「……おい! 大丈夫か!? おい!」
「……う……」
誰かに、体を揺さぶられている。
木寺一桁は、重い瞼を開けた。
眩しい。強力なLEDライトの光が、顔を照らしている。
「……あ、れ……」
公園。アイス。路地裏。
そして、
「……ッ!!」
木寺は弾かれたように跳ね起きた。
「うわあああぁああっ!?」
木寺は絶叫し、後ずさった。
背中が冷たい壁にぶつかる。
「落ち着け! 大丈夫か!」
呼びかける声と、体を揺さぶる感触。
木寺は、鉛のように重い頭を必死にふって、辺りを見ようとした。視界が白い。ライトの光の束が、闇を切り裂いて交錯している。
「……う、あ……」
喉が貼り付いて、音が出ない。全身が冷たい。泥と自分の吐瀉物にまみれ、硬い地面に転がっている感覚が戻ってくる。
「怪我は……ないみたいだな。良かった」
目の前にいたのは、ヘルメットを被った男たちだった。黒い制服。防護ベスト。手にはライトと、特殊警棒。
彼らは緊張した面持ちで周囲を警戒しながら、木寺を取り囲んでいた。
「……あ、警備員……?」
「そうだ。ついさっき倒れている君を見つけたんだ。怪我はないか? 何があった?」
警備員の一人が、心配そうに木寺の顔を覗き込む。
助かったのか?
俺は、気絶していたのか?
木寺は、荒い息を吐きながら、また周囲を見回した。
ようやく、目が慣れてくる。
そこは、やはりさっきの路地裏だった。コンクリの壁。黒い吹き溜まりのような空間。
一人の警備員が、木寺の体を抱き起こそうとする。その手つきは乱暴ではないが、現場の緊迫感が伝わってくる雑さがあった。
「……通報があったんだ……君か? 君が通報者か?」
ふと、木寺は自分の手元に、ケータイがしっかり握られている事に気付いた。記憶はない。しかし、あまりの恐怖に、生存本能で、自分は無意識に電話をかけていたのか。
「『この路地裏で、人が死んでいる』という通報は君か?」
意識チェックもかねて繰り返す警備員。
殺害現場。
その単語を聞いた瞬間、木寺の脳内で何かが爆発した。記憶が、鮮烈な映像と共によみがえる。ねじ曲がった手足。飛び散る脳漿。こちらを見ていた、潰れた顔と生気のない瞳。
「……し、死体ぃ……!」
木寺は悲鳴を上げ、警備員の手を振り払って後ずさった。
「あ、あそこに……女の子が……! ぐちゃぐちゃになって、死んで……!」
木寺は震える指で、路地の奥を指さした。そうだ、あそこだ。あそこに彼女が転がっていたんだ。警備員たちが、一斉にライトをその方向へ向ける。
「確認する」
数名の隊員が、油断なく構えながら、光の先へと踏み込む。木寺は、顔を覆いながらその様子を見ていた。見たくない。あんなもの、二度と見たくない。
だが。
「……隊長。何もありません」
隊員の声。木寺は、指の隙間から恐る恐る前を見た。
「……は?」
そこには。
ひび割れた壁。薄汚れた地面。それだけだ。さっきまでそこに転がっていたはずの、無惨な肉塊が消えている。
それどころか、おびただしい量の血だまりさえも、跡形もなく消え失せていた。
「な、ない……?」
木寺は呆然と呟いた。
嘘だ。幻覚じゃない。
足元を見れば、俺の吐瀉物は残っている。俺が落としたアイスの染みも、ドロドロに溶けて広がっている。
なのに、あるべき痕跡が。
あの圧倒的な質量の赤だけが、綺麗さっぱり消滅している。
「……? ?」
そして、その先には。
肝心の少女の遺体が、
「……おい、君」
隊長らしき男が、木寺の顔を覗き込んだ。その表情は厳しい。
「何を見たって? もう一度言ってくれ」
「……し、死体……」
「死体?」
「女の子が……ここに、死んでたんです……! ぐちゃぐちゃになって、血まみれで……!」
木寺は必死に訴えた。声が裏返る。だが、警備員たちは顔を見合わせた。困惑の色。
「ここまでの道も何もなかったぞ。我々が来た時には、君が倒れていただけだ」
「嘘だ! 確かにいたんです! 常盤台の制服着た、あいつが……!」
「夢でも見たんじゃないのか? 君、かなり顔色が悪いぞ。熱中症か?」
「本当にここに死体があったのか? 血液反応すら出ないぞ」
「なんなんだ、まったく」
口々に脱力する警備員たち。
木寺は這うようにして、さっき死体があった場所へ近づいた。ここだ。確かにここに倒れていた。……だが。
(綺麗、
まさか、ルミノール反応すら出ないのではないかと思えるほど、徹底的に、不自然なほど完璧に清掃されている。……俺が気絶している間に? 誰が? どうやって? あれだけの血と肉片を、せいぜい数十分で消し去るなんて可能なのか?
