外の世界はGWの気配を前にソワついている。
しかして、勉強が本分の高校生たちにとっては、中間テストの脈動が聞こえる嫌な時期でもある。
そしてここにも。
放課後の終鈴が鳴ったが、未だ教室に留まり、よどんだ空気を滞留させている男が一人いた。
「……はぁ。不幸だあ~」
上条当麻が、机に突っ伏して全力で脱力していた。その横で、青髪ピアスが下世話な本を読みながら、呆れたように言う。
「カミやんまたかいな。もうボクの耳のタコが生命活動し始めるわ。……木寺はんのことやろ?」
「……わかってるなら言うなし」
上条は顔を上げ、教室の後ろの方に視線を送った。
そこは、すでに空席だった。
木寺一桁は、授業終了と同時に、誰とも言葉を交わさず、逃げるように颯爽と帰ってしまったのだ。
「あいつ、最近ずっとあんな感じだぞ。……俺と目が合うと逸らすし、話しかけても、忙しいって切られるし」
「しゃーないやん。……あんな喧嘩別れした直後やし?」
青髪ピアスは、珍しくシリアスな顔をした。
「男の嫉妬は女よりたちが悪いっちゅうしな。……特に持たざる者のコンプレは根も闇も深い」
「……俺は、あいつを見下したつもりなんてないぞ」
「わかっとる。わかっとるけど……あいつにはそう見えてもうたんや。『同じレベルゼロだと思ってたのに、裏切られたー!』ってな」
上条は拳を握りしめた。
あの時の木寺の叫びが、まだ耳に残っている。
『俺の惨めさがわかるか』
その言葉に対し、上条は何も言い返せなかった。
自分には、異能を打ち消す右手がある。
不幸を呼び寄せる呪いのアイテムだが、確かに疑いようもない力だ。何も持たない木寺の絶望に、自分は少々、無神経すぎたのではないか?
「……にゃー。湿っぽいぜよ、お前ら」
教室のドアから、グラサンアロハの少年──土御門元春が入ってきた。手にはなぜか食パンを持っている。
「土御門……お前、木寺とは話したか?」
「挨拶くらいはな。……ま、壁を作られちまってるのは俺も同じだ」
土御門は、空いている椅子を引いて座った。サングラスの奥の瞳は、笑っていない。
「あいつ、完全に閉じこもっちまったな。……自分はここにいるべきじゃないってツラしてやがる」
「……いつまでウジウジしてるのよ、アンタたちは」
と。上から声が飛んできた。大量のプリントを小脇に抱えた吹寄制理が、仁王立ちで三人を睨み下ろしていた。
「吹寄ちゃあん! 今日も麗しい鉄壁っぷりやなあ!」
「茶化すな青髪。……木寺のこと話してるんでしょ?」
吹寄は、ため息をついて腰に手を当てた。
「あいつ、最近掃除もサボりがちよ。適当にやってすぐ帰るし。……クラスの和を乱すにも限度があるわ」
「……あいつなりに、居心地が悪いんだろ」上条が庇うように言う。
「居心地が悪くしてるのは自分自身じゃない」
吹寄は、木寺の席を睨んだ。
「能力がだとか、才能がだとか。……それが何だってのよ。そんなことで卑屈になって、周りを拒絶して。……ただの逃避よ」
吹寄の言葉は手厳しい。
だが、その厳しさの裏には、彼女なりの苛立ちがあった。
入学当初、木寺はもっとマシな目をしていたはずだ。
地味で、目立たないけれど、ここまで「朽ちた感じ」ではなかった。
今の彼は、まるで自分を自分を否定しているようにさえ見える。
「私はね、出来る出来ないなんてどうでもいいの。……気に入らないのは、あいつが、最初から諦めてることよ」
吹寄は、教壇を指差した。
「何でもいいわ。自分なりに足掻けばいいだけの話よ。……なのにあいつは、やる前から自分はダメだって決めつけて、勝負の土俵にすら上がろうとしない」
「……それは」
上条が反論しようとするが、言葉に詰まる。
「俺は空っぽだ、誰からも相手にされない……そんなオーラを出して、自分を守ってるつもりなんでしょ? 傷つきたくないから、誰とも関わらない。……見ててイライラするわ」
吹寄は、ある意味で理想主義者だ。
努力を放棄し、自己憐憫に浸る人間が一番苦手なのだ。
だが、同時に彼女は、クラスの管理者でもある。落ちこぼれを放置しておくことも、彼女の美学に反する。
「……というわけで。上条。アンタがきっかけなんだから、何とかしなさいよ」
「無茶言うなよ……話も聞いてくれねえってのに」
「殴り合ってでも目を覚まさせればいいでしょ! アンタの十八番じゃない!」
「暴力反対! 俺は平和主義者だ!」
「どの口が言うか!」
ギャースカとと言い合う上条と吹寄。それをニヨニヨと眺める青髪ピアス。
いつもの放課後の原風景。だが、そこには一人分の空白が、ぽっかりと隙間を開けている。
「……危うい、かもな」
その時だった。土御門が、ぼそりと呟いた。
「え? 何か言ったか土御門?」上条が振り返る。
「いや。……ただ、木寺のこと、放っておくとマズいかもなーって思っただけぜよ」
「だから、そう言ってるじゃない!」吹寄が怒鳴る。
「違うぜよ、吹寄」
土御門は、少しだけ冷静なトーンになった。
「あいつが腐ってるからとか、クラスの和がどうとか、そういう話じゃねぇ。……人間、孤独になりすぎると、ロクなことを考えねえ」
土御門は知っている。孤独が人をどう変えるか。
自分には価値がないと思い込んだ人間が、その空洞を埋めるために、何に手を出してしまうか。
危険な薬物。怪しげなカルト。あるいは、自暴自棄なテロ行為。
木寺一桁という空っぽの器。AIM反応なし……違和感の塊。
そこに、もし、悪意が注ぎ込まれたら?
