とある科学の存在証明   作:かさねtyann

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空白少年の消失(4)

 

 外の世界はGWの気配を前にソワついている。

 しかして、勉強が本分の高校生たちにとっては、中間テストの脈動が聞こえる嫌な時期でもある。

 

 そしてここにも。

 放課後の終鈴が鳴ったが、未だ教室に留まり、よどんだ空気を滞留させている男が一人いた。

 

 

「……はぁ。不幸だあ~」

 

 

 上条当麻が、机に突っ伏して全力で脱力していた。その横で、青髪ピアスが下世話な本を読みながら、呆れたように言う。

 

「カミやんまたかいな。もうボクの耳のタコが生命活動し始めるわ。……木寺はんのことやろ?」

 

「……わかってるなら言うなし」

 

 

 上条は顔を上げ、教室の後ろの方に視線を送った。

 そこは、すでに空席だった。

 木寺一桁は、授業終了と同時に、誰とも言葉を交わさず、逃げるように颯爽と帰ってしまったのだ。

 

「あいつ、最近ずっとあんな感じだぞ。……俺と目が合うと逸らすし、話しかけても、忙しいって切られるし」

「しゃーないやん。……あんな喧嘩別れした直後やし?」

 

 青髪ピアスは、珍しくシリアスな顔をした。

 

「男の嫉妬は女よりたちが悪いっちゅうしな。……特に持たざる者のコンプレは根も闇も深い」

「……俺は、あいつを見下したつもりなんてないぞ」

「わかっとる。わかっとるけど……あいつにはそう見えてもうたんや。『同じレベルゼロだと思ってたのに、裏切られたー!』ってな」

 

 上条は拳を握りしめた。

 あの時の木寺の叫びが、まだ耳に残っている。

 

 

 

『俺の惨めさがわかるか』

 

 

 

 その言葉に対し、上条は何も言い返せなかった。

 自分には、異能を打ち消す右手がある。

 不幸を呼び寄せる呪いのアイテムだが、確かに疑いようもない力だ。何も持たない木寺の絶望に、自分は少々、無神経すぎたのではないか?

 

「……にゃー。湿っぽいぜよ、お前ら」

 

 教室のドアから、グラサンアロハの少年──土御門元春が入ってきた。手にはなぜか食パンを持っている。

 

「土御門……お前、木寺とは話したか?」

「挨拶くらいはな。……ま、壁を作られちまってるのは俺も同じだ」

 

 土御門は、空いている椅子を引いて座った。サングラスの奥の瞳は、笑っていない。

 

「あいつ、完全に閉じこもっちまったな。……自分はここにいるべきじゃないってツラしてやがる」

 

 

 

「……いつまでウジウジしてるのよ、アンタたちは」

 

 と。上から声が飛んできた。大量のプリントを小脇に抱えた吹寄制理が、仁王立ちで三人を睨み下ろしていた。

 

「吹寄ちゃあん! 今日も麗しい鉄壁っぷりやなあ!」

「茶化すな青髪。……木寺のこと話してるんでしょ?」

 

 吹寄は、ため息をついて腰に手を当てた。

 

「あいつ、最近掃除もサボりがちよ。適当にやってすぐ帰るし。……クラスの和を乱すにも限度があるわ」

 

「……あいつなりに、居心地が悪いんだろ」上条が庇うように言う。

 

「居心地が悪くしてるのは自分自身じゃない」

 

 吹寄は、木寺の席を睨んだ。

 

「能力がだとか、才能がだとか。……それが何だってのよ。そんなことで卑屈になって、周りを拒絶して。……ただの逃避よ」

 

 吹寄の言葉は手厳しい。

 だが、その厳しさの裏には、彼女なりの苛立ちがあった。

 入学当初、木寺はもっとマシな目をしていたはずだ。

 地味で、目立たないけれど、ここまで「朽ちた感じ」ではなかった。

 今の彼は、まるで自分を自分を否定しているようにさえ見える。

 

「私はね、出来る出来ないなんてどうでもいいの。……気に入らないのは、あいつが、最初から諦めてることよ」

 

 吹寄は、教壇を指差した。

 

「何でもいいわ。自分なりに足掻けばいいだけの話よ。……なのにあいつは、やる前から自分はダメだって決めつけて、勝負の土俵にすら上がろうとしない」

 

「……それは」

 上条が反論しようとするが、言葉に詰まる。

 

「俺は空っぽだ、誰からも相手にされない……そんなオーラを出して、自分を守ってるつもりなんでしょ? 傷つきたくないから、誰とも関わらない。……見ててイライラするわ」

 

 吹寄は、ある意味で理想主義者だ。

 努力を放棄し、自己憐憫に浸る人間が一番苦手なのだ。

 だが、同時に彼女は、クラスの管理者でもある。落ちこぼれを放置しておくことも、彼女の美学に反する。

 

「……というわけで。上条。アンタがきっかけなんだから、何とかしなさいよ」

「無茶言うなよ……話も聞いてくれねえってのに」

「殴り合ってでも目を覚まさせればいいでしょ! アンタの十八番じゃない!」

「暴力反対! 俺は平和主義者だ!」

「どの口が言うか!」

 

 ギャースカとと言い合う上条と吹寄。それをニヨニヨと眺める青髪ピアス。

 いつもの放課後の原風景。だが、そこには一人分の空白が、ぽっかりと隙間を開けている。

 

 

 

「……危うい、かもな」

 

 

 その時だった。土御門が、ぼそりと呟いた。

 

 

