シャツが汗で張り付く。体が芯から冷たくなる。
木寺一桁はまた走っていた。呼吸をするのも忘れるほどに、ただひたすらに足を動かしていた。
背後にあるのは、静まり返った高級学生街──
あそこには、御坂美琴の寮がある。そして、あの忌まわしいぬいぐるみがある。2万人の死体の上に築かれる、狂った方程式がある。
「う…………」
喉の奥から、嗚咽とも悲鳴ともつかない音が漏れる。
見てしまった。知ってしまった。この学園都市という華やかな舞台の床下には、腐乱した死体が山のように積み上がっていることを。
グロテスクな死が、この街を覆いつくしている。
木寺は、高級マンションの植え込みに躓きそうになりながら、大通りへと出た。そこは、第七学区の繁華街へと続く道だった。
:
光。音。人の波。
繁華街に入った瞬間、木寺の五感を暴力的なまでの日常が襲った。
街頭から流れるアイドルの新曲。ファストフード店の排気口から漂う油の臭い。そして、無数の人々の話し声、笑い声と足音。
「……あ、あぁ……」
木寺は、人混みの中で立ち止まった。めまいがした。世界が回っている。極彩色の光が、網膜を焼き尽くすように明滅している。
周りを見る。楽しそうに腕を組んで歩くカップル。ゲームセンターの前でたむろする学生たち。仕事帰りの教職員たち。
みんな、明日が来ることを疑わずに生きている。
(……なんで、笑ってんだよ)
木寺の口から、声のない言葉が漏れた。
(人が、死んでるんだぞ……?)
ついさっき、この街の片隅で、一人の少女が生ゴミのように潰されたんだぞ。そしてこれからも、沢山の少女が、ゴミ袋に詰め込まれて運ばれていくんだぞ。
なのに、なんでお前らは平気な顔をして笑っていられるんだ。なんで、クレープなんて食ってられるんだ。なんで、くだらない話で盛り上がれるんだ。
「……おかしいだろ……!!」
木寺の声が、少し大きくなった。近くを通りかかった女子高生グループが、ギョッとして彼を見た。
「……狂ってんだよ、お前ら……!」
木寺は叫んだ。自分でも制御できない感情が、ぶわりと噴き出した。恐怖と、怒りと、そしてどうしようもない孤独感が、彼を突き動かした。
「おい! そこで笑ってるお前!」
木寺は、近くにいたカップルの男に掴みかかった。
「な、なんだよお前!?」
「知らねえのか!? 今、そこで人が死んだんだぞ! あの子が……あの子が殺されたんだぞ!」
「はぁ? 何言ってんだこいつ……酔っ払いか?」
「酔ってねえよ! 見たんだよ俺は! ぐちゃぐちゃになって、血まみれで……!」
木寺は必死に訴えた。誰かに共有してほしかった。この恐怖を。この異常事態を。「それは大変だ」「警察を呼ぼう」と言ってほしかった。世界がまだ正常であることを、誰かに証明してほしかった。
だが。
「……うわ、キっモ」
カップルの女が、汚いものを見る目で呟いた。
「行こうよ、関わらない方がいいって」
「そ、そうだな。薬でもやってんじゃねえの?」
二人は、逃げるように早足で去っていった。木寺は、伸ばしかけた手を空中に彷徨わせたまま、取り残された。
「……なんで、だよ……」
周りの人々が、遠巻きに木寺を見ている。心配しているのではない。「変な奴がいる、見世物だ」という、冷ややかな好奇心の目だ。
「……見せ物じゃねえよ……!」
木寺は周囲を睨みつけた。
「お前らもだ! 何ヘラヘラしてんだよ! この街は狂ってるんだぞ! クローン作って、殺して、実験して……そんなことやってる街で、なんで平気な顔して生きてられるんだよ!?」
木寺の叫びは、繁華街の騒音にかき消されていく。誰も足を止めない。誰も耳を貸さない。あるいはむしろ、ケータイを取り出してカメラを向ける者さえいた。
パシャリ。
「……今の撮った? ウケるんだけど」
「ルイッターに上げよーぜ。『第七学区にヤバい電波系出現』って」
フラッシュの光。冷笑。嘲笑。
「……やめろ……!」
木寺は顔を覆った。
怖い。
一方通行よりも、死体よりも、この「無関心な大衆」の悪意が怖い。
彼らは、目の前で人が叫んでいても、それをコンテンツとして消費するだけだ。誰も、木寺一桁という人間の悲鳴を聞こうとはしない。
「……やめろよ……撮るなよ……!」
木寺は後ずさった。背中が、ショーウィンドウにぶつかる。ガラスに映った自分の顔は、酷いものだった。泥と涙で汚れ、目はイッていて、髪はボサボサ。確かに、これでは不審者そのものだ。
「おい、君」
その時、威圧的な声が響いた。人垣を割って、見慣れた制服を着た男たちが現れた。
