「………………………………、」
通行人のざわめきと、車の走行音とが徐々に増えてくる夕刻だった。
第七学区と第一五学区の境界線に近い大通り。
そこを歩く三人の少年──デルタフォースの足並みは、彼らの間に横たわるざらついた雰囲気によって、微妙にちぐはぐだった。
「……んなぁ、カミやん」
沈黙に耐えきれなくなったように、青髪ピアスが口を開いた。
彼は、手にしたゼリー飲料のパックを弄びながら、言うか言うまいか迷っているように、どこか所在なげにしている。
「やっぱ、木寺はんのことやけどな。……ホンマにこのままで、ええんかな~って」
その名前が出た瞬間、上条の足が止まった。
胸の奥に引っかかったものが、より深く差し込まれる感覚。
「……いいわけ、ねえだろ」
上条は、吐き捨てるように答えた。
先日の教室での騒動。木寺一桁が上条へのコンプレックスを飽和させ、吹寄制理に断罪され、逃げ出したあの日から、彼らの関係はじりじりと後退し続けていた。
更にはこの間の妹の件も、向かい風になったのか。
木寺の孤立は、もはや極まってしまっていた。
木寺は学校に来たり来なかったりを繰り返し、最近欠席率が上がっている。
来ても誰とも口を利かず、ただ台風で住処を吹き飛ばされた野良犬のように、教室の隅で息を殺している。
「にゃー。……でも正直、手詰まりだぜよ」
土御門元春が、首を捻りながら言った。
彼だけは、木寺の背後にある事情を少し探り始めているが、自身が踏み込むラインを見極めかねていた。
「木寺は詰まる所、自分を被害者として定義することで、ギリギリ精神を保ってんだ。……下手に俺たちがまた友達面して近づけば、あいつのプライドをもっと傷つけて、今度こそ完全に壊しちまうかもしれん」
「せやけどさあ!」青髪が声を荒げた。
「このままやったら、あいつ……夏休み前に消えてまうで。例え話やない、ほんまに存在としてや。……誰の記憶にも残らんまま、あんな隅っこで腐り果てて、そのままドロップアウトしてまうぞ!」
腐る。
その言葉が、上条には痛かった。
クラス委員の吹寄は言った。『腐ったものは箱から出すべきだ』と。
それは集団を守るための正論だ。だが、上条当麻という人間は、その正論を、どうしても咀嚼し、飲み込めずにいた。
「……わかってる。わかってるよ」
上条は、頭をがしがしと掻いた。
「俺だって、今の状況をどうにかしたい。……あいつに、お前はここにいていいんだって言いてえ。……でも、俺の言葉は、あいつには一切届かない」
あいつは、俺を芯から拒絶している。お前には特別な力があると言って。俺が何を言っても、それは、持てる者の戯言として処理されてしまう。
いくら手を伸ばし続けても、……それももう、臨界点が近づいていた。
「木寺は……あいつは、弱い」
上条は、ずっと認めたくなかった事実を口にした。
「逃げ癖がついて、卑屈になって、自分をいつも正当化して。……あいつの根っこは、もうホントに腐っちまってるのかもしれねえ」
救おうとしても、本人が手を払いのけるなら、やはりどうしようもないのだ。
見捨てるしかないのか。このまま、あいつが透明になって消えていくのを、指をくわえて見ているしかないのか。
「……ちくしょう」
上条は、苛立ちをぶつけるように紙パックをゴミ箱に投げた。ぼこん、と間抜けな音が、喧噪を強める街に空しく響いた。
その直後だった。
突如、辺りをつんざくような轟音が、彼らの会話も、思考も、日常の全てを吹き飛ばした。
:
「うわっ!? なんや!?」
「爆発!?」
三人は同時に身を屈めた。
音源は、すぐ先の交差点。黒煙が空へと立ち上り、何か鉄の焼ける異様な臭いと、もっと生々しい悲鳴が風に乗って流れてくる。
「……事故、か!?」
「いや、違うみたいだぞ! あれを見ろ!」
土御門が指さす先。交差点の中央で、異形の巨大な影が暴れまわっていた。
全高三メートルを超える、無骨なシルエット。
建設重機のような歪曲なアームと、装甲車のような脚部。
学園都市の治安維持に運用される、鎮圧用の武装を備えた大型ロボットだ。だが、その動きは明らかに正常ではなかった。
ガギャアアアアアアア、メギメギメギ、と。
ロボットがアームを振り回すたびに、信号機がへし折れ、ガードレールが紙細工のようにひしゃげる。
何らかの理由で制御を失った軍用兵器。言葉を発することもなく、警告のアナウンスもなく、ただ無機質に、周囲にある様々なものを自動で破壊し続けている。
「ひいぃぃッ! 助けてくれェ!!」
「こっちに来るぞ! はやく、はやくッ!!」
阿鼻叫喚。人々が、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。車がけたたましいクラクションを鳴らし、歩道に乗り上げて急停車する。
