とある科学の存在証明   作:かさねtyann

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絶対能力進化計画

 

 

 

「あ。が、ああ………………っ」

 

 

 逃げた。木寺一桁は、ただひたすらに、逃げ続けた。

 

 

 足がもつれそうになるのを、恐怖という名の車輪で無理やり動かした。

 

 

 肺がひり付くように熱い。心臓が嘘みたいに暴れている。

 

 

 だが、どれだけ走っても、あの無機質な声が耳にこびりついて離れない。

 

 

 

 

『単価18万円』

『在庫』

『損耗』

 

 

 

「……う、あ……ぁ……」

 

 木寺一桁は、夜の学園都市を走っていた。行き先などない。ただ、あの場から、あの異常な現実から、一秒でも早く、一メートルでも遠くへ、離れたかった。

 

 路地裏を抜け、大通りに出る。明るい街灯。行き交う人々。笑い合うカップル。塾帰りの学生たち。世界は、あまりにも普通だった。

 

 誰も、知らないのだ。

 ほんの数キロほど先で、一人の少女がボロ雑巾のようにひき潰され、それを「在庫の損耗」として処理する別の少女が、死体を詰め込んだ寝袋を担いで歩いているなんてことを。

 

 

「……はは、狂ってやがる……」

 木寺は湿った笑いを漏らしながら、バス停のベンチに倒れ込んだ。

 脂汗と、冷や汗と、涙と、鼻水で、常人の顔つきなんてしないだろう。服は泥とアイスと自分の吐瀉物で汚れ、膝は震えている。

 

 通行人が怪訝な目で見ていくが、今の木寺にはそれを気にする余裕すらない。

 

(……俺は、()()

 あれは幻覚じゃなかった。血の臭い。肉がねちゃつく音。そして、あの一○○三二号が語った、氷のように冷たい事実。

 

(クローン……? 実験……?)

 映画の話じゃない。ここは学園都市だ。

 科学の最先端。超能力開発という、ある種の人体実験が公然と行われている街だ。

 

 だからといって、人間を量産して、殺して、消費するなんてことが、許されるのか……? 

 

 

「……ふざける、な……」

 

 

 信じたくない。信じたくないが、あの死体を見てしまった今、否定する材料が、一切ない。

 

(……誰か)

()()()()()()()()()

 

 警察? いや、警備員(アンチスキル)は使えなかった。死体すら消えた。彼らもグルなのか? それとも、もっと上からの圧力でもみ消されたのか? 

 

 

 先生? 小萌先生に言えば……いや、先生だけは巻き込む訳には絶対いかない。これは、あんな優しい先生が背負える闇じゃない。あの人だけには知らせたくない……こんな、悍ましいものを。

 

 

 上条……上条たちは? 

 あいつらは今……海だ。電話しても繋がるかどうか……いや、待て、その前に…………

 

 

(……()()

 

 ふと、一つの名前が脳裏をよぎった。御坂美琴。オリジナル。そう、そうだ……つまりあいつは昨日、あの子たちは、自分のクローンだと……遠回しに言っていたのだ。

 たしか、彼女のDNAから作られた……と。

 

『私のDNAマップだってそうよ。私が良かれと思って提供した情報が、どう使われてるかなんて、私には分からない』

 

 

 黄昏時、鉄橋の上で彼女が言っていた言葉が、呪いのように蘇る。

 彼女は知っているのか? 自分のクローンが大量生産されて……そして、それが、殺され続けていることを。

 

 

(……確認、しなきゃ)

 木寺はふらりと立ち上がった。確かめるのが怖い。もし彼女が知っていて、()()()()()()()()()()? もし彼女が、()()()()()()()()()()()()()()()? 

