「……あなたは」
彼女は、虚空を見つめていた視線をゆっくりと動かし、ふらりと現れた木寺を見た。
驚きの色はない。ただ、夜の海のように黒い瞳が、静かに木寺を映した。
「……たしか」
静謐でおしとやかな、だが抑揚のない声。
「……えっと、その。あー、通りすがりの、木寺さんって言う……ええと……」
木寺は気の利いたセリフも思いつかず、頭を掻いた。
ボロボロの制服に、埃まみれの髪。「助けに来た」なんて、今の状況じゃとても言えない。
「……ここへは、どうやって?」
「連れとはぐれて、上から落っこちたんだよ。気づいたら、この気味悪い廊下にいた。……あんたは、ずっとここに?」
「ええ。……動くなと言われているから」
姫神は淡々と答えた。足元に鎖はない。手錠もない。
だが、彼女はそこから一歩も動こうとしていなかった。まるで、自分自身で見えない檻を作っているかのように。
「……逃げないのか?」
「逃げても、意味がない」
姫神は視線を落とした。
「彼──アウレオルスは、私の血を求めている。『吸血殺し』の血を」
彼女は、自らの呪われた体質について語り始めた。
吸血鬼を惹きつけ、触れた吸血鬼を灰にする猛毒の血。そのせいで、かつて家族も故郷もすべて失った過去。
触れ合う人すべてを傷つけ、殺してしまう運命。
「……だから、私は私の能力を消すためにここにきたの」
それが叶わないなら、と彼女は息を接ぐ。
「私は、生きていてはいけない存在。だから、彼に利用されて終わるなら、それでもいい。誰かの役に立って死ねるなら、それが一番マシな終わり方」
諦観。
達観。
それが彼女を支配していた。
静かで暗い絶望。
本当の意味で生きることを諦めた人間の、静かで、底のない絶望。
それは、このやたらと続く無機質な廊下のように、どこまでも救いのない閉じた世界だった。
「……ふざけんなよ」
木寺の口から、思わず言葉が漏れた。
「え?」
姫神が初めて、怪訝そうに眉をひそめた。
「俺はさ、お前が羨ましかったんだよ。店で会った時、すげえ綺麗な人だと思ったし、巫女服なんて特別な格好してて、特別な力もあって。……俺みたいな、何の特徴もないレベル0の
木寺は、自分のコンプレックスを吐き出した。
誰にも認識されない、影の薄い自分。物語の主人公になれない自分。
「でも、お前はそれを『呪い』だって言うんだな」
「……そう。誰も幸せにしない力なんて、呪いでしかない」
「だったら、なおさら死ぬなよ」
木寺は一歩踏み出し、姫神の正面に立った。
自分よりも背の低い少女。だが、背負っている運命はあまりに重い。
「お前、店で言ってたじゃんか。『私は魔法使い』って。……あれは、今の自分を変えたいってことじゃなかったのかよ」
「……っ」
姫神の瞳が揺れた。図星だったのだ。
「死んだら、魔法使いにもなれない。自分を変えることもできない。……生きてなきゃ、何にもなれないだろ」
魔術的な知識も、高尚な倫理もない。
ただの「
特別な力を持たない「凡人」だからこそ言える、地に足の着いた理屈。
そして。
それは、おそらくあの男なら、こういう事を言うだろうという、空っぽの少年の打算だった。
本来、彼にはそんな言葉を吐く資格はない。
彼のせいであの男は記憶を失った。それは、彼が殺したも同然と言う話だ。
そう、木寺一桁は心の奥底で思っている。
だけど。
「……変な人、だね」
姫神がポツリと漏らした。
その瞳に、微かな光が宿る。
「そんなこと……初めて、言われたかもしれない」
血の匂いではなく、能力でもなく、ただの「姫神秋沙」という人間を見てくれた。
影の薄い少年と、存在を呪われた少女。
二つの孤独な魂が、この歪な日常の底で、パチリと音を立てて共鳴した瞬間。
そして。
その時。
広間の空気が、ビリ、と凍りついた。
気温が下がったのではない。濃密すぎる魔力の奔流が、空間の密度を強制的に変えたのだ。
