常盤台には濃い人達がまだ一杯隠れてると思われます。
七月二十六日。
終業式からしばらく経ち、街全体が解放感という名の熱病に浮かれている。
だが、学舎の園──常盤台中学をはじめとする名門お嬢様学校が密集するエリアだけは、高いセキュリティと完璧な管理によって、上流階級的な節度を保っていた。
その中心付近のカフェテリア。
優雅なお茶会を楽しむお嬢様たちの中で、学園都市第三位の
「……はぁ。やっと本腰の夏休みかー」
気分は晴れない。
この間から続いていたトンデモ騒動が収束し、ようやく腰を落ち着けられると思った矢先なのだが、どうも……いつもの調子が出ないのだ。
「うーん……」
その原因は、幾つか思い当たる。
例えば最近、彼女の付近で囁かれている不気味な噂──自分のそっくりさんが夜な夜な街でサバゲーだかをしてるという荒唐無稽なモノ。
果ては、そっくりさんは実はクローンで、密かに軍用に運用されてる……なんて言う悪趣味な冗談も、一度だけ小耳に挟んだ。
あまりにふざけたそれや、この間のあの馬鹿どものこと。
色々と、胸の奥に留まった小さな苛つきが、どうしても抜けずにいた。
「あら、お姉様。また難しい顔をされてますのね」
向かいの席で、優雅にロイヤルミルクティーを啜っているのは、後輩でありルームメイト、そして
彼女はテーブルの上に広げた
「わたくしも、一学期の報告書の整理で頭が痛いですのよ。……最近は、表に出ない小さな事件が多すぎますわ」
「へえ……どんなのよ?」
美琴は何気なく、黒子が操作している画面を覗き込んだ。
そこには、スクラップされた事件記事や報告書が並んでいる。
「……ん?」
美琴の目が、ある一つの報告書で止まった。
『第七学区・警備ロボット誤作動事故』という見出しと共に、現場検証の写真と、参考人として登録された少年の顔写真が映っていた。
「……あ、こいつ!」
どこかで見た顔だ。
というか、まさに、つい一週間前。
「おや、ご存知ですの? これは先月起きた事故の資料ですけれど」
「……ええ、まあ、ちょっとね」
美琴は、苦々しい、というより奇妙な記憶を頭の中で再現した。
彼は持っていた野菜ジュースをぶちまけて、電撃の軌道を強引に逸らしたのだ。
黒子にも先日話したが、彼女の頭の中では当然この2つは繋がらない。美琴は黙っていることにした。
(……あんなの、やっぱりまぐれだろうけど。咄嗟にジュースを撒き散らして逃げるなんて、変な奴だったわね)
電撃を逸らされたこと自体もだが、その間の抜けた対処法と、その後の「ひぃっ!?」という情けない悲鳴も印象に残っていた。
その少年が、まさか風紀委員の資料に載っているとは。
「こいつ、何か悪いことでもしたの?」
「いいえ、逆ですわ」
黒子は画面をタップし、詳細を表示させた。
「彼は、暴走して小学児童に襲いかかった警備ロボットに対し、身を挺して立ち向かったらしいです。結果、ロボットは機能停止。誰も犠牲者は出ませんでしたわ」
「へぇ……! やるじゃない。あの情けないツラで、意外と……」
「
「いや、えっと、なんでもないんだけど!」
美琴は感心した。
あの時の逃げっぷりからは想像もつかないが、いざという時には体を張れるタイプなのだろうか。
「ですが、驚くべきはその後ですわ。彼はそれなりの大怪我を負いながら、表彰もメディアの取材も全て断ったそうですの」
「断った?」
「ええ。『大事にしないでくれ』『ただ転んだことにしておいてくれ』って。……結局、事件は『ロボットの単なる故障』として処理され、彼の名前はどこにも公表されませんでした」
「……随分と謙虚ね。有名になりたくないのかしら」
「あるいは、自分の行いを誇るほどの事ではないと思っているのか。……名前は、
「ふうん」
名前は知っていたが、気のない返事のふりをする。
レベル0でありながら、恐怖に負けずに機械に立ち向かい、名誉も求めずに去っていく。
そして、レベル5の電撃を野菜ジュースで凌ぐという、奇妙な悪運の強さ。
能力の強弱だけが価値基準になりがちなこの街で、そんな少年がいることに、美琴は素直に面白味を感じた。
