校舎裏。人気のないこの花壇周辺だけは、南極のような冷気が漂っていた。
「……で? だからそんなしかめっ面してるわけ?」
ベンチに座り、脚を組んでプロテインジュースを啜っているのは、クラスの統率者、吹寄制理だ。
彼女の足元には、正座させられた三人の男子生徒──上条、土御門、青髪ピアスが信号のように並んでいる。
「いや、吹寄様ぁ……。飯くらい普通に食わせてーな……」
「黙りなさい青髪。アンタたちが食堂で陰気臭い電波を出してるから、他の生徒が迷惑してた。だからここへ連行したの」
吹寄は冷たく言い放つと、視線を中央の上条へと向けた。
「上条。特にアンタ、昨日のこと気にしてるんでしょう」
「……うぐ」
上条が言葉を詰まらせる。
昨日の教室。木寺一桁が起こした騒動。
お前らには力がある、だけど俺には最初から何もないという絶叫。そして、彼が教室を飛び出していった後ろ姿。
「……だってあいつ、あんな……」
上条は、膝の上にある三色パンを見つめたまま言った。
「やっぱ、俺が悪かったんじゃ……あいつがキツいの知ってんのに、『俺たちゃ同じレベルゼロだろ』つって、無神経に絡み続けて……」
「はーぁ……」
吹寄は、わざとらしいほど深く吐息をついた。それは脱力であり、同時に、続く言葉への助走だった。
「貴様って、本当にバカよね。……いえ、お人好しが過ぎてもはや病気レベルよ」
「な、なんだと!?」
「いい? はっきり言っておくわ」
吹寄は、ジュースを一気に飲み干した。その声音には、蔑視の色が明確に宿っていた。
「木寺一桁。……あの男は、最低のクズよ」
一瞬場が鎮まる。
「ちょ、吹寄! そこまで言うことねえだろ!」
上条が反論しようと立ち上がりかけるが、吹寄の刺す様な眼光に貫かれ腰を浮かせたまま固まった。
「言うわよ。事実だもの」
吹寄は、淡々と、しかし熱のこもった口調で語り始めた。
「結局あいつがやったことって何? ……自分の能力がないことを嘆いて、それを友達に八つ当たりして、暴れて、逃げ出した。……それで全部よ」
「それは……そうだけど。でもあいつにはあいつの苦しみが……」
「苦しみ?」
吹寄は鼻で笑った。
「この学園都市に、能力のことで悩んでない生徒なんていると思う? ……レベル0のアンタたちはもちろん、レベル3や4の連中だって、いつ伸び止まるか、人格を無視して実験動物扱いされないか、みんな必死で生きてるのよ」
彼女は、校舎の方に視線をやった。
「木寺だけが特別に不幸なわけじゃない。……なのにあいつは、『自分だけが一番惨めだー』って顔をして、周りの配慮を当然のように踏みにじった」
吹寄の手の中で、空になったジュースがくしゃりと潰れた。
「私が一番許せないのはね……あいつが、弱者であることを武器にして、他人を傷つけ回ったことよ」
「武器……?」
「そうよ。俺は可哀想なんだから、何を言っても許される。お前らは恵まれてるんだから、俺の暴言を受け入れろ。……昨日のあいつの態度は、そう言ってるのと同じだったわ」
吹寄の指摘は、事実として的確だ。
木寺は無意識のうちに、自分の無価値という立場を利用して、上条に罪悪感を植え付けようとした。
「お前は俺よりマシだろ」という言葉で、上条の反論を封じたのだ。
「それは……小ズルい人間のやり方よ」
吹寄は吐き捨てた。
「努力もしない。戦いもしない。ただ安全な場所から自分は被害者だって叫んで、周りを不快にする。……根っこから終わってるのよ。箱に入ってれば、周りまで腐敗させるわ」
「……言い過ぎだぜよ、吹寄」
今まで黙っていた土御門が、膝が痛いのか座り直しながら口を挟んだ。
「あいつは確かに弱いが……そこまで計算してやったわけじゃねえ。ただ、余裕がなかっただけだ」
「余裕がなかったら、人に当たっていいわけ?」
吹寄は即答した。
「甘やかさないで、土御門。……貴方たちがそうやって『あいつは弱いから』って庇うから、あの男はいつまでも、守られるべき弱者の座に居座るのよ」
彼女は、上条を見た。
「上条。貴様が罪悪感を持つ必要なんてひと欠片もないわ。……貴様はあいつを友達だと思って接した。あいつが勝手に劣等感だかを爆発させて、勝手に傷ついただけ。……自業自得で自縄自縛よ」
「でもやで、吹寄ちゃん」
青髪ピアスが、おずおずと手を挙げた。
「木寺はん、根はホンマええ奴やねん。……前はノートも見せてくれたりしたし」
「……それが何?」
吹寄の表情は変わらない。
「普段おとなしいからって、土壇場で本性が露呈しただけじゃない。人間は、困難な状況でこそ本質が見える……あいつの中身は、どろついた嫉妬と、自己憐憫でいっぱいでしたって事」
吹寄は、腕をさすった。まるで、自分の中の暗い部分を全て吐き出すように。どこか、意固地な様子で。
「私……生理的に無理なのよ。ああいうジメッとした人間」
「ジメッとした……」
「そう。カラッとしてないの。……上条みたいに『不幸だー!』って叫んで走り回るならまだ可愛げがあるわ。でもあいつは、無言で、陰湿に、周りの空気を重くする」
吹寄の脳裏に、木寺の目が浮かぶ。いつも自信なさげで、仄暗い瞳。
こちらの様子を伺うような、怯えたような、それでいてどこか、察してくれ……と訴えるような目。
「俺を見てくれ、誰か助けてくれ……口では放っておいてくれって言いながら、全身でそう叫んでる。……気持ち悪いのよ」
彼女は、明確な拒絶を示した。
「嫌い」ではない。「気持ち悪い」。
それは、生物としての本能的な忌避感に近い。
生命力に溢れ、前向きに生きようとする吹寄にとって、木寺のような、マイナスに向かう雰囲気を発する人間は、存在自体が目を背けたくなるのだ。
「……もう、結論は出たでしょう」
吹寄は、裁定を下した。
「あいつは、自分の内的世界にいる事を選んだのよ。……なら、望み通りにしてあげなさい。引きずり出そうとすれば、また噛みつかれるだけよ」
「……見捨てろってことか?」上条が反抗的な声で問う。
「見捨てるんじゃないわ……『整理』よ」
吹寄は立ち上がった。
「クラス運営には守る規則がある。ついてこれない人間、和を乱す人間は、輪から外れてもらう。……あいつは、自分で外れることを選んだ。それだけのことよ」
彼女は、スカートの埃を払った。
「さ、昼休み終わるわよ。……いつまでも苦虫噛んだ顔してないで、しゃきっとしなさい!」
吹寄は、三人を残して校舎へと歩き出した。その真っ直ぐな背中は、揺るぎない信念と、貫かれた正しさで満ちていた。
:
残された三人組は、しばらく動けなかった。足が痺れてきたが、次の行動を移しかねていた。
「……キッツイなあ、吹寄ちゃんは」青髪ピアスが、冷めた焼うどんパンを齧った。
「でも、正論だぜよ」土御門が呟く。
「あいつの言う通りだ。……木寺は、自分で自分を否定してる。俺たちが手を出せば出すほど、あいつは惨めになるだけかもしれねえ」
「……、だとしても」
上条は、握り拳を膝に叩きつけた。
「クズとか、気持ち悪いとか……あいつにだって、言い分はあるはずだろ」
上条は悔しかった。
吹寄の言葉に、何も言い返せなかった自分が。
そして、心のどこかで、吹寄の言う通りだ……と納得してしまっている自分が。
確かに、昨日の木寺は醜かった。嫉妬に狂い、友人を傷つけた。
でも、その醜さは、彼が、普通の人間である証拠ではないのか?
