一年前の七月。学園都市第十五学区。
テレビ局やメディア機関が密集し、流行の最先端を発信するこの街は、第七学区の学生街とは異なる、洗練された大人の空気を纏っている。
高級ブティック、輸入雑貨店、会員制カフェ。
舗装された道路の照り返しさえも、どこか上品に見えるこのメインストリートを、一人の女性が歩いていた。
ふわふわとした茶色の長髪。モデル顔負けのプロポーション。エレガントなワンピースに身を包んだ彼女は、周囲の視線を一身に集めていた。
それは「憧れ」の視線であり、同時に本能的な「畏怖」を含んだ視線でもある。
「……チッ。暑いわね」
麦野は、整った眉をわずかにひそめた。
彼女の手には、有名ブランドのロゴが入ったショッピングバッグが四つ、五つと握られている。
今日はオフだ。暗部組織『アイテム』の激務(主に下位組織の粛清や妨害工作)が一段落し、ストレス発散のために買い物に来たのだ。
「買いすぎたかしら。……いいえ、これくらい当然よ」
彼女は自分に言い聞かせる。
第四位『原子崩し』。
学園都市の闇に君臨する女王にとって、欲望を抑えることこそが悪徳だ。欲しいものは手に入れる。邪魔なものは消す。それが彼女の流儀。
だが、物理的な問題があった。「重い」。そして「暑い」。
タクシーを拾おうにも、休日の午後は捕まらない。地下鉄の駅までは距離がある。何より、汗をかいて化粧が崩れるのが許せない。
「……フレンダか絹旗でも連れてくればよかった」
麦野は舌打ちした。
だが、今日は「一人になりたい」気分だったのだ。部下たちに囲まれていると、どうしても「リーダー」としての振る舞いを求められる。
たまには、ただの一人の女として、買い物を楽しみたかった。
その結果が、この有様だ。両手がふさがり、額に汗が滲む。優雅さのかけらもない。
「……誰かいないの」
麦野は、不機嫌な目で周囲を見渡した。
通りを行く男たちは、麦野を見て見惚れるが、彼女の放つ冷徹なオーラに恐れをなして、誰も声をかけてこない。
役立たずどもめ。私が「持って」と言えば、喜んで靴を舐めるような連中ばかりだろうに。
その時。麦野の視界の端に、一つの「異物」が映り込んだ。
ショーウィンドウの影。
自動販売機の横のベンチに、一人の少年が座っていた。
黒髪。猫背。
安っぽいTシャツに、擦り切れたジーンズ。
手には、飲みかけのおしるこ。
彼は、周囲の華やかな景色とは完全に断絶していた。
誰も彼を見ていない。彼もまた、誰をも見ていない。ただ、ぼんやりと虚空を見つめ、風景の一部として溶け込んでいる。
「……あいつ」
麦野の直感が反応した。
イケメンではない。屈強でもない。
むしろ、全体的になんか頼りない。
彼からは活力みたいなものがおよそ感じられない。ただそこに「ある」だけの路傍の石。
(……ちょうどいいわ)
麦野は、口元を歪めた。
自己主張の激しい男は鬱陶しい。媚びてくる男も気持ち悪い。
だが、あいつなら。
あの「背景」みたいな男なら、私の優雅な休日の邪魔をせずに、ただの「荷物持ち機能」として使えるかもしれない。
麦野は、カツカツとヒールを鳴らして、少年の元へと歩み寄った。
:
ベンチに座っていたのは、木寺だった。彼は、隣の学区まで安い参考書を探しに来て、あまりの暑さにダウンしていたのだ。
「……はぁ。帰りの電車賃、浮かせようと思って歩いたのが間違いだった」
彼は、ぬるくなったおしるこを啜りながら後悔していた。
レベル0の無能力と、貧弱な財布。この街のヒエラルキーの底辺にいる自分にとって、第十五学区は輝きすぎていて目が痛い。
(早く帰ろう。……場違いだ、俺は)
そう思って立ち上がろうとした時、目の前に影が落ちた。
「……ちょっと、アンタ」
上から降ってきた声。見上げると、そこには絶世の美女が立っていた。茶色の髪。透き通るような……いや、ちょっと荒れぎみの肌。そして、見下すような冷たい瞳。
「……え、俺?」
木寺は、自分の後ろを確認した。誰もいない。やはり俺だ。ナンパ? なわけがない。カツアゲ? この人が?