「……夢でも見たんじゃないのか? 君、かなり錯乱しているようだ」
警備員たちの視線が変わっていく。被害者を心配する目から、不審な薬物中毒者や、精神に異常をきたした者を見る目へ。
「ち、違います……! 本当に……!!」
木寺は首を振った。
違う。俺は一切狂ってない。
狂っているのは、この世界の方だ。あいつは、あんなに残酷な死に方をしたのに。誰にも知られずに、なかったことにされるのか?
「……とりあえず、保護しよう。署で話を聞く」
警備員が木寺の肩に手を置いた。その感触が、木寺には、捕獲の手に見えた。
連れて行かれたら終わりだ。「頭のおかしい学生」として処理される。
あの子の死は闇に葬られる。そして、もしこの死体消失が、もっと大きな力による隠蔽工作だとしたら?
目撃者である俺も、消されるんじゃないのか?
警備員たちが、彼を取り囲む。保護しようとしているのか、拘束しようとしているのか。その手が、木寺には口を塞ごうとしている様に思えた。
「離せ! あの子が……あの子がどこかに……!」
木寺は暴れた。だが、恐怖と混乱で力が入らない。
俺の記憶がおかしいのか? 俺が狂っているのか?
「……嫌だ!」
「君、落ち着きなさい」
「離せッ!!」
木寺は叫び、警備員の手を振り払った。火事場の馬鹿力で突き飛ばし、包囲の隙間を縫って走り出す。
「おい、待て!」
「確保しろ!!」
背後で怒号が上がるが、木寺は振り返らなかった。走る。無我夢中で。この狂った場所から逃げ出すために。
迷路のような路地裏を駆け抜け、フェンスを乗り越え、資材置き場の影を這うように進む。
心臓が破裂しそうだ。
足がもつれる。
でも、止まったら殺される。社会的に、あるいは物理的に。闇の一番奥で、何かがこちらを見て嗤っているような気がした。
:
どれくらい走っただろうか。
サイレンの音も、追っ手の足音も、いつしか聞こえなくなっていた。たどり着いたのは、人気の全くない裏路地のさらに奥だった。
錆びついた鉄塔が遠くに見える。廃棄された資材が転がっている。
木寺は壁に手をつき、崩れ落ちるように膝をついた。
「……はぁ、はぁ、……ぐ、ぇ……」
胃液を吐く。もう中身はない。苦い汁だけが出る。涙と鼻水で顔がおかしくなっている。
悔しい。怖い。情けない。結局、俺は何もできなかった。助けることも、見送ることも、その死を証明することさえ、できなかった。
世界は、あの子の死を「なかったこと」にした。俺という目撃者を狂人にすることで。
「……にゃ」
……ふと。
足元で、か細い鳴き声がした。黒い子猫だ。いつの間にか、木寺の後を追ってきていたらしい。それか、木寺の方が、猫の方を探すように走り回っていたのか……
黒猫は、汚れた体で、心配そうに木寺の足に擦り寄ってくる。
「……お前……なんで」
木寺は猫を抱き上げた。温かい。この温もりだけが、今の木寺を現実に繋ぎ止める唯一のものだった。
「……ん?」
その時。
ふと、前方の暗闇に、人影が見えた。
警備員か? 追いつかれたのか? 木寺は身構え、黒猫を庇うように後ずさった。
「…………?」
だが、その人影は小さかった。そして、自分の体ほどもある大きな荷物を、軽々と担いでいるようだった。
木寺は目を凝らした。街灯の逆光で顔が見えない。だが、そのシルエット、その制服の形は……。
「……お、い」
木寺は声をかけた。声が震える。人影が立ち止まる。ゆっくりと、機械的な動作でこちらを振り向く。
そこにいたのは。
「……、」
傷一つない。制服も綺麗だ。ゴーグルもつけている。そして、背中には、大きな寝袋のようなものを担いでいる。
「……み、御坂ァ……!?」
木寺は呆然と呟いた。生きていたのか? 見間違いだったのか? あの惨状は、本当に……俺の幻覚だったのか?