能力がないという絶望に、必死に抗おうとして、それで歪んでしまった結果ではないのか?
「……俺は、嫌いになれねえよ」
上条は言った。
「あいつがクズだとしても……俺は、あいつの弱さを知ってる。……誰よりも弱くて、情けなくて、だからこそ……放っておけねえんだよ」
「カミやん……」
「ま、それがお前の『不治の病』だぜよ」土御門は、少しだけ口元を綻ばせた。
「だが、吹寄の忠告も無視はできねえ。……しばらくは、遠巻きにしとくしかねえだろうな」
今は、何を言っても木寺には届かない。彼が自分の足で立ち上がり、自分自身の醜さと向き合うまでは。
「……行くか」
三人は立ち上がった。校舎に戻る足取りは重い。教室。そこには、木寺一桁という空席が待っている。
物理的にはそこにいても、精神的には不在の座席だ。
:
午後の授業。木寺一桁の席は、本当に空席になっていた。彼は結局、午後から登校してくることはなかった。
吹寄は、自席から、チラリと後ろを振り返った。
空っぽの机。それを見て、彼女は小さく鼻を鳴らした。
(……ほら、ね)
想定通りだ。あいつは、嫌なことがあるとすぐに逃げる。立ち向かわない。解決しようとしない。
そんな奴が、この学園都市で真っ当に立てるわけがない。
(精々、自分の部屋で膝を抱えてなさい。……アンタが自分を変えたいと思って戻ってくるまで、私は認めないから)
彼女は黒板に向き直った。厳しい。本当に愚直だ。
だが、それが彼女なりの教育であり、クラスメイトへの愛情の裏返しでもあった。
腐ったままの彼を受け入れることは、彼のためにならないと信じているからこそ、彼女は徹底的に彼を否定している。
:
五月二週目の休み時間。教室で野球を始める馬鹿や、好き勝手に趣味の話をする連中で、教室は飽和している。
木寺一桁は、耳にイヤホンを押し込み、外界から隔絶されていた。
ただの耳栓代わりだ。視線は机の心理学の本に落とされているが、頭には入っていない。
彼はただ、時間が過ぎるのを待っていた。自身のポジションが定着するのを待っていた。
だが、その日の平穏は、唐突に破られた。
「……え、嘘!? これってまさか……」
教室の中央で、数人の女子生徒がファッション雑誌を囲んで盛り上がっていた。その中の一人、笹村という女子が、驚きの声を上げて木寺の方を振り返ったのだ。
「ねえねえ、ちょっと! これ見てよ!」
「何ー? 常盤台の特集?」
「違うの! ここの、『次期エース候補』ってページ!」
笹村の声は大きかった。意図的か、無意識か。その声は、イヤホン越しの木寺の耳にも届いた。
「……『
「……ッ!」
木寺の肩口が、ぴくん、と動いた。その名前に、彼が反応しないわけがなかった。
「この子、私の弟と同じ小学校だったのよ! すっごい有名人でさ、可愛くて頭良くて……」
笹村は、雑誌を指さしながら、爆弾を投下した。
「でね、思い出したんだけど……この子、
「え、お兄ちゃん?」
「うん。……同じ苗字だし、目元とか? もなんとなく似てるし……」
笹村は、木寺の席へと歩み寄ってきた。クラス中の視線が、それに追従する。好奇心。疑惑。そして、残酷な期待。
「ねえ、木寺くん」
笹村は、木寺の前で雑誌を広げた。そこには、煌びやかな常盤台の制服を着た、自信満々の笑顔の美少女が写っていた。木寺二葉。能力者の中でも指折りの力を持ち、メディアにも露出し始めた有名人。
「この子……
「…………っ」
木寺は、顔を上げることができなかった。
逃げ場がない。否定すれば嘘になる。肯定すれば地獄になる。喉が渇き、冷や汗が背中を伝う。
「……あ、」
彼の口から、やっと掠れた声が漏れた。それは肯定とも否定とも取れない音だったが、笹村には十分だった。
「やっぱり! 図星でしょぉ!」
笹村は手を叩いた。
「えーっ! マジでええ!?」
「あの常盤台に通う生徒の兄貴が、木寺?」
「嘘だろ……似てなさすぎだろ」
教室中がどよめいた。それは称賛ではない。信じられないという驚愕と、「なぜあんな妹から、こんな兄が?」という残虐な問いかけだった。
「すごいじゃーん木寺! 妹さんレベル4なんだ!」
「サイン貰ってきてよ!」
「紹介してくれよ!」
先日の事を、軽んじるかのように。
無神経で現金な男子たちが群がってくる。彼らにさほど悪気はないのかもしれない。だが、その言葉の一つ一つが、木寺の心に針を刺していく。
「……やめてくれ」
木寺は、本当に小さな声で言った。
「え?」
「……別に関係ねえだろ。俺とは」
彼は、雑誌を押し返した。
妹の話などしたくなかった。
こういう場所、こういう状況で、まるで比べられるように……兄妹の対比を、こんな公衆の面前で晒されたくなかった。
だが、一度ついた火は消えない。むしろ、木寺の拒絶反応が、周囲の邪推を加速させた。
「……なんだよあいつ。ノリ悪いな」
「妹の自慢くらいすればいいのに」
「……って、いうかさ」
教室の隅で、からかう様な声が聞こえた。ヒエラルキー上位の男子グループだ。
「あれじゃね? ……『家庭内格差』ってやつ」
その言葉が、教室の空気を一変させた。
「あー、なるほどね」
「妹はレベル4の超エリート。兄貴はレベル0の無能力者」
「そりゃあ、卑屈にもなるわな」
ひそひそ話が、教室のあちこちで始まった。
それは、木寺一桁という「不可解な存在」を納得するための、勝手な答え合わせだった。
「可哀想に。親からの扱いとか、全然違うんだろうな」
「妹さんはあんなに優秀なのに、って言われ続けて育ったんだろ?」
「だからあんなに性格暗いんだよ。……納得したわ」
彼らの分析は、ある意味では正解であり、同時に全く的外れでもあった。
確かに、比較されたことはある。
だが、木寺が苦しんでいるのは、親の差別ではない。妹である二葉自身が、兄を無邪気に慕ってくることへの罪悪感と、それに応えられない自分の不甲斐なさ
当たり前の話だが、人には色々様々な事情がある。
