1:八月八日
まだ昼前だった。
第七学区の一角にあるファストフード店。
外界の灼熱とは裏腹に、極限まで冷房が効かされた店内は、避難民たちにとってのオアシスと化していた。
その窓際の席に、一人の少年──
テーブルには、結露して水たまりを作っている空のアイスコーヒーのカップと、図書館で借りてきた『ゲコ太でも分かる認知心理学の基礎』という分厚いハードカバー。
内容は難しくてよく分からない。小萌先生に勧められた本だった。
「……はぁ。涼しいのはいいけど、財布の中身も絶対零度だぞー?」
木寺は誰に聞かせるでもなく、小声でぼやいた。
夏休みに入ってからというもの、彼の行動範囲は極端に狭まっていた。
図書館、ファミレス、そしてこのハンバーガーショップ。
この三点をローテーションで回遊し、わずかな小遣いで涼を求めて彷徨う生活。
本来なら自室でくつろげばいいのだが、彼の住む学生寮はここ最近、戦場と化していた。
真上の階から響く謎の爆発音、悲鳴、そして何かが破壊される音。
原因は明白だ。不幸な少年・上条当麻と、彼の部屋に転がり込んだ同居人インデックス。
さらには近頃入り浸っている青髪ピアスや土御門元春といったクラスメイトらが巻き起こす騒乱である。
(あいつら、元気だよなぁ。……俺も、遊びに行ってもいいんかなあ)
木寺は自嘲げに口角を上げた。
上条との約束がある。上条の事情を知っている彼は、それを隠すため協力すると約束した。
だが、やっぱりと言うべきか。
今の上条を見ていると、彼は一人で何とかしてしまいそうに見える。あっという間に生活に適応してしまっていた。
記憶を失ってもやっぱり上条は上条なのだ。
(あいつすげえな。あー、俺も遊びにいくかな。正直、記憶を失った上条との距離感が難しんだけど……)
そんなアンビバレントな感情を抱えながら、小難しそうな専門書のページをめくった、その時だった。
「不幸だーッ! なんで銀行のATMがよりによって今日! このタイミングで故障してんだよクソッ!」
鼓膜を揺さぶるような絶叫と共に、自動ドアが勢いよく開いた。
入ってきたのは、ツンツン頭の少年──上条当麻と、その背後霊のように張り付く銀髪のシスター服の少女──インデックスだ。
上条は世界の終わりを見たような顔で頭を抱え、インデックスはそんなことはお構いなしに目を輝かせている。
「とうま、お腹すいたんだよ! 今日はハンバーガー100個食べるって約束なんだよ!」
「無理だ! 物理的にも経済的にも不可能だ! 今の俺の全財産は、財布の底に張り付いた500円玉一枚と、あとは小銭が数枚だけなんだぞ!?」
「むー。とうまの甲斐性なし。りょーかい、じゃあとりあえず90個で我慢してあげるんだよ」
「その『一割引きしました』みたいな優しさ全然優しくねぇから!」
騒がしい二人組。店内の客が一斉に注目するが、彼らが「日常的な騒音」だと判断すると、すぐにまた携帯や会話へと興味を戻していく。
木寺は苦笑しながら、彼らに声をかけるべきか迷った。
自分が手を振ったところで、気づいてもらえる確率は五分五分だ。
だが、その予断は裏切られた。
「……ん? あ、木寺じゃねーか!」
「あ、きでらだ!」
インデックスもそれに続く。上条が目を丸くして、救世主を見つけたかのように近づいてきた。
「おお、木寺! 奇遇だな。……まさかお前も、あの灼熱地獄からの避難民か?」
「まあな。お前らがうるさいから、寮から逃げ出してきたんだよ」
「うっ、それは……すまん。返す言葉もない」
上条はバツが悪そうに頭をかいた後、店内を見回してさらに眉を下げた。
「あ、そうだ。ここ相席いいか? 昼時で混んでてさ、座れる場所がねぇんだ」
「いいけど、期待するなよ。俺もう金ないから、何も奢れないし頼めないぞ」
「俺もだよ! 同志よ!」
上条は涙目で同意すると、インデックスに向き直った。
「……インデックス、ハンバーガー一個な。一番安いやつ。それ以上は俺が死ぬ」
「むー。全然足りないんだよ。でも、とうまが干からびると困るから許してあげる」
こうして、奇妙な三人でのテーブルが成立した。
上条がなけなしの小銭を握りしめてカウンターへ向かう間、席に残されたインデックスは、透き通るような緑色の瞳でじっと木寺を見つめていた。
それは値踏みするような目ではなく、珍しい動物でも観察するような純粋な視線だ。
「……きでら」
「ん? なんだ?」
「今日は、普通だね」
「……俺は、いつも普通だよ」
「ううん、違うんだよ。この前までは『そこにあるのに何もない』感じだったけど、今は『ちゃんとそこにいる』感じがする」
「???」
インデックスの独特な感性による言葉の意味は、完全には理解できない。
だが、彼女の視線には、かつて他人から向けられていた「空欄を見るような目」とは違う、確かな体温と親しみのようなものが混じっていた。
それが、木寺には少しこそばゆく、同時に救われるような気がした。
:
しばらくして、上条がトレイにハンバーガーを一つだけ載せて戻ってきた。
