常盤台中学では、生徒たちの自治により幾つかの「社交場」が運営されている。
そのうちの一つ、成績優秀者および一部の特権者しか利用を許されないサロンだった。
磨き抜かれたマーブルの床と調和する、意匠をこらされた調度品の数々。そして最高級の茶葉の香り。
ここは、真に選ばれし乙女たちの戦場である。
「…………、」
そのサロンの中央、最も見晴らしの良い席に、一人の少女が座っていた。
新入生にして、レベル4『
漆黒に光る黒髪をハーフアップにし、知性の宿る瞳で分厚い洋書を読んでいる。
彼女の周りには、取り巻きの生徒たちはいない。今日はこういう場所で、一人静かに思索を巡らせたい気分だったのだ。
「……空調の設定が、少々高いですわね」
二葉は、本から目を離さずに呟いた。
彼女がパチンと指を鳴らすと、周囲の空気が一瞬だけじわりと歪んで見えた。
『空気分離』による窒素密度の操作と吸熱反応。
局所的な冷却。彼女のテーブル周りだけが、高原のような涼しさに包まれる。
「……あらぁ。随分と器用なマネをなさるのねぇ」
と。
ふと、甘く、とろけるような声が、頭上から降ってきた。
二葉が顔を上げると、そこには蜂蜜色の髪を豪奢にウェーブさせた少女が立っていた。
星の瞳。中学生離れした豊満なプロポーション。
そして、手にはテレビのリモコン。
学園都市第五位、『
常盤台最大派閥の女王が、数名の親衛隊を従えて立っていた。
「……ごきげんよう、食蜂先輩」
二葉は、欠片も動じることなく本を閉じ、淑やかに会釈をした。
立ち上がらない。
それは、上級生でありレベル5である相手に対する、無言の「対等宣言」だった。
「お隣、よろしくて? 今日はあいにく、お気に入りの席が埋まっていてねぇ」
「ええ、構いませんわ。……女王陛下の玉座として相応しいかはわかりませんが」
二葉は、向かいの席を掌で示した。
食蜂は、その不遜な態度を咎めることなく、優雅に腰を下ろした。
だが、その星の瞳の奥は笑っていなかった。
(……木寺二葉。一年生。……私の派閥勧誘を、三度も無下にかわし続けている生意気な新人ちゃん)
食蜂は、口角を微かに上げた
彼女にとって、派閥に入らない実力者は、潜在的なリスクだ。
特に、この少女の目は気に入らない。
権力や能力、あるいは『心理掌握』という絶対的な力にさえ媚びない、確固たる「自分だけの基準」を持っている目だ。
「最近、よくよく周囲でも話題だわよぉ。……『一年生に、空気を支配する魔女がいる』と」
「過分な評価ですわ……私はただ、自分にとって快適な環境を作っているだけです」
二葉は、紅茶に、砂糖を混ぜてから口をつけた。
「それに、支配などという野蛮な言葉は似合いません……私は、空気に『あるべき場所』を教えてあげているだけですもの」
「……へぇ」
食蜂は、目を細めた。
傲慢。
レベル5特有の「
『世界は私のためにある』と信じて疑わない、強者の傲慢さ。
:
「ねえ、木寺さん」
食蜂が、紅茶のカップをソーサーの上で回しながら、いきなり核心を突いた。
「貴女、どうして私の派閥に入らないの? ……私の保護下に入れば、もっと効率よく能力を伸ばせるし、学園生活も快適力になるわよぉ? 先輩からの嫌がらせも、面倒な教師も、私が全部『処理』してあげる」
それは、勧誘というよりは、甘い毒を含んだ尋問に近かった。
食蜂は、リモコンを膝の上に置いた。
いつでもボタンを押せる位置に。
「光栄なお誘いですけれど」
二葉は、食蜂の目──そしてリモコンを目で追っても、眉一つ動かさなかった。
「私は、『誰かの下』につくのがとても嫌いなのです」
「……あら?」
「私は、私の世界の王でありたい。……たとえ相手がレベル5の女王でも、私の頭上を飛ぶことは
ヒュウ……
二葉の周囲の空気が、その密度を変えていく。
『窒素の壁』。
不可視の防御壁が、彼女の脳を守るように展開されていた。
食蜂は、リモコンに力を入れかけて、止めた。
