とある科学の存在証明   作:かさねtyann

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始まりの終わり

 

 

 

 少し人通りの減った道に入ったところだった。

 道路脇の植え込みの陰に、人影が見えた。しゃがみ込んで、何かをごそごそとしている。

 

 

「……?」

 

 

 木寺は何気なく目を向けた。そして、足を止めた。

 そこにいたのは、またしても御坂美琴……()()()()

 

 あの無機質な瞳。頭の上に置かれた、軍用の暗視ゴーグル。昨日会ったばかりの、御坂妹であった。

 

 

 

「……おおーい(またかい)」

 

 と、木寺が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。その手には、コンビニで買ったであろう猫缶が握られている。

 

 そして、その手元の先には、昨日の黒猫が警戒心丸出しで毛を逆立てていた。

 

「……あ。昨日の個体識別名キデラですね、とミサカは状況を認識します」

「木寺でいいよ。個体識別名ってなんだよ」

 

 

 木寺は溜め息をついて、彼女に近づいた。

「まーたお前か。……何してんだよ、こんなとこで」

「見ての通りです。対象への栄養補給を試みていますが、難航しています、とミサカは現状を報告します」

 

 御坂妹は、開けた猫缶を差し出したまま、固まっていた。黒猫は「フシャーッ!」と威嚇し、後ずさりしている。

 

「……嫌われてるな」

「心外です。ミサカは友好的なアプローチを行っていますが、対象がミサカの発する微弱な電磁波を感知し、警戒モードを解除しません、とミサカは分析します」

「電磁波?」

「はい。ミサカたちの脳波リンクによるネットワークは常に稼働しており、その際に漏れ出る電磁波が動物の不快感を誘発するようです、とミサカは推測します」

「……よくわからんが、お前からなんか変な電波が出てるってことか」

「端的に言えばそうです、とミサカは肯定します」

 

 なるほど。ビリビリ女の妹も当然エレクトロマスターの能力を持ってるってわけか。雰囲気的に、あいつほど強力ってわけではなさそうだが……どうも、動物はそういうのに敏感らしい。

 だから猫は彼女に近づこうとしないのか。

 

 

「……で? どうすんだよそれ」

「そこで提案です。あなたが代わりにこの餌を与えてください、とミサカは業務委託を申請します」

 

 御坂妹が猫缶を木寺に突き出した。

 

「は? なんで俺が」

「あなたは昨日、この猫に懐かれていました。あなたの生体磁場は極めて微弱で、動物にとっても存在しないものとして認識されやすいため、警戒心を抱かせない特性があるようです、とミサカはあなたのステルス性能を推測しつつ評価します」

「……それ、褒めてんのか? 俺の存在感が薄いって言いたいだけだろ……それもものっそい長文で」

「事実を述べたまでです、とミサカは悪気なく答えます」

「はー……」

 

 木寺はがっくりと肩を落とした。

 どこに行っても、誰に会っても、俺の評価は「影が薄い」で固定されているらしい。

 先日のロボット事件で少しはマシになったかと思ったが、根本的なステータスは変わっていないようだ。

 

 

「……まあ、いいけどよ」

 木寺は猫缶を受け取った。しゃがみ込み、猫に「ほら、飯だぞ畜生ー」と声をかける。猫はピクリと耳を動かし、鼻をひくつかせた。そして、そろそろと近づいてきて、ガツガツと食べ始めた。

 

「……単純なやつめ」

 

 木寺が背中を撫でても、猫は食べるのに夢中で気にしない。確かに、俺のことは背景の一部だと思っているのかもしれない。

 

「作戦成功です。さすがはキデラ、伊達に影が薄くありませんね、とミサカは感嘆します」

「うるせえよ」

 木寺は苦笑しながら立ち上がった。御坂妹も立ち上がり、ゴーグルを頭の上で固定し直した。

 