インデックスが嬉々として包み紙を剥がし、小動物のような勢いでかぶりつく。上条はその横で、サービスの氷水だけを啜って空腹を紛らわせていた。
その時だった。
店内の喧騒を切り裂くような異質な空気を纏い、一人の少女が彼らのテーブルに近づいてきた。
「……ここ、いい?」
長く艶やかな黒髪。抑揚のない喋り方。
そして何より、ジャンクフードの聖地にはあまりにも不似合いな、紅白の巫女装束。
「え? あ、はい。どうぞ」
上条が慌てて席を詰め、スペースを作る。
姫神は礼を言うでもなく、無表情のままトレイを置いて座った。
彼女がテーブルに置いたトレイの上には、ハンバーガーの包みが山のように積まれていた。その数、五個。さらにはポテトのLサイズまで控えている。
「……食べるの? それ全部」
「いや、見りゃわかるだろ。愉快なオブジェにして鑑賞ってわけないんだから」
上条が思わずツッコミを入れるが、姫神は淡々と、しかし機械的な速度でハンバーガーの包みを開け始めた。
奇妙な空間だ。
食欲魔人のシスター、大量摂食の巫女、金欠の不幸少年、そして影の薄い陰キャ。宗教戦争どころか、世界観の闇鍋状態である。
木寺は、黙々と食事を進める姫神を見ていた。
彼女からは、不思議な雰囲気を感じる。
人を拒絶しているようで、どこか助けを求めているような。周囲に壁を作っているようで、その壁の向こうから誰かがノックしてくれるのを待っているような、そんな寂しげな気配。
「……美味しい?」
木寺が何気なく尋ねた。
すると、ハンバーガーを口に運んでいた姫神の手が、ぴたりと止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、キョロキョロと周囲を見渡した。まるで、どこから声がしたのか分からないといった風に。
「……?」
そして数秒後、ようやく目の前に座っている木寺に焦点を合わせ、少し驚いたように目をパチクリさせた。
「……ごめん。気づかなかった」
「え?」
「そこに、人がいるとは思わなかった」
姫神の言葉に、木寺は「またか」と内心で肩を落とした。
存在感がないのは慣れている。慣れているが、真正面の至近距離に座っていて、しかも声をかけたのに「今気づいた」と言われるのは、さすがに精神的ダメージが大きい。
「……地味だとか、キデなんとかさんとか、よく言われるんだ」
「……そう。私も、よく言われる」
姫神はボソリと言った。
その言葉には、単に「目立たない」という意味以上の、もっと重く、暗い響きが含まれているように思えた。
「でも私。魔法使い」
唐突な告白だった。
氷水を飲んでいた上条が「ぶっ」と吹き出しそうになり、あわてて手で口を押さえる。
インデックスがピクリと反応する。
だが、木寺は笑わなかった。彼女の瞳が、あまりにも真剣で、あまりにも悲痛だったからだ。
「魔法使い? どういうことだ? 君が?」
「……」
その時、自動ドアが開き、店内の空気が一変した。
おかしな雰囲気の男たちが十数人、無言で店に入ってきたのだ。
彼らの動きは奇妙だった。一歩一歩の足並みが完全に揃っており、まるで目に見えない糸で操られている人形のよう。
客というよりは、無機質な「物体」が侵入してきたような不気味さがあった。
「……お迎えの時間だ」
姫神が食べかけのハンバーガーを置いて立ち上がる。
男たちは無言で彼女を取り囲む。その配置は、要人を護衛するためというよりは、逃走経路を塞ぐための陣形に見えた。
「……じゃあね」
姫神は未練を断ち切るように背を向け、歩き出す。
「あ」
何かを感じ取ったか。上条が反射的に彼女を追いかけようとする。
だが、その前に男のうちの一人が立ち塞がった。
男はサングラスの奥から感情のない視線を上条に向け、ただ道をふさいだ。
「お、おい」
不穏な気配。
殺気とも違う。視線が合っているのかいないのか。
ぞくり。
木寺はその不気味さに、上条の袖を引く。インデックスは首を傾げ、ただ向こうへ歩いていく姫神に目をやっている。
「……」
上条が一瞬たじろぐ。そのわずかな隙に、姫神たちは店を出て、通りに待機していた高級車に乗り込んでしまった。
「……なんだったんだよ、今の」
何事もなかったように、店内に喧噪が戻っていく。
木寺もまた、ガラス越しに遠ざかる車を見ていた。
(今の男たち……俺のこと、見てなかったな)
男たちは上条を明確に威嚇した。だが、そのすぐ横にいた木寺には、視線一つくれなかった。まるで、そこに空気しか存在しないかのように。
それはいつものことだ。だが、今回は違う意味を持っていた。
「……上条。なんかヤバい匂いがするな」
「ああ。……あの子、最後に助けを求めてたような気がするんだ。何も言わなかったけど、あの目は……」
上条当麻のお人好しの嗅覚が反応している。
「……」
木寺は嫌な予感を感じつつも。
あの少女を取り巻く世界は、どこか歪んでいる。そして、その歪みの中に、自分という「空白」が入り込む隙間がある気がした。
そうして、静かにその一日は始まった。