(……全く読めない、ってわけではなさそうだけど…………)
『心理掌握』は、脳内の水分操作だ。
だが、二葉は自身の脳周辺の血流や酸素濃度をミクロレベルで操作し、脳波を「迷彩化」している可能性がある。
その場合思考を読もうとしても、彼女を操ろうとしても、かなりの「遊び」が走る。
読まれることを前提に、偽の思考を表層に浮かべていようが、並みの能力者がそれなりの対抗手段を用意しようが、自分には無力だが。
二葉はレベル4の、それも上位の空気を操る力を持つ。彼女がそこまで精密に脳に空気を含ませ配置できるなら、あるいは『多少の抵抗』をされてしまうかもしれない。
……力押しするには、まだ早い。
「……随分と、ガードが堅いのねぇ」
食蜂が苦笑する。
「用心深い性格なもので。……大切な『宝物』を守るためには、隙を見せるわけにはいきませんから」
「……宝物?」
食蜂が小首をかしげる。
「ええ……私の、世界で一番大切なものですわ」
ふと。
おもむろに、二葉の表情が、一変した。
先ほどまでの冷徹な「魔女」の顔が消え、とろけるような「慈母」、あるいは「狂信者」の顔になる。
だが、その瞳の奥には、底知れない闇が渦巻いていた。
「……兄です」
「……あら、お兄さんがいるの?」
存在は当然知っているが。ただのレベル0だ。特に食蜂もそちらを掘り下げているわけではない。だからこの会話の流れは意外な展開だった。
「はい。……木寺一桁といいます。ここから近い、普通の高校に通っていますわ」
二葉は、恍惚とした表情で語り始めた。
「兄は……私とは正反対なんです。能力はレベル0。これ、という特技のようなものもない……要領が悪くて、いつも損ばかりしています」
「……へえ」
食蜂は、相槌を打ちながらも警戒レベルを上げた。
普通、常盤台の優秀な生徒が「出来損ないの兄弟姉妹」を語る時、そこには軽蔑か、あるいはコンプレックスが含まれる。
だが、二葉の声には、それらとは違う「粘着質な執着」があった。
「兄は、弱いんです。……果てなき荒野に放り出されたウサギのように、震えていて、無防備で。……誰かが守ってあげないと、すぐに死んでしまいそうな人なんです」
二葉は、テーブルの上で指を組んだ。
「だから、私が守ってあげているんです。……兄の生きる道を……全て私が選んで、調整して、意味のあるものだけを与えているんです」
「……それって、過保護すぎないかしら?」
「過保護? いいえ、管理ですよ」
二葉は、ふんわりと言った。
「兄には、選択能力がありません。……放っておくと、すぐに妙な虫がついたり、危険な場所に近づいたりしますから。……私が『鳥籠』に入れて、綺麗な水と餌だけを与えてあげるのが、兄にとって一番の幸せなんです」
「…………、」
食蜂は、リモコンで腹の辺りを擦った。
(……ヤンデレ、ってやつかしら。それも、相当重症の)
食蜂は、精神操作のプロだ。
二葉の精神構造が、極めて歪な形で安定していることが見て取れた。
彼女は、兄を「人間」として愛しているのではない。
「自分の庇護欲を満たすための人形」として愛している。
そして、その「人形」が自分の管理下にあることこそが、彼女の
「でも、お兄さんにも意思があるでしょ? ……嫌がらないの?」
「嫌がるはずがありません」
二葉は、心底不思議そうに首を傾げた。
「兄には、私しかいないんですもの。……能力もない、才能もない、何もない兄を、こんなに愛して、価値を与えてあげているのは私だけです」
彼女は、甘く笑った。
「兄もわかっていますわ。『自分は二葉がいないと生きていけない』って。……そうやって、言い聞かせてきましたから」
洗脳。
あるいは、精神的な呪縛。
「お前はダメだ」「私がいなきゃダメだ」と言い続けることで、相手の自尊心を削ぎ落とし、依存させる。
それを、この少女は「愛」だと信じて疑っていない。
:
サロンの空気が、重くなった。
食蜂は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