何か、想像も出来んような「厄介な事」が起こるかもしれない。
(……少しだけ、様子見が必要だな)
土御門は決断した。クラスメイトとしてではなく、裏の人間として。
木寺が「
「……カミやん」
土御門は、上条の肩を叩いた。
「へこたれずに声かけろよ。……あいつを繋ぎ止められるのは、同じ落ちこぼれのお前だけかもしれねぇ」
「……ああ。わかってるよ」
上条は頷いた。その目には、決意の色があった。
拒絶されても、嫌われても、お節介を焼き続ける。それが、上条当麻という男の強さだ。
「よし! ほんなら今日のところは解散や! ボクはコンカフェの季節限定イベントに行かねばアカンから!」
「死ね青髪! 部活でも入りなさいよ!」
吹寄の回し蹴りが炸裂する。騒がしい放課後。土御門は、笑いながらも、心の中では冷たく思考を巡らせていた。
:
一方同時刻、木寺はまだ学校の、図書室の奥まった席にいた。周りには本棚が壁のようにそびえ立ち、彼の姿を隠している。
机の上には、小萌先生から借りた心理学の本と、自分で探してきた科学雑誌。
「……認知バイアス。……危機状況下の思考展開論」
彼は、文字をただ目で追っていた。
何かに没頭していないと、思考が惨めさに塗りつぶされてしまいそうだったからである。
「……上条」
ふと、友人の名前を呟く。
あいつは今頃、みんなと笑っているだろうか。俺の悪口を言っているだろうか。それとも、俺のことなんて忘れて、新しい話題で盛り上がっているだろうか。
(……いやまあ、忘れられてる方がマシか……)
木寺は、鼻で笑った。俺は虚無の糞野郎だ。なら、徹底的にゼロになってやる。誰の記憶にも残らず、誰の視界にも入らず、ただ息をして、卒業していくだけの存在。
「……、」
彼は、本に視線を戻した。だが、その文字はどこか滲んで、よく読めなかった。
:
数日後。
件の大型連休が直前に迫った、四月の末日。
生活指導室の空気は、いつもと違い不穏だった。
「……木寺ちゃん。座ってください」
月詠小萌は、パイプ椅子を勧めた。彼女の机の上には、木寺一桁の成績表と、出席簿、そして数枚の「
「……あ、はい」
木寺一桁は、幽霊のような足取りで椅子に座った。視線は合わせない。床の網目を目で追っている。
その姿は、以前よりも一回り小さくなったように見えた。背中を丸め、気配を消し、まるでこの空間から消滅したがっているようだ。
「……最近、元気がないですねー」
小萌は、努めて明るい声で切り出した。
「授業中も上の空ですし、掃除当番もサボりがちだと聞いています。……何か、悩み事でもありますか?」
「……別に。ないです」
木寺は、ぼそっと答えた。
嘘だ。悩みがない人間が、こんな顔をするはずがない。
だが、小萌はそれを指摘せず、引き出しから緑茶ボトルを取り出して、木寺の前に置いた。
「飲みましょう。すっきりしますよー」
「……どうも」
木寺はボトルに触れたが、開けようとはしなかった。その指先が、微かに彷徨っているのを小萌は見逃さなかった。
「先生はね、心配しているのですよ」
小萌は、椅子から降りて、木寺の正面に立った。身長差のせいで見上げる形になるが、その眼は大人の持つそれだった。
「クラスメイトと、何かありましたか? 上条ちゃんや、吹寄ちゃんとかと」
「……、」
木寺の肩が、ぴくりと動いた。
「何も、ありません。……ただ、俺が勝手に最近疲れてるだけです」
「嘘ですねー」
小萌はきっぱりと言った。
「先生は見ていましたよ。あの日、貴方が教室を飛び出していったのを。……それ以来、木寺ちゃんは誰とも口を利かなくなりました」
小萌は、木寺の手に、自分の小さな手を重ねた。
「木寺ちゃん。……誰からも距離を取るのは、ある意味では楽かもしれません。でも、それではいつか、息が詰まってしまいますよ?」
