木寺一桁が奈落の底で姫神と邂逅し、アウレオルスと対峙していた時。
上層階の回廊を駆ける二つの影があった。
上条当麻と、ステイル=マグヌスである。
「はぁ、はぁ……! おいステイル! まだかよ! このままじゃ二人が見つかる前に、俺たちが迷子で野垂れ死ぬぞ!」
「喚くな。……舌を噛むぞ」
ステイルは走りながら、苛立たしげに煙草を噛み砕いた。
彼らが走っている廊下は、まさに悪夢の迷宮だった。アウレオルスが何かをしているのか、どこまで行っても同じ景色が続き、三半規管が狂い始めている。
「……おかしい」
ステイルが足を止めず、脂汗を滲ませながら呟いた。
「このビル全体を満たす魔力の濃度……異常だ。いくら錬金術師が陣地を作成したとはいえ、個人の魔力だけでこの規模の現実改変を維持し続けるなど、不可能なはずだ」
「不可能って……実際になってるじゃねえか」
「だからこそだ。……最悪の予想だが」
ステイルの声が、微かに震えた。
「先ほど襲ってきた生徒たち。彼らの様子と、この異常な魔力供給量……。アウレオルスは、このビルにいる二〇〇〇人の生徒たちを、ただの人質として扱っているわけじゃないのかもしれない」
「……どういうことだ」
「くそ、まさか、いや……」
ステイルが、忌まわしい単語を口にする。
「……もし彼が、生徒たちの脳を並列接続し、彼らを『パイプオルガンのパイプ』代わりにして、詠唱プロセスを肩代わりさせているとしたら?」
「……ッ?」
上条が絶句する。
二〇〇〇人の脳を、ただの計算機として使い潰す。そんな冒涜的な所業。
「まだ確証はない。だが、そうでも考えなければ説明がつかないんだ。このデタラメな出力も、この空間の強度も」
ステイルはギリリと歯を鳴らした。
「もしそうなら、奴の目的は実現不可能なはずの錬金術──『
本来、数百年かけても到達不可能と言われるその奇跡を、奴は人の命をガソリンにして、強引に現代にショートカットさせようとしている」
「黄金練成……?」
「『思ったことが、そのまま現実になる』。……言葉にする必要もない。指を振る必要もない。『敵が死ね』と思えば死ぬ。『鉛が金になれ』と思えば金になる。……全能の神に等しい領域だ」
上条の背筋に、冷たいものが走る。
それは魔術とか超能力といった枠組みを超えている。ただの「万能」だ。
「そんなの……勝てるわけねえだろ!」
「……だが、どれほど完璧な術式でも、運用しているのが人間である以上、必ず綻びが出る。それに、あくまでも可能性だ……」
ステイルが唐突に足を止め、何もない廊下の床を睨みつけた。
「……見つけたぞ」
「あ? 何もないぞ?」
「僕の魔力探知に、一箇所だけ『不自然な空白』がある」
ステイルが指差したのは、床の一点だった。
「周囲の魔力密度は均一だ。だが、ここだけレーダーに映らない『穴』がある。魔術的なカモフラージュか、あるいは何らかの干渉か……とにかく、この完璧な結界の中で、ここだけが異質だ」
「……隠し部屋って事か?」
「さあな、確証はない。だが、この『空白』こそが、今の僕たちがすがれるヒントだろう。何もなければ、また探す。繰り返すしかないんだ」
ステイルは懐からルーンカードの束を取り出した。
「退いていろ。強引にこじ開ける」
「爆破する気か!? 下に誰かいたらどうする!」
「微調整はする。……それに、悠長にノックをしている時間はない。アウレオルスが術を完成させていれば、僕たちは既に詰んでいるんだぞ!」
ステイルの手元で、三〇〇〇度の炎が渦を巻く。
「顕現せよ、我が身を喰らいて力と為せ、『魔女狩りの王』!!」
ズウウ、と。
爆音。
床が飴細工のように崩壊し、物理的な上下関係を無視して空間が繋がった。
穴の向こうに見えたのは──アウレオルスと対峙し、今まさに絶体絶命の危機にある木寺と、姫神の姿だった。