「あ……よかった……生きてたんだな……!!!」
訳の分からない多幸感が、彼の全身を貫いた。
なんだこれは。どういうことだ。
木寺は安堵のあまり、膝から力が抜けた。よかった。本当によかった。俺がおかしくなったんじゃなかった。こいつは無事だったんだ。じゃあさっきのは……白昼夢か、何かだったんだな。
木寺はふらふらと彼女に近づいた。
「お前、心配させんなよ……! 急にいなくなるから、俺、変な幻覚見ちまって……!!」
はは、と笑いながら、彼女の肩に手を伸ばす。だが、彼女の反応は冷たかった。
「……あなたは、個体識別名キデラ。ここで何をしているのですか? とミサカは質問します」
少女の声は、いつも通り無機質だった。だが、どこか他人行儀だ。さっきまでの、少しだけ距離が縮まった感じがない。まるで、初めて会った相手に、対するような。
「……何してるって……お前を、探してたんだよ。……てか、その荷物、なんだ?」
木寺は、彼女が抱えている寝袋を指差した。ずしりと重そうだ。中身がぎっしりと詰まっているような、生々しい重量感。そして、微かに漂う……薬品臭い臭い。
「……これは、回収対象です、とミサカは答えます」
「回収対象?」
「はい。実験終了に伴い、機材及び……損壊した個体を回収しています、とミサカは業務内容を説明します」
損壊した個体。その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「……損壊した、個体?」
木寺の動きが止まる。嫌な予感がする。さっきの光景。ぐにゃりと歪んた手足。壊された顔。あれは、幻覚じゃなかったとしたら。じゃあ、目の前にいる、こいつは?
「……お前、さっき俺と一緒にいたよな? 猫に餌やって……」
「いいえ。当該個体は、一時間前に実験により死亡しました、とミサカは事実を報告します」
「……は?」
時も。止まった。世界から音が消えた。
死亡した。
こいつは、今、
「……死んだ?」
「はい。一○○三一号は、
「待て!!」
木寺は叫んだ。理解が追いつかない。脳が拒絶している。
「何、言ってるんだよ……わけ、わかんねえよ…………」
一○○三一号? 番号? なんだそれ。
こいつらは、自分が
美琴は「いとこ」だと言った。御坂妹は「妹たちはたくさんいます」と言った。双子や三つ子レベルの話じゃない。もっと、たくさん、いるとでも……
「じゃあ、お前は……誰なんだよ」
木寺が震える声で問うと、少女は無表情のまま答えた。
「ミサカはミサカ一○○三二号です、とミサカは個体識別番号を提示します。ミサカは先日あなたの部屋にジュースを運んだ個体と同一個体です」
「……、」
わけが、分からない。
一○○三二号。万の単位。そんなに、お前がいるって?