 

 

(……いや、違う……)

 

 あの時の彼女の目は、どこか……怯えていた。

 自分と、同じ匂いがした。

 自分のあずかり知らぬところで何かが起きていることに、恐怖していた。彼女もまた……被害者なのかもしれない。

 

 

「……会わないと……」

 木寺はバス停の時刻表を見た。思考が麻痺しているせいで、正常な判断ができない。ただ、安心したいというエゴだけが、彼を突き動かしていた。

 

 御坂美琴に会って、「そんなことあるわけないでしょ」と笑い飛ばしてほしい。全部夢落ちにでも、なっちまって欲しい。

 あるいは、一緒に震えてほしい。この恐怖を、一人で抱え込むには重すぎる。

 

 

 やがてプシュ……と音を立てて、バスが到着した。行き先は『学舎の園』近郊。第七学区の中でも、常盤台中学の学生寮がある高級住宅街エリアだ。

 

 

 

「はあ、ぐ…………」

 

 木寺は吸い込まれるようにバスに乗った。小銭入れの中の小銭を、確認もせずに運賃箱に放り込む。乗客はまばらだ。冷房の効いた車内。

 

 木寺は一番後ろの席に座り、ガタガタと震える体を抱きしめた。

 窓の外を流れる夜景が、光の帯となって後ろへ飛び去っていく。

 それはまるで、木寺一桁という存在が、取り返しのつかない場所へと運ばれていく、霊柩車のようにも見える。

 

 

 

 

 :

 

 

 

「学舎の園」近郊エリア。

 そこは、学園都市の中にあって、別世界のような場所だった。整然と区画整理された街並み。ゴミ一つ落ちていない舗装道路。

 街灯のデザインすらもお洒落で、治安の良さを象徴するかのように、夜でも明るい。

 

 バスを降りた木寺は、その清潔すぎる空気に、めまいを覚えた。

 さっきまでの血生臭い路地裏とは、あまりにも落差がありすぎる。同じ街の中に、地獄と天国が同居している。

 

 

「……ここか」

 木寺は、ケータイの地図アプリを頼りに、ある建物の前にたどり着いた。

 

 

『常盤台中学 女子学生寮』。

 

 

 常盤台の生徒たちが暮らす場所はいくつかあるが、御坂美琴が住んでいるのは、その中でも「学舎の園」の外にある、比較的自由度の高い寮だ。

 とはいえ、お嬢様学校の寮であることに変わりはない。見上げるような石造りの建物。三階建ての洋館のような造りで、重厚な門扉が外部を拒絶している。

 

 御坂美琴は有名人だ。学園都市の掲示板に彼女のプライバシーはある程度ばらまかれている。悪いと思ったが特定は簡単だった。

 エントランスにはオートロック式のガラス戸があり、その横には無数の部屋番号が記されたインターホンパネルが光っている。

 

 

「……立派だな、おい」

 

 木寺は自分の住むボロ寮と比較して、現実逃避の笑いを漏らした。住む世界が違う。物理的にも、身分的にも。こんなところに、薄汚れたレベル0の男が立っているだけで、不審者として通報されそうだ。

 

(……帰ろうか)

 

 理性が囁く。こんな夜遅くに、女子寮に押しかけるなんて非常識だ。

 それに、御坂美琴に会ったところでどうなる? 「妹が殺された」なんて言っても、普通に考えて、頭がおかしいと思われるだけじゃないか……? もう全部、夢だったんじゃないか? 

 

 

「…………、」

 思考が廻る。だが、足は動かなかった。

 帰れない。あの路地裏の光景が、瞼の裏に焼き付いて消えない。一人になりたくない。誰かと──この件に関係する誰かと繋がっていないと、発狂してしまいそうだった。

 

 

 

「……208、だったか」

 

 木寺は震える指で、インターホンのボタンを押した。

 

『2』『0』『8』『呼出』。

 

 断続的な電子音が、静かな空間に響く。心臓が破裂しそうだ。出てくれ。頼むから、出てくれ。

 

 

『……はい。どちら様ですの?』

 

 が。

 スピーカーから聞こえたのは、不機嫌そうな少女の声だった。御坂美琴ではない。恐らくルームメイトの、先日会った……白井黒子だった。

 

 

「……あ、あの、木寺です。木寺一桁です」

『は? きでら?』

 

 