:
「っ……!」
土煙の中から飛び出した上条当麻は、木寺一桁とアウレオルスの間に割って入った。
右手を構え、錬金術師を睨みつける。
「木寺、大丈夫か!」
「……全然だ、全然大丈夫じゃねえ……!」
木寺が滝のような汗で悪態をつきながら、姫神を連れて後退する。
アウレオルスは、乱入者たちを冷ややかな目で見下ろした。
その表情には、焦りも怒りもなく、ただ邪魔者を排除しようとする事務的な冷徹さだけがあった。
「……騒然。天井からネズミが増えたか。……イギリス清教の犬共め」
「アウレオルス!」
ステイルが炎の巨人を従え、瓦礫の上に立つ。
その目は、かつての同胞を射抜いていた。
「もう終わりだ。『黄金練成』などという妄想に浸るのはやめろ。お前の計画は破綻している」
「……破綻? 否。私の計画は完璧だ」
アウレオルスは首を振り、切実な響きを込めて語り始めた。
「私は救わねばならないのだ。……あの子を。インデックスを」
その言葉には、狂気と共に、痛切な愛が込められていた。
「彼女は『魔道書庫』として脳を酷使され、一年ごとに記憶を消さなければ死んでしまう。……そんな理不尽な運命を、私は認めるわけにはいかない」
アウレオルスの瞳が、悲痛に揺れる。
「だから、私は考えた。彼女を『吸血鬼』にすればいいと。吸血鬼の無限の生命力と脳容量があれば、記憶を消す必要もなくなる。彼女は、私との思い出を失わずに済むのだ!」
「……!」
それが、彼の犯行動機だった。
黄金錬成が彼の目的なのではない。
かつてインデックスのパートナーだった男。
彼女を救おうと足掻き、組織に絶望し、そして禁断の知識に手を染めてまで辿り着いた、悲しき結論。
かつての主人公、
彼は姫神秋沙の血を使って吸血鬼をおびき寄せ、インデックスを噛ませることで、彼女を不老不死の化け物に変えてでも救おうとしたのだ。
「……必然。そのためには、どんな犠牲も厭わない。三沢塾の生徒も、そこの吸血殺しも、全てはあの子を救うための礎だ」
あまりにも純粋で、あまりにも歪んだ愛。
それを聞いた上条が、低い声で唸った。
「……ふざけんな」
「何?」
「あの子を救うため……? お前、
上条は拳を握りしめ、アウレオルスを睨みつけた。
「
「……?」
アウレオルスが眉をひそめる。意味がわからない、といった顔だ。
上条は歯を食いしばる。
インデックスを救ったのは自分ではない。だから、かつて彼女を救った、いなくなった【上条当麻】に手向けるように。
上条には、彼女の隣に立つ資格はない。彼はそう思っていた。
だからこそ。
「……救われた? 何を言っている。完全記憶能力の構造的欠陥は、人の手では……」
「構造的欠陥なんて最初からなかったんだよ! あれは教会がインデックスを縛り付けるための嘘だったんだ! その『首輪』なら、とっくの昔に俺がぶっ壊した!」
上条は叫んだ。
出来事。インデックスを縛っていた枷は外され、彼女はもう記憶を消す必要などない。
彼女は今、のんきに猫を拾って、幸せに笑っている。
上条当麻の隣で、幸せそうに笑っているのだ。
「だから……お前がこんなことする必要は、もうどこにもねえんだよ!!」
広間に、沈黙が落ちた。
空調の音すらしない静寂の中で、アウレオルスの呼吸だけが荒くなる。
「……虚言」
震える声。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!! そんなはずはない! 私は3年だぞ!? 3年間、来る日も来る日も、血反吐を吐く思いで研究し、地位も名誉も捨て、犯罪者に落ちぶれてまで追い求めた希望だぞ!?」
彼は叫ぶ。
それは、自分の存在意義を守るための悲鳴だった。
もし、上条の言葉が本当なら。
彼が積み重ねてきた3年間の苦悩は? 流した血と涙は? 犯した罪は?