「……ッ、警備ロボットの暴走かい!?」
「マズいぞ! あんなもんが街中で暴れたら、確実に死人が出る!」
「行くぞ!」
上条達は考えるよりも先に駆け出していた。
無能力だろうが何だろうが、目の前の悲劇を見過ごすことはできない。
だが、距離がある。交差点までは約五十メートル。逃げ惑う人波が壁となって、前に進めない。
「くそッ! どいてくれ! 通してくれッ……!」
上条が人をかき分ける。その視界の先。破壊の嵐の中心に、取り残された
瓦礫の山に阻まれ、逃げ遅れた
「ひっ……」
彼女は腰を抜かし、迫りくる鋼鉄の巨体を見上げて、声も出せずに怯えていた。
ロボットのセンサアイが、朱色に明滅する。標的捕捉。強大なアームが、処刑人の大鎌のように高く振り上げられる。
「……あ、」
上条の喉がギ、と凍りついた。間に合わない。
絶対に、間に合わない。
ここから伸ばした右手が届く距離では到底ない。
死ぬ。目の前で、幼い命がゴミ屑のように蹂躙される。
「やめ、ろォォォッ!!」
上条は絶叫した。無力感。友人を救えない無力感に打ちひしがれていた彼に、世界はさらなる絶望を突きつける。
だが。
その絶望の風景の中に、一つの「空白」が混じった。
「………………!?」
上条の動体視力が、歩道の植え込みの陰から飛び出す人影を捉えた。
よれた制服。猫背気味の普通体型。決して、見間違えるはずがない。彼らがさっきまで噂していた、クラスで一番「弱くて」「逃げ腰」な男だった。
「……
上条の声が動転し、裏返った。
なぜ、あの男があそこにいる? あんな致死の、本物の危険地帯に。
あいつは臆病だ。誰よりも、何よりも自分の保身を考える奴だ。こんな状況なら、真っ先に背を向けて、耳を塞いでさっさと逃げ出すはずだ。
実際、遠目に見える木寺の姿は、余りに酷いものだった。
膝はがたがたと笑い、顔面は死人のように蒼白で、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。恐怖で発狂寸前に見える。
(逃げろ、木寺……!)
上条は心の中で叫んだ。喉が張り付いて、咳き込んでしまったのだ。
無理だ。お前には無理だ。お前はレベル0だ。特別な力や才能なんて何もない。
ただの肉の塊が、あんな鉄の塊に挑んだところで、結果は無茶苦茶なミンチになるだけだ。逃げてくれ。お前だけでも、頼むから生きてくれ。
だが。上条の願いも、木寺自身の恐怖も、すべてを置き去りにして。木寺一桁の足は、前へと踏み出していた。
「……う、あ、
悲鳴とも、気合ともつかない絶叫。本当にかっこ悪い。無様だ。へっぴり腰で、転びそうになりながら、それでも彼は全力疾走していた。
逃げる方向へではない。死の中心へ向かって。
ロボットのアームが振り下ろされる。その落下地点と、女の子の間へ。
「馬鹿野郎!!」土御門が叫ぶ。「戻れ木寺! 死ぬぞ!!」
全く聞こえていない。
木寺一桁は、思考を停止させていた。恐怖で足が止まる前に、脳からの指令を遮断し、ただ「あの場所に体をねじ込む」という一点のみに全神経を注いでいく。
彼には、女の子を抱きかかえる余裕などなかった。間に合わないからだ。
だから、彼は選んだ。女の子の前に立ち塞がるでもなく、覆いかぶさるのでもなく。
「────────────────」
一瞬が、永遠に引き伸ばされる。
振り下ろされる鋼鉄のアーム。泣き叫ぶ女の子。そして、横合いから飛び込んでくる木寺一桁。
彼の性質など、この圧倒的な質量の前では一切意味を持たなかった。
認識されようがされまいが、物理法則は絶対だ。数十トンの衝撃エネルギーは、そこに何があろうと粉砕する。
木寺は、全力で女の子に体当たりをした。タックルだ。助けるための抱擁ではない。「動線」から無理やり弾き飛ばすための、捨て身の特攻。
「……ッ!!」
木寺の肩が、女の子の体にぶつかる。女の子の体が、ボールのように横へと弾き飛ばされる。
その、コンマ一秒後。
め、ぎいいいい!!!!
ロボットのアームが、本来女の子がいた場所──そして今、木寺一桁がいる場所を、通過した。
「……ッ、が、ぁ……!?」
生身の人間が出してはいけない音が響いた。
直撃ではない。アームの側面が、木寺の体を「掠めた」のだ。だが、建設重機レベルの出力において、「掠める」とは「交通事故」と同義だ。
木寺の体は、枯れ葉のように宙を舞った。回転しながら、制御不能の物体として吹き飛ばされる。その軌道の先には、ガラス張りの店舗──ドラッグストアのショーウィンドウがあった。
パキャアンッッ!!!