「……で、お前、こいつどうすんの? 飼うの?」

「いえ。ミサカの住環境では飼育は不可能です。実験動物としての登録もされていませんし、施設への持ち込みは許可されません、とミサカは却下します」

「施設? ……まあ、寮とか厳しいもんな」

 

 美琴も「いとこ」だと言っていたし、彼女もどこかの学生寮に入っているのだろうか。

 

「実験動物」という単語が引っかかったが、まあ彼女特有の言い回しだろうとスルーした。

 

「じゃあ、このまま野良にするのか?」

「それは……推奨されません。この個体はまだ幼く、生存競争に勝ち残る確率は非常に低いです、とミサカは懸念します」

 

 御坂妹は、無表情ながらも、猫をじっと見つめていた。その瞳には、彼女なりの憐憫……のようなものが宿っているように見えた。

 

「……貴方が飼ってください」

 

 御坂妹が唐突に言った。

 

 

 

「は?」

 

「あなたなら猫に警戒されませんし、一人暮らしの寂しさを紛らわせるのにも最適です、とミサカは提案します」

「余計なお世話だ! それに俺は犬派だ!」

「猫派に転向することを推奨します、とミサカは強要します」

「推奨すんな! 強要すんな! ……それに、うちの寮もペット禁止なんだよ。上条がこっそり飼ってるけど、あいつは馬鹿だから」

 

 

 木寺は頭をかいた。確かに可愛いが、俺に生き物の命を預かる責任なんて持てない。自分の人生すらまともにハンドリングできていないのに。

 

 

「……んー……じゃあ、飼い主を探すしかないな」

 

 木寺が言うと、御坂妹は小首を傾げた。

 

「飼い主、ですか?」

「ああ。段ボールに入れて『拾ってください』って書くとか、誰か知り合いに当たるとか」

「なるほど。合理的です、とミサカは同意します」

「……手伝えよ。お前が言い出しっぺなんだから」

「了解しました。協力します、とミサカは承諾します」

 

 こうして、木寺一桁と御坂妹による、即席の「猫の飼い主探しキャンペーン」が始まった。

 

 

 

 :

 

 

 

 二人は並んで街を歩いていた。木寺が近くのスーパーで貰ってきた段ボールに猫を入れ、抱えている。御坂妹はその横を、手ぶらで歩いている。

 

「……おい、お前もなんか持てよ。宣伝の看板とかさ」

「ミサカは周囲の警戒を担当しています、とミサカはサボタージュを否定します」

「警戒って何のだよ。敵襲でもあるのか」

「……この街には、常に危険が潜んでいますから、とミサカは意味深に呟きます」

「やっぱ中二病かよぉ……」

 

 木寺は呆れた。やはりこの「いとこ」設定、少し無理があるんじゃないか。言動がいちいちズレている。

 

「ねえ、お前さ。御坂……美琴とは仲いいの?」

 

 木寺が何気なく聞くと、御坂妹は一瞬沈黙した。

 

 

「……お姉様は、ミサカたちにとって特別な存在です、とミサカは定義します」

「たち? 他にもいんの?」

「はい。ミサカは妹です。他にも妹はたくさんいます、とミサカは事実を述べます」

「大家族だなあオイ! ……まあ、仲いいならいいけどさ」

 

 さっきの美琴の様子を思い出す。

 彼女は妹のことを心配していた。重荷だなんて言いながら、本当は大切に思っているんだろう。俺と二葉みたいに、ちょっとアレな感じでは多分ないはずだ。

 

「……キデラは、妹がいるのですか? とミサカは逆に質問します」

「あ? ……まあ、いるけど」

「仲はいいのですか?」

「……良くねえよ。そういう段階ですらねえ」

 

 木寺はつまらなそうに言った。

 

「俺はあいつの踏み台であるべきで、でもあいつは俺に気を使いまくってる。……ま、普通の兄妹じゃねえよ」

「……そうですか。それは残念です、とミサカは感想と同情を述べます」

「同情すんな」

 

 