レベル5である彼女にとって、敵と戦うことは日常だ。
だが、この少女の抱える「闇」は、能力バトルの次元とは違う、生理的な嫌悪感を催させるものだった。
「……貴女、怖いわねぇ」
食蜂が、ぽそりと言った。
彼女にとって、兄の存在を味方でもない自分に曝露する事は、弱みにもなるはずだが。
それを込みで、彼女はそれを語ることに、何のリスクも感じていない。絶対的で、圧倒的な、自信。
「……私ですら、他人の心を弄る時は『ルール』を決めているわ。……でも貴女は、家族という一番近い相手の心を、善意の顔をして殺している」
「人聞きが悪いですわ、食蜂先輩」
おどけた様にジャブを入れる食蜂。
対して二葉は、悪びれる様子もなく紅茶を飲んだ。
「殺しているんじゃありません。……『保存』しているんです。兄が、汚い外の世界に染まらないように。……永遠に、無垢で無力な兄のままでいてくれるように」
「…………、」
食蜂は、リモコンを握りしめた。
(うん、こいつは、私の派閥には入れられないわねぇ☆ 入ってくれないだろうけど☆)
仮にこんな核爆弾を抱え込んだら、いつか内部から崩壊する。
彼女の「王」としてのプライドは、食蜂の「女王」としての支配と、絶対的に相容れない。
「ねえ、木寺さん。……一つ忠告力をしておくけれどぉ」
食蜂は、女王の目で二葉を見据えた。
「人の心は、計算通りにはいかないものよ。……貴女がどんなに完璧な檻を作っても、鳥はいつか空を飛ぶ夢を見るわ。……もしお兄さんが、貴女の檻を壊して飛び立とうとしたら、どうするの?」
「……飛び立とうとしたら?」
二葉は、少しだけ考えた。
そして、極上の笑顔で答えた。
「その時は……翼を
……ぴったりと、籠の中に体が収まるように。
そう言うと、彼女の周囲の空気が、キィンと高い音を立てた。
圧縮された空気の刃。
それは、言葉だけの脅しではない。彼女は本気だ。
愛する兄の翼を折ることを、彼女は「愛」だと確実に定義している。
「……ふぅん。徹底してるわねぇ」
食蜂は、面白そうに、そして少しだけ軽蔑を込めて笑った。
「いいわ。貴女の勧誘は諦めることにするわ。……でも、覚えておきなさい。世界は、貴女と貴女のお兄さんだけで完結しているわけじゃなくてよ?」
「ご忠告、痛み入ります。……ですが、私にとっての世界は、それで十分ですわ」
二葉は立ち上がった。
彼女は食蜂にカーテシーし、本をしまって歩き出した。
その足取りは、揺るぎない余裕と、いっそ浮遊感に満ち満ちていた。
:
二葉が去った後のサロン。
食蜂操祈は、冷めた紅茶を一口飲んで、溜息をついた。
「……やれやれ。とんだ食わせ物だったわねぇ」
「女王、いかがいたしましょう」
控えていた帆風潤子が、心配そうに近づいてくる。
「少し、気になったこともあるけれど……」
食蜂は、窓の外を見た。
夏の明かりが降り注ぐ校庭。
「木寺二葉の兄……か」
二葉が語った、無能力者で無力なる兄。
妹に精神を支配され、飼い殺しにされている哀れな少年。
(……どんな顔をしているのかしらねぇ)
食蜂は、少しだけ興味を持った。
あんな怪物の妹に愛されて、それでも正気を保っていられる(あるいは、とっくに壊れている)人間。
もし彼が、妹の呪縛から逃れたいと願っているなら。
私が「救ってあげる」のも、面白いかもしれない。
「なあんて……ま、暇つぶし程度に覚えておきましょうかぁ」
食蜂は、リモコンをバッグにしまった。
彼女はまだ気づいていない。
その「無力な兄」こそが、つい一ヶ月前ショッピングモールで自分の能力を無効化した「現実の化身」であるということを。
:
翌日だった。
暴力的な日射しが、常盤台中学の校庭に降り注いでいた。
その一角、第三屋外演習場。
普段は体育の授業や能力測定に使用されるこの場所は、今日、奇妙な静けさと、肌をあぶるような緊張感に包まれていた。
「……あら。随分と観客が多いですこと」