「え? 何か言ったか土御門?」上条が振り返る。

「いや。……ただ、木寺のこと、放っておくとマズいかもなーって思っただけぜよ」

「だから、そう言ってるじゃない!」吹寄が怒鳴る。

「違うぜよ、吹寄」

 

 土御門は、少しだけ冷静なトーンになった。

 

「あいつが腐ってるからとか、クラスの和がどうとか、そういう話じゃねぇ。……人間、孤独になりすぎると、ロクなことを考えねえ」

 

 

 土御門は知っている。孤独が人をどう変えるか。

 自分には価値がないと思い込んだ人間が、その空洞を埋めるために、何に手を出してしまうか。

 危険な薬物。怪しげなカルト。あるいは、自暴自棄なテロ行為。

 

 

 木寺一桁という空っぽの器。AIM反応なし……違和感の塊。

 そこに、もし、悪意が注ぎ込まれたら? 

 何か、想像も出来んような「厄介な事」が起こるかもしれない。

 

 

(……少しだけ、様子見が必要だな)

 

 

 土御門は決断した。クラスメイトとしてではなく、裏の人間として。

 木寺が「あちら側()」に落ちないように、あるいは落ちそうになった時に首根っこを掴めるように。

 

「……カミやん」

 

 土御門は、上条の肩を叩いた。

 

「へこたれずに声かけろよ。……あいつを繋ぎ止められるのは、同じ落ちこぼれのお前だけかもしれねぇ」

 

「……ああ。わかってるよ」

 

 上条は頷いた。その目には、決意の色があった。

 拒絶されても、嫌われても、お節介を焼き続ける。それが、上条当麻という男の強さだ。

 

「よし! ほんなら今日のところは解散や! ボクはコンカフェの季節限定イベントに行かねばアカンから!」

「死ね青髪! 部活でも入りなさいよ!」

 

 

 吹寄の回し蹴りが炸裂する。騒がしい放課後。土御門は、笑いながらも、心の中では冷たく思考を巡らせていた。

 

 

 

 

 :

 

 

 

 一方同時刻、木寺はまだ学校の、図書室の奥まった席にいた。周りには本棚が壁のようにそびえ立ち、彼の姿を隠している。

 

 机の上には、小萌先生から借りた心理学の本と、自分で探してきた科学雑誌。

 

「……認知バイアス。……危機状況下の思考展開論」

 

 彼は、文字をただ目で追っていた。

 何かに没頭していないと、思考が惨めさに塗りつぶされてしまいそうだったからである。

 

 

「……上条」

 

 

 ふと、友人の名前を呟く。

 あいつは今頃、みんなと笑っているだろうか。俺の悪口を言っているだろうか。それとも、俺のことなんて忘れて、新しい話題で盛り上がっているだろうか。

 

(……いやまあ、忘れられてる方がマシか……)

 

 木寺は、鼻で笑った。俺は虚無の糞野郎だ。なら、徹底的にゼロになってやる。誰の記憶にも残らず、誰の視界にも入らず、ただ息をして、卒業していくだけの存在。

 

「……、」

 

 彼は、本に視線を戻した。だが、その文字はどこか滲んで、よく読めなかった。

 

 

 

 

 :

 

 

 

 数日後。

 件の大型連休が直前に迫った、四月の末日。

 生活指導室の空気は、いつもと違い不穏だった。

 

 

「……木寺ちゃん。座ってください」

 

 月詠小萌は、パイプ椅子を勧めた。彼女の机の上には、木寺一桁の成績表と、出席簿、そして数枚の「進路調査票(白紙)」が置かれている。

 

「……あ、はい」

 

 木寺一桁は、幽霊のような足取りで椅子に座った。視線は合わせない。床の網目を目で追っている。

 その姿は、以前よりも一回り小さくなったように見えた。背中を丸め、気配を消し、まるでこの空間から消滅したがっているようだ。

 

 

「……最近、元気がないですねー」

 

 

 小萌は、努めて明るい声で切り出した。

 

「授業中も上の空ですし、掃除当番もサボりがちだと聞いています。……何か、悩み事でもありますか?」

 

「……別に。ないです」

 

 木寺は、ぼそっと答えた。

 嘘だ。悩みがない人間が、こんな顔をするはずがない。

 だが、小萌はそれを指摘せず、引き出しから緑茶ボトルを取り出して、木寺の前に置いた。

 

「飲みましょう。すっきりしますよー」

「……どうも」

 

 木寺はボトルに触れたが、開けようとはしなかった。その指先が、微かに彷徨っているのを小萌は見逃さなかった。

 

「先生はね、心配しているのですよ」

 

 小萌は、椅子から降りて、木寺の正面に立った。身長差のせいで見上げる形になるが、その眼は大人の持つそれだった。

 

「クラスメイトと、何かありましたか? 上条ちゃんや、吹寄ちゃんとかと」

 

「……、」

 

 木寺の肩が、ぴくりと動いた。

 

「何も、ありません。……ただ、俺が勝手に最近疲れてるだけです」

「嘘ですねー」

 

 小萌はきっぱりと言った。

 

「先生は見ていましたよ。あの日、貴方が教室を飛び出していったのを。……それ以来、木寺ちゃんは誰とも口を利かなくなりました」

 

 小萌は、木寺の手に、自分の小さな手を重ねた。

 

「木寺ちゃん。……誰からも距離を取るのは、ある意味では楽かもしれません。でも、それではいつか、息が詰まってしまいますよ?」

 

 優しい声。温かい手。

 それは、孤独に耐える生徒にとって、何よりの救いになるはずだった。

 だが、今の木寺一桁にとっては、それは猛毒だった。

 