「ふーん。……骨のある奴もいるもんね」
「おやおや、お姉様が殿方を褒めるなんて。……明日は槍でも降りますかしら?」
「うるさいわね! 事実を言っただけよ!」
と。
美琴が顔を赤くして反論した、その時。
サロンの奥の席から、ひときわ華やかな笑い声が聞こえてきた。
「うふふふふ、さすが
「やっぱりレベル4は違いますわねぇ!」
「次の能力測定も一年ではトップ確実じゃなくて? 入学早々その実力なんて、末恐ろしいですわ~」
取り巻きの令嬢たちに囲まれている、一人の少女。
艶やかな黒髪をハーフアップにし、涼しげな目元と意志の強そうな瞳を持つ美少女だ。
一年生ながら、そのカリスマ性と実力で、早くも常盤台の「顔」の一人として君臨しつつある存在感が漂っている。
「……騒がしいわね。誰、あの子?」
美琴が怪訝そうに尋ねると、黒子は目を丸くして、それから嬉しそうにクスクスと笑った。
「あらま、お姉様。ご存じありませんの?」
「え? 有名なの?」
「有名どころではありませんわよ。彼女は
「先週も学園都市の広報番組で特集が組まれていましたし、学校側も『次期エース』として猛プッシュしている新進気鋭の優等生ですの」
「へぇ……テレビに出てたんだ」
美琴は興味なさそうに肩をすくめた。
自分がテレビや派閥争いに興味がないせいか、校内の有名人にはとことん疎い。
「ふふっ、さすがはお姉様ですの。学内のヒエラルキーや流行になど一切媚びない、その孤高の精神……! ああ、やはりお姉様こそが常盤台の頂点にふさわしいですわあああ!」
「あんた、褒めてるの? 呆れてるの?」
黒子の熱っぽい視線と抱擁をかわしながら、美琴はふと、その名前に引っかかりを覚えた。
「……待って。あの子、名前なんて言った?」
「木寺二葉さんですわ」
「木寺……」
美琴は、先ほど見た報告書の印字を頭の中で転がす。
木寺一桁。
木寺二葉。
同じ第七学区。そして、あの少年とどことなく似た目元。
「……ねえ黒子。あの子、さっきの木寺くんとやらと関係あるのかしら?」
「さあ? 木寺という苗字はそこまで珍しくありませんし……偶然の一致ではありませんの?」
黒子は興味なさそうに紅茶を啜る。彼女にとって、レベル0の少年と常盤台のエース候補に関連性などあるはずがないという認識なのだろう。
「……ふーん……。でも、もし兄妹だとしたら、面白いわね」
美琴は身を乗り出した。
兄は無能力者だが、謙虚で隠れたヒーロー。
妹は常盤台の期待の星で、華やかな優等生。
もし彼らが兄妹なら、優秀な妹は、そんな兄の隠れたカッコよさを知っているはずだ。
「……ちょっと、聞いてくる」
美琴は席を立った。
「あ、お姉様!? またそんな唐突に……!」
黒子の制止を振り切り、美琴は二葉のテーブルへと近づいた。
「ごきげんよう」
美琴が声をかけると、取り巻きたちが「ゲッ、
第三位の威光は伊達ではない。
二葉は、優雅にカップを置き、にこりと微笑んだ。
その笑顔は完璧だった。一点の曇りもない、模範的な後輩の笑顔。
「まあ、御坂先輩。ごきげんよう。……私に何か?」
物怖じしない態度。さすがはメディア慣れしているだけある。
「ちょっと気になってね。……アンタ、木寺一桁くんって知ってる? 苗字が同じだから、もしかしてと思って」
美琴が切り出すと、二葉の表情が一瞬だけ止まった。
だが、すぐに花が咲くような笑顔で頷いた。
「ええ、知っておりますわ。……実の兄ですもの」
「やっぱり! へぇえ、世間は狭いわね!」
美琴はなぜか嬉しくなって、言葉を続けた。
「実はさっき、お兄さんの話を聞いたのよ。先月、ロボットの事故から女の子を助けたんだって? レベル0なのに体張ってさ、しかも『大事にしないでくれ』って名乗らずに事件を終わらせたとか。凄いじゃない、お兄さん」
美琴は、素直な称賛の言葉を口にした。
兄の勇気を、妹と共に称え合えると思ったのだ。
だが。
二葉の反応は、美琴の予想を冷たく裏切るものだった。
「……え?」
二葉は、きょとんとして瞬きをした。