背筋が凍るような殺気と、甘美な香水のような残り香。
「……騒々しいな」
通路の奥から、男が現れた。
高価な白いスーツ。整えられた緑色の髪。
陶器のように滑らかな肌を持つ長身の男。
一見すれば優雅な紳士だが、その瞳の奥には、狂気的なまでの焦燥と傲慢さが渦巻いている。
錬金術師、アウレオルス=イザード。
この歪んだ世界の創造主が、帰還した。
:
「アウレオルス……っ」
姫神が身を強張らせる。
アウレオルスは、優雅な動作で広間の中央へ歩み寄ると、値踏みするように木寺を見下ろした。
その目に宿っているのは「怒り」ですらなかった。自分の完璧な計画書に落ちた小さな染みを見るような、純粋な不快感と、微塵の興味も抱いていない冷淡さ。
「……唖然。私の城の裏庭に、随分と汚らしいネズミが迷い込んだものだ」
「……ネズミで、悪かったな」
木寺は、ガチガチと音が鳴るほど歯を食いしばりながら、アウレオルスを睨みつけた。
(なっ……やばい。やばいやばいやばい。なんだ、こいつ……チクショウ、いきなり親玉かよ……!)
怖い。死ぬほど怖い。
目の前にいる男は、怪物だ。指先一つ動かさずに、自分を消滅させることができる存在だ。
だが。
木寺は、震える足を動かし、姫神秋沙の前に立った。
彼女を背中に庇うように、アウレオルスの前に立ち塞がった。
「……何の真似だ?」
アウレオルスの眉が、わずかに動く。
「……彼女は、渡さねえ。死にたがりを、これ以上いじめるな」
木寺は精一杯の虚勢を張った。心臓が口から飛び出しそうだ。
「渡さない? ……滑稽。身の程を知れ、愚民が」
アウレオルスは、感情のこもらない声で呟いた。
彼は、退屈そうに右手を軽く振った。
「(消えろ)」
思考が、世界に命令を下す。
物理法則が書き換わる。木寺一桁の存在そのものを、空間ごと圧搾して消滅させる──はずだった。
ミシッ……!!
空間が軋む音がした。
木寺のすぐ右側の空気が歪み、リノリウムの床が真円状に抉り取られる。
「……う、わあああああっ!?」
木寺は悲鳴を上げて、反対側へ飛び退いた。
あと数センチずれていれば、右半身を持っていかれていた。
「……?」
アウレオルスの端正な顔に、微かな疑問が浮かんだ。
外した。
この私が。
『
(偶然。……否、座標指定のズレか?)
彼はそう結論づけた。
あまりにも取るに足らない存在だったため、無意識下での照準が甘くなったのだろう。
彼は再び、冷徹な視線を木寺に向けた。
「(足掻くな)」
次こそは確実に。
見えない巨大な手が、木寺を捕まえようとする。
「くそっ、逃げるぞ姫神ッ!!」
木寺は姫神の手を引き、広間の中を走った。
だが、出口はない。無限に続く廊下があるだけだ。
木寺は手近にあったパイプ椅子をアウレオルスに向かって投げつけた。
「(砂となれ)」
アウレオルスが思考する。
パイプ椅子は空中で瞬時に分解され、サラサラとした金色の砂となって床に散らばった。
「ひいぃっ!?」
木寺は這いつくばって、長机の下に滑り込む。
直後、長机が真上からの圧力でプレスされ、ぺちゃんこになった。
間一髪、転がり出て回避する。
「必然。逃げ場などない」
アウレオルスが一歩近づく。
木寺は立ち上がろうとしたが、足がもつれて転倒した。
目の前には、圧倒的な「死」が迫っている。
「……なんなんだよ! どういう理屈なんだよくそがあああぁ!」
木寺は泣き叫びながら、灰皿を投げ、観葉植物を倒し、あらゆる障害物をアウレオルスとの間に作った。
アウレオルスの攻撃は、その都度発動している。
だが、どれもこれも「致命傷」には至らない。
髪の毛を数本切断し、制服の袖を切り裂き、頬に切り傷を作る。
それだけだ。
まるで、アウレオルスの脳が「木寺一桁」という存在の輪郭を掴みきれず、攻撃の焦点を絞りきれていないかのように。
(不自然。……なぜだ。なぜこの虫は、まだ五体満足で動いている?)