「……ッ!」
「市民から通報があった。往来で騒いでいるようだが、少し署まで来てもらおうか」
警備員の手には、警棒が握られている。さっきの路地裏での出来事がフラッシュバックする。あの時もそうだった。彼らは何も見ようとしなかった。ただ「事態を収拾する」ことだけを目的に、俺を排除しようとした。
「……嫌、だ……」
木寺は首を振った。
「俺は……俺はただ……!」
「抵抗するなら執行妨害だぞ。大人しくしなさい」
警備員が距離を詰めてくる。その目は、犯罪者を見る目だ。助けを求める市民を見る目ではない。
「……う、わあああああああッ!!」
木寺は絶叫し、警備員に向かって突っ込んだ。いや、突っ込むふりをして、横をすり抜けた。
「あっ、おい! 待て!」
「逃がすな!」
怒号が飛び交う。木寺は人混みを掻き分け、突き飛ばし、無我夢中で走った。罵声が飛んでくる。
「痛い!」
「危ねえだろ!!」
「うう、ううううううう」
ごめんなさい。ごめんなさい。でも、捕まるわけにはいかないんだ。捕まったら、俺の見た「真実」は、ただの「狂人の妄想」として処理されてしまう。あの子の死が、完全に「無」になってしまう。
「……はぁ、はぁ、はぁ……!」
路地裏へ。光の届かない場所へ。ゴミ箱を蹴倒し、木寺はまた、闇の浅瀬へと逃げ込んだ。
:
人の出すわずかな騒音だけが、辺りに潮騒のように低く唸っている。
木寺は、息も絶え絶えになりながら、古びた公園にたどり着いた。第七学区の片隅にある、小さな児童公園。錆びついたシーソーやジャングルジム。塗装の剥げた謎の遊具。
そこの片隅にある、木製のベンチ。そこで、今度こそ木寺一桁は倒れ込んだ。
そう、ここはあの公園だ。御坂妹と待ち合わせをしたはずだった、あの公園。
足元には、コンビニのロゴが入ったダンボール箱。中には、木寺が常盤台に侵入するにあたって置いてきた……
そして今は、水と猫缶で腹を満たした黒い子猫が、安心しきった様子で寝息を立てている。
小さな命は守られている。だが、それを守るべき人間の心は、粉々に砕け散り、再起不能なまでに摩耗していた。
「……はぁ、っ、はぁ……」
過呼吸気味の呼吸が、喉の奥でヒュウヒューと鳴っている。酸素は足りているはずなのに、肺が空気を取り込むことを拒絶しているようだ。
指先が冷たい。末端の血流が阻害され、感覚が麻痺していく。
瞼を閉じれば、あの光景。赤黒い血の海。物理法則を無視してひしゃげた手足。唇からこぼれる赤い泡。
そして、それらを行った人間の、あの、レポートの……白黒の顔写真。
彼女たちを「燃えるゴミ」のように見下ろす、
(逃げた。見捨てた。俺は、あの子を置いて、逃げたんだ…………)
追いついてきた。全ての現実感が、彼の全身を徐々に蝕んできた。
自己嫌悪が、罪悪感が、どす黒いぬかるみとなって胃の底に溜まっていく。
「手伝う」なんて、安請け合いしたくせに。
「アイスなんて食うかな」なんて、気取った気遣いをしたくせに。
助けて助けて助けて助けて
助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて
て助けて助けて助けて助けてて助けて助けて助けて助けてて助けて助けて助けて助けてて助けて助けて助けて助けてて助けて助けて助けて助けて
いざ圧倒的な暴力を前にしたら、自分の命惜しさに、まだ温かかったかもしれない彼女を置き去りにして、
「……あ、かはっ……俺、は…………、…………」
もう、涙すら出なかった。人間は、本当に絶望すると涙も枯れるのだと知った。
ただ、体の震えが止まらない。カチカチと歯が鳴り続ける。気温は三〇度を超えているはずなのに、極寒の雪山に全裸で放り出されたように寒い。
「……げほっ、うぇ……ッ……」
咳き込む。喉が血の味がする。全身の筋肉が悲鳴を上げている。だが、それ以上に、心が痛い。
「……どうしてだよ、ううう……」
木寺は膝を抱え、小さく丸まった。空を見上げる気力もない。ただ、地面のアリを数えるように、視線を落とす、虚無感が、真っ黒な津波のように押し寄せてきた。
『
触れたもののベクトルを自在に操る、無敵の怪物。軍隊でも勝てないと言われる、歩く核弾頭。
「……あんな、奴が……」
あんな怪物が、この計画の主役なのか。そして、その怪物のエサとして、御坂美琴のクローンが、消費されているのか。
一○○三一号。今日、死んだ「個体」、その数字が意味する重さに、木寺はまた震えた。