 木寺は猫の頭を撫でた。猫は「ニャー」と鳴いて、木寺の指を甘噛みした。

 

「……でも、お前らはいいな。なんか、羨ましいよ」

 木寺はぽつりと呟いた。

 美琴とこの妹の間には、変な上下関係やコンプレックスはなさそうだ。

 この妹からは、姉に対する純粋なリスペクトを感じる……気がする。

 

「……ミサカには、感情というものがよくわかりません。ですが、お姉様と一緒にいると、胸の奥が少し温かくなるようなエラーが発生します、とミサカは自己分析します」

「……それ、エラーじゃなくて、嬉しいってことだろ」

「嬉しい……。これが、喜びですか?」

 

 御坂妹は自分の胸に手を当てた。無機質な顔に、ほんの少しだけ、人間らしい色が差した気がした。

 

 

 

「……変な奴」

 

 木寺は苦笑した。こいつもこいつなりに、色々悩んでるのかもしれないな。無感情みたいに見えるけど、中身はちゃんと年頃の女の子だ。

 

「……あ、ちょっと待っててくれ」

 

 公園の近くまで来た時、木寺は足を止めた。

 

「猫の水と、あと何か適当に買ってくる。喉渇いたし……俺の最後のへそくり投入だからなこれ」

「了解しました。ここで待機します、とミサカは感謝しつつ応答します」

「この猫頼むな。逃がすなよ」

 

 木寺は猫の入った段ボールを御坂妹の足元に置き、近くのコンビニへと走っていった。

 

 

 

 :

 

 

 

 御坂妹は、一人残された公園の入り口で、足元の段ボールを見つめていた。黒猫が、不安そうに彼女を見上げている。

 

「……大丈夫です。すぐに戻ってきますよ、とミサカは猫を安心させようと試みます」

 

 彼女はしゃがみ込み、恐る恐る指を差し出した。やはり、猫は少し身を引く。微弱な電磁波。それは彼女が「量産型能力者(レディオノイズ)」である証であり、逃れられない呪縛だ。

 

 普通の人間とは違う。動物にすら拒絶される存在。

 

 

 

「……でも、あの人は」

 

 御坂妹は、コンビニの方角を見た。

 木寺一桁。彼は、平気で猫に触れていた。猫も彼には懐いていた。彼の発する磁場はあまりにも弱く、周囲に溶け込んでいる。

 

「無能力者」という枠組みを超えた、何か特異な性質。

 

 

「……変な人ですね。ミサカにも普通に接してくれましたし、とミサカは記憶を再生します」

 彼は、自分の事を邪険にせず、一人の人間として自然に認識していたようだった。

「影が薄い」と自嘲する彼だが、その希薄な存在感が、逆に他者の心の壁をすり抜けていくのかもしれない。

 

 

「……ああいう人に、猫は懐くんでしょうか」

 御坂妹は呟いた。

 

 

 

()()()

 

 

 

 ざ……と。

 風が止まった。

 

 夕闇の中に、異質な気配が混じり込んだ。御坂妹の背筋に、得体のしれない圧力が走る。

 

 この感覚。この、圧倒的な「死」の予感。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「…………よぉ」

 闇の奥から、全てを貫通するような声が響いた。コンクリをがりがりと削るような、耳を舐るような、そんな圧倒的な。

 

 

 

 

「今日は随分と遠くまで散歩に来てるじゃねェか。……()()()()()()()()()()()()? ァ?」

 

 

 

 

 白い髪。赤い瞳。ひょろりとした体躯に、モノトーンの服。学園都市最強。第一位の称号。

 

 

 

 

 

 一方通行(アクセラレータ)

 

 

 

 

 

 

「…………、」

 

 御坂妹は即座に立ち上がり、猫の入った段ボールを背後に隠した。

 戦闘態勢。だが、体は震えている。恐怖ではない。生物としての本能が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……実験開始時刻までは、まだ余裕があるはずですが、とミサカは抗議します」