優しい声。温かい手。
それは、孤独に耐える生徒にとって、何よりの救いになるはずだった。
だが、今の木寺一桁にとっては、それは猛毒だった。
(……やめてくれ)
木寺は、心の中で叫んでいた。小萌先生の手が、熱い。その優しさが、苦しい。
先生は、俺を普通に悩める生徒として扱ってくれている。励ませば立ち直る、話を聞けば解決する、そんな普通の人間だと信じてくれている。
それが苦しい。俺はそんなに上等な人間じゃない。嫉妬に狂って友人に当たり散らし、軽蔑されて逃げ出した、ただのクズだ。
「……先生」
木寺は、ゆっくり口を開いた。
「俺のことはもう、放っておいてください」
「放っておけません! 担任ですから!」
「時間の無駄ですって」
木寺は、小萌の手を振り払った。ぱちり、という乾いた音が、静かな部屋に響いた。
「……あっ」
小萌が驚いたように手を引っ込める。木寺自身も、自分の行動に驚いていた。だが、一度溢れ出した自己嫌悪は止まらなかった。
「そもそも……先生は、俺に期待しすぎなんですよね」
木寺は、早口でまくし立てた。
「俺はレベル0です。才能なんてありません。……それだけじゃない。性格も悪いし、根性もねえし、友達もいない。前に色々言ってくれたけど……そもそも救いようがないんです」
「そんなこと……!」
「ありますよ! データを見ればわかるじゃないですか!」
木寺は、机の上の成績表を指差した。
「……俺の中には、最初から何もないんです。……ゼロに何を掛けたって、やっぱゼロなんですよ!」
彼は立ち上がった。椅子が倒れる音。
「ほんと、優しくしないでください。……こっちが惨めになるだけなんで」
「木寺ちゃん……」
「先生のその『教師としての義務感』も、俺には重荷なんです。……俺みたいな不良品に時間を使うくらいなら、上条とか、もっと見込みのある奴を見てやってくださいよ」
言ってしまった。最低のセリフ。教師の善意を、義務感と切り捨て、踏みにじる言葉。
木寺は、小萌の顔を見ることができなかった。
きっと、傷ついた顔をしているだろう。悲しそうな顔をしているだろう。
それを見たら、自分が崩れ落ちてしまいそうだったから。
「じゃ……失礼します」
木寺は、逃げるように生活指導室を出た。小萌が何かを言う前に、とっととドアを閉めた。
廊下に出ると、動悸が後から強くなってくる。
何やってんだ、俺。
心配してくれたのに。お茶までくれたのに。手を払いのけるなんて、本当何様のつもりだ。
「……はは。……やっぱ俺、カスだなー」
木寺は一人ぼやいた。
誰かと関わりたい、孤独が怖いと思いながら、いざ関わろうとされると拒絶する。この矛盾。この弱さ。自分が一番、自分を許せない。
:
木寺が廊下を歩き出すと、誰かとぶつかりそうになった。
「……っと、危ないわね」
相手は、出席簿を持った吹寄制理だった。
彼女は、生活指導室から出てきた木寺を見て、そして、部屋の中に一人残された小萌の様子から、何かを察したようだった。
「……アンタ」
吹寄の声は、絶対零度だった。
「今、小萌先生に何したの?」
「……別に。何もしてねえよ?」
木寺は目を逸らして通り過ぎようとした。だが、吹寄が立ちはだかった。
「嘘おっしゃい。……先生、泣きそうな顔してるわよ」
「……!」
泣きそう。その言葉に、木寺の胸が痛む。やはり、傷つけてしまったのか。
「……ちょっと話を聞かれただけだ。……で、俺には必要ないって断っただけだ」
「断った? ……あんなに、一生懸命な先生を?」
吹寄は、信じられないものを見る目で木寺を睨んだ。
「アンタねぇ……。自分がどれだけ恵まれてるか、わかってんの?」
「はあ? 恵まれてる?」
木寺は思わず笑ってしまった。レベル0の俺が? クラスの最底辺の俺が?