思いがある。
人間と言うのは複雑で、こんな事があったからこうなった……とは往々にして単純化して言えない。
妹の件は、確かに彼も思う所はあった。だが、それは彼の劣等感を取り巻く、枝葉のたった1つでしかない。
他にも、他にも口に出せない事が、彼の過去にはある。それだけでは、ないのだ。
だが、クラスメイトたちはそんな事情など知らない。彼らにとって、これは格好のゴシップであり、木寺という存在を確定するための、分かり易い理由だった。
「要するに、ちょっと配合しくじったってことか」
「遺伝子の悪戯……妹に全部栄養吸い取られたんじゃね?」
軽い調子の笑い声。憐れみを含んだ視線。
「こいつは、優秀な妹を持つことで、逆に自分の無能さを証明してしまった哀れな兄だ」というレッテル。
木寺は、音楽をかけた。イヤホンの音量を最大にした。何も聞きたくない。何も見たくない。
(……うるせえ、うるさい、馬鹿どもが……!)
心の中で叫ぶ。知ったような口を利くな。お前らに、俺の何がわかる。ろくに話したことも無いくせに。なにも知らないくせに。
「………………、」
その光景を、上条たちは複雑な表情で見ていた。
「……趣味が悪いで」青髪ピアスが、不快そうに顔をしかめる。
「他人の家庭の事情に首突っ込んで、あーだこーだ晒すのは品がないわ」
「……止めるか?」上条が腰を浮かせかける。
だが、土御門がそれを制した。
「やめとけ、カミやん。……今お前が出ていっても、火に油を注ぐだけだ」
土御門は、腕を組んで遠巻きに状況を分析していた。
「木寺が怒ってるならまだいい。……だが、あいつは今、貝になってる。周りの声を遮断して、嵐が過ぎるのを待ってるんだな」
木寺の姿は、痛々しかった。
反論もしない。怒りもしない。
ただ、嵐の中でうずくまる小動物のように、耐えているだけだ。
「あいつの孤立の原因……その理由の、一つなのかもな」
土御門は呟いた。
「レベル0であること以上に……比較され続けることも、あいつの心に傷を負わせたのかもな」
もし、妹も平凡なら、木寺はここまで歪まなかったかもしれない。
だが、妹は天才だった。
身近すぎる比較対象。逃れられない血の繋がり。
彼が空白に甘んじようとしている理由。それは、「誰とも比較されない存在」になりたかったからではないか。
透明人間になれば、誰とも比べられない。天才の兄として失望されることもない。
「……辛ぇな」上条は、歯を強く噛み締めた。
「俺たちには、想像もつかねえ苦しさだ」
「……、」
吹寄制理もまた、教卓の前で唇を噛んでいた。彼女は騒ぎを鎮めようと声を張り上げようとしたが、言葉が出てこなかった。
これは、クラスの規律の問題ではない。もっとタチの悪い、人間の悪意と好奇心の問題だ。
(……でも、だからって、なによ)
吹寄は、木寺の背中を見た。
以前「甘ったれるな」と罵倒した自分を、少しだけ呪った。だけどそれを、彼女の中の自業自得という気持ちが、僅かに上回った。
:
昼休憩。木寺は、いつものように迅速に教室を出た。食堂に行けば、また噂話をされる。トイレも安全ではない。
彼が向かったのは、お馴染み屋上の貯水タンクの裏側だった。ここなら誰も来ない。日陰で埃っぽい場所。
日陰者の自分には凄くお似合いだ。
「……はぁー」
木寺は、地面に座り込み、栄養価だけ無駄に高いスティックを開封した。食欲はない。でも、食べないと倒れる。
ケータイを取り出す。待ち受け画面はデフォルトのまま。連絡先リストには、家族の名前がある。『二葉』。
「……あーあ、バレちまったな」
木寺は呟いた。頭を掻いて、そのまま横になる。
『お兄ちゃん。見て見て、私レベル4になったみたい』『常盤台に行くつもり。お兄ちゃんも高校生頑張ってね?』
随分前に交わした会話。彼女が一切悪くないことはわかっている。悪いのは、勝手に卑屈になっている自分だ。堂々と出来ない自分だ。
「……はー、面倒臭え、だる過ぎる……」
木寺は、目を閉じた。妹の成功を喜べない兄。妹の存在を隠そうとする兄。確かに、クラスメイトの言う通りではある。
俺はクズで、出来損ないだ。
「……、」
いっそ、本当に、存在が歴史ごと消えてしまえればいいのに。
そうすれば、二葉も「出来損ないの兄」なんて重荷を背負わずに済む。両親も、優秀な娘だけを見て幸せになれる。
あと、クラスの連中も俺の事なんて頭から追い出して、純粋に妹の話でも何でも出来る。
:
翌日。
中間テストを目前に控え、職員室はせわしない雰囲気に包まれていた。
だが、そんな教師たちの殺伐とした場を和ませるように、部屋の隅にあるテレビからは、明るいワイドショーの音声が流れていた。
「……ふぅ。休息ですー」
月詠小萌は、赤ペンを置いて背伸びをした。
机の上には、生徒たちの進路調査票の束。その中の一枚、木寺の用紙は、名前以外やっぱりすべて白紙だった。
「小萌、根詰めすぎじゃんよ」
隣の席で、スポーツ新聞を広げていた黄泉川愛穂が声をかけた。
「愛穂ちゃんこそ。……また競馬の予想ですか?」
「バカ言え。情報収集じゃん。……ほら、これとか見てみろよ」
黄泉川は、新聞ではなく、テレビの方を顎で指し示した。画面には、『学園都市の未来を担え! 次世代のカリスマ能力者たち』というテロップが踊っている。
「最近、話題の子だ。……常盤台中学の一年生。レベル4の大能力者にして、モデル顔負けの容姿」
画面が切り替わる。
そこに映し出されたのは、輝くような美少女だった。
艶やかな黒髪。意志の強そうな瞳。常盤台の制服を着こなし、カメラに向かって堂々と微笑んでいる。
『──ええ。私にとって、能力の向上は息をするのと同じ、生活の一環です。才能? うふふ、そうですね。努力の才能には自信があります』
自信満々のコメント。だが、嫌味がない。圧倒的なカリスマ性が、その傲慢さすら魅力に変えている。
『彼女の名前は、
「……へえ。すごい子ですねー」