「ハッ、待ちきれなくて迎えに来てやったんだよ。感謝しな」

 

 一方通行は、ゆらりと歩み寄ってきた。その一歩ごとに、硬い地面に亀裂が入る。殺意のベクトルが、空間を支配していく。

 

 

「さァて……今日はどんな風に壊してやろうかナァ? 昨日のはあっけなさすぎたしよォ……」

 

 

 彼は嗜虐的な笑みを浮かべ、御坂妹を見下ろした。

 そこには、人間を見る目などない。ただの「消耗品」を見る、冷酷な実験動物としての視線だけがあった。

 

「……、」

 御坂妹は、コンビニの方角を一瞬だけ意識した。木寺はまだ戻ってこない。巻き込んではいけない。あの人は関係ない。ただの、通りすがりの優しい人だ。

 

 

「……場所を変えましょう。ここでは一般人に被害が及びます、とミサカは提案します」

「一般人? あー面倒くせえなあ……どうせなら邪魔でもしてほしいもんだぜ、まとめて挽肉にしてやるのによォ……」

 

 一方通行は退屈そうに欠伸をした。

 

「ま、いいぜ。鬼ごっこも悪くねェ。……逃げろよ、雑魚。今日こそ少しは楽しませてくれよ?」

「……了解しました」

 

 御坂妹は、黒猫の入った段ボールをそっと茂みの中に押し込んだ。そして、木寺が戻ってくるはずの方向とは逆の、暗い路地裏へと向かって駆け出した。

 

 

 黒猫への心残り。

 

 

 それが、彼女の最後の思考だった。その背中に、粘着質な悪意が笑いながら迫っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 :

 

 

 

 

 

 

 

 

 コンビニの自動ドアが開くと、店内の冷気と外気の湿った熱が混ざり合う。

 

「…………、」

 

 木寺一桁は、ずしりと重いレジ袋を片手に店を出た。

 中には、猫用のミネラルウォーターと、自分用のスポーツドリンク。それと、なんとなく気まぐれで買った、二つのアイスクリームが入っている。バニラとチョコ。どっちを渡そうか、などと柄にもないことを考えていた。

 

「……あいつ、食うかな?」

 

 ふと、そんな独り言が漏れる。

 さっきまで隣を歩いていた、無表情な少女。

『ミサカには感情がよくわかりません』などと機械のように繰り返していたが、美琴が「アイス奢ってあげる」と言った時、彼女は抵抗しつつも、その瞳の奥を少しだけ輝かせていた気がする。甘いものは好きなのかもしれない。

 

 

 溶ける前に戻らないとな。

「……あちぃ」

 

 日は完全に沈みかけているが、硬い地面には昼間の執拗な熱がこびりついている。蒸し暑い。木寺は小走りで公園の方角へと戻った。

 

 

 

 

 :

 

 

 

 

 一分後、公園の入り口が見えてきた。錆びついたブランコ。塗装の剥げたジャングルジム。そして、おあつらえ向きのベンチ。

 

 

「……おい、戻ったぞー」

 

 木寺は声をかけた。アイスが溶けないように、少し急ぎ足でベンチへ向かう。

 

 

 だが、()()()()()

 

 

「……?」

 

 そこには、誰もいなかった。御坂妹の姿がない。ベンチは空っぽだ。

 ただ、街灯の薄明かりの下、彼女が座っているはずの場所に、虚無だけが鎮座している。

 

「……トイレか?」

 

 木寺は辺りを見回した。公衆トイレの方を見るが、扉は開いている。人影はない。コンビニに行き違ったか? いや、一本道だ。すれ違うはずがない。

 

 

 違和感。何かがおかしい。

 

 

 木寺は、ベンチの周りを探した。猫はどうした? 段ボール箱ごと消えている。ふと、植え込みの奥に、不自然な影があるのに気づいた。

 

 

「……あ」

 

 

 茂みをかき分けると、そこに段ボール箱があった。人目につかないよう、深く、隠すように押し込まれている。

 中を覗き込むと、黒猫が小さく丸まっていた。木寺の顔を見ると、「にゃあ」と鳴く。

 

 

「……お前だけかよ」

 木寺は猫の頭を撫でた。だが、木寺の背筋には、暑さによるものではない汗がにじみ出てきていた。

 

 

 

 

 

(……、()()()?)