「何がおかしいのよ」
「おかしいだろ。……俺のどこが恵まれてるんだよ。何もないから、こうなってんだろ」
「そこよ」
吹寄は、木寺の胸ぐらを掴……もうとして、寸前で止めた。
「自分には何もないって顔して、被害者ぶって……。でもね、アンタのことを本気で心配して、時間を割いてくれる大人がいるのよ。……それを受け入れもせず、八つ当たりして拒絶するなんて……ただの鼻ったれたガキじゃない!」
吹寄の正論。
それは、いつでも正しい。正しすぎて、逃げ場がない。
「先生はね、アンタの反応なしだか何だか知らないけど、そんなデータなんて気にしてないわよ。……ただの教え子として見てくれてるの。それがわからないほど、アンタは腐ってるわけ?」
「……うるっせえな」
木寺は、低い声で言った。
「四角四面のアンタには、わかんねえって」
「何ですって?」
「期待されることが、どれだけ苦痛か。……頑張ればなんとかなるっていう無責任な応援が、どれだけ人を追い詰めるか」
木寺は、吹寄を睨み返した。その瞳は、暗く濁っていた。
「俺は、先生が嫌いなわけじゃない。……ただ、これ以上、俺に関わって徒労に終わるのが申し訳ないだけだ。……俺は、誰の期待にも応えられないからな」
「……っ」
吹寄は言葉を詰まらせた。
木寺の言葉は、言い訳めいていたが、その根底にあるのは深い諦観だった。
自分は無価値だ。だから、誰も俺に投資するな。それは、ある種の誠実さの裏返しでもあった。歪んでいるけれど。
「……そう。わかったわ」
吹寄は、彼には乗らず突き放した。
「なら、勝手にすれば? ……一生、その暗い所に引きこもって、誰とも関わらずに生きていけばいいわ」
彼女は、道を開けた。
「でも、これだけは言っておくわ。……アンタがそうやって、自分はダメだって卑下することは、アンタを信じようとした人たち全員を、侮辱してるのと同じよ」
吹寄は、木寺の横を通り過ぎざまに、肩を強くぶつけた。どん、という衝撃。
「……最低ね、アンタ」
その言葉を残して、彼女は生活指導室の方へ──小萌先生を慰めるために──歩き去っていった。
「…………、」
木寺は、廊下に一人残された。西日が長く伸び、彼の影を曖昧に象っている。
「……ああ。最低だよ」
木寺は、自分の影に呟いた。小萌先生を傷つけた。吹寄に軽蔑された。他の連中との関係も狂った。
いっそ清々しいほどに、俺の周りには、誰もいなくなった。
「……でも、妥当だろ?」
木寺は、自分に言い聞かせた。これで、誰も俺に期待しない。誰も俺を見て失望しない。お気楽な透明人間さんの完成だ。
彼は、ふらつく足で出入り口へと向かった。
靴を履き替える。周りの生徒たちが、楽しそうに連休の予定を話している。
その会話の全てが、遠い異国の謎言語のように聞こえる。
さっさと家に帰って、布団かぶって寝よう。
そうすれば、この惨めな空間から、少しの間だけ逃げ切れる。
:
生活指導室。吹寄が入ってくると、小萌は窓の外を見ていた。泣いてはいなかった。だが、その背中は小さく萎んでいた。
「……先生」
「あら、吹寄ちゃん。どうしたんですかー?」
小萌は振り返り、いつもの笑顔を作ろうとしたが、上手くいかなかった。
「……あいつのことなら、気にしなくていいですよ。ただのバカですから」
「ふふ……厳しいですね、吹寄ちゃんはー」
小萌は、自分の手を見た。払いのけられた手。
「……私の力が、足りませんでしたね」
小萌は、自戒を込めて言った。
「彼は今、溺れているんです……無力感という思い込みに。私が投げた浮き輪は、まだまだ彼に届かなかったですね」
「あいつが勝手に手を離しただけです」
「いいえ。……浮き輪の投げ方が、間違っていたのかもしれません」
小萌は、窓の外──校門を出ていく木寺の背中を見つめた。
「彼は言いました。ゼロに何を掛けてもゼロだと。……それは、数式的には正しいかもしれません」
小萌の目が、教育者としての鋭さを帯びる。
「でも、教育は計算式じゃありません。……最初はゼロでも、足し算はできる。引き算もできる……彼が自分はゼロじゃないと思える何かを、見つけてあげなければ」
「……先生、まだあいつを見捨てないんですか?」
吹寄が呆れたように聞くと、小萌ははっきりと答えた。
「当たり前です! 生徒を見捨てる教師なんて、教師失格なのですよー!」
小萌は、握りこぶしを作った。
「長期戦です。……彼がどれだけ拒絶しようと、私は諦めません。いつか彼が、自分から助けを求めてくるその日まで……蜘蛛の糸を垂らし続けます」
「……お人好しですね」
「それが私の『
吹寄は、かぶりを振った。こんな先生だから、生徒たちはついていくのだ。
あの大バカ野郎も、いつかそれに気づく時が来るのだろうか。
「……ま、私も学級委員として、あいつの腐り具合だけはチェックしておきますよ。これ以上、クラスの空気を悪くされたら迷惑ですから」