1万人。そう、すでに1万人の「妹」たちが、あいつの手によって殺されたということだ。そして、残りはあと1万人弱。
そして。
「……次、は…………」
木寺の脳裏に、あの無機質な少女の顔が浮かんだ。御坂一○○三二号。黒猫の話をして、ジュースを運んでくれて、麦茶をこぼして、そうして俺を個体識別名がなんちゃらなんて、淡々と呼んでいた少女。
「……
順番通りなら、次は一○○三二号だ。明日の夜か、明後日の夜か。
いや、
彼女は指定された実験場へ行き、一方通行と対峙し……そして、さっき見たあの死体のように、肉塊へと、変えられるのだ。
「……嫌、嫌だ……」
木寺は頭を抱えた。
嫌だ。そんなの、見たくない。信じたくない。あの子には、少しだけど情が湧いてしまった。猫を心配する優しさがあった。アイスだって美味しそうに食べるはずだ。ただの人形じゃない。感情があったんだ。
「……でも、どうすれば、いいんだよ……」
木寺は自分の手を見た。震えている。何も持っていない手。レベル0の、無力な手。生まれた時から何一つ掴めなかった、空っぽの手のひら。
「……無理だろ、こんなの……」
口をついて出たのは、あまりにも正直な本音だった。無理だ。絶対に、確実に、一〇〇パーセント、無理だ。不可能だ。
相手はあの『
この街の頂点。人口二三〇万人のピラミッドの、その最上段に君臨する怪物。なんなら国家でも勝てない。あらゆる兵器でも傷つけられない。そんな英雄じみた存在が、実在して、今まさに殺戮を、楽しんでいる。
「……止められるわけが、ない……ははは………………どうしようも、ねえって……」
木寺は、自分のスペックを自覚していた。能力なし。運動神経は多少マシだが、度胸も武器も味方も、もう誰一人いない。おまけに頭も悪いと来た。
虫が人間に挑む? いや、そんな生易しい比喩じゃ足りない。これは、藻がブラックホールに喧嘩を売るようなものだ。
存在の次元が違う。物理法則そのものが、あいつの味方をしているんだ。ベクトル操作? 触れただけで血液の流れを逆流させる?
そんな理不尽な力の前に、俺ごときが生身で飛び込んで行って、何ができる?
「……死ぬ、だけだ……」
想像してしまう。あいつの前に立った、自分自身の姿を。
いや、立つことさえ許されないだろう。一歩踏み出した瞬間に、小石でも蹴るみたいに弾き飛ばされて、壁に叩きつけられて、トマトみたいに潰れるんだ。さっき見た、あの少女の死体のように。
「……怖い……」
木寺は頭を抱え、ベンチの上で更に小さく丸まった。
「……死にたく、ねえ……」
痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。
あんな風に、誰にも知られずに、ゴミ袋に詰められて処理されるなんて、
俺はまだ15歳だ。何ひとつも成し遂げていない。
恋人もいたことない。美味いものだって、もっと食いたい。サバ缶の新作味だって出るかもしれない。
やりたいことなんて特にないけど、死にたくはないんだ。
「……関係ない……俺には、関係ないだろおッ……!!」
また、木寺は、呪文のように同じことを呟いた。自分を守るための、防壁の言葉。
俺はただの通りすがりだ。たまたま自販機であの女と一緒になっただけの、たまたま不相応な事を知っただけの、赤の他人だ。
御坂美琴とは友達ですらない。あの子──一○○三一号や一○○三二号とも、ほんの少しの間話しただけだ。
あのクローン達に、ちゃんとした名前だって、あるのかないのか。向こうが勝手に名乗った記号みたいな番号しか知らない。
「……そうだ、俺は関係ない……」
学園都市の闇? クローンの人権? そんな高尚な問題、俺みたいな底辺が背負えるわけがない。偉い人たちが勝手にやって、勝手に狂ってるだけだ。俺は巻き込まれただけの被害者だ。今すぐここから立ち去って、記憶を消して、明日からまた空気のように生きていけばいい。
そうすれば、助かる。そうすれば、日常が戻ってくる。
(……なの、に……)
足が、動かない。心臓が、まったく落ち着かない。全てがおどつき、暴れ狂っている。
(……一○○三一号)
今日、死んだ個体。その数字が、脳裏にこびりついて離れない。
俺がのうのうと学校に通って、サバ缶の値段に一喜一憂している間に。俺が「自分は独りだ」なんて嘆いて、ウジウジいじけている間に。
あいつらは、死に続けていた。
「……あいつらは、なんだよ……」
人間じゃないのか? 単価18万円の部品なのか? 在庫なのか?