 

 

 

 

 

 御坂妹は、この猫を隠した。

 

 ただ立ち去るなら、こんな風に丁寧に茂みに隠したりしない。これは、何か「外敵」から、この小さな命を遠ざけるための処置……じゃないか? 

 

 

「……………………、」

 

 

 

 妄想に等しい。

 そうやって考えを振り払おうとするが、弱者の感覚か、だんだんとそれが強まっていくのを感じる。

 

 例えば……例えばの話。

 

()()()()()()()()()()()()。彼女が、猫を隠し、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()「何か」が。

 

 

 

「……って、んなわけ、ねえよな」

 木寺は立ち上がった。レジ袋の中で、袋のアイスが溶けていく感触が指に伝わる。

 

「……おい! 御坂!!」

 

 名前を呼んでみた。返事はない。風が木々を揺らすざわめきだけが返ってくる。

 

 

 木寺は公園の奥へと歩を進めた。砂場。滑り台。誰もいない。だが、地面の土が乱れている。何かが引きずられたような、あるいは争ったような跡。

 その痕跡は、公園の裏手、人気の少ない路地裏の方へと続いていた。

 

 

「……こっちか?」

 

 

()()()

 

 

 本能が、さっきからそう告げている。

 

 

 行くな。

 これ以上先に行ってはいけない。そこには、お前の許容範囲を超えた「何か」があるかもしれない。

 引き返せ。家に帰ってサバ缶を食え。全部忘れてしまえ。

 

 だが、木寺の足は、泥沼に吸い寄せられるように動いていた。興味本位。ただの理由の分からない好奇心。

 

 

 あの子がいないなら、もう帰ればいいのに。なぜか、足が止まらない。

 

 

 

 

 

 :

 

 

 

 

 

「……はあ、はあ」

 

 路地裏に入る。空気が、明らかに変わった。

 街灯が少なく、薄暗い。腐った生ゴミの酸っぱい臭いと、湿ったカビの臭い。そして、それらに混じって、鼻腔の奥に張り付くような……どこかで嗅いだことのあるような、生臭い臭い。

 

「……ミサカー……?」

 自分の足音だけが、やけに大きく響く。壁に囲まれた狭い通路。

 

 ふと、壁に不自然な亀裂が入っているのに気づいた。ただのひび割れではない。何かが猛烈な勢いで激突し、コンクリを粉砕したような、放射状の痕跡。

 

「……?」

 その中心に、べっとりと黒いシミがついている。暗くて色がよくわからないが、それはペンキや泥には見えなかった。もっと粘度のある、乾きかけた液体の跡。

 

 

「……ッ」

 息が詰まる。これは……何か、やはりただ事じゃない。喧嘩とか、事故とか、そんなレベルじゃない。ここには、明確な「暴力」が通り過ぎていった痕跡がある。それも、人の身では到底なし得ないほどの、圧倒的な暴力が。

 

「いや、嘘だよな……?」

 

 でも。それが……彼の中で御坂妹とまだ繋がらない。現実感が、徐々に曖昧になってくる。

 

 帰りたい。帰りたくなってきた。でも、足は勝手に奥へと進んでいく。鉄の臭いが濃くなる。濃厚な、むせ返るような臭い。

 

 

 そして、突き当たりの広場に出た時。木寺一桁は、それを見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 :

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………、?」

 そこは、ビルの隙間にできた吹き溜まりのような場所だった。三方を高いコンクリの壁に囲まれた、閉鎖的な空間。

 

 壁には無数の亀裂が入り、地面の硬い地面はめくれ上がっていた。まるで、巨大な怪獣が暴れ回った後のように、地形そのものが歪んでいる。

 

 その中心。瓦礫とゴミの山の中に、ボロ雑巾のようなものが転がっていた。

 

 

 

「……あ」

 木寺は足を止めた。

 

 最初は、それが何なのかわからなかった。()()()()()()()()()()? それとも、ゴミ袋の山か? 