 黒子の声が、一オクターブ低くなった。警戒心と、驚きと、そして呆れが混じった声。

 

 

『ああ、昨日の殿方。いったい何の用ですの? 今は何時だと思っていまして? ここは女子寮ですのよ。殿方がのこのこやって来ていい場所ではありませんわ』

「わ、わかってる! わかってるけど……どうしても、御坂さんに話があって……」

『お姉様に? 生憎ですが、お姉様は今シャワーを浴びていらっしゃいますの。取り次ぐことはできませんわ』

「そこをなんとかならないか!? 緊急なんだ! 本当に、本当に大事な話なんだ……!」

 

 木寺はインターホンに向かって叫んだ。通りがかりの女生徒が、不審そうにこちらを見ているが、構っていられない。

 

『緊急? 貴方の緊急事態なんて、精々120円を落とした、とかその程度でしょう? 明日になさいまし』

「違う! そんなレベルの話じゃない、まずいんだ、頼むから真面目に聞いてくれ……!!」

『……はぁ』

 

 黒子が深い溜め息をつく音が聞こえた。

 

『いい加減にしないとストーカー規制法でしょっぴきますわよ?』

「だから違うんだって!! お前じゃ話にならない、一回上がらせて──』

『いい加減になさい!』

 

 黒子の声が厳しくなった。

 

『あんまりしつこいなら、風紀委員(ジャッジメント)として対応させていただきますわよ。……切りますわ』

 

 プツッ。無情な電子音と共に、通話が切断された。

 

 

「……あ」

 

 

 木寺はインターホンの前で呆然とした。なにか、虫の居所が悪かったのか。

 あっさり切られた。信じてもらえなかった。……いや、当然だ。いきなり夜中に押しかけて、具体的な事をひとつも言わずに喚き散らす男。

 

 どう見ても不審者だ。狂人だ。

 

 

「……ああッ……!」

 

 木寺はインターホンのパネルを殴りつけた。痛い。拳の痛みだけが、糞以下の現実だ。

 

 

「どうすれば、いいんだよ……」

 誰も信じてくれない。世界は正常に回っている。

 ああ、やっぱりおかしくなってるのは俺の方なのか? あの死体も、あのクローン達も、全部俺の……妄想ってことにして……いいのかよ? 

 

 

 

 と、

 その時。

 

 

 

 ウィー、とオートロックのガラス戸が、静かに開いた。中から出てきたわけではない。外から帰ってきた住人が、カードキーで解錠したのだ。

 

「何なんですの、あの人」

「さあ?」

 

 常盤台の制服を着た数人の女子生徒が、開いたドアを通って中に入っていく。

 彼女たちは、入り口で立ち尽くす薄汚れた木寺を一瞥し、眉をひそめて、足早に通り過ぎていった。

 

 

「……、」

 

 

 ドアが開いている。閉まるまで、あと数秒。

 

 

(……入れ)

 悪魔が囁いた。

 いや、それは生存本能の叫びか。

 このまま帰れば、お前は一生この恐怖に怯えて暮らすことになる。

 

 真実を知るチャンスは、今しかない。

 

 御坂美琴に直接会って、確かめるしかない。

 

 

 

「……ああ、くそが………………」

 木寺一桁は、最後の一線を越えた。彼は女子生徒たちの背後に紛れ、閉まりかけたガラス戸の隙間をすり抜けたのだ。

 

 不法侵入。立派な犯罪だ。見つかれば退学、あるいはそれ以上の処分が待っているだろう。

 

 だが、今の木寺にとって、社会的な死など、あの路地裏の「死」に比べれば些細なことだった。

 

 

 

 

 :

 

 

 

 

 寮の中は、ひんやりと冷房が効いていた。そして、良い匂いがした。

 高級なアロマのような、あるいはシャンプーのような、清潔で甘い香り。男だらけのむさ苦しい自分の寮とは、空気の成分からして違う。

 

 

(……俺、何やってんだ?)