小萌は感心して見ていた。文武両道、才色兼備。まさに絵に描いたような能力エリートだ。
「……ん?」
小萌の手が止まった。今、アナウンサーは何と言った? 木寺?
「……木寺、二葉?」
小萌は、手元の進路調査票に目を落とした。
『木寺一桁』。
特に珍しい苗字ではない。偶然の一致かもしれない。
だが、画面の中の少女の顔立ちは、どこか見覚えがあるような……いや、似ていない。少女はあまりにも華やかで、小萌の知る「彼」はあまりにも影が薄い。
「なぁ、小萌。……お前のクラスにもいるじゃん、『木寺』がさ」
黄泉川が、冗談半分で尋ねた。
「ええ、いますけど……。まさか、ですよー」
小萌は苦笑した。レベル4の天才少女と、レベル0の孤立した少年。共通点は苗字だけ。そう思いたかった。
だが、教師としての直感が、胸騒ぎを告げている。小萌は、パソコンのキーボードを叩き、生徒の個人データファイルを開いた。『家族構成』の欄。
父:木寺⬛︎⬛︎
母:木寺⬛︎⬛︎
妹:木寺二葉(常盤台中学所属)
「……あ、」
小萌の声が、張りついた。画面の中の輝く少女と、データ上の文字がリンクする。
「……あ、え……ウソ……、」
「マジかよ。兄妹なのか?」黄泉川も覗き込む。
「っ……ええ。間違いありません……」
小萌は、画面の中の木寺一桁の顔写真……入学時の、自信なさげな証明写真を見た。そして、テレビの中の光り輝く妹を見た。
あまりにも、残酷な違いだった。
:
その日の放課後。小萌は、生活指導室で木寺一桁の過去のデータを洗っていた。
中学時代の指導要録。小学校時代の記録。そこには、一貫してある言葉が散見された。
『学習意欲はあるが、自己肯定感が著しく低い』『両親を外部から呼んでの三者面談時、保護者の話題は妹中心になりがち』
「……これ、は」
小萌は、う、と小さく呻いた。
想像以上に、根が深い。
彼が「自分には何もない」と思い込むようになった要因。それは単に能力が出なかったからだけではない。
一番身近な場所に、全てを持っている比較対象がいたのも、ひとつの理由ではないか?
「……すごく、厳しいはず……」
小萌は呟いた。学園都市において、兄弟間の能力格差は珍しくない。だが、ここまで極端な例は稀だ。妹は、常盤台のエース候補。メディアにも出る有名人。
兄は、測定不能ですらない、完全な、反応なし。
家でも、学校でも、きっと言われ続けてきたのだろう。妹さんはすごいのに、お兄ちゃんはどうして、と。
悪意のない言葉が、一番深く突き刺さる。
「……先生、入ってもいいですか?」
ドアがノックされた。入ってきたのは、話題の主──木寺一桁だった。進路調査票の再提出のために、また呼び出していたのだ。
「……木寺ちゃん。どうぞですー」
木寺は、無言で椅子に座った。その顔は、以前よりもさらに生気がなく、目が死んでいるように見えた。クラスでの孤立が進んでいるのだろう。
「……調査票、書いてきました」
木寺が差し出した紙には、『特になし』とだけ書かれていた。
「木寺ちゃん。……だから、これは、進路希望とは言いませんよー」
「……でも、希望なんて本当にないですし」
木寺は、机を見つめたまま言った。
「俺みたいなレベル0が行ける進路なんて、たかが知れてます。……マジでどこでもいいんです。どうせ、何者にもなれないんで」
その投げやりな態度。いつもなら、「そんなことありません!」と励ますところだ。
だが、今日の小萌は、踏み込んで聞かずにはいられなかった。彼を傷つけるリスクと、彼を知るためのリスクを、天秤にかけた。
「……木寺ちゃん。テレビとかって、見てますか?」
「……え?」
木寺が顔を上げる。
「さっき、特集がやっていましたよ。……常盤台中学の、木寺二葉さんの」
その瞬間。木寺の表情が、能面のように強張った。感情が消えたのではない。感情を表に出さないように、必死で蓋をした顔だ。
「……ああ。あいつ、よくテレビ出るんで」
声が、乾いている。妹の活躍を喜ぶ兄の顔ではない。触れられたくない腫れ物に触れられた、拒絶の顔。
小萌は罪悪感をぐっとこらえて、踏み込んでいく。
「……妹さんなんですね」
「はい。……自慢の妹ですけど」
木寺は、棒読みで言った。それは、彼が身につけた「処世術」なのだろう。
妹を褒め称えることで、自分への追及をかわす。
「優秀な妹を持つ、ダメな兄」という役割を演じることで、攻撃を避ける。
「……比べられるのは、辛いですか?」
小萌は、直球を投げた。木寺の目が、わずかに泳ぐ。
「……いや、それは別に、そんなに……」
彼は、視線を逸らした。
「あいつは天才で、俺は凡人以下。……ただの事実です。遺伝子のイタズラですよ。……親も言ってましたよ。『二葉に全部良いところが行っちゃったわね』つって」
乾いた笑いが続く。小萌の胸が痛む。
親に悪気はないのかもしれない。冗談のつもりかもしれない。
だが、その冗談が、子供の心をどれだけ殺してきたか。
「……先生。進路の話、もういいですよね?」
木寺は立ち上がろうとした。これ以上、この話題を続けたくないのだ。
「待って下さい」
小萌は、強い口調で止めた。
「木寺ちゃん。……貴方は、妹さんのことをどう思っているんですか?」
「……どうって」
木寺は、少し考え込んだ。そして、つまらなそうに答えた。
「……まあ、邪魔にならなければいっか、って」
「邪魔?」
「はい。……まあ、なんていうか……凄い奴なんですけど、俺みたいなのが近くにいると、ケチがついちゃうというか」
彼は、自分の足元を見た。
「あいつ、変に俺に気遣いするほうなんですけど、申し訳ないって言うか……まあ、ええと……だからですね」
彼は、面倒そうに笑った。
「存在感消して、あいつに迷惑かけないように、とかはずっと思ってます」
小萌は、言葉を失った。
彼の自分には何もない、という執拗な自己定義。
それは、妹への歪んだ自己犠牲が、一端を担っていたのだ。