アウレオルスの胸中に、小さな棘のような違和感が生まれた。
「思ったことが現実になる」。
その絶対法則に、微かな異物感が混じる。
こいつは本当にそこにいるのか? 影ではないのか? 実体があるのか?
そんな無意識の迷いが、錬金術の精度を狂わせている。
(ふん……いや、当然ありえん)
生き物は必ず死ぬ、上から落としたリンゴは下に落ちる、1+1=2……。
アウレオルスの力は、そんな、世界としては当たり前で、変えようのない『ルール』そのものを破壊し、組み替え、生み出す事ができる。
1+1は3になり、下から落としたリンゴは上に落ち、死んだ生き物が必ず生き返る。
そんな領域に、彼のアルス・マグナは到達しているはずだ。
そして魔術師達は、その領域に手が届いた者を魔神と呼ぶ。
魔界の神ではなく、魔術を極めて神の領域にまで辿り着いた魔術師、という意味の。
魔神。
それを否定出来る者など、この世にいるはずがない。
アウレオルスが追い詰められる要素など、一切存在しない。
そして。
限界だった。
木寺は広間の隅に追い詰められていた。
背中は壁。前には錬金術師。
姫神が、木寺の服の裾を掴んで震えている。
「……必然。遊びは終わりだ」
アウレオルスは、もはや木寺を「標的」として認識するのをやめた。
個別に狙うから外れるのだ。ならば、この空間ごと押し潰せばいい。
「(姫神を除外)(そしてこの区画ごと、圧壊せよ)」
アウレオルスが右手を掲げる。
部屋全体の空気が重くなる。天井が軋み、壁が内側へ迫り出してくる。
逃げ場はない。認識のズレなど関係ない、面制圧の暴力。
「く、そ……あああああああああああ……!」
アウレオルスの手が振り下ろされる。
万能の力が、木寺を肉塊に変えるために解き放たれる──その瞬間。
轟!!
天井が爆ぜた。
日常的な風景だった天井板が吹き飛び、そこから瓦礫と炎の雨が降り注ぐ。
アウレオルスの展開した圧縮空間が、外部からの強烈な衝撃によって霧散する。
「なっ……!?」
土煙の中から飛び出してきたのは、右手の拳を振りかぶったツンツン頭の少年。
そして、その背後には、炎の巨人を従えた長身の魔術師。
「上条!? ステイル!」
木寺が叫ぶ。
上条当麻は着地と同時に、アウレオルスと木寺の間に割って入った。
その背中は、どんな防壁よりも頼もしく見えた。
「木寺、お前こんなとこに……! 大丈夫か!」
「どうやら丁度タイミングが良かったようだ」
「……遅いんだよ、馬鹿野郎が……!」
木寺は涙目で悪態をつきながら、へなへなと座り込んだ。
心臓がバクバクといっている。生きている。
彼らは彼らで別のルートを行っていたようだった。合流できたのは、果たしてただの偶然か。
「……」
アウレオルスは、新たな侵入者たちを睨みつける。
だが、その目には先ほどまでの絶対的な余裕はない。
「認識できなかった凡人」という小さなバグが、彼の精神的優位性を崩していた。
「……天井からネズミが増えたか」
アウレオルスが不快そうに呟く。
彼は右手に隠し持っていた細い鍼を取り出し、自身の首筋に突き立てた。
ブスリ、と肉を穿つ音が響く。
精神を統一し、今度こそ確実に「不純物」を排除するために。
「否。……これ以上、私の世界を汚させるわけにはいかない」
アウレオルスの背後の空間が歪み、古今東西無数の刃物と処刑器具が幻影のように浮かび上がる。