 

 巨大なホール。白を基調とした壁や天井。

 赤い絨毯の床を踏みしめながら、木寺はふわふわした自己嫌悪に襲われた。犯罪者だ。完全にアウトだ。もし誰かに見つかったら、言い訳できない。

 

 木寺は物陰に隠れながら、階段を目指した。エレベーターは目立つ。非常階段の方が安全だ。

 

 幸い、夜も半ばのせいか、ロビーには人は少なかった。寮監と思しき厳しい顔をした女性が奥の部屋に引っ込んだ隙を見て、木寺は階段へと駆け込んだ。

 

 

 208号室。二階だ。

 階段を上り、廊下に出る。高級感あふれる絨毯の廊下は、あらゆる騒音を吸収して静まり返っていた。

 

 並ぶドア。その一つ一つに、エリートお嬢様たちが暮らしている。

 

 

 

(……場違いすぎる)

 

 

 

 木寺は自分の格好を見下ろした。汚れたTシャツ。擦り切れたズボン。ここは王宮で、自分はそこに迷い込んだドブネズミだ。

 

 

「……205……206……207……」

 心臓が破裂しそうだ。見つかったら終わりだ。風紀委員だったか……黒子に見つかったら、無茶苦茶に制圧されるかもしれない。それでも、足は止まらない。

 

「!」

 208。あった。ドアノブに手をかける。鍵がかかっていたら、そこで終わりだ。インターホンはついていない。そしてノックする勇気はない。

 

 

 だが。

 

 

「…………!」

()()()。鍵が開いている。セキュリティへの慢心か、それとも二人ともが在室している証拠か。

 

 木寺は息を止め、そっとドアを開けた。隙間から、中を覗く。御坂がいれば、黒子をなだめてくれるだろうと言う期待があった。

 

 

「……失礼します……」

 蚊の鳴くような声で呟き、中へと滑り込む。

 

 

 

 そこは、ホテルみたいな部屋だった。奥にベッドが二つ。クローゼットはない。そして、ベッドにはゲコ太のクッション……鞄に着けていたのを見た、多分御坂美琴の趣味だろう。

 そして、その一方で、几帳面に畳まれた制服が置かれたベッドは黒子の領域だろうか。

 

 奥の方から、シャーッという水の音が聞こえる。バスルームだ。誰かが入っている。黒子はさっきインターホンで「お姉様はシャワー中」と言っていた。なら、今入っているのは御坂か。

 

 

 木寺は玄関の床を見た。が、靴が一足しかない。ローファーが一足。それだけだ。

 

 

(……あれ?)

 

 

 二人部屋なら、()()()()()()()()()。今あるのは、少し小さめのローファー。おそらく、黒子のものだ。だけど、()()()()()()()()()

 

 

(……御坂は、いないのか?)

 

 

 シャワーを浴びているのは、白井黒子? じゃあ、さっきのインターホンの対応は、嘘だったのか? 

 

 木寺の背筋に、冷たい汗がじわつく。

 

 

 もし今、バスルームから出てくるのが黒子だったら。完全に詰みだ。不法侵入者として、その場で拘束される。

 

 ……帰るべきか? いや、ここまで来て手ぶらで帰れるか。

 何か手がかりを。彼女が実験に関わっている証拠……あるいは、関わっていない証拠を。

 

 木寺は部屋の中を見回した。机の上には、参考書やノートが広げられている。何の変哲もない、中学生の勉強道具だ。生活感があまりないが……それでも、普通の、女の子の部屋という印象だ。

 

 

(……俺は、何を期待してるんだ)

 ここには何もない。ただの平和な女子寮の一室だ。路地裏の死体なんて、こことは無縁の世界の話だ。俺の妄想だったんだ。そう思いたい。

 だが、肝心の御坂と話すまでは……

 

 

「……ちっ」

 しかし……いつまでもここにはいられない。収穫がないなら、やはり寮の前で待つしかないか。

 木寺が焦りの入り混じった溜め息をつき、引き返そうとした時だった。

 

 

 ベッドの下。そこに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「……ん?」

 

 