 

 

(……やめてくれ)

 

 

 

 

 木寺は、心の中で叫んでいた。小萌先生の手が、熱い。その優しさが、苦しい。

 

 先生は、俺を普通に悩める生徒として扱ってくれている。励ませば立ち直る、話を聞けば解決する、そんな普通の人間だと信じてくれている。

 それが苦しい。俺はそんなに上等な人間じゃない。嫉妬に狂って友人に当たり散らし、軽蔑されて逃げ出した、ただのクズだ。

 

「……先生」

 

 木寺は、ゆっくり口を開いた。

 

「俺のことはもう、放っておいてください」

「放っておけません! 担任ですから!」

 

「時間の無駄ですって」

 

 木寺は、小萌の手を振り払った。ぱちり、という乾いた音が、静かな部屋に響いた。

 

「……あっ」

 

 小萌が驚いたように手を引っ込める。木寺自身も、自分の行動に驚いていた。だが、一度溢れ出した自己嫌悪は止まらなかった。

 

「そもそも……先生は、俺に期待しすぎなんですよね」

 

 木寺は、早口でまくし立てた。

 

「俺はレベル0です。才能なんてありません。……それだけじゃない。性格も悪いし、根性もねえし、友達もいない。前に色々言ってくれたけど……そもそも救いようがないんです」

 

「そんなこと……!」

「ありますよ! データを見ればわかるじゃないですか!」

 

 木寺は、机の上の成績表を指差した。

 

「……俺の中には、最初から何もないんです。……ゼロに何を掛けたって、やっぱゼロなんですよ!」

 

 彼は立ち上がった。椅子が倒れる音。

 

「ほんと、優しくしないでください。……こっちが惨めになるだけなんで」

 

「木寺ちゃん……」

 

「先生のその『教師としての義務感』も、俺には重荷なんです。……俺みたいな不良品に時間を使うくらいなら、上条とか、もっと見込みのある奴を見てやってくださいよ」

 

 

 言ってしまった。最低のセリフ。教師の善意を、義務感と切り捨て、踏みにじる言葉。

 

 木寺は、小萌の顔を見ることができなかった。

 きっと、傷ついた顔をしているだろう。悲しそうな顔をしているだろう。

 それを見たら、自分が崩れ落ちてしまいそうだったから。

 

「じゃ……失礼します」

 

 木寺は、逃げるように生活指導室を出た。小萌が何かを言う前に、とっととドアを閉めた。

 

 廊下に出ると、動悸が後から強くなってくる。

 

 何やってんだ、俺。

 心配してくれたのに。お茶までくれたのに。手を払いのけるなんて、本当何様のつもりだ。

 

 

「……はは。……やっぱ俺、カスだなー」

 

 木寺は一人ぼやいた。

 誰かと関わりたい、孤独が怖いと思いながら、いざ関わろうとされると拒絶する。この矛盾。この弱さ。自分が一番、自分を許せない。

 

 

 

 :

 

 

 木寺が廊下を歩き出すと、誰かとぶつかりそうになった。

 

「……っと、危ないわね」

 

 相手は、出席簿を持った吹寄制理だった。

 彼女は、生活指導室から出てきた木寺を見て、そして、部屋の中に一人残された小萌の様子から、何かを察したようだった。

 

「……アンタ」

 

 吹寄の声は、絶対零度だった。

 

 

「今、小萌先生に何したの?」

「……別に。何もしてねえよ?」

 

 木寺は目を逸らして通り過ぎようとした。だが、吹寄が立ちはだかった。

 

「嘘おっしゃい。……先生、泣きそうな顔してるわよ」

「……!」

 

 

 泣きそう。その言葉に、木寺の胸が痛む。やはり、傷つけてしまったのか。

 

 

「……ちょっと話を聞かれただけだ。……で、俺には必要ないって断っただけだ」

「断った? ……あんなに、一生懸命な先生を?」

 

 吹寄は、信じられないものを見る目で木寺を睨んだ。

 

「アンタねぇ……。自分がどれだけ恵まれてるか、わかってんの?」

「はあ? 恵まれてる?」

 

 木寺は思わず笑ってしまった。レベル0の俺が? クラスの最底辺の俺が? 

 

「何がおかしいのよ」

「おかしいだろ。……俺のどこが恵まれてるんだよ。何もないから、こうなってんだろ」

「そこよ」

 

 吹寄は、木寺の胸ぐらを掴……もうとして、寸前で止めた。

 

「自分には何もないって顔して、被害者ぶって……。でもね、アンタのことを本気で心配して、時間を割いてくれる大人がいるのよ。……それを受け入れもせず、八つ当たりして拒絶するなんて……ただの鼻ったれたガキじゃない!」

 

 吹寄の正論。

 それは、いつでも正しい。正しすぎて、逃げ場がない。

 

「先生はね、アンタの反応なしだか何だか知らないけど、そんなデータなんて気にしてないわよ。……ただの教え子として見てくれてるの。それがわからないほど、アンタは腐ってるわけ?」

 

「……うるっせえな」

 

 木寺は、低い声で言った。

 

「四角四面のアンタには、わかんねえって」

「何ですって?」

「期待されることが、どれだけ苦痛か。……頑張ればなんとかなるっていう無責任な応援が、どれだけ人を追い詰めるか」

 

 木寺は、吹寄を睨み返した。その瞳は、暗く濁っていた。

 

「俺は、先生が嫌いなわけじゃない。……ただ、これ以上、俺に関わって徒労に終わるのが申し訳ないだけだ。……俺は、誰の期待にも応えられないからな」

 