演習場の入り口に現れたのは、一人の少女だった。
一見して、制服の着こなし一つとっても全く隙がない、完璧な令嬢。
彼女の周囲には、すでに数十人の生徒たちが集まっていた。
食蜂派閥のメンバー、噂を聞きつけた一般生徒、そして単なる野次馬。
彼女たちの視線の先、フィールドの中央には、二人の実力者が待ち構えていた。
「お待ちしておりましたわ、木寺さん」
ツインテールの少女、白井黒子が、
「急な呼び出しで申し訳ありませんわ……ですが、「演習」の手続きが正当に受理された以上、私も風紀委員として立ち合うしかありませんでしたの」
「ごめんあそばせ」
その隣で、縦ロールの髪を揺らしながら微笑むのは、
彼女の笑顔は穏やかだが、その瞳の奥には、興味のようなものが見え隠れしていた。
「先日、女王に対して随分と不遜な態度を取られた件について。……後輩の教育も、先輩の務めかと思いまして」
帆風は、女王を崇拝している。
その女王を「対等」扱いし、勧誘を袖にした一年生の増長を、彼女は見過ごせなかったのだ。
……というのは建前で、今回の件は食蜂の指示だった。
彼女は女王を守る盾として、二葉の実力を測るために、ここに派遣されたのだった。中々の苦労人である。
「……、」
黒子は、そんな帆風がやりすぎないよう、そして先日の件で気になっている木寺二葉という存在を見極めるために、立会人兼(隙あれば)参加者として同行したのである。
「……ふふ。教育、ですか」
二葉は、リラックスした様子で笑った。
余裕。
目の前にいるのは、常盤台でも指折りの実力者二人だというのに、彼女には微塵の焦りも見えない。
「光栄ですわ。……戦闘に秀でた先輩が、私のようなただの一新入生に稽古をつけてくださるなんて」
二葉は、ゆっくりと歩いて、鞄を取り巻きの一人に預けた。
そして、優雅にフィールドの中央へと歩み出る。
「でも、よろしいのですか? ……空調の効いたサロンではなく、こんな炎天下で。お化粧が崩れてしまいますわよ?」
その言葉は、明確な挑発だった。
「貴女たち程度、汗をかくまでもない」という、強烈な自負。
「……あらま」
黒子の眉がピクリと動く。
「あらあらこれはこれは。……彼女の鼻、少し高すぎるようですわね」
帆風が構えを取る。
審判の合図はない。
照りつける太陽の下、張り詰めた空気が弾けた瞬間が、開戦の合図だった。
:
「失礼します!」
初手は帆風だった。
『
自身の細胞内の電気信号を操作し、身体能力を限界まで引き上げる能力。
彼女が地面を蹴った瞬間、爆発的な加速が生まれ、数メートルの距離が一瞬でゼロになる。
「速い……!」
観客が息を呑む。
帆風の拳が、二葉の顔面へと迫る。
寸止めするつもりはない。レベル4同士の模擬戦だ、多少の怪我は他の生徒の能力で治せる。
音速に近い拳圧が、二葉の前髪を揺らす。
だが、二葉は動かなかった。
避ける素振りすら見せず、ただ涼しげな目で、迫りくる拳を見つめていた。
「……粗野ですわね」
二葉が、パチリと指を鳴らした。
ドバァン!!
鈍い衝撃音が響き、帆風の体が空中で「静止」した。
いや、何かにぶつかったのだ。
見えない壁に。
「なっ……!?」
帆風は、自分の拳を見た。
二葉の鼻先数センチのところに、透明な、しかし鋼鉄よりも硬い「断層」が存在している。
「窒素……圧縮率三六〇〇倍」
二葉が、
『
彼女は大気中に存在する特定の気体成分を、瞬時に分離・集束・操作することができる。
今、彼女が行ったのは、自身と帆風の間の空間にある「窒素」だけを瞬時に集め、超高密度の壁を形成することだった。
「……くっ!」
帆風はバックステップで距離を取った。
物理攻撃が通じない。それどころか、殴った拳の方が痺れている。
ダマスカス鋼を殴ったような硬さだ。
「筋肉を電子操作して身体能力を上げる……素晴らしい出力と能力ですわ。ですが」
二葉は、一歩前に出た。
「貴女が呼吸をしている限り、私の
彼女が手を振る。
ヒュバッァ!