そして次の瞬間、困ったように口元を隠し、くすくすと上品に、しかしどこか困惑を含んだ笑い声を漏らしたのだ。
「ふふっ……まあ、御坂先輩。誰からそんな
「……デマ?」
「ええ、デマですわ。兄がロボットを止めた? 人助けをした? ……そんなこと、
二葉は、まるで「犬猫が空を飛んだ」という話を聞いたかのように、全否定した。
「兄は昔から見栄っ張りで……時々、自分を大きく見せようとするんです。本当は、
二葉は溜息をついた。
そこにあるのは、嘘をつく無能な兄を憐れむような、深く歪んだ慈愛の表情。
「無能力者で、運動はまあまあ、勉学はあんまり。そもそも怖がりな兄ですもの。……ロボットの前に立つなんて、できるはずがありませんわ。ふふっ、本当に可愛らしい嘘つきなんだから」
「……………………、」
美琴の胸に、冷たい棘が刺さったような感覚が走った。
黒子の情報は、風紀委員の公式記録だ。嘘なはずがない。
木寺一桁は、本当に体を張って少女を助けたのだ。
それを、実の妹が「見栄っ張りの嘘」と決めつけ……いや、そう断じて笑っている。
いや……美琴との会話において、彼女は
それも、バカにしているのではない。
まるで、「無能であることが愛おしい」とでも言うように。
壊れた玩具を愛でる子供のような、無邪気で残酷な笑み。
「……アンタ、お兄さんのこと、どう思ってるの?」
美琴は、思わず尋ねていた。
これ以上踏み込むべきではないと分かっていながら。
「どうって……大好きですわ」
二葉は、うっとりとした顔で言った。
その瞳は、美琴を見ていない。どこか遠くにある、自分の理想の「お兄様」を見ている。
「優しくて、穏やかで、何もできなくて。……私が守ってあげなきゃ、すぐに壊れてしまいそうな、可憐なお兄様」
彼女は、自分の豊かな胸の前で手を組んだ。
「私がついていてあげないと、兄は息をするのも忘れそうなんです。……だから、私は出来るだけ兄を気にかけているつもりですの」
「……気にかけている?」
「ええ。……兄に変な虫がつかないように。兄は『透明』なままでいいんです。……誰にも見つからず、硝子ケースの中にいてくれれば、それで彼は幸せなんですもの」
二葉は、ハッとして口元を押さえた。
「あら、ごめんなさい。……つい、ノロケてしまいましたわ」
「…………そう」
美琴は、背筋が寒くなった。
これは、「ブラコン」なんて生易しいものではない。
「依存」であり、「支配」だ。
彼女は兄を愛しているが、それは人間としての対等な愛ではなく、「
兄が「英雄」になることを許さない。
兄は「無力」でなければならない。
なぜなら、そうでなければ「守ってあげる私」の存在意義が消えてしまうから……?
「……お大事に、と伝えておいて」
美琴はそれだけ言い残して、逃げるようにその場を離れた。
これ以上話していると、その甘い毒のような歪んだ愛情に、自分まで絡め取られそうだったからだ。
:
席に戻った美琴は、氷の溶けきった薄いお茶を一気に飲み干した。
「……お姉様? 顔色が優れませんわよ」
黒子が心配そうに覗き込む。
「……黒子。あの子……ヤバいわ」
「ヤバいとは?」
「あの子にとって、兄は『ダメ人間』でなきゃいけないのよ」
美琴は、頬杖をついて、不機嫌そうにテーブルを睨みつけた。
「あいつが実際に勇気ある行動をしたとしても、あの子はそれを『嘘』か『間違い』として処理する。……兄がレベル0で、ドジで、誰にも相手にされない存在であること。それが、あの子の『幸福』の前提条件になってる」
黒子は怪訝そうな顔をした。
「兄ですか。そういえばブラコンという事は聞きますわね。……でもよくあるおイタ……ちょっとした依存の類ですわよ? それがお姉様の顔色を悪くするほどの事ですの?」
「……わからない。ただ、なんか嫌な感じがしたのよ」
美琴は、自嘲気味に笑った。
それは、今の自分が抱えているストレスの一端とも、どこか似ている気がしたからだ。
巷で噂されている、自分のそっくりさん──それが軍用に使われているなんて、ふざけたネタ。
もし彼女たちが実在するとしたら。
私は彼女たちをどう思うだろう?