自分がダメであればあるほど、妹の優秀さが引き立つ。そして、彼は汚点になる。
ならいっそ、自分が消えれば、妹の経歴に傷がつかない。そう思い込むことで、彼は自分の存在価値を放棄しようとしている。
そして、それは妹だけではなく、周りの人間全てに対しても、彼は奥底で、そう思っている。
「……う」
小萌は、涙をこらえた。
「誰かの影になるために生まれてきた人間なんて、いませんよ」
「……先生には、わかりませんって」
木寺は、冷たく言い放った。
「先生は、天才でしょう? 若くして教員免許を取って、研究者としても優秀で。……持ってる側の人間だ」
彼は、ドアノブに手をかけた。
「俺は、持ってません。……持たざる者が生き残るには、目立たず、期待せず、ただ息を潜めるしかないんです……じゃ、もう、いいですかね?」
かちゃりとドアが閉まる。木寺一桁は、出て行った。残された小萌は、机に突っ伏した。
「……、どうやって……どう、やったら……」
教師として、彼を最上に導く言葉が見つからない。リアルに置いて、専門の心理学の何と脆い事か。
頑張れば報われる、個性は人それぞれ。
そんな綺麗事が、この特殊な科学の街では、あっさりと通用しない。
圧倒的な才能の差。残酷なまでの現実。その前では、教育論だって無意味だ。
:
その夜。小萌は、行きつけの居酒屋で、黄泉川相手に管を巻いていた。
「うう……っ! 愛穂ちゃん! 世の中、不公平ですよぉ!」
「飲みすぎじゃんバカ。水じゃないんだぞ」
黄泉川は、ビールを飲みながら呆れている。小萌は、酔った勢いで木寺の話をぶちまけた。
「あの子はね、優しいんです……! 妹のために、人のために、自分が端役になろうとしてるんです! でも、そんなの悲しすぎますよぉ!」
「……ま、よくある話だがな」
黄泉川は、焼き鳥を串から外しながら言った。
「学園都市じゃ、能力値が全ての基準になっちまう。……兄弟姉妹で格差があれば、家庭内でもヒエラルキーができる。逃げようにも行き場なんてない」
「でも、あの子の場合は……もっと深刻です」
小萌は、ジョッキをテーブルに置いた。
「彼は、周囲を拒絶しているんです。……自分には価値がないと思い込むことで、歪なところで安定しようとしている。……このままじゃ、本当に心が死んでしまいます」
「……で、どうするんだ? 先生」
黄泉川の問いに、小萌は顔を上げた。その目は、酔って潤んでいたが、光は微塵も失ってはいなかった。
「……証明します」
「あ?」
「彼が、透明なんかじゃないってことを。……彼には彼だけの、他の誰にも真似できない色があるってことを、私が科学的に証明してみせます!」
小萌は、研究者だ。
感情論でダメなら、論理と事実で戦うしかない。
彼の特性。AIM拡散力場がないという特異性。
それが、単なる欠落ではなく、何か特別な意味を持つ可能性を探る。
もちろん、誰にもバレないように。
「……へっ。大きく出たじゃん」
黄泉川はふふんと笑った。
「手伝ってやるよ。……
「愛穂ちゃん……!」
「勘違いするな。問題児の監視は仕事のうちだ。……あいつが腐って犯罪に走る前に、首輪つけとかねえとな」
これは、大人の戦いだ。絶望する子供を、大人がどうやって救い上げるか。
その答えが見つかるまで、小萌は諦めない。
:
同時刻。行きつけのファミレスである。
ドリンクバーと安グラタンが鎮座され、準備万端といったボックス席。
そこは、クラスの底辺にして最強の馬鹿三人、デルタフォースの作戦司令室だった。
「……えー、本日の議題は、」
青髪ピアスが、神妙な面持ちで、テーブルの上に一冊のファッション雑誌を広げた。それは、昼休みに女子たちが騒いでいたあの雑誌だ。
「『木寺一桁の妹、ハイスペックすぎてワロエナイ件』についてや」
「……タイトルが重いぜよ」
土御門元春が、アイスコーヒーの氷を噛み砕きながら呟いた。上条当麻は、頭を抱えてテーブルに打ち付けている。
「不幸だ……。なんで俺の周りには、こうも格差社会を見せつけてくる奴らばっかりなんだ……」
「カミやん、泣くな。現実を見るんや」
青髪ピアスは、雑誌のページを指差した。
『常盤台中学の次期エース! 才色兼備のカリスマ、木寺二葉さん特集』。
そこに写っている少女は、紛れもなく「選ばれた人間」のオーラを纏っていた。
「見ろや、このスペック。……常盤台中学一年。
青髪は、指を折って数えた。
「名門お嬢様学校。高位能力者。美少女。……役満やないかい」
「……確かに、隙がねえな」
上条は、写真の少女を見た。
自信に満ちた笑顔。手入れの行き届いた黒髪。木寺一桁と同じ遺伝子を持っているとは、到底信じられない煌めきだ。
「これ、本当にあいつの妹なのか?」
「苗字も一緒、出身小も一致。……確定だぜよ」
土御門が、怪しげなタブレット端末を見ながら補足する。
「しかも、ただのレベル4じゃねぇ。『空気分離』ってのは、窒素や酸素、二酸化炭素なんかを自在に選り分けて操作する能力だ。……応用性が高くて、殺傷力も抜群。軍事転用すら可能な、ガチの戦闘能力だぜよ」
「ひえぇ……。兄貴は
青髪のブラックジョークに、誰も笑えなかった。あまりにも悲惨な状態だからだ。
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「常盤台中学って言ったら、アレだろ? 『
上条が思い出したように言う。彼は先日、(嫌な出来事として)電撃使いの少女と遭遇している。
「せや。レベル5が二人もいる、能力開発の最高峰や。……そこに入学して、しかも一年でエース候補ってことは、この妹ちゃん、相当なもんやで」
青髪は、恍惚とした表情で天井を仰いだ。
「ええなぁ……。優秀で、強気で、美少女の妹。……そんなんが家族にいたら、人生薔薇色やろ」
「……逆だろ」
上条が、グラタンをかきこみながら言った。
「薔薇色どころか、血の色だぞ」
「なんやて?」