「ふふ。頼りにしていますよ、鉄壁の女!」
学校からの帰り道。木寺一桁は、コンビニでサバ缶を買った。レジの店員の「ありざとやしたー」という声すら、今の彼には皮肉げに聞こえた。
連休。そして五月が始まる。
五月は、新しい環境に適応できず、心を病みやすい季節というが……
「だっりい……」
そうして彼は学生寮のエレベーターに乗り込む。
ふと目を閉じると、瞼の裏に、小萌先生の悲しげな顔と、吹寄の怒った顔が焼き付いて離れない。
:
そして連休明け。空は、さっそく鉛色の雲が垂れ込めていた。
湿度は限界値を超え、不快な空気が教室にも充満している。
エアコンの除湿機能も追いつかないほどの、不快指数の高い手狭な空間。
「……チャイムが鳴ったら席に着く。何度、言わせるのよ」
吹寄は、教卓の上で出席簿を叩きつけた。その鋭い音に、のんべんだらりと喋っていた男子生徒たちが、渋々といった体で席に戻る。
「ったく、吹寄ちゃんは今日もキレッキレやなー」
「うるさい青髪。……湿気で髪が爆発しそうなのよ、察しなさい」
吹寄は前髪を抑えながら、教室全体を見渡した。彼女の目は、クラスの健康状態をチェックする高機能レーダーだ。
サボりはいないか。体調不良者はいないか。そして──異物はいないか。
彼女のレーダーが、教室の窓がわ、後ろの席で止まった。そこに、木寺一桁がいる。
(……また、あの顔)
吹寄の眉間に、深い皺が刻まれた。
彼は、席に座っている。だが、その姿勢は崩れきっていた。
猫背になり、机に突っ伏すようにして、視線は虚空を彷徨っている。
教科書も開いていない。筆記用具も出していない。ただ、時間を殺すためだけにそこにいる物体。
(……腐ってる)
吹寄は、直感的にそう感じた。
比喩ではない。彼の周りだけ、空気が淀んでいるのだ。
循環しない水が腐るように、思考も、感情も、行動も止めてしまった人間が発する、独特の腐臭。
「……木寺。教科書、出しなさい」
吹寄は、教卓から情けをもって声を飛ばした。
木寺は、緩慢な動作で顔を上げた。その瞳は、淀んでいた。反抗的な色すらない。ただ、「ああ、うるさいのが何か言ってるな」という、諦めきった無関心。
「……忘れた」
ぽつ、と、聞こえるか聞こえないかの声で答える。
「……隣に見せてもらいなさい」
「……いい。寝るから」
木寺は、再び机に突っ伏した。その態度は、クラスメイトへの甘えであり、教師への冒涜であり、そして何より自分自身への侮辱だった。
「……ッ」
吹寄の中で、何かが音を立てて切れた。怒りではない。純粋な軽蔑だ。
(……救いようがないわね)
彼女は、出席簿にチェックを入れた。出席の欄だが、心の中では廃棄の欄に印をつけた気分だった。こいつはもう、クラスの一員じゃない。ただの燃えないゴミになりつつある。
:
昼休み。生徒たちが机を寄せて、弁当や購買パンを広げ始める。笑い声。食べ物の匂い。活気ある昼食の時間だ。
だが、木寺一桁だけは、その輪に一切加わろうとしなかった。彼は、コンビニの袋を提げて、無言で教室を出て行く。
「……あ、木寺」
上条当麻が声をかける。
一緒に食おうぜ、と言いかけて、木寺の背中が拒絶しているのを感じて、言葉を飲み込む。
吹寄は、その光景を冷ややかに見ていた。
彼女は知っている。木寺がどこへ行くのか。
屋上の給水塔の裏か、旧校舎の階段下だ。
あえて、人目につかない場所を選び、そこで一人、惨めにパンを齧る。
(……気持ち悪い)
吹寄は、箸を止めた。食欲が失せた。
(俺はこんなに孤独です、誰も構ってくれません……そうやって全身でアピールして、一体何がしたいわけ?)
彼女には、木寺の行動が、計算された演出に見えて仕方がなかった。
本当に一人になりたいなら、もっと幾らでも立ち回りようはあるはずだ。
なのに彼は、あえて「みんなが楽しそうにしている場所」の近くを通って、悲劇の主人公のように去っていく。
それは、周囲に対する当てつけだ。
俺がこうなったのはお前らのせいだと、俺を無視して楽しんでいるお前らは冷たい人間だ、と。
そんな無言の非難を、背中で語っている。
「……卑怯者のやり方よ」
吹寄は呟いた。弱さを武器にする人間。同情を引くために、自分を傷つけて見せる人間。彼女が最も生理的に受け付けないタイプだ。
「……吹寄ちゃん? どないしたん? 怖い顔して」青髪ピアスが恐る恐る聞く。
「……なんでもないわよ。ちょっと、ハエが飛んでただけ」
彼女は、木寺が出て行ったドアを睨みつけた。ハエ。そうだ、あいつはハエだ。自分では何も生み出さず、他人の感情の周りを飛び回って、不快感を撒き散らす害虫。
「……関わらないのが一番ね」
彼女は結論づけた。駆除する価値すらない。勝手に飛んで、勝手に落ちてくれればいい。
:
放課後。吹寄は、職員室へ日直日誌を届けに行った。
そこで、彼女は見てしまった。
担任の月詠小萌が、デスクの前で動揺し、慌てふためいている姿を。