「私の遺伝子から作られた偽物」?
「私が救ってあげなきゃいけない無力な被害者」?
(……私も、あの子と同じなのかな)
美琴の脳は、自分と同じ顔をした少女たちの姿を妄想する。
ただの思考実験だ。
私は彼女たちを、対等な人間として見ることができるだろうか?
それとも、「私が守るべき弱者」として、無意識に見下し、管理しようとしてしまうのではないか?
彼女たちが「自分の意思」を持ち、私の手を離れていくことを、心のどこかで恐れてしまうのではないか?
木寺二葉の歪んだ愛は、御坂美琴の心の奥底にあるかもしれない「傲慢さ」を映し出す、歪んだ鏡だったのかもしれない。
「……お姉様?」
「ううん、なんでもない。……ただ、少し胸が悪くなっただけ」
美琴は席を立った。
木寺一桁。
昨日、野菜ジュース片手に情けなく逃げ回っていた少年。
彼がなぜ、英雄的な行いをしてもなお、大事にしないでくれと言って姿を消したのか。
その理由がわかった気がした。
もし彼が表彰でもされれば、妹の管理という名の鎖が、さらに強く締め付けられることを知っているからだ。
……あるいは、それも全然違う理由かもしれないが。
(……よくやってる奴もいるもんね)
そんな環境で、全く心が折れずに。
妹の望む無力な人形であることを求められながら、それでもいざという時には体を張れる。
その強さは、能力のレベルなんかじゃ測れない。
「……少し、興味が湧いてきたわ」
美琴は呟いた。
木寺一桁という少年。
彼が、この妹という牢獄からどうやって抜け出すのか。
それとも、一生飼い殺されるのか。
「はーあ……たる」
「妹」という言葉が、それぞれの運命を静かに縛り付けていく。
:
そうして翌日。
学生の習性というべきか、街全体の雰囲気はいよいよ朝も夜もなくなってきている。
だが、完璧に管理された常盤台中学女子寮の一室は、いつも通り、別世界のように快適だった。
「でも……暇ねぇ」
御坂美琴は、ソファでゲコ太クッションを抱きしめながら、退屈そうに足をぶらつかせていた。
宿題をする気にもなれず、かといって特に予定もない。
実に平和な夜。
「お姉様、せっかくの夏休みですのよ? もっと有意義に過ごしましょうよ。例えば、わたくしのオイルマッサージを受けるとか……」
「お断りよ……テレビでも見るか」
美琴は黒子の変態発言をスルーして、リモコンを操作した。
画面に映し出されたのは、学園都市の人気情報番組『突撃今日の能力者』のスペシャル特番。
『今夜のゲストは……! あの常盤台中学の期待の超新星! 才色兼備のカリスマレベル4、木寺二葉さんです!!』
派手なファンファーレと共に、スタジオのセットが映し出される。
そして、カメラの中央に、一人の少女が現れた。
「……あ」
美琴の手が止まった。
画面の中の少女。あでやかな黒髪、理知的な視線、そしてカメラ慣れした完璧な微笑み。
昨日、カフェで挨拶を交わした、あの妹だ。
「……出てるわねぇ、あの子」
「ええ。最近メディアへの露出が増えていますわね。一年生ながら、学校側も広報塔として期待しているのでしょう」
黒子が紅茶を啜りながら解説する。
画面の中の二葉は、緊張する素振りも見せず、優雅に手を振っている。
『キャー! 二葉さまー!』
『こっち向いてー!』
スタジオ観覧席からの黄色い声援。他校の女子か? アイドル並みの人気だ。
「ふーん。愛想いいじゃない。昨日の猫被りとは大違いね」
「おや、まだ根に持っていらっしゃいますの?」
「別に……ただ、なんか肌に合わないだけよ」
美琴は不満げに鼻を鳴らした。
昨日の接触で感じた、「兄に対する態度」が、どうしても引っかかっていたのだ。
番組は、二葉の紹介と能力の実演から始まった。
『二葉さんの能力は「
司会者がマイクを向ける。
二葉は、テーブルの上に置かれた蝋燭と、水の入ったビーカーを指し示した。
「空気中の成分を、自在に分離、仕分けて操作することができますわ。……例えば」
彼女が指をぱちりと鳴らす。
瞬間、蝋燭の炎が「ボッ!」と音を立てて、激しく燃え上がった。
数メートルもの高さに達する火柱。スタジオがどよめく。
「これは、炎の周囲に酸素を集めた結果です。……逆に」