「想像してみろよ、青髪。……お前がテストで赤点取って、補習のプリントやってる横で、妹が『お兄ちゃん、私また学年トップだったよ!』って満面の笑みで報告してくる食卓を」
「……ぐっ」
「お前がレベル0の診断書を隠そうとしてる時に、親戚から電話がかかってきて『二葉ちゃんはすごいわねぇ、それに比べてお兄ちゃんは……』ってヒソヒソ言われる正月を」
「や、やめろカミやん! ボクのライフはもうマイナスや!」
青髪が耳を塞ぐ。上条はため息をついた。
「木寺のあの卑屈さは、生まれつきじゃねえよ。……色んな環境が作ったんだ」
「……まあ、実際これはウザいぜよ」
土御門が静かに言った。
「学園都市において、
土御門は、やれやれ、と鼻息を漏らした。
「でもなー、わからんことがあるんや」
青髪ピアスが、ドリンクバーのサイダーを注ぎ足してきて言った。
「この雑誌のインタビュー、読んでみ? ……妹ちゃん、兄貴のことめっちゃ褒めとるで」
青髪が読み上げる。
『Q:尊敬する人はいますか?』
『A:兄です。世界で一番優しくて、私のことを一番理解してくれる、自慢のお兄様です!』
「……なんやこれ。ブラコンか?」
「……うわぁ」上条が顔をしかめた。
「これ、一番キツイやつじゃん……」
「そうだな。……妹に悪気がないのが、一番タチが悪い」
土御門が解説する。まるで妹博士とでも言いたげだ。
「もし妹が、お兄ちゃんなんてダメ人間って見下してくれていれば、木寺の方も、クソ妹めって反発できる。……憎むことで、自我を保てる」
だが、二葉は違うのかもしれない。心から兄を慕い、尊敬し、愛している。
お兄ちゃんはすごいと信じている。もしかしたらこの少女は、そう思ってるのかもしれない。
「何も持っていない兄に対して、天才の妹が『尊敬してます』と言う。
……これは、兄にとっては『お前は何もできないけど、優しさだけが取り柄だね』って言われてるのと同じだ」
土御門の言葉はほぼ暴力だった。
「無能な兄を愛する完璧な妹。……その構図そのものが、木寺にとっては毎日突きつけられる『敗北宣言』なんだよ」
上条は、想像して寒気がした。
木寺が教室の隅で、誰とも関わらない事を選んだ理由。
それは、逃げ場のない比較が、いつも影を落としていたからじゃないか。
学校でくらい、誰とも比較されず、誰の期待も背負いたくない。そして同時に、何者かでありたかったんじゃないのか。
「……あいつ、よくグレねえな」
上条は素直に感心した。
「俺なら、とっくに家出してスキルアウトになってるか、妹の邪魔してやるって歪んでるかもしれねえ」
「あいつは、優しすぎるんかもな」青髪がぽつりと言った。
「妹のことが憎いわけやない。……妹の成功を邪魔したくないから、自分が消えることを選んどる。……歪んでるけど、それも一種の兄貴の愛かもしれへんな」
「しかし、レベル4か……」
上条は、再び雑誌の写真を見た。
『空気分離』。窒素の壁を作って防御したり、酸素濃度を変えて敵を気絶させたりできるらしい。
「ふむ……木寺の雰囲気とは、対照的だな」
土御門が言った。
「妹は空気を『操作』する。兄は空気に『なる』。……似ているようで、真逆の性質だ」
「どういうことだ?」
「妹の能力は、世界への干渉だ。私はここにいると主張し、世界を自分の思う通り染める力。……対して兄の性格は、世界からの逃避だ。私はここにはいないと主張し、世界から無視されたがる」
土御門は、氷を机の上で滑らせた。
「積極的な支配と、積極的な拒絶。……同じ遺伝子から、こうも極端な結果が出るなんて、学園都市の闇は深いぜよ」
「……ま、どっちが幸せかはわからんけどな」
青髪が、にたあと笑った。
「妹ちゃんは、常に注目され、期待され、結果を出し続けなアカン。……それはそれで、しんどい生き方やろ」
「確かに」上条が頷く。
「逆に木寺は……今は辛いかもしれないけど、誰にも期待されてない分、自由だ。……あいつがその自由の価値に気づければ、化けるかもしれねえな」
「化ける?」
「ああ。……何もないってことは、何にでもなれる、ってことだろ?」
上条は、自分の右手をさすった。
自分は「幻想殺し」という枠に縛られている。
美琴や他のレベル5だって、「最強」という枠に縛られている筈だ。あいつの妹の二葉も、「天才」という枠からは出られない。
だが、木寺には枠がない。透明だからこそ、どこにでも行けるし、どんな色にもなれる。
「あいつが……自分の性質を、弱点じゃなくて武器だと思えるようになったら。……その時は、あの天才妹をも超える『何か』になるかもしれねえぞ」
「カミやん、夢見すぎやで」青髪が笑う。「あいつはただの、サバ缶好きの地味キャラや」
「ま、そうだな。……でも、俺は期待してるぜ」
上条は、飲み干したグラスを置いた。
「あいつは、俺たち『デルタフォース』の番外兵器だ。……いつか、世界をあっと言わせるような大ポカをやらかしてくれるはずだ」
:
「さて、そろそろ帰るか」
「せやな。補修の宿題まだ残っとるし」
三人は席を立った。レジで会計を済ませ(じゃんけんで負けた上条が払った)、外に出る。夜風がやたら涼しい。
「……明日、木寺に会ったらどうする?」
上条が聞いた。
「どうもしないぜよ」土御門が即答する。
「妹の話なんて、おくびにも出すなよ。……あいつが嫌がってるなら、知らないフリしてやった方がいい」
「せやな。……ワイらはあくまで、『木寺一桁』と友達なんや。妹のオマケやない」
青髪が珍しく良いことを言った。
「おう。……あいつが『俺は透明だ』って言っても、俺たちは『そこにいるじゃねえか』って見続けてやる。……それが、今の俺たちにできる唯一の抵抗だ」
上条は、夜空を見上げた。
星が見える。明るい星の陰に、見えない星が無数にある。でも、見えないからといって、そこにないわけではない。
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それから暫く経ち、六時間目の終わり。
