭。彼もまた、自分と同じ補習常連組のレベル0だ。
木寺は咄嗟に思う。
(あいつ、また厄介事かあ)
不幸な人間を見ることで安心感を得る、沁みついた自己防衛。その思考は反射に近かった。
だが、現実はそんな余裕を許さない。上条の後方から、バチバチという不穏な放電音が脳髄を舐った。直後、青白い雷の鞭が周囲の地面を這うように迫ってくる。
「──ッ!?」
常盤台中学の制服。茶髪にショートの少女。学園都市に七人しかいないレベル5の第三位、御坂美琴。彼女が放つ電撃が、逃げ遅れた不良たちを次々と薙ぎ倒していく。
(やっべえ、巻き込まれるんじゃねえかコレ……!?)
木寺の脳内で負のフラグが建築される。不良たちの進行方向、このままでは自分も障害物として認識されるか、あるいは流れ弾(というには高出力すぎる攻撃)に当たる。
そして案の定。
逃げようと足を踏み出した瞬間、不運にも逃げてきた不良の一人が木寺の方へよろめき、突き飛ばすようにぶつかってきた。
「邪魔だオラァ!」
「うおッつ!?」
バランスを崩し、車道側へたたらを踏む木寺。その動きが、追撃者である美琴の目には「散開して包囲しようとする敵」に映ったのか。あるいは、単に射線上にいただけか。御坂美琴の視線が、ギロリと木寺を捉えた。
「ちっ、往生際が悪いわね……!」
彼女の前髪から、バジィ!と強烈な火花が散る。狙いは正確無比。木寺一桁の胸元へ一直線に伸びる雷撃。
上条のような『幻想殺し』もなければ、高レベルの肉体強化や再生能力もない。直撃すれば黒焦げか、とにかく大ダメージは免れない。
(死ぬ!? いや嫌ですよこんなとこでェ……ッ!?)
恐怖で足がすくむ。だが、小心者特有の最悪の事態への想像力が、思考を異常な速度で回転させた。逃げるのは間に合わない。防ぐ能力もない。なら、物理法則を利用して逸らすしかない。
電気は、抵抗の少ないところへ流れる。木寺は手に持っていたコンビニ袋を、全力で頭上の街灯に向けて放り投げた。同時に、袋の中にあった1.5リットルの野菜ジュースのペットボトルを、爪を立てて握りつぶすように圧力をかけ──いや、蓋が少し緩んでいたのが幸いしたか、あるいは袋の中で破裂したか。
バシャッァ!!
空中で赤紫色の液体が飛び散り、コンビニ袋と街灯の鉄柱、そして木寺の頭上の空間を一瞬だけ「水の膜」で繋いだ。
「へびゃっ!?」
木寺は無様に地面へスライディングし、泥と野菜ジュースの匂いにまみれながら汚い地面に這いつくばる。直後。木寺の体を焼くはずだった雷撃は、空中に散布された電解質を含んだ液体と、濡れた金属製の街灯へと
バ、ギィィィン!!
街灯の電球が破裂し、ガラス片が降り注ぐ。木寺の髪の毛数本が静電気でわずかに焦げたが、直撃は何とか免れた。
「……は、はぁ、はぁ……」
心臓が大波を打っている。腰が抜けて立てない。ジュースまみれの体で震えていると、悠々としたローファーの足音が近づいてきた。
「……へぇ」
頭上から降ってきたのは、感心と呆れが入り混じったような声。顔を上げると、御坂美琴がぱりぱりと前髪の火花を散らしながら、ゴミを見るような、しかし少しだけ興味を含んだ目で見下ろしていた。
「あんた、ただのチンピラかと思ったけど。とっさに私の電撃の軌道を誘導した? ……レベル0の反応速度じゃなかったけど」
彼女は木寺の胸元の学生証を一瞥し、彼が能力者でないことを瞬時に見抜いたようだった。周囲では黒焦げになった不良たちがピクピクンと絶賛気絶している。木寺は焦り声で、必死に弁解した。
「ち、違います……俺はただの通りすがりで……あの、上条と同じクラスの……」
「あー、もういいわよ。興が削がれたし」
美琴はつまらなそうに鼻を鳴らすと、逃げ去った上条の方角を一瞥し、そのまま踵を返した。彼女にとって木寺の回避はちょっとした曲芸程度にしか映らなかったようだ。その背中は雄弁に語っていた。『アンタは私の敵ですらない』『つか誰アンタ?』と。
去っていくレベル5の背中を見送りながら、木寺はへたり込む。
「……なんだよ、あれ。化け物すぎんだろ……」
恐怖と、安堵。そして、ほんの少しの、ぐちゃりとした悔しさ。
(俺はジュース一本犠牲にして、泥水を啜って生き延びるのが精一杯だ。なのにあいつらときたら、指先一つで世界を変えやがる……)
「ああ……くそ」
木寺一桁は、汚れた手で顔を拭った。
地面の熱さが、手のひらに痛いほど伝わる。
これが、彼と非日常との、最悪で突発的なファーストコンタクトだった。