ひと月前。
駅直結の巨大複合商業施設「ダイヤノイド」。
平日の放課後、巨大な吹き抜け構造を持つこのショッピングモールは、流行に敏感な学生たちの集団と、空調のフル駆動音で喧々諤々であった。
限定のゲコ太グッズを求める長蛇の列、新作コスメを試す女子高生たちの嬌声、実験的に配備された謎のゲーム台から漏れ出す電子音。
とにかく五月蠅い限りだ。
そのカオスな人混みの中を、まるで自宅の庭かのように、優雅かつ不自然に切り裂いていく集団があった。
「どいてくださいましー! 食蜂様のお通りですわよー!」
「そこの男子! 道を開けなさい!」
常盤台中学の制服を着た少女たちが、周囲を威圧しながら道を作っていく。
その中心にいるのは、蜂蜜色の髪を豪奢に波打たせた一人の美少女。
レースの手袋をはめた手でポーチを揺らし、中学生離れしたプロポーションを誇示しながら歩く彼女こそ、学園都市に七人しかいない
「……ぁー、もう。暑苦しいわねぇ」
食蜂は、不機嫌そうに呟いた。星の瞳が、うんざりしたように周囲を舐める。
彼女の愛用するリモコンが、高級ブランドのハンドバッグの中でカチリと音を立てる。
(お目当ての『雨季限定ショコラタルト』が売り切れる前に、この邪魔な人垣力をどうにかしたいのだけどぉ……)
彼女の目の前には、新作スイーツの発表イベントに群がる群衆の壁があった。
これでは、お目当ての店にたどり着くのに何十分かかるかわからない。
派閥の取り巻きたちを使っても、この数を物理的に退かすのは骨が折れる。汗をかくのは美学に反するし、何より面倒だ。
「……仕方ないわねぇ」
食蜂は、バッグからテレビのリモコンのような端末を取り出した。
周囲の人間には、ただの奇行にしか見えないだろう。
だが、それは彼女にとっての「神の杖」であり、世界を操るスイッチだ。
「少しの間、道を開けてもらうわよぉ? ──はい『
ぴっ。
彼女がボタンを押した瞬間。
不可視の波紋が、ショッピングモールの空間を侵食した。
それは、AIM拡散力場による超精密な微細操作。
周囲の人間の脳内にある水分の分配をミクロレベルで掌握し、
『この道を通ってはいけない』
『壁際に寄らなければならない』
『その行為に疑問を持ってはいけない』
数秒前まで「スイーツ食べたい」「前が見えない」と考えていた数百人の群衆が、一斉に思考を塗り潰された。
ザッ、ザン、ザッ。
まるで訓練された軍隊のように、人々が無言で左右に分かれ、壁際に整列する。そこには、食蜂一人が通るための完璧なレッドカーペットが出現していた。
「あら、ありがとう。皆さんお行儀がいいわねぇ⭐︎」
食蜂は満足げに微笑み、その「作られた道」を歩き出した。
誰も彼女を見ない。誰も文句を言わない。
彼女の能力は絶対だ。人の心など、彼女にとっては物理干渉可能な電子データに過ぎない。
……はずだった。
「……?」
ふと。
食蜂が悠然とローファーの音を響かせて歩を進めていた、その時。
完璧に整理された「無人の道」の真ん中を、向こう側からフラフラと歩いてくる人影があった。
「……ん?」
食蜂の足が止まる。
後ろに控えていた取り巻きたちも、ギョッとして声を失う。
そこにいたのは、地味な制服を着た高校生くらいの少年だった。
片手には食べかけの安っぽいホットドッグ。もう片手には漫画本。
猫背で、少し眠そうな顔をして、モグモグと口を動かしながら、こちらに向かって歩いている。
とある高校のレベル0、木寺一桁である。
「……え?」
食蜂は、二度見した。
能力は発動中だ。この空間は私の支配下にある。
範囲内の人間はすべて、『壁際に寄って静止する』という命令を実行しているはずだ。
現に、彼の横にいるサラリーマンも、後ろにいる女子高生も、蝋人形のように固まっている。
なのに。
なぜ、
(……私の能力が効いていない? そんな馬鹿なこと、あるわけないわよねえ)
単なる命令の届き漏れか。
食蜂は、即座にリモコンを彼に向けた。
追加のコマンド入力。
『停止しろ』『ひれ伏せ』『恐怖しろ』『認識を書き換えろ』。
脳内の水分を操作し、運動野を麻痺させる信号を、指向性を持たせて叩き込む。
ピッ、ピッ、ピッ。
だが。
木寺一桁は、止まらない。
彼は、左右に分かれた群衆を見て「うわ、なんだこれ? フラッシュモブか?」といった訝しげな表情を浮かべただけで、そのまま食蜂の方へ歩いてくる。
リモコンの赤外線が、まるで幽霊を素通りするように、彼の中で霧散している。
「……ちょ、ちょっと! 貴方!」
食蜂の取り巻きの一人、帆風潤子がたまらず声を上げる。
だが、木寺はその声に反応して顔を上げ、食蜂と目が合った。
蜂蜜色の星の瞳と、眠そうな黒い瞳が交差する。
その瞬間。
木寺の顔色がサァーッと青ざめた。
(……うわ、ヤベェ。常盤台のお嬢様集団だ!)