 薄暗い闇の中で、形が判然としない。ただ、茶色い布のようなものと、白い棒のようなものが、複雑に絡まり合っているのが見える。

 

 

「……おい」

 木寺は、恐る恐る近づいた。好奇心だった。恐怖よりも先に、「あれは何だ」という純粋な疑問が足を動かした。一歩、また一歩。

 

 

 靴底が、ぬるりとした何かを踏んだ。水たまり? いや、雨は降っていない。足元を見る。黒い液体が、地面の窪みに溜まっている。

 

 月明かりが雲の切れ間から差し込み、その液体を赤黒く照らした。

 

 

 

 血だ。大量の血液。一人の人間の致死量を超えているんじゃないかと思えるほどの、血の海。

 

 

 

「……、……」

 

 

 

 木寺は顔を上げた。目の前にある「ボロ雑巾」。目が慣れてくるにつれ、そのディテールが残酷なほど鮮明に浮かび上がってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 常盤台中学の制服。見覚えのある、華奢な手足。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、その体は。

 

 ありえない方向にねじ曲がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 右腕は肘から先が逆方向に折れ曲がり、白い骨が皮膚を突き破って露出している。

 

 制服のブラウスは赤く染まり、腹部からはどす黒い臓器のようなものが溢れ出している。足は、まるで操り人形の糸が切れたように、不自然な角度で投げ出されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、顔。

 

 あの整った、無表情だった顔立ちは。半分が赤黒く潰れ、()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 コンクリの壁に叩きつけられたのだろうか。壁には、放射状に飛び散った血痕と脳漿のようなものが、禍々しいアートのように描かれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あ、……ぁ?」

 

 木寺の口から、ヒューヒューという乾いた音が漏れた。思考が停止する。

 視覚情報が、脳への入力を拒否する。

 

 

 

()()()()()()。見間違いだと言ってくれ。悪い夢だと言ってくれ。

 

 

 

 

 

 さっきまで。ほんの数十分前まで。隣を歩いて、「ミサカは」なんて喋っていた少女が。こんな、肉塊になっているなんて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 恐怖。

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、純粋な恐怖が、木寺の全身を貫いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 怒りなど湧かなかった。悲しみなど感じる余裕もなかった。ただひたすらに、目の前の「死」という圧倒的な現実が、暴力的に襲いかかってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ひッ……」

 

 足が震えて、立っていられない。膝から力が抜け、木寺はその場に崩れ落ちた。

 

 

 手をついた地面が、ぬるりと濡れている。彼女の血だ。生温かい。まだ、温度が残っている。それが、彼女がついさっきまで生きていたという事実を、残酷なまでに突きつけてくる。

 

 

 

 

 

 

「……ぐ、ぅ……お!!」

 

 胃液が逆流してくる。喉の奥が焼けるように熱い。木寺はその場に四つん這いになり、激しく嘔吐した。

 

 

「オェッ……ゲェッ……ハァ、ハァ……」

 

 地面に吐瀉物を撒き散らす。レジ袋の中のアイスが溶けて、袋から漏れ出し、血と混ざり合う。血の臭いと、甘ったるいバニラの匂い。そして、自分の吐瀉物の酸っぱい臭い。そのアンバランスさが、脳を犯していく。

 

 

 

 

 

 

 

(……逃、げなきゃ、ぅあ…………)

 

 

 

 

 

 理性が、()()()()()()()

 

 ここにいてはいけない。こんなことをした「何か」が、まだ近くにいるかもしれない。

 

 

 壁を砕き、人間を雑巾のように絞り殺す何かが。

 