すべてが「無駄だった」ことになる。
すべてが、目の前の男に奪われたことになる。
「お前が頑張らなくても、とっくに終わっていた」という事実は、彼にとって死刑宣告よりも重い絶望だった。
茶番。ピエロ。徒労。
その残酷な真実が、彼の精神を粉々に砕いた。
「……認めん」
アウレオルスの顔から、表情が抜け落ちた。
残ったのは、虚無と、世界への憎悪だけ。
「認めんぞ……! 私の努力が無意味だったなどと」
アウレオルスが、手に持っていた鍼を、自身の首筋に深々と突き立てた。
痛みで正気を保つのではない。痛みで「狂気」を現実に固定するために。
「(死ね)」
思考が暴走する。
世界が軋む音がした。
「全員死ね! 私の世界を否定する奴は、塵一つ残さず消え失せろ!!」
錬金術師の絶叫と共に、一見普通の広間だった場所が、処刑場へと変貌した。
壁紙がめくれ上がり、そこから無数のギロチンや鉄の処女が牙を剥く。
(くそ、やはり術式が『完成』しているのか…………!!)
「来るぞ!! 構えろ幻想殺し!」
ステイルが叫ぶ。
議論の余地はない。言葉はもう届かない。
「まとめて葬ってやる!!」
アウレオルスの殺意が、物理的な質量となって襲いかかる。
全方位から迫る刃の波。
「チッ、悪趣味な野郎だ……!」
ステイルがルーンカードをばら撒き、上条は右手を構えて突進する。
木寺は姫神の手を引き、必死に瓦礫の陰へと滑り込む。
「……虫が足掻くか」
アウレオルスは、眉一つ動かさずに呟いた。
彼は右手の鍼をさらに深く刺し込み、まずは最大の脅威であるステイルに視線を向けた。
「(燃え尽きろ)」
思考が、世界への命令となる。
ステイルの足元の床が突如として発火し、圧倒的火力の火柱が噴き上がる──はずだった。
「甘いな。その程度の炎なら、僕の専門分野だ」
ステイルは嘲笑い、炎を操る術式でアウレオルスの攻撃を相殺する。
同時に、彼の切り札である炎の巨人が顕現した。
「『魔女狩りの王』よ、異端の錬金術師を灰に還せ!」
ゴワバアァッ!!!
摂氏三〇〇〇度の熱量を持つ炎の巨人が、黄金の錬金術師へと殺到する。
物理攻撃も魔術攻撃も効かない再生能力を持つ怪物。
だが、アウレオルスは動じない。
「否。……ここは私の世界だ。私の許しなく燃えることなど、許されない」
アウレオルスは、まるで美術品を鑑定するように呟くと、冷酷に思考した。
「(散れ)」
ただの一言。
思考しただけで、ステイルの誇る『魔女狩りの王』が、まるで蝋燭の火を吹き消すように、跡形もなく消滅した。
「なっ……!?」
ステイルが驚愕に目を見開く。
そして、アウレオルスは彼らを甚振るべく、次なる思考を紡ぐ。
「(窒息しろ)」
「が、はッ……!?」
ステイルの喉元が、見えない巨大な万力によって押し潰されたように陥没した。
防御も回避も不可能。
「ステイル=マグヌスは窒息する」という結果だけが、原因をすっ飛ばして現実に着地したのだ。
「ステイル!!」
上条が叫ぶ。
あの強力な魔術師が、指一本触れられずに白目を剥いて倒れ伏す。
「目障りだ」
「……なっ」
そして。
そして、恐るべき事が続いた。上条と木寺の前でステイルの身体が突如変形し、折り畳まれ、
「ッ、テメェ!!」
さしもの上条も青ざめる。怒りに体を震わせる。それはもはや全く原型を留めていなかった。
「う、ぷっ」
そのあまりに理不尽な光景に、木寺一桁は広間の隅で姫神を抱き寄せながら、ガタガタと震えるしかなかった。
吐き気が込み上げる。
頭痛で頭がおかしくなりそうだ。
非現実感。
目の前で。顔見知りの男が訳のわからないオブジェになった。
無茶苦茶だ。なにもかもが。
「……ば、化け物だ……」
勝てるわけがない。
あんなの、神様じゃないか。
なんで俺は、こんなところにいる。
あれ? ここどこだっけ?
現実逃避。
「……、」
そして。
そんな木寺の様子を不安げに見上げる姫神の視線に、彼は気付いていない。
そして。
だが、木寺一桁と対照的に。
その絶望的な状況下で、唯一立っている少年がいた。
「……次は貴様だ」
「う、あ、おおおおおおおおおお」