「……っ」

 

 吹寄は言葉を詰まらせた。

 木寺の言葉は、言い訳めいていたが、その根底にあるのは深い諦観だった。

 自分は無価値だ。だから、誰も俺に投資するな。それは、ある種の誠実さの裏返しでもあった。歪んでいるけれど。

 

 

「……そう。わかったわ」

 

 

 吹寄は、彼には乗らず突き放した。

 

「なら、勝手にすれば? ……一生、その暗い所に引きこもって、誰とも関わらずに生きていけばいいわ」

 

 彼女は、道を開けた。

 

「でも、これだけは言っておくわ。……アンタがそうやって、自分はダメだって卑下することは、アンタを信じようとした人たち全員を、侮辱してるのと同じよ」

 

 吹寄は、木寺の横を通り過ぎざまに、肩を強くぶつけた。どん、という衝撃。

 

「……最低ね、アンタ」

 

 その言葉を残して、彼女は生活指導室の方へ──小萌先生を慰めるために──歩き去っていった。

 

 

 

 

「…………、」

 

 木寺は、廊下に一人残された。西日が長く伸び、彼の影を曖昧に象っている。

 

「……ああ。最低だよ」

 

 木寺は、自分の影に呟いた。小萌先生を傷つけた。吹寄に軽蔑された。他の連中との関係も狂った。

 

 いっそ清々しいほどに、俺の周りには、誰もいなくなった。

 

 

「……でも、妥当だろ?」

 

 

 木寺は、自分に言い聞かせた。これで、誰も俺に期待しない。誰も俺を見て失望しない。お気楽な透明人間さんの完成だ。

 

 彼は、ふらつく足で出入り口へと向かった。

 靴を履き替える。周りの生徒たちが、楽しそうに連休の予定を話している。

 その会話の全てが、遠い異国の謎言語のように聞こえる。

 

 さっさと家に帰って、布団かぶって寝よう。

 

 そうすれば、この惨めな空間から、少しの間だけ逃げ切れる。

 

 

 

 :

 

 

 生活指導室。吹寄が入ってくると、小萌は窓の外を見ていた。泣いてはいなかった。だが、その背中は小さく萎んでいた。

 

「……先生」

「あら、吹寄ちゃん。どうしたんですかー?」

 

 小萌は振り返り、いつもの笑顔を作ろうとしたが、上手くいかなかった。

 

「……あいつのことなら、気にしなくていいですよ。ただのバカですから」

「ふふ……厳しいですね、吹寄ちゃんはー」

 

 小萌は、自分の手を見た。払いのけられた手。

 

「……私の力が、足りませんでしたね」

 

 小萌は、自戒を込めて言った。

 

「彼は今、溺れているんです……無力感という思い込みに。私が投げた浮き輪は、まだまだ彼に届かなかったですね」

「あいつが勝手に手を離しただけです」

「いいえ。……浮き輪の投げ方が、間違っていたのかもしれません」

 

 小萌は、窓の外──校門を出ていく木寺の背中を見つめた。

 

「彼は言いました。ゼロに何を掛けてもゼロだと。……それは、数式的には正しいかもしれません」

 

 小萌の目が、教育者としての鋭さを帯びる。

 

「でも、教育は計算式じゃありません。……最初はゼロでも、足し算はできる。引き算もできる……彼が自分はゼロじゃないと思える何かを、見つけてあげなければ」

「……先生、まだあいつを見捨てないんですか?」

 

 吹寄が呆れたように聞くと、小萌ははっきりと答えた。

 

「当たり前です! 生徒を見捨てる教師なんて、教師失格なのですよー!」

 

 小萌は、握りこぶしを作った。

 

「長期戦です。……彼がどれだけ拒絶しようと、私は諦めません。いつか彼が、自分から助けを求めてくるその日まで……蜘蛛の糸を垂らし続けます」

「……お人好しですね」

「それが私の『自分だけの現実(パーソナルリアリティ)』ですからっ!」

 

 吹寄は、かぶりを振った。こんな先生だから、生徒たちはついていくのだ。

 あの大バカ野郎も、いつかそれに気づく時が来るのだろうか。

 

「……ま、私も学級委員として、あいつの腐り具合だけはチェックしておきますよ。これ以上、クラスの空気を悪くされたら迷惑ですから」

「ふふ。頼りにしていますよ、鉄壁の女!」

 

 

 

 

 

 学校からの帰り道。木寺一桁は、コンビニでサバ缶を買った。レジの店員の「ありざとやしたー」という声すら、今の彼には皮肉げに聞こえた。

 

 

 連休。そして五月が始まる。

 五月は、新しい環境に適応できず、心を病みやすい季節というが……

 

 

「だっりい……」

 

 そうして彼は学生寮のエレベーターに乗り込む。

 ふと目を閉じると、瞼の裏に、小萌先生の悲しげな顔と、吹寄の怒った顔が焼き付いて離れない。

 

 

 

 

 

 :

 

 

 

 

 

 そして連休明け。空は、さっそく鉛色の雲が垂れ込めていた。

 湿度は限界値を超え、不快な空気が教室にも充満している。

 エアコンの除湿機能も追いつかないほどの、不快指数の高い手狭な空間。

 

 

 

「……チャイムが鳴ったら席に着く。何度、言わせるのよ」

 

 

 吹寄は、教卓の上で出席簿を叩きつけた。その鋭い音に、のんべんだらりと喋っていた男子生徒たちが、渋々といった体で席に戻る。

 