激しい破砕音。防犯ガラスが粉々に砕け散り、店内の陳列棚がなぎ倒される。
木寺の体は、その瓦礫の山の中へと吸い込まれ、姿を消した。
土煙が舞い上がる。商品のシャンプーや化粧品が散乱し、甘い匂いと血の匂いが混ざり合う。
時間が止まった。ロボットのアームは、空振りに終わった地面を砕き、その場に停止した。まるで、標的を見失ったかのように。
「……あ」
上条の口から、空気だけが漏れた。足が震えて、前に出ない。
瓦礫の下。動かない。声もしない。
弾き飛ばされた女の子は、腰を打ったのか泣き叫んでいるが、生きている。五体満足だ。木寺が、自身の体と引き換えに作った「数十センチのズレ」が、彼女の生死を分けたのだ。
「……木寺アアアアアアッ!!」
硬直を破り、上条が叫んだ。その声は、悲痛な響きを帯びていた。
「木寺! おい、嘘だろ!」
上条たちは、破壊された店舗へと駆け込んだ。ガラス片が靴底で鳴る。土御門が素早く周囲を確認し、青髪が瓦礫をどかす。
「……ここや! ここにおる!」
青髪が、ひしゃげた陳列棚の下から、木寺を引きずり出した。
「……ッ」
上条は、息を呑んだ。酷い。制服はボロボロに裂け、体中の至る所から血が流れている。満身創痍、顔面はガラスによる切創で朱に染まっていた。
「おい……しっかりしろ! 木寺!」
上条は、木寺の頬を叩いた。反応がない。人形のようにぐったりとしている。
土御門が、木寺の首筋に指を当てた。数秒の沈黙。その間が、上条には数時間にも感じられた。
「……生きてる」
土御門が、短く告げた。
「脈はある。……だが、弱い。内臓を打ってるかもしれん。……急いで運ばないとマズい」
「救急車! 誰か!」上条が周囲に怒鳴る。遠くでサイレンの音が聞こえる。警備員が到着し始めている。
上条は、木寺の肩口を握りしめた。その体温は冷たく、彼の服は泥だらけだった。
「……なん、でだよ」
上条の口から、無意識に言葉が溢れ出す。何かが込み上げてきて、止まらなかった。
「お前……『腐ってる』んじゃなかったのかよ……?」
俺たちは、言った。
あいつは弱い。あいつは逃げ腰の臆病者だ。
あいつは自分の殻に閉じこもって、同情を引こうとしているだけだ。
「……違ったじゃねえか」
上条は、木寺の血まみれの顔を見つめた。
こいつは、逃げなかった。俺たちが「間に合わない」と諦めた距離を、こいつはたった一人で埋めた。能力もない。武器もない。ただの、ひ弱な体一つで。
「……お前は、腐ってなんかねえよ!」
上条の右手が、彼の胸ぐらを掴もうとして、宙を彷徨って、地を殴りつけた。
「誰よりも……誰よりも、
悔しかった。
あいつを信じきれなかった自分が。
あいつを「弱者」だと決めつけ、心の深層で見下げてしまっていた自分が。
木寺一桁は、俺たちが思っていたような「可哀想な奴」なんかじゃ決してなかった。震える足で、恐怖を飲み込んで、誰かを守れる「男」だったのだ。
「……カミやん。担架が来たぜよ」
救急隊員が駆けつけてくる。木寺が運ばれていく。その姿が見えなくなるまで、上条はその場から動けなかった。
:
同日の夜。
成績処理、三者面談の準備、補習のスケジューリング。
人の気配の減った深夜の職員室で、月詠小萌は栄養ドリンクの空き瓶を積み上げながら、パソコンの画面と格闘していた。
「……ふぅ。やっとみんなの進路データがまとまりましたー……」
小萌は大きく伸びをした。背骨がぱきぱきと鳴る。
身長一三五センチの彼女にとって、大人用のオフィスチェアは少々大きすぎて、長時間座っていると腰に来るのだ。
「おー、お疲れちゃん。まだ残ってたんじゃん?」
ガララ、と引き戸が開き、ジャージ姿の女性が入ってきた。
黄泉川愛穂。
小萌の親友であり、
「愛穂ちゃんこそ。今日は警備員のシフトでしたか?」
「ああ。……ちょっとデカイ案件があってな。報告書の作成で今までかかっちまった」
黄泉川は、手に持っていたクリアファイルを、とぼけたように小萌のデスクに放った。
「……これ、お前のクラスの生徒じゃん?」
「え?」
小萌はファイルを開いた。
そこに記されていたのは、『第七学区・警備ロボット暴走事故・現場報告書』というタイトル。そして、負傷者リストの一番上に、見慣れた名前があった。
木寺一桁。
「……木寺ちゃん!?」
小萌の眠気が一瞬で吹き飛んだ。
負傷? 事故?
嫌な予感が脳裏をよぎる。四月から五月にかけて、彼が精神的に追い詰められ、孤立していった記憶。先日の、あの実験棟での一件。まさか、また、自暴自棄になって何かを──?
「落ち着けよ。……命に別状はねえ。内臓にきつめの打ち身と、骨に軽いヒビ……あとは全身の擦り傷だ」
黄泉川は、自販機で買ったブラックコーヒーを開けた。
「……自殺未遂とかじゃねえぞ。むしろ真逆だ」
「逆……?」
「人助けだよ。……暴走した2500キロの鉄塊に、生身で割り込みかまして、小学生のガキを助けたんだと」
「……え?」
小萌は、言葉を失った。なにかの、聞き間違いかと思った。
「どういう、ことですか?」
……あの、木寺ちゃんが?
「自分は無力だ」「何もない」と言い続け、世界との関わりを拒絶していた彼が?