彼女が手を振ると、今度は火が一瞬で消えた。
そして、ビーカーの水がぱきき……と凍りついた。
「窒素を圧縮・冷却し、液体窒素に近い状態を作り出しました」
『す、すっごい! まさに空気を支配する能力ですね!』
称賛の嵐。
二葉は、謙遜することなく、当然の権利のように微笑んでいる。
「……確かに、凄いわね」
美琴も、能力者としての実力は認めざるを得なかった。
気体の操作は計算が複雑だ。それを涼しい顔でこの精度でやってのける演算能力。
間違いなく、常盤台でもトップクラスの実力者だ。
「でも、お姉様。……本題はここからですわよ」
黒子が画面を指さす。
番組のコーナーが切り替わった。
『教えて二葉ちゃんっ プライベートコーナー!』
『さて、ここからは二葉さんの素顔に迫ります! ……視聴者からの質問です。「尊敬している人はいますか?」』
司会者がカードを引く。
二葉は、少しだけ目を伏せ、頬を染める
そして、カメラを真っ直ぐに見つめて言った。
「……兄ですわ」
スタジオが「おぉー!」と沸く。
「お兄さんがいるんですか?」「どんな人?」と質問が飛ぶ。
「兄は……そうですね。世界で一番、優しくて……儚い人です」
二葉は、言葉を選びながら語り始めた。
「兄は、私とは違って……
『えっ? そうなんですか?』
「ええ……勉学のほうもパッとしません。ドジで、要領が悪くて、いつも何かに躓いていますわ」
彼女は、くつくつと笑った。
それは、出来の悪いペットを慈しむような、甘ったるい笑みだった。
「先日も、階段から転げ落ちて入院してしまいましたの。……私が目を離すと、すぐに怪我をしてしまう。……本当に、手のかかる人なんです」
スタジオからは「可愛いお兄さんですね」「守ってあげたくなりますね~」という好意的な反応が返ってくる。
視聴者には、それが「姉御肌のしっかり者の妹と、ドジな兄」という、微笑ましい関係に見えているのだろう。
だが。
テレビの前の美琴は、シラけた目で画面を見ていた。
「……また言ってるわよ、階段って」
木寺一桁は、階段から落ちたのではない。
暴走した警備ロボットに立ち向かい、子供を助けて怪我をしたのだ。
黒子の報告書にもある事実。美琴自身も、昨日彼が電撃を避けた時の機転を目撃している。
彼は決して「ドジで無能なだけの兄」ではない。
なのに、妹はそれを認めようとしない。
家族だ。知らないはずがないのだが……それでも頑なに「お茶目な兄」というレッテルを貼り続けている。
番組は続く。
画面の中の二葉は、さらに饒舌になっていた。
『そんなお兄さんの、どんなところが好きなんですか?』
「……『何もない』ところです」
二葉は即答した。
「兄には、牙も爪もありません。……この学園都市という忙しない場所で生きていくには、あまりにも無防備なんです……だからこそ、私が守ってあげなければならない」
彼女は、胸に手を当てて言った。
「兄は何も持たなくても、私の大切な兄なんです」
彼女の瞳が、昏く光った。
「兄が無力でいてくれるからこそ、私は強くいられる。……兄の弱さは、私にとっての『宝物』なんです」
スタジオは「わぁ、深いですねー」「究極の兄妹愛ですね!」と盛り上がっている。
だが、美琴には聞こえていた。
その言葉の裏にある、
『お兄ちゃんは一生、無能なままでいて。私の管理下から一歩も出ないで』
『アンタが成長することは許さない。アンタが誰かに認められることも許さない』
『アンタは私の
「……うおわぁ」
美琴は、思わず身震いした。
「何これ……重っ。怖っ」
これは愛ではない。呪いだ。
「貴方は無力だ」と言い続けることで、相手の自信と可能性を奪い、自分に依存させるマインドコントロール。
「……同感ですわお姉様。これは、なかなかに質の悪い関係ですわね」
黒子も、真剣な表情をしていた。
「彼女は、お兄様の人格を否定していますのよ。そして、何もできない彼だけを愛している。……逆に言えば、『何かを成し遂げた彼』は、彼女にとって不都合な異物なんでしょうね」
美琴は、先日ニアミスした木寺の顔を思い出した。
あの情けない少年。
彼がなぜ、あんなにも影が薄く、自信なさげなのか。
その理由の一旦はこれだろうか?