「ったく、吹寄ちゃんは今日もキレッキレやなー」

「うるさい青髪。……湿気で髪が爆発しそうなのよ、察しなさい」

 

 吹寄は前髪を抑えながら、教室全体を見渡した。彼女の目は、クラスの健康状態をチェックする高機能レーダーだ。

 サボりはいないか。体調不良者はいないか。そして──異物はいないか。

 

 彼女のレーダーが、教室の窓がわ、後ろの席で止まった。そこに、木寺一桁がいる。

 

 

(……また、あの顔)

 

 

 吹寄の眉間に、深い皺が刻まれた。

 彼は、席に座っている。だが、その姿勢は崩れきっていた。

 猫背になり、机に突っ伏すようにして、視線は虚空を彷徨っている。

 教科書も開いていない。筆記用具も出していない。ただ、時間を殺すためだけにそこにいる物体。

 

 

(……腐ってる)

 

 

 吹寄は、直感的にそう感じた。

 比喩ではない。彼の周りだけ、空気が淀んでいるのだ。

 循環しない水が腐るように、思考も、感情も、行動も止めてしまった人間が発する、独特の腐臭。

 

「……木寺。教科書、出しなさい」

 

 吹寄は、教卓から情けをもって声を飛ばした。

 木寺は、緩慢な動作で顔を上げた。その瞳は、淀んでいた。反抗的な色すらない。ただ、「ああ、うるさいのが何か言ってるな」という、諦めきった無関心。

 

「……忘れた」

 

 ぽつ、と、聞こえるか聞こえないかの声で答える。

 

「……隣に見せてもらいなさい」

「……いい。寝るから」

 

 木寺は、再び机に突っ伏した。その態度は、クラスメイトへの甘えであり、教師への冒涜であり、そして何より自分自身への侮辱だった。

 

「……ッ」

 

 吹寄の中で、何かが音を立てて切れた。怒りではない。純粋な軽蔑だ。

 

(……救いようがないわね)

 

 彼女は、出席簿にチェックを入れた。出席の欄だが、心の中では廃棄の欄に印をつけた気分だった。こいつはもう、クラスの一員じゃない。ただの燃えないゴミになりつつある。

 

 

 

 

 :

 

 

 

 昼休み。生徒たちが机を寄せて、弁当や購買パンを広げ始める。笑い声。食べ物の匂い。活気ある昼食の時間だ。

 

 だが、木寺一桁だけは、その輪に一切加わろうとしなかった。彼は、コンビニの袋を提げて、無言で教室を出て行く。

 

「……あ、木寺」

 

 上条当麻が声をかける。

 一緒に食おうぜ、と言いかけて、木寺の背中が拒絶しているのを感じて、言葉を飲み込む。

 

 吹寄は、その光景を冷ややかに見ていた。

 彼女は知っている。木寺がどこへ行くのか。

 屋上の給水塔の裏か、旧校舎の階段下だ。

 あえて、人目につかない場所を選び、そこで一人、惨めにパンを齧る。

 

 

(……気持ち悪い)

 

 

 吹寄は、箸を止めた。食欲が失せた。

 

(俺はこんなに孤独です、誰も構ってくれません……そうやって全身でアピールして、一体何がしたいわけ?)

 

 彼女には、木寺の行動が、計算された演出に見えて仕方がなかった。

 本当に一人になりたいなら、もっと幾らでも立ち回りようはあるはずだ。

 なのに彼は、あえて「みんなが楽しそうにしている場所」の近くを通って、悲劇の主人公のように去っていく。

 

 それは、周囲に対する当てつけだ。

 俺がこうなったのはお前らのせいだと、俺を無視して楽しんでいるお前らは冷たい人間だ、と。

 そんな無言の非難を、背中で語っている。

 

「……卑怯者のやり方よ」

 

 吹寄は呟いた。弱さを武器にする人間。同情を引くために、自分を傷つけて見せる人間。彼女が最も生理的に受け付けないタイプだ。

 

「……吹寄ちゃん? どないしたん? 怖い顔して」青髪ピアスが恐る恐る聞く。

「……なんでもないわよ。ちょっと、ハエが飛んでただけ」

 

 彼女は、木寺が出て行ったドアを睨みつけた。ハエ。そうだ、あいつはハエだ。自分では何も生み出さず、他人の感情の周りを飛び回って、不快感を撒き散らす害虫。

 

 

「……関わらないのが一番ね」

 

 彼女は結論づけた。駆除する価値すらない。勝手に飛んで、勝手に落ちてくれればいい。

 

 

 

 

 :

 

 

 

 

 放課後。吹寄は、職員室へ日直日誌を届けに行った。

 そこで、彼女は見てしまった。

 担任の月詠小萌が、デスクの前で動揺し、慌てふためいている姿を。

 

「あ、あわわ……! どうしましょう、どうしましょう……!」

 

 小萌先生は、書類の山を崩し、床に散らばったプリントを拾い集めていた。その目は赤く、今にも泣き出しそうだ。

 

「先生? 何やってるんですか」吹寄が駆け寄って、プリントを拾うのを手伝う。

 

「あ、吹寄ちゃん……。ごめんなさい、ちょっと手元が狂って……」

「落ち着いてください。……何かあったんですか?」

 

 小萌先生は、拾ったプリントの一枚を、胸に抱きしめた。

 それは、進路調査票だった。

 名前の欄には『木寺一桁』。希望進路の欄は、白紙。そして、備考欄には、乱暴な字でこう書かれていた。

 

 

 

 

 

 

『どうでもいい』

 

 

 

 

 

 