「あ、あわわ……! どうしましょう、どうしましょう……!」
小萌先生は、書類の山を崩し、床に散らばったプリントを拾い集めていた。その目は赤く、今にも泣き出しそうだ。
「先生? 何やってるんですか」吹寄が駆け寄って、プリントを拾うのを手伝う。
「あ、吹寄ちゃん……。ごめんなさい、ちょっと手元が狂って……」
「落ち着いてください。……何かあったんですか?」
小萌先生は、拾ったプリントの一枚を、胸に抱きしめた。
それは、進路調査票だった。
名前の欄には『木寺一桁』。希望進路の欄は、白紙。そして、備考欄には、乱暴な字でこう書かれていた。
『どうでもいい』
「……これ」
吹寄が絶句する。
「……木寺ちゃんが、出したんです」小萌先生は、悲痛な声で言った。
「私が『ちゃんと書いてください』って言ったら……彼は、『書くことなんてない』って。……先生の仕事のために、適当に埋めといてくださいって……」
先生の小さな手が、握り締められている。
彼女は、生徒のことを本気で考えている。
だからこそ、この投げやりな言葉が、奴の態度が、あっさり彼女の心を傷つけたのだ。
「……私は、駄目な教師ですね……。彼の心に、なかなか言葉が届きません……」
小萌先生が、うつむいて肩をふるわせる。その小さな背中を見た瞬間。吹寄の中で、決定的な「断絶」の音がした。
(……許せ、ない)
自分を傷つけるのは勝手だ。人生を捨てるのも勝手だ。でも。一生懸命な人間を、自分の甘えで傷つけることだけは、絶対に許せない。
あいつは、先生の優しさを利用している。
自分はこんなに荒んでるんだぞ、と見せつけることで、先生を困らせ、自分に注目させようとしている。
幼児返りだ。母親の気を引くために、わざとコップをひっくり返す子供と同じだ。
「……先生。泣かないでください」
吹寄は、冷徹な声で言った。
「そんな紙切れ、ゴミ箱に捨てればいいんです」
「え……?」
「あいつは、先生が泣くのを見て、安心したいだけなんです。自分のために泣いてくれる人がいるって、自尊心を満たしたいだけなんです」
吹寄は、木寺の調査票をひったくった。
「こんなの、進路希望じゃありません。……ただの紙屑です」
「ふ、吹寄ちゃん……言い過ぎですよ……」
「いいえ……先生は優しすぎます」
吹寄は、調査票をデスクに叩きつけた。
「あいつのことは、もう放っておきましょう。……構えば構うほど、あいつは図に乗って、先生を傷つけます」
「でも……生徒を見捨てるなんて……」
「見捨てるんじゃありません。指導です」
吹寄は、きっぱりと言った。
「腐ったミカンを箱に入れておけば、他のミカンまで腐ります。……あいつは今、クラスの毒になってるんです」
彼女は、先生の背中をさすった。
「先生は、前を向いている生徒のために時間を使ってください。……あいつが自分で腐るのをやめるまで、私たちは手を出してはいけません」
それは、管理者としての冷酷な判断だった。
リソースの配分。
救える見込みのある者に力を注ぎ、救いを拒絶する者は切り捨てる。そうしなければ、共倒れになる。
「……っ……、少し、頭を冷やしますね…………」
小萌先生は、涙を拭いて、力なく微笑んだ。
その笑顔の痛々しさが、吹寄の木寺への憎悪を、より一層深めた。
:
職員室を出た吹寄は、玄関口へと向かった。外は雨が降り出していた。激しい雨だ。
下駄箱の前。そこに、木寺一桁がいた。彼は、傘を持っていないようだった。雨宿りをしているわけでもなく、ただ呆然と、雨のカーテンを見つめていた。
(……また、やってるわ)
悲劇のヒロイン、主人公気取り。傘もない俺、可哀想とでも言いたげな背中。
吹寄は、彼に近づいた。足音に気づいて、木寺が振り返る。
「……あ、吹寄」
彼は、少しだけ期待したような目をした。傘に入れてもらえるかもしれない。あるいは、声をかけてもらえるかもしれない。そんな、浅ましい下心が見え透いていた。
吹寄は、彼の手前で足を止めた。そして、彼を一瞥し──
ふん、と。
鼻で笑った。言葉はない。ただ、アンタなんて視界に入れる価値もないという、極低温の侮蔑を込めて、目を逸らした。
「……ッ」
木寺の顔が歪んだのがわかった。傷ついた顔。ショックを受けた顔。
(……そうよ。傷つけばいいわ)
吹寄は、傘を開いた。
(アンタが小萌先生にしたこと。クラスのみんなにしたこと。……その報いよ)
彼女は、木寺を残して雨の中へと歩き出した。一度も振り返らなかった。背後で、木寺が何かを呟いた気がしたが、雨音がすべてをかき消した。
「……せいぜい、雨に打たれて頭を冷やしなさい」
吹寄は、独りごちた。これはイジメではない。教育だ。
「誰も助けてくれない」という現実を突きつけることでしか、あいつは自分の足で立てない。甘ったれた根性を叩き直すには、これくらいの荒療治が必要だ。
だが、彼女の手には力が入っていた。傘の柄を握る指が、白くなっていた。