「……本当、ですか?」
「ああ。現場の目撃証言も取れてる。……もっとも、本人は、自分は大したことしてねえって思ってるみたいだったが」
黄泉川は、少しだけ眼光を緩めた。
「助けられた女の子が見たって言ってたよ。『お兄ちゃん、すっごく震えてた』ってな」
「震えて……」
「ああ。……怖かったんだろうよ。能力もねえ、ガタイも大したことねえ。普通なら逃げ出す場面じゃんよ。……それでも、あいつは逃げなかった」
黄泉川は、小萌を見た。
「いい教え子を持ったな、小萌」
──その言葉を聞いた瞬間。
小萌の張り詰めていた糸が、プツリと切れた。
「あ……」
「ん?」
「……う、ぅ……」
何かが、こみ上げる。
視界が滲む。止めようとしても、じわじわと、熱いものが溢れてくる。
「おいおい、泣くなよ。あいつは生きてるぞ?」
「ち、違います……っ! 悲しいんじゃなくて……!」
小萌は、ハンカチで顔を覆った。
あの日、生活指導室で彼に拒絶された時。
あれ以来、小萌はずっと恐れていた。彼がこのまま、誰にも気づかれないまま、暗い闇の中に消えてしまうのではないかと。
「何もない自分」を証明するために、自らの命をも絶つのではないかと。
でも、彼は生きていた。物理的に生きているだけではない。「誰かを助けたい」という確かな意志を持って、恐怖に打ち勝ち、一歩を踏み出した。
それは。それは……
「……よ、がっった……。本当に、よかっだ……っ」
小萌は、幼い子供のように泣きじゃくった。教師として、彼を救えなかったという無力感。それが、彼自身の力強い「生存証明」によって、報われ、救われた気がした。
あああああん、と、泣き声がしばらく続く。深夜の職員室に、透き通った嗚咽が響き渡る。何事か、と残った教員たちが見ている。
「……たく。泣き虫な先生じゃんよ」
黄泉川は、呆れながらも優しく、小萌の頭をポンポンと撫でた。
「ほら、泣き止んだら行くぞ。……今日は私が奢ってやる」
「え……ひぐ……どこへ、ですか?」
「屋台だ。……祝杯あげねえとな。『教え子の英雄的帰還』にさ」
:
深夜一時。駅前の高架下に出るおでん屋台『おやっさん』。
赤提灯が揺れるその狭い空間は、すでに先客で埋まっていた。
「おばちゃん、大根と牛すじ追加ー!」
「ボクははんぺんとちくわぶや! 関西人の魂を見せたるでぇ!」
「にゃー、俺は日本酒の熱燗を頼むぜよ」
騒がしい三人組。ツンツン頭の少年、青髪の少年、そしてアロハグラサンの少年。クラスの三バカ、デルタフォースだ。
「……アンタら、未成年だろ。酒はダメじゃん」
「ゲッ! 黄泉川先生!?」
「それに小萌先生まで! 補導ですか!? 不幸だーッ!」
上条当麻が頭を抱える。土御門と青髪ピアスも「マズい」という顔をする。
「安心しな。今日はプライベートだ」
黄泉川は空いている丸椅子に座り、ビールを注文した。目を真っ赤に腫らした小萌も、隣に座る。
「……先生、目ぇ腫れてるぜよ。なんかあったか?」
土御門が、鋭く問いかける。普段はおちゃらけているが、こういう時の観察眼は侮れない。
「……いえ。ちょっと、目にゴミが入っただけですよー」
「嘘やな。その腫れ方は『大号泣』のあとや」
青髪ピアスが断言する。
「まさか……木寺の事っすか?」
上条が、恐る恐る聞いた。その名前に、場が静まり返る。
「……知っているんですか?」小萌が聞くと、三人は顔を見合わせた。
「まあ、知ってるもなにも……現場に俺たち、いたしな」
「え、ええええええええ───!?」
「ワハハ、ロボットにカマシとったでえ、あの根暗バカ」
「怪我して即入院……まあ、やばい怪我じゃなくてよかったぜよ」
彼らは知っていた。木寺一桁の勇気ある行動を。そして、彼が今、病院のベッドにいることを。彼らは木寺の様子を見に行っての帰り道だったらしい。
「……おまえら」
黄泉川が、大根を齧りながら言った。
「あいつのこと、見直したか?」
その問いに、上条は箸を置いた。そして、真面目な顔で首を横に振った。
「いいえ。……見直した、なんて偉そうなもんじゃありません」
上条は、おでんの湯気を見つめた。
「俺は……悔しいですよ」
:
「悔しい?」
「はい。……あいつ、四月の頃は『俺には何もない』って泣きごと言ってたくせに。……いざとなったら、俺らよりよっぽど凄いことやってのけた」
上条は、自分の右手に目をやった。
「俺は『幻想殺し』があるから、無茶ができる。……でも、あいつは丸腰だ。レベル0の体一つで、あんな鉄の塊に喧嘩売ったんだぞ? ……バカですよ、あいつ」
「せやな。大バカや」
青髪ピアスが同意する。
「でも、ボクらが好きな木寺はんは、そういう奴やった気もするわ。……地味で、目立たんけど、誰かのために損な役回りを引き受ける。……掃除当番代わってくれたり、ノート貸してくれたりな」
「オメーはそればっかだな青ピ!」
「……あいつの『反応なし』ってのは、単に空っぽって意味じゃねえのかもな」
土御門が、グラサンを拭きながら半笑いで言った。
「自分を空っぽにできるから、他人の痛みとか、恐怖とかを、自分のことみたいに詰め込める。……自己犠牲の才能があるぜよ、あいつは」
三人の言葉。そこには、木寺への嫉妬も、軽蔑もなかった。
あるのは、純粋なリスペクトと、そして「先を越された」という悔しさ。それは、対等な友人同士にしか生まれない感情だ。
「……ふふ、ふふふ」