 俺なんかが、どうこうできる相手じゃない。見つかったら死ぬ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺も、()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あ、あぁ……」

 木寺は、這いつくばったまま後ずさった。立ち上がることすらできない。腰が抜けている。泥と血にまみれた手で、地面を掻く。ジーンズが汚れるのも構わず、尻餅をついたまま、必死に距離を取ろうとする。

 

 

 

 

 彼女を救護しようとか、連れて帰って弔おうとか、そんな気高い考えは微塵も浮かばなかった。

 

 ただ、怖い。この死体から離れたい。気持ち悪い。グロい。

 この異常な空間から一刻も早く逃げ出したい。ただただ純粋に、自分の命だけが、どこまでも惜しい。

 

 

 

 

 

 

「……たすけ……て……」

 

 情けない声が漏れる。誰に助けを求めているのかもわからない。ただ、無様に、芋虫のように這って逃げる。

 そうだ。通報だ。早く、通報をしなきゃ。誰かに、俺を助けてもらいにこなきゃ。じゃないと、じゃないと、俺は………………

 

「誰か……」

 

 助けて。

 助けて助けて助けて助

 けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助け

 

て助けて助けて助けて助けて助けて助けて

て助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けてて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けてて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けてて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けてて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けてて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けてて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けてて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けてて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けてて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けてて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けてて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて

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 頭の中を、自分の声が、恐怖が塗りつぶし、無茶苦茶にしていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 グチャリ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()

 

 

 木寺の背後。つまり、死体がある方向から。風の音ではない。濡れた肉が、硬い地面に擦れるような、湿った音。

 

 

 

 

「……ッ!?」

 

 木寺の動きが凍りついた。心臓が、早鐘を打つのを通り越して、痛いほどに収縮する。

 

 

 

 何だ? 今の音は。誰かいるのか? 犯人が、戻ってきたのか? それとも。まさか。

 

 

 

 

()()()

 

 

 

 

 木寺は、首を動かしたくなかった。振り返りたくなかった。振り返れば、見てはいけないものを見るとわかっていた。

 

 

 だが、恐怖に支配された体は、本人の意思とは無関係に、音のした方を確認しようとしてしまった。

 

 

 

 ギギギ……と、錆びついた機械のように首を回す。そこには。誰も、いなかった。犯人の姿はない。

 

 

 

 ただ、死体が。さっきまで仰向けに転がっていたはずの、少女の死体が。わずかに位置を変えていた。

 

 そして。

 

 

 

 

「………………、」

 

 

 

 

 

()()()()()。潰れた頭部が、ありえない角度でこちらを向いていた。

 

 

 半分しかない顔。露出した白い頭蓋骨と、そこからこぼれ落ちるピンク色の脳漿。

 

 

 

 砕けた右腕は、あらぬ方向にねじれながら、

 

 

 何かを掴もうとするように虚空に伸ばされている。

 

 

 

 

 そして、残された左目が。光のない、ガラス玉のような瞳が。逃げようとする木寺一桁を、じっと見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ひ」

 

 喉が引きつる。悲鳴すら出ない。その瞳は、何かを訴えているようにも、怨嗟を込めているようにも、あるいはただ虚無を映しているようにも見えた。

 

 だが、木寺の脳は、それを「死者からの視線」として処理した。

 

 

 

 視界が明滅する。世界が歪む。血の赤。肉のピンク。骨の白。それらが混ざり合って、ぐるぐると回転し、木寺の脳を侵食していく。

 

 

 

 

 限界だった。これ以上、正気を保つことは不可能だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぷつり。

 

 

 

 

 

 

 

 木寺一桁の意識は、恐怖の飽和によって強制的にシャットダウンされた。

 

 彼は白目を剥き、泥のような地面に無様に倒れ込んだ。深い、深い闇の中へと沈んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後に網膜に焼き付いたのは、半分潰れた少女の顔と、自分を見つめる虚ろな瞳だった。

 

 

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