違うだろ。それは、それだけは、絶対に、違う。
「……くそ……くそッ……!」
木寺は自分の太ももを爪で掻きむしった。痛みが走るが、恐怖は消えない。
「……無理、無理だ……!! ううう、ううう………………」
見たくない。あの子が壊されるところなんて、絶対見たくない。でも、助けに行く勇気もない。
木寺は夜空に向かって叫びそうになったが、声にならなかった。恐怖で喉が張り付いている。
(……か、上条なら!)
あいつなら、どうするだろう。考えるまでもない。あいつなら、きっと迷わず飛び出していくだろう
相手が学園都市第一位だろうが、軍隊だろうが、神様だろうが関係ない。「ふざけんな……!」だの、「幻想をぶち殺す!」だのとでもと叫んで、その理不尽をぶち壊しに行くんだろう。
ボロボロになって、血だらけになって、それでも決して諦めずに、その右手を突き出すのだろう。
「は……あいつは、ヒーロー、だからな」
木寺は自嘲した。そうだ。あいつは主人公だ。選ばれた人間だ。異能を打ち消す『幻想殺し』がある。何より、折れない心がある。
「……でも、俺は、違う」
俺には何もない。幻想殺しなんてない。ただの、AIM拡散力場すら出ない、欠陥品の脳みそが一個あるだけだ。
心だって、すぐに折れる。現に今、恐怖で全身が粉々になりそうだ。
「……上、条……」
助けてくれ。今すぐここに来てくれ。お前が解決してくれ。お前ならできるだろ? 俺は、お前の後ろで、「すげえな」って感心して、安堵の溜め息をつきたいんだ。安全な場所から、拍手を送るモブ野郎でありたいんだ。
あいつは今、海だ。ここから遠く離れた、平和な海だ。
今頃、宿でインデックスと枕投げでもしているかもしれない。電話をかけて呼び戻すか? 間に合うか? 事情を説明して、信じてもらって、こっちに来るまでに何時間かかる? その間に、一○○三二号は殺されるかもしれない。
「…………、」
……いや、それでも、あの男ならすぐに信じてくれるだろう。そして、こっちに即、駆けつけてくれるかもしれない。
(……はは)
そうだ。簡単な事だった。もう、今すぐあいつに電話すればいい。
木寺はケータイの連絡先一覧を震えながら操作する。
「………………。」
「…………………………、」
しかし、なぜか……どうしても。
彼の指は動かなかった。呼び出しをする直前で、ぴたりと指の腹が、止まった。
(く、…………)
あの時の、
また殺すのか。こんな、何の命の保証もない場所に、あいつを呼び寄せて、また、あいつを一人で戦わせるっていうのか。
今度こそ、助からないかもしれないのに。それでも、あのお人好しな男は、ここに、きっと来てくれるだろう。
そして、もし上条が死んででもしたら。俺は、あいつの心と体、両方を殺した殺人鬼になってしまう。
「……俺、は……」
木寺一桁は、ここまでの人生を振り返った。俺は今まで、何をしてきた?
妹の二葉。天才少女。彼女の過干渉を内心鬱陶しいと思いながら、なんだか申し訳ないと思いながら、結局はその「無能な兄」というポジションに甘えていたんじゃないのか? 「俺には才能がないから」と自分に言い訳をして、努力することから逃げていたんじゃないのか?