小萌は、笑い出した。また涙が出てきたが、今度は笑顔だった。
「先生……?」
「ごめんなさい。……嬉しくて」
小萌は、ジョッキを持ち上げた。
「私は心配していたんです。彼が戻ってきた時、クラスに居場所があるかどうか。……でも、杞憂でしたね」
ここにある。この騒がしくて、バカで、最高な連中の中に、
「……あいつ、結局いつ退院できるんですかね?」上条が聞く。
「医者に聞いたが三週間ほどだそうだ。……夏休みには余裕で間に合うじゃん」黄泉川が答える。
「よし! なら決まりや!」
青髪ピアスが立ち上がった。
「退院祝いや! あいつが戻ってきたら、死ぬほど遊んだる! カラオケ行って、ゲーセン行って、ファミレスでダベるんや!」
「いいな。……あいつ、四月の打ち上げ来なかったしな」
「今度は逃がさねえぜよ。……首に縄つけてでも連行する」
三人が盛り上がる。
「あいつの快気祝いの費用、どうする?」「カミやんが払え」「なんでだよ!」
そんな会話を聞きながら、小萌は心の中で木寺に語りかけた。
(……聞こえますか、木寺ちゃん!)
貴方は孤独じゃない。貴方が「透明だ」と嘆いていたその体は、今、友人たちの話題の中心にあって、確かな色彩を放っている。
「……乾杯しましょう」
小萌は言った。
「私たちの『クラスメイト』の帰還に!」
「おう!」「乾杯や!」「乾杯!」「乾杯じゃん」
グラスが触れ合う音が、高架下に響いた。それは、木寺一桁という少年の「生存証明」を祝う、ささやかで、力強い祝砲だった。
:
屋台を出た後。小萌と黄泉川は、風で火照りを冷ましつつ、並んで歩いていた。
「……飲みすぎたか?」
「いえ。……胸がいっぱいで、酔えませんでした」
小萌は、夜空を見上げた。空が高く見える。
「愛穂ちゃん。……私、教師でよかったです」
「……急にどうした」
「生徒が成長する瞬間を見られる。……絶望から這い上がって、自分の足で立つ瞬間を見届けられる。……こんなに幸せな仕事、他にありませんよ」
「……そうだな」
黄泉川は、小萌の肩を叩いた。
「だが、油断するなよ。……あいつはこれから、もっと危ない橋を渡るかもしれねえ」
「え?」
「今回の事件。……あいつの存在は、少しだけ目立ちすぎた。もし「誰か」があいつに目を止めて、興味を持ったとしたら……」
「……守りますよ」
黄泉川の言葉に、小萌ははっきりと言った。
「私が、盾になります。……あの子が、あの子らしく笑っていられるように。それが、大人の役目ですから」
「……へっ。頼もしいじゃんよ」
黄泉川は笑った。この小さな教師がいる限り、木寺一桁は道を踏み外さないだろう。踏み外したとしても、きっとすぐに帰ってこれるだろう。
:
事件の翌日。
六月が迫る。
月末の考査が近づく教室は、梅雨の蒸し暑さと試験への焦燥感で澱んでいた。
除湿器の効きが悪い。吹寄制理は、額の汗を拭いながら、苛立たしげにボールペンを走らせていた。
「……はぁ。鬱陶しい」
彼女の機嫌が悪い理由は、湿気だけではない。教室の窓際、後方の列にある空席のせいだ。
木寺一桁。
彼はまた、学校に来ていない。怪我をしたとかなんとかで入院しているという。
担任の小萌先生も、わざわざ木寺の保護者に連絡を取るためとかで、今日は出勤していなかった。
朝から二時間自習が続いている。
(……どうせ、ロクな理由じゃないわ)
吹寄は、冷ややかな目で空席を意識した。
五月の雨の日。
彼を腐った臆病者と断じ、見限ったあの日から、彼女の中での木寺の評価は地に落ちたままだった。
上条への嫉妬心を爆発させ、一人でキレて周囲に八つ当たりし、最後は逃げ出した男。
今回の入院も、どうせ不注意で怪我をしたか、あるいは「学校に行きたくない」という口実を作るための仮病に近いものだろう。
「……迷惑なのよ。プリント届ける手間も考えなさい」
彼女は、放課後に彼の入院先へプリントを届けるよう、他の先生に頼まれていた。クラス委員としての義務だ。
気が進まない。あいつの、あの不幸ぶった顔を見るのが、生理的に苦痛だった。
:
休み時間。いつもなら馬鹿騒ぎをしているあのデルタフォースの様子がおかしいことに、吹寄は気づいた。
「……おい、カミやん。今日の放課後、どうする?」
「ああ。……後で病院、寄るわ」
「ボクも行くで。……あいつ、暇しとるやろうしな」
上条当麻、土御門元春、青髪ピアス。彼らは顔を寄せ合って話していた。いつもの軽口風ではない。どこか密やかで、しかし真剣な面持ちだ。
「……ちょっと、アンタたち」
吹寄は、彼らの席に近づいた。
「何コソコソしてるのよ。……木寺のこと?」
「うぐっ、吹寄ちゃあん!?」青髪が飛び上がる。
「あ、ああ。まあ、見舞いに行こうかと……」上条が歯切れ悪く答える。
「ふーん。……あいつが、どうかしたの? 『事故』って聞いてるけど」
吹寄の問いに、三人は顔を見合わせた。一瞬の沈黙。そして、土御門が、少し悩む素振りを見せてから言った。
「……まあ、運が悪かっただけだぜよ。……あいつらしいドジ踏んで、派手に転んだだけだ」
「そうそう! 階段から落ちてその下が工事中のマンホールてあいつどんだけ間が悪いねんって話やー!」青髪が早口で茶化すように笑う。
(……、嘘ね)
吹寄は直感した。彼らは隠している。木寺の入院理由を知っているのか……ただの不運? ドジ? として処理しようとしている。
なぜ? 木寺の名誉のためか?