 それは、部屋に溢れるゲコ太グッズとは明らかに異質だった。

 大きなテディベア……なのだろうか。継ぎ接ぎだらけの、フランケンシュタインのような熊のぬいぐるみ。

 

 

「………………、」

 

 可愛らしさよりも、どこか不気味さを漂わせているデザイン。

 

 

(……趣味悪いな)

 御坂のセンスなのか? いや、(多分)ゲコ太好きの彼女が、こんなゴシックなものを持つだろうか。

 

 木寺は何かに吸い寄せられるように、そのぬいぐるみに近づいた。手に取ってみる。妙に重い。綿が詰まっているだけの重さではない。中身が詰まっているような、硬い感触。

 

 

「……なんだ、これ」

 

 

 背中に、ファスナーがついているのに気づいた。小物入れか何かか? くまには縫い跡があり……それがファスナーに改造されているようだった。

 

 

 木寺は、震える指でファスナーの金具を摘んだ。ジジッ……とゆっくりと下ろす。中から見えたのは、綿ではなかった。紙束だ。折り畳まれた、分厚いレポート用紙の束。

 

 

(……んだ、これ)

 紙の質感は、学校のプリントや手紙のようなものではない。もっと硬質な、業務用の書類。

 

 木寺は、その紙束を抜き出した。一枚目を開く。そこには、無機質な明朝体で、悍ましいタイトルが印字されていた。

 

 

 

 

 

【量産能力者『妹達(シスターズ)』の運用における超能力者『一方通行(アクセラレータ)』の絶対能力の進化法】

 

 

 

 

 

「……っ」

 

 木寺の呼吸が止まった。文字の羅列が、意味を持って脳髄に突き刺さる。

 

 

妹達(シスターズ)』。

量産能力者(レディオノイズ)』。

一方通行(アクセラレータ)』。

『レベル6シフト』。

 

 

 

(……な、え、んだ、これ………………)

 

 

 木寺は震える手で、ページをめくった。そこには、地獄の設計図が描かれていた。

 

 

 

 

『学園都市最強の超能力者・一方通行を、絶対能力者(レベル6)へと進化させるための実験』

『演算の結果、通常のカリキュラムでは250年の時間を要する』

『よって、実戦形式による成長促進を行う』

『対戦相手として、第三位・超電磁砲(レールガン)のクローンである「妹達」を用意する』

『20000体の妹達を、20000種類の戦場で殺害させることで、進化を完了させる』

 

 

 

 

 数字。グラフ。死亡予測。損耗率。

 そこには、人のモラルなどカケラも存在しなかった。ただの「材料」としての、御坂美琴のクローンたち。そして、それを殺戮することで神になろうとする、一方通行という怪物。

 

 

「……嘘、だ……」

 

 

 木寺はレポートを握り潰した。2万人? 殺す? 能力の……進化のために? 

 

 さっき見た死体。あれは、この『実験』の犠牲者だったのか。一○○三一号。1万人以上が、やはり()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 現実に。あんな風に、ゴミのように。

 

 

 

 

 

「……う、オェッ……」

 ぐにゃりと視界がゆがむ。

 吐き気がぶり返す。この部屋の甘い香りが、死臭に変わっていくような錯覚。このぬいぐるみは、この最悪の計画書を隠すための、棺桶だったのか。

 

 

(……御坂は、これを、知ってたのか?)

 ページをめくる。そこには、実験の進捗状況と共に、手書きのメモが挟まれていた。震えるような筆跡で書かれた、地図と、施設のリスト。

 

 

『水穂機構・病理解析研究所 ×』

『樋口製薬・第七薬学研究センター ×』

 

 

 

 ……

 ………………、

 

 

 

 いくつもの施設名に、バツ印がつけられている。そして、その横には、日付と時刻。それは、最近のニュースで報じられていた「原因不明のボヤ」や「テロ未遂」の時間と一致していた。

 

 

 

 

「……これ、は」

 

 木寺は悟った。「やはり」だ。

 彼女は、この実験に加担しているのではない。戦っているのだ。たった一人で。

 