「……これ」

 

 吹寄が絶句する。

 

「……木寺ちゃんが、出したんです」小萌先生は、悲痛な声で言った。

 

「私が『ちゃんと書いてください』って言ったら……彼は、『書くことなんてない』って。……先生の仕事のために、適当に埋めといてくださいって……」

 

 先生の小さな手が、握り締められている。

 彼女は、生徒のことを本気で考えている。

 だからこそ、この投げやりな言葉が、奴の態度が、あっさり彼女の心を傷つけたのだ。

 

「……私は、駄目な教師ですね……。彼の心に、なかなか言葉が届きません……」

 

 小萌先生が、うつむいて肩をふるわせる。その小さな背中を見た瞬間。吹寄の中で、決定的な「断絶」の音がした。

 

 

(……許せ、ない)

 

 

 自分を傷つけるのは勝手だ。人生を捨てるのも勝手だ。でも。一生懸命な人間を、自分の甘えで傷つけることだけは、絶対に許せない。

 

 あいつは、先生の優しさを利用している。

 

 自分はこんなに荒んでるんだぞ、と見せつけることで、先生を困らせ、自分に注目させようとしている。

 幼児返りだ。母親の気を引くために、わざとコップをひっくり返す子供と同じだ。

 

 

「……先生。泣かないでください」

 

 

 吹寄は、冷徹な声で言った。

 

「そんな紙切れ、ゴミ箱に捨てればいいんです」

「え……?」

 

「あいつは、先生が泣くのを見て、安心したいだけなんです。自分のために泣いてくれる人がいるって、自尊心を満たしたいだけなんです」

 

 

 吹寄は、木寺の調査票をひったくった。

 

 

「こんなの、進路希望じゃありません。……ただの紙屑です」

「ふ、吹寄ちゃん……言い過ぎですよ……」

「いいえ……先生は優しすぎます」

 

 吹寄は、調査票をデスクに叩きつけた。

 

「あいつのことは、もう放っておきましょう。……構えば構うほど、あいつは図に乗って、先生を傷つけます」

「でも……生徒を見捨てるなんて……」

「見捨てるんじゃありません。指導です」

 

 吹寄は、きっぱりと言った。

 

「腐ったミカンを箱に入れておけば、他のミカンまで腐ります。……あいつは今、クラスの毒になってるんです」

 

 彼女は、先生の背中をさすった。

 

「先生は、前を向いている生徒のために時間を使ってください。……あいつが自分で腐るのをやめるまで、私たちは手を出してはいけません」

 

 それは、管理者としての冷酷な判断だった。

 リソースの配分。

 救える見込みのある者に力を注ぎ、救いを拒絶する者は切り捨てる。そうしなければ、共倒れになる。

 

「……っ……、少し、頭を冷やしますね…………」

 

 小萌先生は、涙を拭いて、力なく微笑んだ。

 その笑顔の痛々しさが、吹寄の木寺への憎悪を、より一層深めた。

 

 

 

 

 :

 

 

 

 職員室を出た吹寄は、玄関口へと向かった。外は雨が降り出していた。激しい雨だ。

 

 下駄箱の前。そこに、木寺一桁がいた。彼は、傘を持っていないようだった。雨宿りをしているわけでもなく、ただ呆然と、雨のカーテンを見つめていた。

 

(……また、やってるわ)

 

 悲劇のヒロイン、主人公気取り。傘もない俺、可哀想とでも言いたげな背中。

 

 吹寄は、彼に近づいた。足音に気づいて、木寺が振り返る。

 

「……あ、吹寄」

 

 彼は、少しだけ期待したような目をした。傘に入れてもらえるかもしれない。あるいは、声をかけてもらえるかもしれない。そんな、浅ましい下心が見え透いていた。

 

 吹寄は、彼の手前で足を止めた。そして、彼を一瞥し──

 

 

 ふん、と。

 

 

 鼻で笑った。言葉はない。ただ、アンタなんて視界に入れる価値もないという、極低温の侮蔑を込めて、目を逸らした。

 

 

「……ッ」

 

 

 木寺の顔が歪んだのがわかった。傷ついた顔。ショックを受けた顔。

 

(……そうよ。傷つけばいいわ)

 

 吹寄は、傘を開いた。

 

(アンタが小萌先生にしたこと。クラスのみんなにしたこと。……その報いよ)

 

 彼女は、木寺を残して雨の中へと歩き出した。一度も振り返らなかった。背後で、木寺が何かを呟いた気がしたが、雨音がすべてをかき消した。

 

 

「……せいぜい、雨に打たれて頭を冷やしなさい」

 

 

 吹寄は、独りごちた。これはイジメではない。教育だ。

「誰も助けてくれない」という現実を突きつけることでしか、あいつは自分の足で立てない。甘ったれた根性を叩き直すには、これくらいの荒療治が必要だ。

 

 だが、彼女の手には力が入っていた。傘の柄を握る指が、白くなっていた。

 

 

 本当は、わかっていた。

 自分がしていることが、ただの八つ当たりに近いことを。

 木寺の弱さが、自分の「理想」とあまりにもかけ離れているから、許せないのだ。

 彼を見ていると、自分の中にある弱さまで刺激されるようで、怖いのだ。

 

 

「……大っ嫌いよ、あんな奴」

 

 

 吹寄は、雨の中を早足で歩いた。鉄壁の女は、自分の心にも壁を作った。木寺一桁という異物を遮断し、完璧な日常を守るための壁を。

 

 

 

 

 :

 

 

 