帆風の周囲の空気が、急激に変動した。
「……が、あ……!?」
帆風が膝をつく。
苦しい。息が吸えない。
真空? いや、違う。空気はある。肺も動いている。
だが、酸素が血液に取り込まれない。
「酸素濃度を一三%まで下げました。……急性高山病のようなものですわ」
二葉は解説する。
人間は、酸素濃度が一八%を切ると
彼女は、帆風の周囲の酸素だけをピンポイントで「間引いた」のだ。
「……、なんて、攻撃的な、能力」
「効率的、と言っていただきたいですわね」
二葉は、冷ややかに見下ろした。
肉体言語で語る帆風に対し、環境そのものを書き換える二葉。
よーいどんの戦い、そしてこのロケーションでは能力の相性も悪すぎる。
「……私もよろしくて?」
「どうぞ」
帆風の危機に、白井黒子が動いた。
二葉が目を細め、即答する。
こんな流れを予測していたらしい。意外と戦いたがりの黒子に対し、嘲るような目を向けている。
「では、遠慮なくですわ」
御坂からのヘイトを受けるほどの実力かどうか、その身で確かめてみたくなった。
それが黒子の動機である。
お姉様への純然たる愛。
『
彼女の手には、金属製の杭が握られている。
三次元座標上の物質を、瞬時に別の座標へと転移させる能力。
窒素の壁も、酸素濃度も関係ない。
彼女の計算が完了すれば、鉄矢は二葉を地面に即座に縫い止める。
バヒュ、と。
十数本の鉄矢が、二葉の四方八方に出現する。
回避不能の全方位攻撃。
だが。
キンカンパキンッ
全ての矢が、
「…………な!?」
黒子は目を見開いた。
テレポートの座標計算に狂いはない。
物体を出現させる空間に、障害物があろうがテレポートは成立するが、そこには空気しかなかったはずだ。
なぜ、当たらない?
「……空間移動。実に恐ろしい能力ですわね」
二葉は、足元に落ちた矢を靴先で転がした。
「ですが、貴女の能力には『弱点』があります。……移動先の空間座標を、正確に認識しなければならない」
二葉は、自分の周囲の空気を指差した。
「私は今、自分の周囲の空気の『屈折率』を変えています」
「屈折率……」
「ええ。窒素と酸素の層をミルフィーユのように何重にも重ねて、光を微妙に歪ませているんです……つまり、貴女に見えている私は、実際の位置から数センチずれている」
砂漠や海上で起きる現象を、彼女は人工的に、かつ極小範囲で作り出したのだ。
黒子は、二葉の姿を「目」で見て座標を計算した。
だが、その視覚情報自体が偽物だったため、テレポートした矢は「二葉の残像」を攻撃し、本体の展開していた圧縮空気の『乱流の層』に弾かれたのだ。
(視覚情報の欺瞞! それも、この精度で完璧な計算を……!)
いつからだ? 黒子は一度も彼女から目を逸らしていない。
気付かぬうちに、彼女の本体は既に「ズレて」いた。
黒子は戦慄した。
気体の成分分離、密度操作、そして光学的な屈折率の計算。
これらを戦闘中のコンマ数秒で行う演算能力。
つい先日、黒子は同じように光をいじる能力を持つスキルアウトと相対していたが……相手取ってみてわかる。これは、あんなザックリした次元ではない。
おそらく彼女がその気になれば、逆も出来る事だろう。例えば、広範囲に渡って幻覚や錯覚の様なものを展開するような、そういった能力の使い方。
更に言うのであれば、恐らく彼女は矢の出現による「空気の流れ」の変化、起こりを即座に感知していた。
カウンターもその気になれば容易だったはずだ。
その戦略性。
その戦闘柔軟性。
それはもはや、
「……レベル5に片足突っ込んでますわね、この子」
黒子は、冷や汗を流した。
だが、この「精密さ」と「応用力」、そして何よりこの「容赦のなさ」は異常だ。
「…………っ」
二人は、攻撃の手を止めた。
攻め手がない。
物理攻撃は窒素の壁に阻まれ、特殊攻撃は環境操作と幻惑によって無効化される。
そして二葉は、その場から一歩も動いていない。
「……なぜ、そこまで強くなれましたの?」
帆風が、呼吸を整えながら問うた。
才能だけではない。
ここまでの領域に達するには、強烈な動機──『
「……知りたいですか?」
二葉は、ふわりと笑った。
その笑顔は美しかったが、どこか空虚で、科学的な冷たさを帯びていた。
「私の世界は……『選別』なんです」
「選別?」
「ええ。……空気中には、様々な成分が混ざり合っています。酸素、窒素、二酸化炭素、アルゴン、汚染物質……」
二葉は、光線を降り注がせる太陽を仰いだ。