学校でもそうだ。クラスメイトの輪に入れないことを、ずっと周りのせいにしていた。
「俺は空っぽだ」と嘆くことで、自分を正当化していた。吹寄に怒られた時も、結局は彼女の優しさに甘えて、クラスの関係を再構築してもらっただけだ。
「……ずっと、逃げてばっかだ……」
今回も、そうするのか? 見なかったことにして、忘れて、逃げるのか? 「相手が悪すぎた」「俺には無理だった」と、もっともらしい理由をつけて。
「…………、」
でも……今なら、まだ引き返せる。
このまま家に帰って、布団を被って震えていれば、明日の朝には日常が戻ってくる。一○○三二号が死んでも、俺の生活には何の影響もない。ニュースにもならないだろう。誰も知らないまま、この世界は回っていく。
俺が口を噤んでいれば、すべては闇の中だ。
「っ……それで、いいのかよ……」
木寺はまた、涙が湧いてきた。悔しい。情けない。自分が、こんなにも矮小で、卑怯な人間だということが、死ぬほど悔しい。怖い。死にたくない。一方通行が怖い。痛いのが怖い。でも、このまま見殺しにするのは、すごく嫌だ。
一生、あの死体の幻影に付きまとわれることになる。笑うたびに、生きて呼吸するたびに、あの子の血の匂いを、思い出すことになる。
「……無理だ……」
そう、どっちも無理だ。戦うのも無理。逃げるのも無理。俺は、ここで立ち尽くして、発狂するしかないのか?
……いや、
戦う方が、
逃げたい逃げたい逃げたい。この記憶を消してしまいたい、あの日の上条当麻のように。
思考が終わらない。まとまらない。なのに、どんどんどんどん苦しみばかりが蓄積していく。無間の地獄だった。これがもう、ただ時間を浪費するだけの現実逃避だと、木寺はとっくにわかっていた。
「……う、うぅ……誰か……ぐ…………」
誰か、もう、言ってくれ。俺に、「行け」と言ってくれ。そしたら俺は無理だと泣き叫ぶ。
あるいは、「逃げろ」と言ってくれ。そしたら、俺はすぐにでもその通りにしてやるから。
「……助け、て……」
木寺は、胎児のように丸まり、嗚咽を漏らした。公園の砂場に落ちる影が、黒い怪物のように見えて、さらに体を縮こまらせる。世界の全てが敵に見える。孤独だ。絶対的な孤独が、ここにある。
俺は上条当麻のような主人公じゃない。御坂美琴のようなレベル5でもない。ただの、口先だけの卑怯なゴミだ。そうやって自分を卑下することで、心の均衡を保とうとする自分が、また死ぬほど嫌いだった。
そして。
「……あ」
その時。
小さな、声が聞こえた。
風の音ではない。車の音でもない。もっと近く、すぐそばから聞こえた、人間の声。
「……!?」
木寺は、びくりと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げた。まさか、追っ手か? 警備員か? それとも、一方通行が俺を始末しに来たのか?
涙で滲んだ視界の先に、小さな人影が立っていた。街灯の逆光で、顔が見えない。だが、そのシルエットは、怪物のものではなかった。もっと小さく、華奢で……無害な形。
赤いランドセル。フリルのついたワンピース。手には、食べかけのアイスの棒。
「……、え?」
木寺は目をこすった。幻覚かと思った。こんな時間に、こんな場所に、小学生がいるはずがない。でも、その人影は動いていた。不思議そうに首を傾げ、ベンチでうずくまる木寺をじっと見つめている。
「……あの、ねえっ」
場違いなほどに軽い、無邪気な声。聞き覚えのある女の子の、声。
「……どうしたの? お腹いたいの?」
無垢な瞳。そこには、繁華街の人々のような冷笑も、警備員のような疑いもない。ただ純粋な、心配の色だけがあった。
(あ、…………)
木寺は、その瞳を見て、呼吸が止まりそうになった。
二ヶ月前。ロボットの暴走。恐怖で足がすくみながらも、何とか突き飛ばした、あの少女。
緩見、六花。小学校一年生。
「……き、み……」
六花は、木寺の顔を覗き込んだ。そして、にっこりと笑った。その笑顔は、地獄のようなこの夜にあって、あまりにも場違いなほどに明るく、温かかった。
「……わあ、やっぱり! おにーちゃんだーっ!!」
少女はとてとて、と、本当に無邪気に、木寺の元に駆け寄ってきた。
それは、闇の中に舞い降りた、小さな天使のように。
それが今の木寺には……なによりも、恐ろしかった。