とある科学の存在証明   作:かさねtyann

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熱力学と惰性の終わり

 

 外の世界は不快指数の目盛が限界突破だ。

 

 うざったるい湿度とヒートアイランド現象。

 やたらハジけている学生らの嬌声は、思考中枢を直接ノミで削っていくような攻撃力となってスリップダメージを蓄積する。

 

 とある高校。本来ならば夏休みという解放感に浸るべき初日に、木寺一桁はクーラーの効いた教室の硬い椅子に尻を預けていた。

 

「……というわけでですねー。発火能力における熱量保存の法則の穴を埋めるのが、この数式になるわけですよー」

 

 教壇に立っているのは、身長一三五センチメートルの小動物──ではなく、このクラスの担任であり、化学と物理を教える月詠小萌先生だった。

 補習授業だ。

 ピンクのフリルがついた趣味の悪い──いや、個性的な羽織りを着込み、可愛らしい声で語っている内容は、熱が乗ってきたのか大学の研究室レベルの量子力学と脳科学の混合講義になってしまっている。

 

「はぁあ……」

 

 木寺は頬杖をつき、シャーペンを回す。黒板に並ぶチョークの文字はぎり理解できる。

 筆記テストの点数はまあ悪いがそこは問題ではない。問題は実技だ。

 自分だけの現実を確立し、微視的世界の確率を捻じ曲げる演算。木寺の脳はその計算式を弾き出すことができず、結果としてシステムスキャンの数値は常に『反応なし』のレベル0。それが、彼がここにいる理由だった。

 

 ふと、隣の席に視線を向ける。そこには、この世の終わりのような顔をして机に突っ伏している、ツンツン頭の少年がいた。

 

「……おい、上条。死んでんのか」

 

 木寺が小声で話しかけると、上条当麻はズズズゥ、と液状化した軟体動物のように顔を上げた。

 

「……おう、木寺か。死んでる……いや、むしろ一回死んでリセットしたい気分だ……」

「またかよ。昨日の今日だろ?」

 

 昨日の夕方、御坂美琴の電撃に追われていた上条の姿を思い出す。木寺自身、あの騒動のとばっちりで野菜ジュースを一本失い、泥だらけになった被害者だ。文句の一つも言いたいところだが、目の前の上条の顔色は、単なる追いかけっこ以上の疲労を物語っていた。

 

「昨日のビリビリもそうだけどよ……今朝なんて、布団干そうとしたらベランダにシスターが引っかかってたんだぞ? しかも腹減ったって言うからチャーハン食わせたら、俺の右手が触れた瞬間に服が弾け飛んで……」

「はいはーい、暑さで脳が沸いたねー」

 

 木寺は呆れたように肩をすくめた。シスターだの服が弾け飛ぶだの、相変わらずこの男の『不幸自慢』は脈絡がなく、シュールレアリスムの現代芸術のように混沌としている。

 

「信じてねーな!? マジだよマジなんですよ! なんか『歩く教会』とかいうのが壊れて、追い出されちまったんだよぉ!」

「そりゃ、女の子の服を破いたら追い出されるのが社会的常識だろ。逮捕されなかっただけ運がいいと思え」

「不幸だ……ッ!!」

 

 机に頭を打ち付ける上条。その音に、チョークを滑らせていた小萌先生がピク、と反応し、愛らしい笑顔で振り返った。

 

「かーみーじょーちゃん? きーでーらーちゃん? 私語は慎むのですー。これ以上成績が下がると、補習だけじゃ済まなくて『能力開発地獄の夏合宿』にご招待ですよー?」

「「ヒェッ……!!」」

 

 二人は同時に息を呑み、直立不動で教科書に向き直った。小萌先生の笑顔の裏にある『教育的指導』の恐ろしさを、彼らは骨の髄まで理解している。

 

 授業が再開される。単調な数式の羅列が続く中、木寺はちらりと窓の外を見た。入道雲が湧き上がる青く高い空。

 平和だ。昨日の御坂美琴の電撃は肝を冷やしたが、あれはあくまで学園都市における日常的なトラブルの範疇だ。高位能力者が癇癪を起こし、無能力者が逃げ惑う。

 そこにあるのは残酷なまでの実力と階級格差だけで、命のやり取りのような切実さはない。

 

(ま、上条がいる限り夏休みも退屈はしなそうだな……)

 

 隣で死んだ鳥類のような目をしているクラスメイトを見る。

 上条当麻。

 無能力者でありながら、なぜかいつも騒動の中心にいる男。木寺一桁は、自分と同じ『持たざる者』である彼に対し、奇妙な連帯感と、少しばかりの劣等感──「あいつほど不幸じゃないだけマシだ」という卑小な安心感──を抱いていた。

 

 まだ木寺には予兆すらない。

 上条当麻が語った干されていたシスターという荒唐無稽な話が、この科学の街を根底から覆す『魔術』という名の劇薬の最初の一滴であったこと。

 

 そして、その劇薬が、「傍観者」の日常をも侵食し始めていることも。

 

 

 きんこん、と間の抜けた予鈴が鳴り響く。地獄のような補習時間が終わりを告げた。

 

 

「ふひー……終わった、終わったぞ……」

 

 上条がゾンビのように立ち上がる。

 

「これからどうすんだ? ファミレスでも寄ってくか?」

 

 木寺が何気なく誘うと、上条は困ったように頭を掻いた。

 

「いや、今日は真っ直ぐ帰るわ。なんか……嫌な予感がするっつーか、冷蔵庫の中身が心配ですし」

「所帯じみてんなぁ。ま、また明日な」

「おう、また明日」

 

 手を振って別れる。夕焼けに染まる廊下。上条当麻は学生寮へ。木寺一桁もまた、コンビニによってから、同じ寮の別の階にある自室へと足を向ける。

 

 分かれ道。運命の交差点。上条当麻が帰る部屋には、血まみれのシスターと魔術師が待っている。一方、木寺一桁が帰る部屋には──今はまだ、何も待っていない。

 

 

 だが、学生寮に近づくにつれ、木寺の肌に何か、ぎりぎりとした違和感が走り始めた。

 それは昨日の美琴のものとは違う、もっと湿度の高い、不穏ささえある気配。第七学区の路地裏特有の空気の澱みとは明らかに質の異なる、異物感。

 

「……なんだ?」

 

 

 木寺は足を止める。学生寮の入り口付近。いつもの見慣れた風景の中に、見慣れない『赤色』が散っているのが見えた気がした。

 

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