「そうよ、アンタよ。……暇そうね」
美女──麦野沈利は、有無を言わせぬ口調で言った。
「これ、持ちなさい」
彼女は、持っていた大量の紙袋を、木寺の胸に押し付けた。
「……は?」
木寺は反射的に受け取ってしまった。
ずしり、と重い。中身は高級な服や靴だろうか。木寺の生活費の何ヶ月分もの重みがある。
「え、あの、これ……」
「タクシーが捕まるまでよ。……ついて来なさい」
麦野はそれだけ言うと、手ぶらになって背筋を伸ばし、さっさと歩き出した。
説明なし。同意も求めない。完全なる命令。
普通の男子中学生なら、ここで怒るか、あるいは美女の強引さにドギマギするところだ。だが、木寺の反応は違った。
(……うわ、出たよ。理不尽)
彼は、怒る気力さえ湧かなかった。
こういうことは、たまにある。
不良にパシリにされたり、先生に雑用を押し付けられたり。
「影が薄い」ということは、「文句を言わなさそう」と見なされることと同義だ。彼は、そういう扱いに慣れきっていた。
(……ま、いっか。逆らって面倒なことになるよりは)
木寺は、ため息を一つついて、紙袋を持ち直した。
重い。腕が抜けそうだ。
でも、彼は文句を言わずに歩き出した。麦野の背中を追って。まるで、最初からそうするようにプログラムされていたロボットのように。
:
麦野は、前を歩きながら、背後の気配を探っていた。
(文句の一つも言ってくるかと思ったけど……)
静かだ。足音しか聞こえない。
「重い」とか「なんで俺が」とか、そういうネガティブな感情の動きすら感じられない。ただ、荷物が後ろをついてきている感覚。
麦野は、ショーウィンドウのガラス越しに、後ろをチラリと見た。
少年は、必死な形相で荷物を抱えている。汗だくだ。腕がプルプル震えている。明らかに限界に近い。
(……滑稽ね)
麦野は鼻で笑った。
なぜ拒否しない? なぜ逃げない?
叫んで荷物を放り出せばいいのに。
そうすれば、私は彼を「原子崩し」で消し炭にする理由ができる。ストレス発散になる。いや、流石にそこまではしないけど。
だが、彼は黙々と歩いている。
その姿は、麦野に奇妙な感覚を抱かせた。
恐怖で従っているのではない。媚びているのでもない。
ただ、そういう現象……雨が降ったから傘をさす程度のこととして受け入れている。
「……ねえ、アンタ」
麦野は、足を止めずに話しかけた。
「名前は?」
「……木寺です」
「ふーん。……重い?」
「……そりゃ、まあ。重いです」
正直な答え。だが、そこに悲壮感はない。事実確認だけだ。
「中身、何が入ってるか知りたい?」
「いや、別に。……高そうなことくらいはわかりますけど」
「これ一つで、アンタの着てる服の一〇〇倍はするわよ」
「でしょうね。……落とさないように気をつけます」
会話が続かない。
麦野の嫌味やマウンティングが、暖簾に腕押しのように吸収されていく。
彼は、麦野の「
彼女が美人であることも、金持ちであることも、そして(おそらく察しているであろう)危険な女であることも。
彼にとっては「ただの荷物を持たせた他人」でしかない。
(……何なの、こいつ)
麦野の中で、微かな苛立ちと、興味が芽生えた。
暗部の人間は、誰もが欲望を持っている。
金、力、殺戮、生存。その欲望がぶつかり合うからこそ、スリリングで、面白い。だが、この少年は「空っぽ」だ。
「……ちょっと、休憩するわよ」
麦野は、オープンテラスのある高級カフェの前に立ち止まった。荷物持ちを解放するためではない。この「空っぽ」の中身を、もう少し観察してみたくなったからだ。
:
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
「ええ。テラス席で」
店員に案内され、麦野は優雅に椅子に座った。木寺は、荷物を足元に置き、立っていようとした。
「……座りなさいよ。目障りだわ」
「あ、はい」
木寺は、向かいの席に縮こまるように座った。
周りはカップルやマダムばかり。汗だくのTシャツ姿の木寺は、明らかに浮いている。
「アイスティー二つ。……あと、季節のフルーツタルト」
麦野は注文を済ませると、頬杖をついて木寺を凝視した。
「……アンタさ。悔しくないの?」
「へ?」
「見ず知らずの女に捕まって、荷物持たされて。……プライドとかないわけ?」
麦野の問いに、木寺は目をぱちくりさせた。そして、困ったように頭をかいた。
「プライド……ですか。まあ、ないわけじゃないですけど」
彼は、テーブルの木目を指でなぞった。
「俺、間が悪いんですよ。昔から」
「間?」
「はい。行列では大体俺の前で売り切れるし、一番損するタイミングに出くわしやすいというか。……だから、こういうアレな目に遭うのも、まあ『いつものこと』っていうか」
諦観。
それは、弱者が身につけた処世術だ。期待しない。抗わない。そうすれば、傷つくこともない。
「……ふん。負け犬の思考ね」
麦野は冷たく言い放った。
「力がない奴は、そうやって自分を納得させるしかない。……惨めね」
「……そうですね。惨めです」
木寺は否定しなかった。怒りもしなかった。ただ、寂しげに笑っただけだった。
「でも、まあ……この店、涼しいし。椅子もふかふかだし。……ラッキーなこともありますよ」
「……は?」
麦野は呆気にとられた。こいつ、この状況で「ラッキー」と言ったのか? 私にこき使われているこの状況を?