 この巨大な闇に対して、施設を破壊し、実験を止めようとして。誰にも頼らず、誰にも言わず。このぬいぐるみに、絶望と孤独を詰め込んで。

 

 

 

「……馬鹿、野郎……」

 

 涙が滲んだ。なんて孤独な戦いだ。レベル5だとか、超電磁砲だとか、そんな肩書きは何の役にも立たない。彼女はただの14歳の少女として、2万人の妹たちの命を背負って、壊れそうな心を、必死に繋ぎ止めている。

 

 

 

『妹って、あんたにとってなんなわけ?』

『重荷?』

 

 

 

 あの時、彼女が言った言葉の意味が、ようやくわかった。

 彼女にとっての妹は……自分のDNAから生まれた、殺されるためだけの存在。その罪悪感。その責任。重荷なんて言葉じゃ足りない。それは、彼女の魂を蝕む、呪いそのものだ。

 

 

「……ごめ、ん……」

 

 

 木寺はレポートを抱きしめた。何も知らずに、気楽にジュースなんて横で飲んで。「大家族だな」なんて茶化して。俺は、なんて……無神経だったんだ。

 

 

 その時。

 

 

 

 かちゃり、と、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 水の音が止まっている。

 

 

 

 

「……ふぅ。いい湯でしたの」

 

 独り言。聞き覚えのある声。白井黒子だ。

 

「……!」

 木寺は弾かれたように顔を上げた。まずい。出てくる。このレポートを見ているところを見られたら、言い逃れできない。

 

 それに、もし黒子がこの事実を知らないとしたら? 美琴が誰にも言わずに隠していたとしたら? 俺がバラすことで、美琴の孤独な戦いを台無しにしてしまうかもしれない。

 

(……まずい……!)

 木寺は慌ててレポートをぬいぐるみに戻そうとした。だが、手が震えてうまくいかない。ファスナーが噛む。

 

「お姉様ー? まだ帰ってきてませんのー?」

 

 黒子の足音が近づいてくる。もう、ドア一枚隔てた向こう側だ。

 

(ちくしょう……!)

 

 木寺はぬいぐるみをベッドの下放り投げた。ファスナーは半開きで、何枚かを自分のポケットにぶち込む。構っていられない。隠れる場所は? ベッドの下? クローゼット? 

 

 いや、部屋が狭すぎる。気配を察知されたら、どこに隠れてもアウトだ。

 

 

「……窓!」

 木寺は窓に駆け寄った。二階だ。飛び降りればなんとかなる。幸い、ベランダがある。

 

 木寺が窓を開け、ベランダに出た瞬間。バスルームのドアが開いた。

 

「あら……? 窓……」

 

 黒子の声。木寺はベランダの手すりを乗り越え、雨樋に掴まった。心臓が口から飛び出しそうだ。

 

「……開いて、ましたっけ…………」

 

 黒子が窓に近づいてくる気配。

 木寺は息を殺し、雨樋にしがみついたまま、体を引き締めた。頼む、気づかないでくれ。俺は空気だ。俺は虚無だ。俺はただの背景だ。

 

 

 

 

「………………、」

 

 

 そして。

 ピシャ、と窓が閉められた。鍵がかけられる音がする。

 

 

 

 

 

「……あ」

 木寺は全身の力が抜けるのを感じた。助かった。いや、助かってはいない。不法侵入に、窃盗。そして何より、()()()()()()()

 

 

 

 

 この学園都市の、最も深い闇を。

 

 

 

 

 木寺は雨樋を伝って、地面に降り立った。歯の根ががちがちと鳴っている。見上げると、208号室の窓から、温かな光が漏れていた。

 あの中で、黒子は何も知らずに過ごしている。そして、御坂美琴は……

 

 

 

「………………、」

 

 

 木寺は夜空を見上げた。星は見えない。科学の光にかき消されて、本当の空は見えない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 現実感が、徐々に輪郭を伴って、彼の奥底を舐り続けている。

 

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