木寺の思考は、食蜂の予想とは全く違う方向に回転していた。
精神防御でも、能力による対抗でもない。
(なんか偉そうな子が真ん中にいて、周りが道開けてる……。これ、関わったら絶対面倒なことになるやつだ。カツアゲされるか、因縁つけられるか……目を合わせちゃいけないタイプの人種だ!)
木寺一桁は、小心者である。
彼は「メンタルアウト」の脅威など知らない。
ただ、目の前の「女王様オーラ」と「取り巻きの圧」に、単純にビビったのだ。
ヤンキー集団に遭遇した一般市民の反応そのものである。
「……す、すいません! 道、間違えましたァ!」
木寺は、ホットドッグを持ったまま、ペコペコと頭を下げた。
そして、食蜂の横を──
「あ、ちょっと……!」
食蜂が振り返る。
木寺は、固まっている群衆の隙間を縫って、脱兎のごとくエスカレーターの方へ消えていった。
その背中は、あまりにも無様で、あまりにも「普通」だった。
「……」
残された食蜂操祈は、呆然と立ち尽くしていた。
周囲の人間はまだ洗脳下にある。世界は彼女の意のままに止まっている。
たった一人、あの「雑魚」を除いて。
「……食蜂様? さっきの、あれは……」
「……いえ、なんでもないでしょぉ」
食蜂は、リモコンをバッグにしまった。
群衆の洗脳を解く。ザワザワと日常が戻ってくる。
「行きましょう。ショコラタルトが待っているわ」
彼女は再び歩き出したが、その表情からは先ほどまでの余裕が消えていた。
甘いショコラタルトの味など、もうどうでもよかった。
彼女の口の中には、砂を噛んだようなジャリジャリとした不快感だけが残っていた。
(今のは何? 防がれた手応えすらなかった。……まるで、
:
翌日。
学園都市第七学区、常盤台中学。
お嬢様学校として名高いこの学び舎の敷地内にある、すり鉢状の巨大な特別大講堂は、冷ややかな静寂と、高貴な香水の香りに包まれていた。
今日、この場所に集められているのは、常盤台中学の中でも特に優秀な生徒たち──レベル4以上の高位能力者たちである。
その最前列中央。
派閥の取り巻きたちに囲まれ、優雅に足を組んで座っているのは、第五位『
そして少し離れた席には、
「……皆様、ごきげんよう」
壇上に現れたのは、白髪をオールバックになでつけ、黒眼鏡をかけた壮年の男だった。
学園都市の外部の研究機関に所属しながら、数々の能力開発理論の基礎を築いた、現代量子脳力学の生ける伝説。
彼がマイクの前に立つと、ざわついていた生徒たちが静まり返る。
「本日の講義テーマは、『
九終教授の声は、乾いた砂のように響いた。
「君たち高位能力者は、日々当たり前のように奇跡を行使している。炎を出し、電気を操り、空間を跳躍する。……だが、その行為が『世界』に対してどれほどの負荷をかけているか、自覚している者は少ない」
彼は、ホワイトボードに一本の水平線を引いた。
「この線が『物理法則』だ。水は高いところから低いところへ流れる。0+5は5になる。……これが、世界が定めた絶対のルール、すなわち『客観的現実』だ」
次に、彼はその線を大きく歪める波線を描き足した。
「対して、君たちの能力は『主観』だ。『水は逆流するはずだ』『0+5は9になるはずだ』……そういった強烈な思い込みによって、脳内物質とAIM拡散力場を操作し、ミクロの世界の確率を捻じ曲げる。君たちは、世界という白地の紙に、自分の好きな色を無理やり上書きしている『傲慢な画家』なのだよ」
教室の一部から、不満げな囁きが漏れる。自分たちの才能を「傲慢」と言われて面白くないのだろう。
だが、食蜂操祈だけは、リモコンを指先で弄びながら、冷徹な瞳で教授を見据えていた。
(傲慢、ね。……ええ、その通りよぉ)
彼女は思い出す。
昨日、自分の『心理掌握』が通じなかった少年のことを。
あの時、彼女は感じたのだ。
自分の描こうとした絵が、白地の紙に弾かれる感覚を。