本当は、わかっていた。
自分がしていることが、ただの八つ当たりに近いことを。
木寺の弱さが、自分の「理想」とあまりにもかけ離れているから、許せないのだ。
彼を見ていると、自分の中にある弱さまで刺激されるようで、怖いのだ。
「……大っ嫌いよ、あんな奴」
吹寄は、雨の中を早足で歩いた。鉄壁の女は、自分の心にも壁を作った。木寺一桁という異物を遮断し、完璧な日常を守るための壁を。
:
翌日。木寺一桁は、風邪で学校を休んだ。クラスの誰も、そのことを話題にはしなかった。
「あいつなら仕方ない」「またサボりか」そんな空気が流れる中、吹寄は、木寺の空席を睨みつけていた。
(……案の定ね)
雨に濡れて風邪を引く。それすらも、彼にとっては学校に行かなくて済む理由になったのだろう。自己管理すらできない。どこまでも、底の浅い男。
「……上条。日直の日誌、書いといて」
「えっ、俺!? 木寺の番じゃ……」
「いない奴のことなんて知るわけないでしょ。飛ばすわよ」
吹寄は、事務的に処理した。木寺一桁という存在を、クラスのシステムから一時抹消したのだ。
これが、彼女なりの絶縁宣言だった。アンタが戻ってくるまで、私はアンタをクラスメイトとは認めない。這いつくばってでも、自分の足で戻ってきなさい。
彼女の背中はそう語っていた。
:
それから二日後。
木寺一桁は、教科書を立ててバリケードを作り、寝ているふりをしていた。誰とも目を合わさず、誰とも話さず、彼なりの鉄壁を作り上げる。
「よぉ、木寺! 生きてたかー?」
しかし。
バリケードの上から、能天気な声が降ってきた。上条当麻だ。彼は汗まみれの顔で(補習で走らされたらしい)、はっはと笑っている。
「……うるさいな。生きてるよ」
「つれないなぁ。ほら、これ昨日買ったコンビニガム。……と言いたいとこだけど、来る途中でカラスに奪われたから、包み紙だけな」
「いらねえって」
上条の横から、土御門元春と青髪ピアスも顔を出す。
「木寺はん、そういや連休は何しとったん? ワイは特殊シチュコンカフェ巡りでサイフがすっからかんや」
「俺は義妹と愛の逃避行だぜよ。……ま、実際は舞夏は休みもほとんどなくて、俺一人で自室にこもってたけどな」
彼らは、四月の「
水に流そうぜという、彼らなりの配慮だ。仲間外れを作らない、デルタフォースの不文律。
だが、今の木寺には、その配慮こそが屈辱だった。
(……なんだよ、その余裕は……)
木寺は、筆箱を強く引っ搔いた。俺は酷いことを言った。上条の机を蹴り上げた。なのに、なんでヘラヘラ笑ってられるんだ?
「お前の癇癪なんて、痛くも痒くもない」ってことか?
俺の存在なんて、怒る価値もないほど軽いってことか?
「……どっか行けよ」
木寺は、小さな声で言った。
「え?」
「俺に関わるなって言っただろ。……お前らと馴れ合うつもりはねえんだよ」
周囲の空気が、ぎ、と固まった。上条の笑顔もまた、引きつる。
「おいおい木寺、まだ根に持ってんのか? もういいだろ、あんなこと」
「よくねえよ! いい加減にしやがれ!!」
木寺は立ち上がった。椅子が倒れる音が、騒がしい教室を一瞬で静まり返らせた。
「お前らはいいよなー!」
木寺は叫んだ。視線が集まる。またか、という冷ややかな視線。でも、止まらなかった。
「俺たち同じレベル0ですーってツラして、根本から全然違うじゃねえか!」
木寺は、青髪ピアスを指さした。
「お前は、そのふざけたキャラで人気者だ! クラスのムードメーカーで、誰とでも話せる!」
次は、土御門。
「お前だってそうだ! なんか怪しいけど、余裕があって、頭も実は良くて……俺とは住む世界が違う!」
そして、上条当麻。
「テメェは……言わなくてもわかるだろ! 不幸だ不幸だって言いながら、いつも話題の中心にいて、いざとなったらその右手で何とかしちまう!」
木寺の呼吸が荒くなる。肺が熱い。言葉が、沼のように溢れ出してくる。
「それで俺はなんだ!? 俺には何がある!? キャラもない! 頭も悪い! 特別な力もない! ……能力測定も無反応なんだぞ!? 最初からどうしようもねえんだよ!」
彼は、自分の裾を握りしめる。
「俺とお前らが仲間だなんて、思い上がりも甚だしいんだよ! ……俺はお前らの引き立て役じゃない! あいつよりはマシだって安心するための材料にするな!」
「……、木寺」
上条が、哀しげに目を向けた。怒りではない。憐れみだ。それが、木寺のプライドを粉々に砕いた。
「そんな目で見るなァッ!!」
木寺は、上条を突き飛ばした。上条は抵抗せず、よろめいて後ろの机にぶつかった。がったん、と机が倒れる。
「……最低だ」
誰かが呟いた。
クラスメイトたちの視線。軽蔑。呆れ。嫌悪。
またあいつか、被害妄想もいい加減にしろよ。そんな心の声が、痛いほど聞こえてくる。
その時。教室のドアが開き、尖った氷柱のような声が轟いた。