 翌日。木寺一桁は、風邪で学校を休んだ。クラスの誰も、そのことを話題にはしなかった。

「あいつなら仕方ない」「またサボりか」そんな空気が流れる中、吹寄は、木寺の空席を睨みつけていた。

 

(……案の定ね)

 

 雨に濡れて風邪を引く。それすらも、彼にとっては学校に行かなくて済む理由になったのだろう。自己管理すらできない。どこまでも、底の浅い男。

 

「……上条。日直の日誌、書いといて」

「えっ、俺!? 木寺の番じゃ……」

「いない奴のことなんて知るわけないでしょ。飛ばすわよ」

 

 吹寄は、事務的に処理した。木寺一桁という存在を、クラスのシステムから一時抹消したのだ。

 

 これが、彼女なりの絶縁宣言だった。アンタが戻ってくるまで、私はアンタをクラスメイトとは認めない。這いつくばってでも、自分の足で戻ってきなさい。

 彼女の背中はそう語っていた。

 

 

 

 :

 

 

 

 

 それから二日後。

 

 

 木寺一桁は、教科書を立ててバリケードを作り、寝ているふりをしていた。誰とも目を合わさず、誰とも話さず、彼なりの鉄壁を作り上げる。

 

「よぉ、木寺! 生きてたかー?」

 

 しかし。

 バリケードの上から、能天気な声が降ってきた。上条当麻だ。彼は汗まみれの顔で(補習で走らされたらしい)、はっはと笑っている。

 

「……うるさいな。生きてるよ」

「つれないなぁ。ほら、これ昨日買ったコンビニガム。……と言いたいとこだけど、来る途中でカラスに奪われたから、包み紙だけな」

「いらねえって」

 

 上条の横から、土御門元春と青髪ピアスも顔を出す。

 

「木寺はん、そういや連休は何しとったん? ワイは特殊シチュコンカフェ巡りでサイフがすっからかんや」

「俺は義妹と愛の逃避行だぜよ。……ま、実際は舞夏は休みもほとんどなくて、俺一人で自室にこもってたけどな」

 

 彼らは、四月の「あの事件(上条への嫉妬)」を、なかったことにして接してきている。

 水に流そうぜという、彼らなりの配慮だ。仲間外れを作らない、デルタフォースの不文律。

 

 だが、今の木寺には、その配慮こそが屈辱だった。

 

 

(……なんだよ、その余裕は……)

 

 

 木寺は、筆箱を強く引っ搔いた。俺は酷いことを言った。上条の机を蹴り上げた。なのに、なんでヘラヘラ笑ってられるんだ? 

「お前の癇癪なんて、痛くも痒くもない」ってことか? 

 俺の存在なんて、怒る価値もないほど軽いってことか? 

 

 

「……どっか行けよ」

 

 

 木寺は、小さな声で言った。

 

「え?」

「俺に関わるなって言っただろ。……お前らと馴れ合うつもりはねえんだよ」

 

 

 周囲の空気が、ぎ、と固まった。上条の笑顔もまた、引きつる。

 

「おいおい木寺、まだ根に持ってんのか? もういいだろ、あんなこと」

「よくねえよ! いい加減にしやがれ!!」

 

 木寺は立ち上がった。椅子が倒れる音が、騒がしい教室を一瞬で静まり返らせた。

 

 

 

「お前らはいいよなー!」

 

 

 

 木寺は叫んだ。視線が集まる。またか、という冷ややかな視線。でも、止まらなかった。

 

「俺たち同じレベル0ですーってツラして、根本から全然違うじゃねえか!」

 

 木寺は、青髪ピアスを指さした。

 

「お前は、そのふざけたキャラで人気者だ! クラスのムードメーカーで、誰とでも話せる!」

 

 次は、土御門。

 

「お前だってそうだ! なんか怪しいけど、余裕があって、頭も実は良くて……俺とは住む世界が違う!」

 

 そして、上条当麻。

 

「テメェは……言わなくてもわかるだろ! 不幸だ不幸だって言いながら、いつも話題の中心にいて、いざとなったらその右手で何とかしちまう!」

 

 木寺の呼吸が荒くなる。肺が熱い。言葉が、沼のように溢れ出してくる。

 

「それで俺はなんだ!? 俺には何がある!? キャラもない! 頭も悪い! 特別な力もない! ……能力測定も無反応なんだぞ!? 最初からどうしようもねえんだよ!」

 

 彼は、自分の裾を握りしめる。

 

「俺とお前らが仲間だなんて、思い上がりも甚だしいんだよ! ……俺はお前らの引き立て役じゃない! あいつよりはマシだって安心するための材料にするな!」

 

 

「……、木寺」

 

 

 上条が、哀しげに目を向けた。怒りではない。憐れみだ。それが、木寺のプライドを粉々に砕いた。

 

「そんな目で見るなァッ!!」

 

 木寺は、上条を突き飛ばした。上条は抵抗せず、よろめいて後ろの机にぶつかった。がったん、と机が倒れる。

 

「……最低だ」

 

 誰かが呟いた。

 クラスメイトたちの視線。軽蔑。呆れ。嫌悪。

 またあいつか、被害妄想もいい加減にしろよ。そんな心の声が、痛いほど聞こえてくる。

 

 その時。教室のドアが開き、尖った氷柱のような声が轟いた。

 

 

 

 

「……いい加減にしなさいッ!!」

 

 

 

 

 吹寄制理が入ってきた。

 彼女は、倒れた机と、突き飛ばされた上条、そして肩で息をする木寺を交互に見て、状況を一瞬で理解した。

 彼女の顔から、表情が消えた。

 それは、怒りを通り越して「見限った」人間の顔だった。

 