「特に、レベル5……超能力者と呼ばれる存在は、その歪みが極致に達している」
講義は続く。
九終教授は、食蜂の方を一瞥した。
「彼らは、もはや『能力を使う』のではない。『世界の方を自分に合わせている』のだ。……よく言われる言い回しだが、箱の中の猫は、観測されるまで生死が重なり合っている。だが、レベル5の脳は、箱を開ける前から結果を決定する。『猫は生きている』と思えば、死んでいる可能性を量子レベルで消滅させ、現実を確定させる」
「それが、私たちの強さですわ」
食蜂が、静かに口を開いた。講堂の空気が張り詰める。
「世界が曖昧だからこそ、私たちが秩序を与えている。……違いますこと?」
「ふむ。確かに一面ではそうだ」
教授はニヤリと笑った。
「だが、それは『世界が柔らかい粘土』であればの話だ。……食蜂くん、君に一つ問おう。もし、君がこねくり回そうとした粘土の中に、絶対に形を変えない『ダイヤモンドの塊』が混ざっていたら、どうする?」
「……!」
食蜂の眉がピクリと動く。
ダイヤモンドの塊。変形しない異物。
それはまさに、あの少年──どこの誰とも知らない、恐らく、レベル0の少年のことではないか。
食蜂は、スッと手を挙げた。許可を得る前に、彼女は立ち上がった。
「先生。……一つ、仮定の話をお聞きしたいのですけれど」
「ほう? 第五位からの質問とは光栄だ。どうぞ」
食蜂は、リモコンで口元を隠した。
「もし……『外部からの強力な精神干渉を受け付けない脳』が存在するとしたら、それはどういった構造になっていると考えられますか?」
九終教授は、興味深そうに眼鏡の位置を直した。
「ふむ。精神干渉への完全耐性か……。理論上、そういった『堅牢な脳』は考えにくい。脳は水風船のようなものだ。外部からの圧力があれば、必ず形が変わる」
教授は顎を軽く撫でた。
「しかし、あえて可能性を挙げるとすれば……二つのケースが考えられる。一つは、その脳が既に『別の強力な
「もう一つは?」
「……『哲学的ゾンビ』に近い状態、だろうか」
「哲学的ゾンビ?」
「ああ。外見や反応は普通の人間と全く変わらない。笑いもするし、怒りもする。……しかし、その内側に『
教授は、回路の真ん中をチョークで塗りつぶした。
「精神操作系の能力は、情報の『解釈』の部分をハッキングするものだ。だが、もし『解釈』というプロセスを経ずに、入力に対して反射的に、あるいは機械的に出力だけを行う脳があったとしたら? ……そこには、書き換えるべき『心』の領域が存在しない。貴女がいくら絵の具を塗ろうとしても、そこには白地の紙自体がないのだよ」
「……白地の紙がない」
食蜂は、昨日見た少年の瞳を思い出した。
怯えていた。逃げ出した。その反応は、人間らしいものだった。
だが、あの瞳の奥には、食蜂がいつも見ている「書き換え可能な
「そして、ここからが面白いのだが」
九終教授は、声を潜めるようにして続けた。
「あるいは、そのような強力な干渉を拒絶する脳が存在するとしたら……その耐性は、逆説的な性質を持つ可能性があるだろうな」
「逆説的?」
「うむ。君たちレベル5の能力は、『強い妄想』によって世界を上書きするものだ。つまり、現実との乖離が激しい。……対して、その個体は『現実の化身』だ。その化身にとって、0+5は絶対に5でなければならない」
教授は、黒板に描いた歪んだ波線と、直線を指差した。
「君の『心理掌握』のような強力なレベル5の能力は、その個体にとって『あまりにも非現実的な嘘』として映る。だからこそ、その脳は無意識下でそれを強烈に
食蜂の背筋に、冷たい汗が伝う。
「しかし、逆に……レベル2やレベル3程度の、微弱な精神感応ならどうだろうか? それは『現実との乖離』が少ない。ただの勘違いや、気分の変化として受け入れられる範囲だ。……つまり、その個体は君のような最強の能力者の命令は弾くが、
「……ッ!?」
食蜂は絶句した。
つまり、私の能力が「強すぎる」からこそ効かない?