「それらは無秩序に混ざり合い、混沌としています。……私はそれが、全くもって許せないんです」
彼女の瞳に、偏執的な色が宿る。
「必要なものと、不要なもの。……綺麗なものと、汚いもの。……それらをきっちりと仕分け、あるべき場所に管理する。……それが私の『現実』です」
彼女は、自分を中心とした世界を「整理整頓」しているのだ。
自分にとって有益なものを取り込み、害なすものを排除する。
その強迫観念にも似た潔癖さが、彼女の能力を極限まで研ぎ澄ませている。
「……そして、その『選別』の基準は、すべて私の中にある」
二葉は、胸に手を当てた。
「私が『良し』としたものだけが、私の世界に存在を許される。……それ以外は、宇宙の彼方にでも消え去ればいい」
黒子と帆風は、同時に理解した。
彼女が語っているのは、単なる物理現象の話ではない。
「人間関係」の話だ。
彼女にとって、人間もまた「空気の成分」と同じなのだ。
有益な人間と、有害な人間。
管理すべき人間と、排除すべき人間。
それらを冷徹に選別し、自分の世界を完璧に構築している。
そして、その世界の中心に置かれている「最も守るべき成分」こそが……
「……お兄様、ですか?」
黒子が、核心を突いた。
二葉の表情は、そうしても、まったく変わらない。
「……ええ、そうですわ」
二葉の声が、緩く、重く、なった。
「兄は、私の世界の『
彼女の能力の根源。
それは、「無能な兄を守るための完璧な無菌室を作りたい」という、歪んだ愛情……なのだろうか。
兄を外敵から守り、汚いものから遠ざけ、自分の管理下で永遠に生かし続ける。
そのために、彼女は空気を支配する「神」になった。
「……狂気的な支配ですわね」
黒子は、吐き捨てるように言った。言うつもりもなかったのに、つい口走っていた。
「違いましてよ、白井さん」
二葉は、心外だという顔をした。まったく、よってたかって酷い言いようですわとばかりに。
「支配とは、相手の意思を捻じ曲げること。……私は、兄の意思を尊重していますわ。だって兄は、『何も望んでいない』のですから」
Null。
兄の虚無を、彼女は「自分への全肯定」だと解釈している。
「お兄ちゃんは何もできないから、私が全部決めてあげる」。
その論理が完成している限り、彼女の能力に一切の迷いはない。
:
「……もう、十分でしょう」
二葉は、ゆっくり首を振った。
「これ以上続けても、先輩方に恥をかかせるだけです。……それに、今日は、兄にお電話をしなきゃいけませんので」
彼女は、背を向けた。
勝負はついていない。だが、実質的な勝利宣言だ。
黒子も帆風も、追撃できなかった。
彼女の能力の底が見えないことへの警戒と、彼女の精神性の異質さに気圧されたからだ。
「……木寺二葉。……覚えておきますわ」
黒子は、去りゆく背中を見送った。
「彼女は……いずれ、大きな歪みを生みますわね」
「はい……あのような強い『現実』は、周囲を巻き込んで崩壊するか、あるいは何かを決定的に壊すか……」
帆風も、冷や汗を拭った。
女王の予感は正しい。
アレは、レベル4の枠に収まる器ではない。
精神的なブレーキが壊れている分、ある意味ではレベル5以上に危険な存在かもしれない。
:
帰り道。
木寺二葉は、上機嫌で最新型の携帯端末を取り出した。
兄に電話をかける。
『……もしもし?』
兄の、少し気弱な声。
それを聞いた瞬間、二葉の顔から「魔女」の表情が消え、とろけるような「妹」の顔になった。
「あ、お兄ちゃん? 二葉よ」
砂糖のような声。
「うん、今学校終わったところ。……ええ、ちょっと先輩たちと『お茶』してたんだあ」
嘘ではない。
彼女にとっては、あれもただの
「……え、サバ缶? もう、お兄ちゃんったら貧乏性なんだから。今度美味しい食材送ってあげる。うん大丈夫、お金はいっぱい振り込まれるし」
彼女は、くす……と笑った。
「待っててね。……今度、久しぶりにご飯作りに行ってあげるから」
通話終了。
二葉は、空を見上げた。
青い空。白い雲。
その全てが、自分の手のひらの上にある。
兄という北極星を中心に回る、完璧で、理路整然とした小宇宙。
世界は意味のないもので、今も満杯に満たされている。
だから、ほんの一握りの限られた星と、
そして彼女には……その「力」が
「さて、と」
夏の日差しの中、二葉は軽やかにステップを踏んだ。
彼女の足元に伸びる影は、不気味なほど濃く、長く、学園都市の闇へと繋がっていた。
第一部、完(?)
次回新章。ちょっと更新間が空きます。