一番身近な家族であるこの妹が、笑顔で、善意の顔をして、こんな舐めた立ち回りをしているのだ。
「あんたは飛べないのよ」と囁き続けていたからだ。
「……あの男、よく発狂しないで生きてるわね」
美琴は、画面の二葉を、呆れ半分、同情半分で睨みつけた。
あんな「完璧な檻」に閉じ込められていたら、誰だって自分を見失う。
「自分は無力だ」と洗脳されてしまう。
なのに、彼は咄嗟の機転でレベル5の攻撃をかわし、ロボットから人を救った。
この妹の支配下で、よくそこまで自我を保っていられるものだ。精神力が強い? あるいは、めちゃくちゃ鈍感とかなのだろうか。
「……まあ、他所の家庭の事情だけどさ。さすがにちょっと、同情するわ」
美琴はジュースの氷を噛み砕いた。
ガリッ、という音が響く。
:
番組の最後。
司会者が二葉に振った。
『では最後に、テレビを見ているかもしれないお兄さんに、メッセージをお願いします!』
カメラが二葉の顔にズームアップする。
彼女は、極上の笑顔を作った。
だが、その目は笑っていなかった。
レンズの向こうにいる「兄」を、射抜くような目。
「お兄ちゃん。……見てる?」
甘い声。
「夏休みが始まったね。……でも、あんまり羽目を外しちゃダメだよ。お兄ちゃんは本当、すごく間が悪いんだから」
そして、彼女は少し首を傾げ、囁くように言った。
「ね……『
ぞわり。
テレビの前の美琴の背筋が冷えた。
このメッセージは、愛情ではない。警告だ。
『人助けなんてしていないわよね?』 『私の知らないところで、勝手に動いたりしていないわよね?』 『まさか……身の程知らずなことなんてしていないわよね?』
「今度そっちに行くね。ご飯作ってあげる。お兄ちゃんは料理が下手だから」
二葉は、カメラに向かって手を振った。
番組のエンドロールが流れる。
スタジオの歓声。華やかなフィナーレ。
だが、美琴と黒子の間には、なんとも言えない微妙な空気が流れていた。
「……、」
美琴は、リモコンを掴み、テレビの電源を切った。
ぷつり。
画面が暗転し、二人の顔が映り込む。
「……はぁ。なんか、胸焼けしてきた」
「お察ししますわ。……あれは、公共の電波を使った『首輪の確認』ですわね」
黒子は、冷めた紅茶を置いた。
「……怖いわねぇ、女って」
自分も女だけど。と呟きつつ。
美琴は、ベッドに深く沈み込んだ。
木寺一桁。
この前出会ったばかりの、名前も知らなかった少年。
彼のために戦おうとか、助けてあげようとか、そんな大層な義理はない。
あくまで、ただの赤の他人だ。
でも。
「……ま、強く生きなさいよ、ヒトケタ」
美琴は、天井に向かって呟いた。
あんな妹に睨まれて、それでもこそこそと人助けをしている彼に、ささやかなエールを送る。
「もし万が一街で会ったら、ジュースくらい奢ってあげてもいいかもね」
「あら、お姉様にしてはこれまたこれまた」
「うるさい。……苦労人への、せめてもの情けよ」
もし、
小さな善意が、大きな善意を呼び起こすこともあるだろう。
この「少しの同情」が、やがて来る学園都市の深い闇の中で、彼と交差するための小さな、しかし確かな「可能性」になることに。
当然、今の美琴がそんな予感を抱く余地すらなかった。
そうして彼女は、今はただ、一人の少年が抱える「家庭の事情」に、少しだけ顔をしかめるのだった。