「……いい加減にしなさいッ!!」
吹寄制理が入ってきた。
彼女は、倒れた机と、突き飛ばされた上条、そして肩で息をする木寺を交互に見て、状況を一瞬で理解した。
彼女の顔から、表情が消えた。
それは、怒りを通り越して「見限った」人間の顔だった。
「……上条、大丈夫?」
「あ、ああ。俺は平気だけど……」
吹寄は上条を通り過ぎて、木寺の前に立った。その身長差を埋めるほどの、圧倒的な威圧感。
「木寺……アンタ、自分が何をしたかわかってる?」
「……うるせえよ。また正義の味方気取りか?」
木寺は、震える声で虚勢を張った。
「正義とか悪とか、そんなレベルの話じゃないわ」
吹寄は、冷徹に告げた。
「アンタは今、クラスメイトの善意を踏みにじって、暴力を振るった。……それも、自分が惨めだからっていう、最低の理由で」
「……善意? あれが善意かよ!」
木寺は叫んだ。
「上から目線の同情だろ! 『かわいそうな木寺くん』って! ……そんなもん、頼んでねえよ!」
「なら、どうすれば満足なの?」
吹寄の問いは、鋭利だった。
「みんなに無視されればいいの? それとも、お前はゴミだって罵られれば安心するの? ……アンタが望んでるのは、対等な関係じゃない。自分が傷つかないための『過保護な揺りかご』でしょ?」
「……ッぐ!」
正鵠だった。木寺は、特別扱いされたくないと言いながら、腫れ物のように扱われることを望んでいた。
自分は繊細で傷つきやすいから、優しくしろ。でも同情はするな。
そんな幼児のようなワガママ。
「アンタね……。もう、自分の無能力を免罪符にするのはやめなさい」
吹寄は、腕を組んだ。
「能力がないから性格が歪んだんじゃない。……アンタのその腐った性根が、アンタを『何もない人間』にしてるのよ」
教室中の空気が、しぃん、と凍てついた。決定的な一言。
人格否定とも取れる言葉だが、今の木寺には、反論の余地すらなかった。
「……上条たちが、アンタを仲間だと思ってたのは本当よ……バカだけど、あいつらは裏表がないわ」
吹寄は、悲しげに上条たちを見た。
「でも、アンタはそれを自ら切り捨てた。……もう、誰もアンタに手は差し伸べないわよ」
吹寄は、木寺に背を向けた。
「掃除当番、代わってあげるわ。……顔も見たくないから、さっさと帰りなさい」
それは、追放宣告だった。この教室に、木寺一桁の居場所はない。管理者である吹寄が、そう断定したのだ。
:
木寺は、這うようにして教室を飛び出した。背中から、突き刺さるような視線を感じながら。
廊下を走る。すれ違う生徒たちが、奇異な目で見てくる。「何あいつ」「泣いてる?」
(泣いてねえよ! 誰が泣くか!)
木寺は歯を食いしばった。悔しい。惨めだ。何も言い返せなかった自分が憎い。正論で殴ってくる吹寄が憎い。ヘラヘラ笑っていた上条たちが憎い。
そして何より、こんな自分に生まれた運命が、あまりに憎い。
外に出ると、また雨が降り出していた。天気予報になかったゲリラ豪雨。木寺は傘を持っていなかった。だが、構わずに雨の中へ飛び出した。
「……うあ、があああああッ!!」
雨音に紛れて、絶叫した。冷たい雨が、熱を持った頬を叩く。全身が濡れ鼠になる。
だが、その冷たさが心地よかった。自分という存在が、雨に溶けて消えてしまいそうな気がしたからだ。
「……消えてえ」
木寺は、公園の滑り台の下に潜り込んだ。全身脱力して、座り込む。
俺は空っぽだ。誰かを愛する資格も、愛される資格もない。
友情も、信頼も、全部俺の手をすり抜けていく。俺が触れると、全てが壊れていく。
「……もう、終わりだな」
木寺は、暗い空を見上げた。誰も俺を見るな。俺も誰も見ない。世界と俺の間に、分厚い壁を作ってやる。その壁の中で、一人で生きて、一人で死ぬんだ。
意地の張り合い。
……ざまあみろ、それで俺の勝ちだ。
:
翌日からの学校生活は、地獄だった。いや、ある意味では天国だったかもしれない。
完全な無視が始まったからだ。
上条たちは、もう話しかけてこなかった。木寺が拒絶したのだから当然だ。
吹寄は、事務的な連絡以外、木寺と目を合わせようともしなかった。クラスメイトたちは、木寺をいないものとして扱った。
休み時間。周りが談笑する中、木寺の席の周りだけ、真空のような静寂がある。誰も近づかない。誰も話しかけない。
木寺は、イヤホンをして、外界の音を遮断した。音楽を流してるわけじゃない、ただのポーズだ。
(……これが正解だ)
彼は自分に言い聞かせた。これが、俺が望んでいた世界だ。傷つかない世界。誰にも迷惑をかけない世界。
だが、その代償として、彼の心は急速に摩耗していった。感情が緩慢になり、喜びも、怒りも、悲しみも、本人が気づかぬうちに、曖昧になっていく。
ただ、灰色の時間が無駄に流れていくだけ。
五月の始まり。
木寺一桁は、世界との接続を遮断した。再接続のパスワードは、辺りには見当たらない。