化学準備室で、月詠小萌は一人、ビーカーに入ったコーヒーを啜っていた。
灰皿には、すでに吸い殻が山になっている。
「……はぁ。今年もまた、この季節が来ましたかー」
彼女の手元には、クラスの生徒たちから提出された『進路希望調査票』ならぬ『能力開発再申請書』の束があった。
これは、自分のレベル判定に納得がいかない生徒が、別のアプローチの薬物投与や、より強度の高いカリキュラムを志願するための嘆願書だ。
「上条ちゃんは……提出なし。まあ、あの子は不幸なだけでメンタルは鋼ですからねー」
「青髪ピアスちゃんもなし。あの子はむしろレベル0を楽しんでます」
小萌は書類をめくっていく。そして、一枚の紙で手が止まった。
氏名:木寺一桁
希望:外部申請コース(高負荷脳刺激プログラム)への変更
「……木寺ちゃん」
小萌の表情に、深い懸念が刻まれた。
外部申請。
それは、高校内のカリキュラムではなく、外部のネットワークを通じて、自身の希望する能力開発を行う特例制度だ。
指導要綱にはない、
副作用として、味覚障害、不眠、最悪の場合は人格に影響を及ぼすコースすらも。学園都市の制度上、お役所仕事で選択肢として残されている、悪しき慣例だった。
通常、成績不振者、それも能力が出る目のほぼない高校生が安易に手を出していいものではない。
「……焦って、いますね」
小萌は、ふと外を見た。
グラウンドでは、能力のある生徒たちが部活で炎や風を操っている。
その光景は、持たざる者にとっては、毎日見せつけられる処刑のようなものだ。
彼女は知っている。
木寺一桁のデータが、科学的に変化しないことを。どれだけ強い電気を流そうが、薬を飲もうが、彼の脳は頑として「超能力」というバグを受け入れない。
外部申請など受ければ、彼は能力を得るどころか、ただ脳を焼き切っておかしくなってしまうだけだ。
「……ちゃんと止めないとですね。木寺ちゃんの担任教師として」
小萌は書類をデスクに置いて、フリルを翻して準備室を出た。
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時刻は午後六時を過ぎていた。完全下校時刻が迫る中、小萌は校舎内を見回っていた。教室に木寺のカバンが残っていた。なにか、物凄く嫌な予感がした。
「……まさか」
小萌は、生徒の出入りが禁止されている実験棟に向かった。
第一実験室……第二実験室。
そこには、廃棄予定の古い実験機材が大量に置かれている。ふと立ち止まると、ドアの隙間から、微かな光と、ぶうんという低い音の漏れが聞こえてくる。
「……! 木寺ちゃん!」
小萌がドアを勢いよく開ける。そこには、信じがたい光景が広がっていた。
薄暗い実験室の隅。木寺一桁が、
「……あ、先生……」
木寺が振り返る。その顔色は蒼白で、目は充血し、焦点が定まっていない。
手元のダイヤルは、安全基準ギリギリの電圧まで回されていた。
「何をしているのですかッ……!!」
小萌は絶叫し、駆け寄って電源コードを引き抜いた。バジィッ! と火花が一瞬散り、部屋が静寂に包まれる。
「あ……、あなたは死ぬ気ですか!? こんな旧式の機材で、脳に電流を流すなんて…………っ!!!」
小萌は木寺の服を掴んで揺さぶった。
怒りで体が震えている。
もし発見が遅れていたら、彼の脳細胞は、不可逆的なダメージを負っていたかもしれない。
「……、だって」
木寺が、ゆっくり唇を開いた。
「……だって、何も起きないんだよ……」
その声は、泣き声よりも悲痛だった。
「小学校の時から、教科書通りにやってきた。不味い薬も飲んで、イメージトレーニングもして、寝ても起きてもそればっかり考えて。……でも、なにも……なに一つも、起きねえんだよ」
木寺は、自分の頭についたヘッドギアを乱暴に剥ぎ取った。
「先生、俺の脳みそ、やっぱり壊れてるんじゃないですか……? 接触不良起こしてんなら、電気ショックで直るかなって……」
「バカなことを! 脳は機械じゃありません……!」
「じゃあ何なんだよ!!」
木寺が叫んだ。普段の一歩引いて目立たない彼からは想像もできない、激情の爆発。
「クラスの連中は、みんな少しずつ前に進んでる! 上条だって、俺なんかより全然凄かった! ……俺だけなんだよ! いつまでもいつまでも、AIM測定器が1ミリも動かないのは!」
彼は実験台の上の器具を叩きつけた。
「何もねえんだよ、俺には! ここにいるのに、世界が俺を無視してるんだ! ……だったら、無理やり振り向かせるしかないだろうが!!」
木寺一桁の目から、涙が溢れ出した。
それは、痛みや恐怖の涙ではない。自分という存在が、世界から拒絶されていることへの、根源的な孤独の涙だ。
「……っ、うぐぅ……」
彼は机に突っ伏し、子供のように嗚咽を漏らした。小萌は、その小さな背中を見下ろし、握りしめた拳をゆっくりと解いた。
「……、」
小萌は、近くの丸椅子を引き寄せ、木寺の隣に座った。タバコを取り出そうとして、やめた。目の前には傷ついた子供がいる。
「……木寺ちゃん」
小萌は、努めて冷静な、優しい声を出した。
「貴方の脳は、壊れてなんかいません。むしろ、健康そのものです」
「……慰めなんていりません」
「事実です。先生は科学のプロですよ? 貴方の脳波データは、教科書に載せたいくらい綺麗な波形を描いています」
小萌は、嘘は言っていない。彼の脳は「正常」だ。異常なほどに。だが、その「正常さ」こそが、この学園都市では「欠陥」と呼ばれるのだ。
(……言えない。言えるわけがない……)
小萌の胸の内で、葛藤が渦巻く。
『貴方は能力者にはなれません』『貴方の脳は、世界を歪めることを絶対的に拒絶しているのです』『それは本当に素晴らしい才能ですが、同時に貴方を一生「無能力者」の檻に閉じ込める呪いです』
もし真実を告げれば、彼はどうなる?