「……アンタ、バカなの?」
「よく言われます」
店員がアイスティーとタルトを運んでくる。麦野は、タルトをフォークで突き刺した。
(……調子が狂う)
この少年は、私の「毒」が効かない。
威圧しても、嘲笑しても、全てを「まあ、しょうがない」で受け流してしまう。
それは、ある種の「最強の防御」に見えた。
「……食べなさいよ」
麦野は、手つかずのタルトを、皿ごと木寺の方へ押しやった。
「えっ? いや、それは……」
「私が頼んだのよ。私の命令が聞けないの?」
「い、いただきます!」
木寺は、恐縮しながらフォークを手に取った。一口食べる。甘酸っぱいフルーツと、濃厚なクリームの味。
「……うまっ」
彼の目が輝いた。素直な反応。「美味しい」という、純粋な感情。
「……こんな美味いもん、初めて食ったかも」
木寺は、夢中でタルトを食べ始めた。
その姿を見て、麦野は奇妙な感覚に襲われた。
彼女にとって、この程度のスイーツは日常だ。
何の感動もない。だが、彼にとっては「奇跡」なのだ。
荷物持ちをさせられた不運すら帳消しにするほどの、小さな奇跡。
(……幸せの閾値が、低すぎるのよ)
麦野は、自分のアイスティーを飲んだ。氷が溶けて、少し味が薄まっている。
だが、その薄まった味が、今の彼女には妙に心地よかった。殺し合いも、裏切りもない。ただ、目の前の少年がケーキを食べているだけの、無害な時間。
「……ねえ」
麦野は、ふと口を開いた。
「アンタ、能力は?」
「え? あ、レベル0です。……反応なしっていう、どうしようもないやつで」
「ふーん。……まあ、そうでしょうね」
麦野は納得した。彼からは、AIM拡散力場の「感じ」が特にない。滝壺が見たら、なんて言うだろうか。
「でも、アンタのその『鈍感さ』……ある意味、才能かもね」
「鈍感……?」
「ええ。……私の前にいて、震えもせずにケーキを食える神経。レベル0にしては、上出来よ」
麦野は、第四位『原子崩し』だ。
その殺気は、無意識のうちに周囲に漏れ出ている。
普通の人間なら、本能的に恐怖を感じ、逃げ出したくなるはずだ。だが、木寺は平気な顔をしている。
それは彼が強いからではない。彼の特性が、麦野の
「……褒められてる気がしませんけど」
「褒めてないわよ。呆れてるの」
麦野は席を立った。十分だ。休憩もできたし、変な生き物の観察もできた。
「行くわよ。足を呼んだから」
:
店の前に、大きなバンが止まっていた。内装は高級車そのもの。運転手は下部組織のスキルアウト。アイテムお抱えの便利なタクシーだ。
そんな事を知る由もない木寺は、荷物をトランクに積み込んだ。
「……ふぅ。これで任務完了ですか?」
「ええ。ご苦労」
麦野は、財布から一万円札を一枚取り出し、木寺に突きつけた。
「え、いや、お金なんて……」
「労働の対価よ。受け取りなさい」
「でも、タルトご馳走になったし……」
「うるさいわね! 私の財布の中の小銭を減らしたいだけよ!」
麦野は、無理やり木寺の胸ポケットに札をねじ込んだ。(彼女にとっては小銭感覚だ)
「……じゃあな。名もなき少年」
麦野は車に乗り込んだ。ウィンドウが開く。
「……もしまた会うことがあったら。その時は、もっとマシな服を着てきなさい。私の荷物持ちとして恥ずかしいから」
「……もう二度と御免ですよ」
木寺がボソッと言ったのを、麦野は聞き逃さなかった。ふふ、と笑みが漏れる。
バンが走り出す。バックミラーの中で、少年がペコペコとお辞儀をしているのが見えた。小さく、情けなく、そしてどこか憎めない姿。
「……木寺、ね」
麦野は、シートに深く体を沈めた。名前を聞いたことすら忘れていたが、ふと思い出した。取るに足らない存在。二度と会うこともないだろう。
「……ま、悪くない休日だったわ」
麦野は、目を閉じた。彼女の指先には、まだ微かに、少年の着ていた安物の服の感触──「日常」の質感が残っていた。
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一方、取り残された木寺一桁。彼は、呆然と麦野を見送っていた。
「……嵐みたいな人だったな」
どっと疲れが出た。だが、胸ポケットには一万円札が入っている。そして、腹の中には高級タルトが収まっている。
「……時給換算したら、悪くないバイトだったか?」
木寺は、一万円札を透かして見た。これがあれば、参考書が買える。今夜の夕飯も豪華にできる。好きなサバ缶をダース買いできる。
彼は苦笑した。
理不尽に巻き込まれ、振り回され、でも最後には少しだけ得をした。それもまた、自分らしい気がしたからだ。
そうして木寺はふらりと雑踏に紛れていった。
ちょっと怖かったなあ、とか考えながら。