それとも、もっと「言えないような事情」があるのか?
「……あっそ。ま、どうでもいいけど」
吹寄は興味なさそうに背を向けた。深く追求する気にはなれなかった。あいつに関わると、ロクなことがない。それはもう学習済みだ。
:
放課後。吹寄は、第七学区の総合病院を訪れていた。
手には、授業のプリントと連絡事項をまとめた封筒。さっさと渡して、さっさと帰ろう。そう思って、受付へ向かおうとした時だった。
「……あ、あの!」
ロビーのソファで、一人の女性が看護師に頭を下げているのが見えた。小さな女の子を連れた、若い母親だ。
「どうしても、お礼が言いたくて……。あの子がいなかったら、この子は……」
「お気持ちはわかりますが、患者様はまだ安静が必要でして……」
看護師が困ったように対応している。その会話の中に、聞き覚えのある名前が出た。
「……木寺さん。……あの子に、一言だけでも……」
吹寄の足が止まった。木寺? あいつが、感謝されている?
(……どういうこと?)
吹寄は、とっさに近くの柱の陰に隠れた。聞き耳を立てるなんて趣味ではないが、強烈な違和感が足を動かさなかった。
そこへ、
「……奥さん。気持ちはわかるが、今はそっとしておいてやってくれ」
「黄泉川さん……。でも、あの子、きっと大怪我をして……」
母親が泣き崩れる。その横で、小さな女の子が「おにいちゃん、しなない?」と不安そうに聞いている。
「大丈夫じゃん。全然命に別状はない」黄泉川が、子供の頭を撫でる。
「あいつは……木寺は、すぐ元気になるから気にすんな!」
その言葉の響きは、吹寄が知っている「木寺一桁」への評価とは、正反対のものだった。
お礼? 他人に、心配されている?
あいつが? あの、逃げ腰で、卑屈で、腐ったミカンのようなあいつが?
「……あの、すみません」
吹寄は、たまらず柱の陰から出た。
「吹寄? ……なんでここに」黄泉川が驚く。
「クラス委員として、プリントを届けに来ました。……それより、先生。今の話、どういうことですか?」
吹寄は、黄泉川と母親を交互に見た。
「木寺が……何をしたんですか? 『事故』じゃなかったんですか?」
黄泉川は、居心地が悪そうに頭をかいた。そして、覚悟を決めたように溜息をついた。
「……ここじゃなんだ。場所を変えるぞ」
:
病院の屋上。夕日が沈みかけている。黄泉川は、フェンスにもたれて、事の顛末を語り始めた。
「……昨日の夕方。学区の境目近くで、警備ロボットの暴走事故があった」
「ロボットの暴走……?」
「ああ。……現場に居合わせたのが、さっきの親子と……木寺だったじゃん」
黄泉川は、遠くを見つめた。
「ロボットは暴走し、子供を襲おうとしていた。……あたし達警備員も、到着が遅れていた。……周りの大人も、恐怖で動けずにいた」
想像できる。学園都市の警備ロボットだ。暴走すれば、災害のような破壊力を撒き散らす。一般人が立ち向かえる相手ではない。
「でも……木寺だけが、動いた」
「……は?」
吹寄は耳を疑った。
あいつが? 卑屈な雰囲気で、年から年中おどついて、能力測定の話が出ただけで発狂し、学校から逃げ出したあいつが?