 

「……上条、大丈夫?」

「あ、ああ。俺は平気だけど……」

 

 

 吹寄は上条を通り過ぎて、木寺の前に立った。その身長差を埋めるほどの、圧倒的な威圧感。

 

「木寺……アンタ、自分が何をしたかわかってる?」

「……うるせえよ。また正義の味方気取りか?」

 

 木寺は、震える声で虚勢を張った。

 

「正義とか悪とか、そんなレベルの話じゃないわ」

 

 吹寄は、冷徹に告げた。

 

「アンタは今、クラスメイトの善意を踏みにじって、暴力を振るった。……それも、自分が惨めだからっていう、最低の理由で」

「……善意? あれが善意かよ!」

 

 木寺は叫んだ。

 

「上から目線の同情だろ! 『かわいそうな木寺くん』って! ……そんなもん、頼んでねえよ!」

「なら、どうすれば満足なの?」

 

 吹寄の問いは、鋭利だった。

 

「みんなに無視されればいいの? それとも、お前はゴミだって罵られれば安心するの? ……アンタが望んでるのは、対等な関係じゃない。自分が傷つかないための『過保護な揺りかご』でしょ?」

「……ッぐ!」

 

 正鵠だった。木寺は、特別扱いされたくないと言いながら、腫れ物のように扱われることを望んでいた。

 自分は繊細で傷つきやすいから、優しくしろ。でも同情はするな。

 そんな幼児のようなワガママ。

 

「アンタね……。もう、自分の無能力を免罪符にするのはやめなさい」

 

 吹寄は、腕を組んだ。

 

「能力がないから性格が歪んだんじゃない。……アンタのその腐った性根が、アンタを『何もない人間』にしてるのよ」

 

 

 教室中の空気が、しぃん、と凍てついた。決定的な一言。

 人格否定とも取れる言葉だが、今の木寺には、反論の余地すらなかった。

 

「……上条たちが、アンタを仲間だと思ってたのは本当よ……バカだけど、あいつらは裏表がないわ」

 

 吹寄は、悲しげに上条たちを見た。

 

「でも、アンタはそれを自ら切り捨てた。……もう、誰もアンタに手は差し伸べないわよ」

 

 吹寄は、木寺に背を向けた。

 

「掃除当番、代わってあげるわ。……顔も見たくないから、さっさと帰りなさい」

 

 それは、追放宣告だった。この教室に、木寺一桁の居場所はない。管理者である吹寄が、そう断定したのだ。

 

 

 

 :

 

 

 

 

 木寺は、這うようにして教室を飛び出した。背中から、突き刺さるような視線を感じながら。

 

 廊下を走る。すれ違う生徒たちが、奇異な目で見てくる。「何あいつ」「泣いてる?」

 

 

(泣いてねえよ! 誰が泣くか!)

 

 

 木寺は歯を食いしばった。悔しい。惨めだ。何も言い返せなかった自分が憎い。正論で殴ってくる吹寄が憎い。ヘラヘラ笑っていた上条たちが憎い。

 

 そして何より、こんな自分に生まれた運命が、あまりに憎い。

 

 外に出ると、また雨が降り出していた。天気予報になかったゲリラ豪雨。木寺は傘を持っていなかった。だが、構わずに雨の中へ飛び出した。

 

 

「……うあ、があああああッ!!」

 

 

 雨音に紛れて、絶叫した。冷たい雨が、熱を持った頬を叩く。全身が濡れ鼠になる。

 だが、その冷たさが心地よかった。自分という存在が、雨に溶けて消えてしまいそうな気がしたからだ。

 

 

「……消えてえ」

 

 木寺は、公園の滑り台の下に潜り込んだ。全身脱力して、座り込む。

 

 

 俺は空っぽだ。誰かを愛する資格も、愛される資格もない。

 

 友情も、信頼も、全部俺の手をすり抜けていく。俺が触れると、全てが壊れていく。

 

「……もう、終わりだな」

 

 木寺は、暗い空を見上げた。誰も俺を見るな。俺も誰も見ない。世界と俺の間に、分厚い壁を作ってやる。その壁の中で、一人で生きて、一人で死ぬんだ。

 意地の張り合い。

 ……ざまあみろ、それで俺の勝ちだ。

 

 

 

 :

 

 

 翌日からの学校生活は、地獄だった。いや、ある意味では天国だったかもしれない。

 完全な無視が始まったからだ。

 

 上条たちは、もう話しかけてこなかった。木寺が拒絶したのだから当然だ。

 吹寄は、事務的な連絡以外、木寺と目を合わせようともしなかった。クラスメイトたちは、木寺をいないものとして扱った。

 

 休み時間。周りが談笑する中、木寺の席の周りだけ、真空のような静寂がある。誰も近づかない。誰も話しかけない。

 

 木寺は、イヤホンをして、外界の音を遮断した。音楽を流してるわけじゃない、ただのポーズだ。

 

(……これが正解だ)

 

 彼は自分に言い聞かせた。これが、俺が望んでいた世界だ。傷つかない世界。誰にも迷惑をかけない世界。

 

 だが、その代償として、彼の心は急速に摩耗していった。感情が緩慢になり、喜びも、怒りも、悲しみも、本人が気づかぬうちに、曖昧になっていく。

 

 ただ、灰色の時間が無駄に流れていくだけ。

 

 

 

 五月の始まり。

 木寺一桁は、世界との接続を遮断した。再接続のパスワードは、辺りには見当たらない。

 

 

 

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