格下の能力なら通るかもしれないのに、最強の私だけが無力化される?
それは、レベル5としてのプライドを根底から揺るがす、最悪の相性だ。
「その個体は、世界を歪めない。むしろ、歪もうとする世界を『元の形』に固定する
「アンチ……レベル5……」
教室の後方で、白井黒子はその単語を咀嚼していた。
彼女は、食蜂が誰のことを想定しているのかは知らない。
だが、その「概念」が存在するだけで、彼女の背筋は凍りついていた。
彼女は空間移動能力者だ。十一次元の計算式を用いて、三次元座標上の物体を転移させる。
その計算において最も邪魔なのは、「不確定要素」だ。
(もし、その『アンチ・レベル5』が、空間の座標すらも固定してしまうとしたら?)
黒子は想像した。
自分がテレポートしようとした位置に、もしその「虚無」のような人間が立っていたとする。
通常なら、皮膚の表面や衣服の座標を計算して、物体を転送する。
だが、もし彼の存在が「ここは絶対的な座標であり、書き換え不可能である」と世界に主張していたら?
「……計算不可能」
黒子は小さく呟いた。
転移できない。いや、転移しようとした瞬間に、能力者の脳が「矛盾」を起こしてオーバーヒートする。
自分の
最悪の場合、自分の身体が次元の狭間に弾き飛ばされるかもしれない。
(もしそんな人間が実在するとしたら……それは猛獣よりも恐ろしい『穴』ですわ。近づくだけで、我々の
黒子は、身震いをして自分の腕を抱いた。
顔も名前も存在しないその「仮想設定」に対し、本能的な畏怖を抱かずにはいられなかった。
:
講義が終わり、生徒たちが退室していく中、食蜂操祈は席に座ったまま動けずにいた。
「……食蜂様? いかがなさいました?」
取り巻きの帆風が心配そうに声をかけるが、食蜂は上の空だった。
彼女の頭の中では、九終教授の言葉がリフレインしていた。
『君のような最強の能力者の命令は弾く』
『そこらの三流能力者の暗示にはかかるかもしれない』
(実に、ふざけてるわねぇ……)
食蜂は、リモコンを強く握りしめた。ミシミシと音がする。
あのショッピングモールで会った少年。
顔もよく覚えていない、名前も知らない、ただのレベル0。
彼が、私の天敵?
私が手も足も出ない相手を、レベル2程度の雑魚なら操れるかもしれない?
(そんな理不尽力、あってたまるかだわぁ)
屈辱と、恐怖。
もし彼が、悪意を持って私に近づいてきたら。
もし彼が、ナイフを持って私の寝室に入ってきたら。
私の『心理掌握』は通じない。私の護衛たちの攻撃も、彼には無効化されるかもしれない。
私は、ただのか弱い中学生として、彼に殺されるのを待つしかないのか。
ただでさえ、ろくでもない連中との因縁に縛られて、その上「あの人」との絆は断絶してしまっているというのに。
嫌なことばかりが起こる。
「……帆風」
「はい、女王」
「……いえ、なんでもないわ」
食蜂は、調査を命じようとして、やめた。
冷静になれ。
下手に刺激してはいけない。
彼が「無自覚」であるうちは、ただの無害なレベル0のはずだ。
だが、もしこちらがアクションを起こして、彼が自分の特異性に気づいてしまったら?
「自分は食蜂操祈を殺せる」と自覚してしまったら?
(藪蛇ね。……忘れるのよ、食蜂操祈)
彼女は自分自身に言い聞かせた。
あの少年は存在しない。あれはただの幻覚。あるいは何かの見間違い。
二度と会うことはないし、関わることもない。
「帰りましょう。……今日は、何だか甘いものが食べたい気分だゾ★」
食蜂は立ち上がり、努めて明るく振る舞った。
だが、その背中には、いつもの絶対的な女王の自信は見当たらなかった。
:
一方、その頃。
当の木寺一桁は、寮の自室で「サバ缶の賞味期限」を真剣に確認していた。
「すげえ、やっぱこのサバ缶すげえよ……このクオリティで来年末まで持つとか……」
彼は特売で買ったサバ缶を手に、一人満足げに頷いた。
「今度あいつに教えてやろっと。……いや、『結局アンタはまだそのレベルなわけ?』とか言われそうだけど」
設定厨なのでこういう回が一番楽しい……