「嘘、ですよね。……あいつはレベル0ですよ? 武器だって持ってないし、弱っちいし何もできないはず……」
「そうだ。……あいつは弱かった」
黄泉川は肯定した。
「監視カメラの映像を見たじゃん。……あの野郎、顔面蒼白で腰も引けてやがった。半泣きでさ、今すぐ逃げたくてたまらねえって顔をしてたよ」
吹寄の脳裏に、あの少年のいつもの情けない顔が浮かぶ。そうよ。それが木寺一桁よ。弱い。臆病。卑怯。
「……でも、あいつは立ち向かった」
黄泉川の言葉が、重く響いた。
「ビビりながら、子供の前に立ちはだかって。2500キロの鉄の塊に突っ込んでいったんだ」
「……ッ!?」
吹寄の手から、封筒が滑り落ちた。
「能力もねえ癖に……ただ、自分の体一つを盾にして、ロボットの間に割り込んで、さっきの子を守り抜いた」
その代償が、全身に重い打撲と擦過傷。木寺の体は、ボロ雑巾のようになっていたという。
「……馬鹿じゃんな、あいつ」
黄泉川は、苦笑いした。
「計算も損得もねえ。……ただのお人好しの極みだ。……でもな、吹寄。教師としては怒らなきゃいけなくても、あたし個人としては、今はあいつを叱る気が沸かねえんだ」
黄泉川は、吹寄の肩を叩いた。
「あいつは……全く腐ってなんかいなかった。……実はずいぶん熱いもんを、腹の中に隠し持ってたのかもな」
助けられた女の子と、その母親。
木寺が彼女たちと会わない理由は、怪我をしている姿を見せたくないからだ。
『自分のせいで酷い怪我をしてしまった少年がいる』
木寺は女の子に、そんなふうに思われたくない、と言ったらしい。
:
黄泉川が去った後も、吹寄は屋上に立ち尽くしていた。足元の封筒を拾うことさえできずに。
「……なによ、それ」
声が、揺らいだ。
「聞いて、ないわよ……そんなの…………」
彼女の中で、木寺一桁の像に、音を立てて亀裂が生まれていく。
『卑怯者』 『逃げ腰』 『自分に酔ってるだけのクズ』 『小ズルい男』
自分が彼に貼ったレッテル。彼に向けて放った、無遠慮で、凶器のような、ひどい言葉の数々。
『見苦しい』 『最低』 『アンタがやってるのは甘えよ』。
それらが全部全部、火花のように、ブーメランのように自分に跳ね返ってくる。
そして、これまで欠けていた歯車が差し込まれるように……何かの答えが、彼女の中に明確に、組みあがっていく。
やがて彼女は、一つの結論に達した。
「……あいつ、ずっと、
吹寄は、柵を、痕が残る程に……握りしめた。
あいつは、木寺一桁は、逃げてたんじゃない。自分の弱さと、恐怖と、ずっと孤独の中で戦っていたんだ。そして、いざという時には……自分の命を投げ出せるだけの「本当の勇気」を持っていた。
「……私は、何を、見ていたの…………?」
前に……本当に下らない事を、上条たちの前で、私は言った。
『土壇場で本性が露呈しただけじゃない。人間は、困難な状況でこそ本質が見える……』
果たして、本当にそうか? 人は、誰だって苦しい時は平静じゃいられない。弱い所のない人間なんて、きっとこの世のどこにもいない。困難な時に見えるモノなんて、その人間の僅か一部分でしか、ないんじゃないか……?
それに。
それを言うなら、むしろ、
だって彼は……
「、っ、ぁぁ…………あ」
鉄壁の女。完璧な管理者。
そう自負していた自分の目が、いかに節穴だったか。表面的な彼の弱さと、内向きな態度だけを見て、彼の強さと
「……最低なのは、私の方、じゃないの……っ!!」
涙が溢れた。
悔しさと、心の底からの申し訳なさと、そしてどうしようもない「恥ずかしさ」。あいつを軽蔑していた自分こそが、真に軽蔑されるべき、最低の人間だった。
「……痛かった、でしょうね……本当に、本当に、怖かったはず……」
ロボットにやられた痛み。それ以上に、誰にも理解されず、暗闇の中で戦った痛み。その痛みに……私は塩を塗ったのだ。
「……ごめん。……ごめんなさい、木寺……っ」
誰もいない屋上で、吹寄は歯を食い縛り、謝った。届かないとわかっていても、言葉にせずにはいられなかった。
:
吹寄は、病室の前まで来た。
引き戸の持ち手に手をかける。手が震える。合わせる顔がない。「よくやった」なんて褒める資格はないし、「無事でよかった」なんて言う資格も全くない。
でも、逃げるわけにはいかない。彼が逃げなかったように、私も自分の過ちから……逃げてはいけない。
「……失礼します」
彼女は、ドアを開けた。
ベッドの上。包帯だらけの少年が、窓の外を見ていた。
明りに照らされたその横顔は、以前の「朽ちて死んだ様な目」と同じに見えた。でも、それでも。今の彼は、痛みに耐えながらも、どこか少しだけ、何かが変わったような雰囲気をしていた。
……吹寄が、そう思いたいだけだろうか。
「……あ、吹寄?」
木寺が気づいて、驚いたように目を見開く。
「なんで……。あ、プリントか? 悪いな、わざわざ」
彼は、いつものように卑屈に笑おうとした。「俺なんかのために」と言おうとした。