こんな顔をした少女たちが。そして、さっきのあの子は、そのうちの一体で……死んだ? あの、黒猫の飼い主を、一緒に探した、ミサカが。
「いや……嘘、だろ」
木寺は後ずさった。謎の笑みが浮かぶ。口角がひきつる。
寝袋を見やる。じゃあ、その中に入っているのは……。
「……見せろ」
「推奨されません。一般人の精神衛生上有害な視覚情報が含まれています、とミサカは警告します」
「見せろって言ってんだよ!!」
木寺は怒鳴り、強引に寝袋のファスナーに手をかけた。ミサカ一○○三二号は抵抗しなかった。ただ、静かにそれを見ていた。
ジジジッ……とファスナーが開く。隙間から見えたのは。茶色の髪。そして、血に塗れた、見覚えのある制服の一部。
さらに開くと、
「……ぅ、あ……」
間違いなかった。さっき路地裏で見た、あの無惨な死体だ。それが、無造作に袋に詰め込まれている。まるで燃えるゴミのように。ただの物品のように。
「……あ、ああああ……」
木寺はその場にへたり込んだ。猫が、寝袋の匂いを嗅ぎ、悲しげに鳴いた。この猫にはわかるのだ。これが、さっきまで自分に優しくしてくれた少女の成れの果てだと。
「……なん、で……」
木寺は涙を流しながら、目の前の少女──一○○三二号を見上げた。
「なんで、てめえは、平気、なんだよ……」
「……、」
「仲間だろ……! 家族みたいなもんだろ……! それが!! なんで、こんな……荷物みたいに……!」
「ミサカたちは単価18万円の実験動物です。在庫はまだ9000体以上あります。個体の損耗は想定内であり、悲しむべき事象ではありません、とミサカは合理的思考に基づき回答します」
単価18万円。
在庫。
損耗。
人間に対して使う言葉じゃない。
狂っている。この少女も。この状況も。この学園都市も。
全てが狂っている。
「……ひッ」
木寺は立ち上がった。恐怖が、怒りを上回った。
もはや、目の前の少女が人ではない、何か悍ましいもののように見えた。
冷たくて、感情のない、ただ動くだけの人形。
こんなの、もう……俺が関わっていい領域じゃない。レベル0の俺が踏み込んだら、確実に、一瞬ですり潰される。
いや……もう、
巨大なシステムの一部として、この子達は消費されているのだ。それを止める力なんて、俺にはないのに。
「……逃げる」
木寺は呟いた。
「俺は……関係、ない……」
そう自分に言い聞かせるように。黒猫を抱き直し、木寺は背を向けた。
「……待ってください、とミサカは呼び止めます」
「来るなッ!」
木寺は絶叫した。
「俺に話しかけるな! 近づくな! 俺は何も見てない! 何も知らない……!!」
木寺は発狂した。
その、刹那だった。
「──あ……?」
彼の理性の隙間に、無数の乾いた音が、滑り込んできた。
軍靴ではない。この学園都市ならどこででも耳にする、女子学生の履くローファーが、地面を叩く音だ。
だが、異常だった。
一人や二人ではない。十、いや、もっと多いだろうか。
闇の向こう側から響いてくるその足音は、まるで巨大な一匹のムカデが這い寄ってくるかのように、恐ろしいほど均一なリズムで統率されていた。
ズレがない。歩幅も、着地のタイミングも、完全に同期している。
人間が集団で歩けば、そこには必ずズレが混じるはずだ。だが、この音にはそれがない。ただ、工業製品がベルトコンベアの上を流れるような、規則性だけがあった。
(……なんだ、これ……?)
木寺の全身の毛穴が、一斉に泡立った。
「在庫は9000体」。さっきの言葉が、物理的な質量を持って迫ってくるような錯覚。
暗闇の奥に、同じ顔、同じ無表情、同じ制服を着た少女の群れが、無限に列をなして蠢いている光景を、想起する。
(……ほんとに、いるのか。あんな死体の山になる『御坂』が、あと何千人も……うじゃうじゃと……ッ!)
嘔吐感。
生理的な嫌悪と、底知れない恐怖が、残っていた理性の堤防を完全に決壊させた。
ここにいてはいけない。飲み込まれる。
もう、振り返ってはいけない。
そして彼は全力疾走した。偽りの光の中へ。
日常へ戻るために。
この悪夢から覚めるために。背後で、ミサカ一○○三二号が何かを言った気がしたが、自分の足音にかき消されて聞こえなかった。
ただ、その無機質な瞳が、逃げる自分の背中を静かに見つめている気配だけが、いつまでも、いつまでも、じっとりと──