「自分は特別なんだ」と救われるか?
いいや、違う。彼は「皆と同じになりたい」のだ。圧倒的な特別になりたいのではなく、当たり前に能力を使い、当たり前に一喜一憂する「普通の生徒」になりたいのだ。
「空っぽ」という特異性は、彼が最も望まない形の「特別」だ。
それに、もし彼が自分の特質を知り、それを証明しようとして研究所の大人たちに接触したら?
待っているのは、無茶苦茶な実験の、モルモットだ。
(守らなきゃ。たとえ、彼に恨まれたとしても)
小萌は、かつて残酷な決断をした。
彼に「希望」という名の「諦め」を与えること。彼の特異性を隠し通し、ただの「才能のない落ちこぼれ」として卒業させること。
それが、彼が平穏に生きる唯一の道だと今も信じている。
そして、代わりに、彼の他の道を見つけてみせるのだ。
「木寺ちゃん。……能力開発は、個性の発露です。足が速い子もいれば、遅い子もいる。計算が得意な子もいれば、絵が得意な子もいる。それと同じです」
「……俺には、得意なことが何もないんですか?」
「今はまだ、見つかっていないだけです」
小萌は、木寺の頭に手を置いた。汗と涙で濡れた髪。その下にある脳は、世界中の科学者が喉から手が出るほど欲しがる未知の領域だ。
だが、小萌にとっては、ただの悩める教え子の頭だった。
「外部申請コースは却下します。あんなものは、貴方の綺麗な脳を傷つけるだけの愚行です」
「……でも」
「その代わり」
小萌は、ふわりと笑った。それは、教師としての仮面を被った、精一杯の演技だった。
「先生が、貴方専用の補習メニューを作ってあげます。能力開発だけじゃありません。心理学、観察眼、論理的思考……この街で生き抜くための、別の武器を磨きましょう」
「……別の、武器?」
「ええ。超能力がなくても、人を助けることはできます。世界を変えることはできます。前にも言いましたが……先生はね、貴方にはその才能があると思うんですよ」
「……先生、適当なこと言ってませんか?」
「失礼な! 教師の直感は、ツリーダイアグラムより当たるんです!」
木寺は、涙を拭い、鼻をすすった。
「……わかってるんです。俺に才能がないことくらい」
彼はどこか、疲れたように、笑った。
「先生が優しいから、慰めてくれてるだけだって。……でも、外部申請は諦めます。死んだら元も子もないし」
「ええ、その通りです。命あっての物種ですよー」
木寺は立ち上がった。
その顔には、まだ濃い影が落ちている。
コンプレックスは消えていない。自分への絶望も消えていない。
ただ、自暴自棄という最悪の選択肢だけは、辛うじて回避された。
「……帰ります。すみませんでした、勝手に機材使って」
「気をつけて帰るんですよー。寄り道しちゃダメですよー」
木寺が実験室を出て行く。その様子は、入学式の時よりも弱弱しく、本当に脆く見えた。
:
一人残された実験室。小萌は、木寺が座っていた椅子に深々と腰掛けた。
「……私は、最低の教師ですね」
彼女は呟いた。ポケットからタバコを取り出し、覚束ない手で火をつけた。紫煙が、換気扇に向かって吸い込まれていく。
彼に「別の武器」と言った。だが、それは気休めだ。
この学園都市で、能力を持たない人間がどれほど無力か、彼女は骨身に染みて知っている。彼がこれから味わい続けるであろう屈辱、無視、理不尽な暴力。
それら全てに対して、彼は、耐えるしかないのだ。
「……辛い、ですね……」
小萌の目から、透明なものが一筋、こぼれた。
「あんなに頑張っている子が……あんなに純粋に憧れている子が、報われないなんて」
科学は残酷だ。努力は必ずしも結果を結ばない。
適性がない者は、どれだけ血を流してもゼロのままだ。
その冷徹な真理を教えるのが教師の役目だとしても、あまりにも辛い。苦しい。
「でも、木寺ちゃん。……先生は見ていますよ」
小萌は、鼻をすすり、蛍光灯を見上げた。
「貴方が空っぽだと言うなら、先生がその空っぽを守ります。誰にも壊させないし、誰にも利用させません」
目高池博士のような連中には渡さない。
彼がただの落ちこぼれとして、バカにされながらも、平和に楽しく高校生活を終えられるように。そのために、私はデータを隠し、嘘をつき続ける。
「……いつか、貴方が先生を恨む日が来ても」
それが、大人の責任の取り方だと信じて。