「……バカッ!」
吹寄は、叫んだ。
「……え?」
「バカ! 大バカ者! ……なんでそんなになるまで無茶したのよ!!」
吹寄は、ベッドの脇に駆け寄り、椅子に座り込んだ。怒鳴っているのに、また、溢れてきた涙が止まらない。
「あんな……死んでたかもしれないじゃない! ……レベル0のくせに! ただの生身のくせに!」
「……吹寄?」
木寺は困惑していた。なぜ、彼女が泣いているのか。いつも冷淡で、自分を見下していた彼女が。
「……ごめん」
吹寄は、顔を伏せた。
「私……アンタのこと、何もわかってなかった。……クズだとか、ゴミだとか思って……見捨ててた」
「……いや、それは事実だし」
「事実なんかじゃない!!」
吹寄は顔を上げた。涙で濡れた瞳で、木寺を強く睨みつける。
ちゃんと謝るつもりだったのに。つい彼を前にして、声を荒げてしまう。言葉が、思考が、まとまらない。
「……というか、あんた、なんで隠すのよッ! 人助けしたんでしょ? 胸張ればいいじゃない! ……それとも、私やクラスの皆が、貴様を褒めるのがそんなに嫌!?」
吹寄は先程の上条たちの様子を思い出す。あれは「クラスの連中には言わないでくれ」と頼まれたような。そんな雰囲気だった。
「……えっ、あ、いや。ちが、え?」
面食らう。
吹寄の剣幕に、殊更に動揺する木寺。
やがて彼は、観念したように……深い、深い溜め息をついた。
その溜め息は、いつもの無気力なものではなく、秘密の隠し事を暴かれた子供のような、実にバツの悪そうな……ものだった。
「……別に、隠してるわけじゃないっていうか……ただ、かっこ、悪いから」
「
「いや、だって俺、ビビって……腰抜かしそうだったし。能力でスマートにやったわけじゃないし。……ただの泥臭いタックルだぞ? そんで間抜けに怪我して……ヒーローごっこにもなりゃしない」
彼は俯いた。
だが、その言葉を聞いた瞬間、吹寄の中で何かが決定的に砕け散った。彼に対する「負の感情」という砂上の鉄壁が。
(……な、によ、それ…………)
ビビってたから、カッコ悪い?
スマートじゃないから、言いたくない?
間抜けな、怪我?
このクソバカアホ野郎は、
「あ……」
吹寄は声を上げようとした。頭がガンガンと痛くなってきた。眩暈さえ覚える。
「……アンタ、ねぇ」
吹寄は、呆れを通り越して、(逆ギレかもしれないが)本気の憤怒が湧いてきた。
でもそれは、以前のような彼を軽蔑する怒りではない。彼の自己評価の低さに対する、もどかしく力強い怒りだ。誰かのための、怒りだった。
「能力があるから偉いの? スマートだから凄いの? ……そんなの、絶対違うでしょ!?」
吹寄は、木寺の胸ぐらを小突こうとして……怪我を見てやめて、代わりに強く指さした。
「怖くても貴様は動いた。……それが一番……何よりも『最高にカッコいい』に決まってるじゃない!!!」
「……ぇ?」
木寺が目を見開く。
クラスの支配者、鉄壁の女、正しさの権化、吹寄制理。いつもガミガミ怒っている彼女が、今、顔を真っ赤にして自分を全力肯定している……?
「アンタは……決してクズなんかじゃない。……アンタは、凄く立派だったわよ。……断言する……心の底から、認めるわ」
「……あ、え?」
「だから……」
吹寄は、封筒をベッドの横に優しく置いた。
「……早く治しなさい。……早く学校に来て、私の目の前で、普通の高校生として、アンタに過ごしてほしいのよ」
それは、願いだった。そして、彼女なりの最大限の「謝罪」であり「承認」だった。もう見捨てない。アンタがどれだけ無茶をしても、私が必ず見つけて、引き戻してやる。
絶対の絶対に、木寺一桁を独りになんかさせない。もう二度と、そんな事にさせてたまるか。
「……っ、手のかかる問題児なんだから!」
吹寄は、何かを誤魔化すようにハンカチで乱暴に目を拭った。
木寺は、ポカンとしていたが、やがて苦笑した。
「……厳しいよな、相変わらず」
「当たり前でしょ。クラス委員なんだから」
吹寄は、鼻をすすった。二人の間に流れる空気は、まだぎこちない。だが、そこにあった冷たい壁は、多分もう、きっとどこにもなかった。
「……ありがとな、吹寄」
木寺の言葉に、吹寄は「う……」と顔を背けた。耳まで赤くなっているのを隠すように。
:
病院の廊下。吹寄制理は、足音を響かせて、早足で歩いていく。
(……木寺)
彼女は、心の中で彼に話しかけた。
(アンタと私の過去は、消せないわ。……傷ついたことも、傷つけたことも、私が馬鹿だった事も、アンタが一人で戦ったことも、全部何もかも、動かせない事実よ)
でも、と彼女は思う。
(だからこそ、今のアンタが、私が、いるんだって思いたい……そして私たちはその傷みごと、絶対にアンタを受け入れるわ。だから)
「……早く戻ってきなさいよ、ばか」
彼女の呟きは、ロビーの喧騒の中に、確かに通り、浸透していった。
木寺過去編、次回完結(まさかの長編だった)