とある科学の存在証明   作:かさねtyann

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とある少女の生存証明

 

 

 

 

「おにーちゃんだ、えっへへ、やっぱおにーちゃんだったー!!」

 

 

 

 絶望という汚泥。

 その奥深くに沈んでいる木寺の鼓膜を、場違いなほど日常的な声が通り抜けた。

 

 登校日の帰り? 母親とお出かけでもしていたのか、買い物する母親でも待っているのか。

 

 どこか手持ち無沙汰な雰囲気な女の子。

 

 

 

「……あ、…………」

 

 木寺は、その顔に見覚えがあった。

 どころか、よく知っている。

 

 二ヶ月程前。第七学区で警備ロボットが暴走した際、逃げ遅れて泣き叫んでいた少女、緩見六花(ゆるみむいか)だ。あの時、木寺は何も考えずに飛び出し、彼女の間に割り入って怪我をした。

 

 そいつが治った後、この子とその母親に呼ばれて、一度だけレストランで話した。

 

 こっちはコミュ障だから酷くぎこちない食事の時間だったのだが……なぜか、ずっと、凄く感謝されて。

 

 だけど、木寺にはそんな大層な事をした実感がなかった。無我夢中だっただけだから。

 

 

 だから、その時は良かった、と思っただけで……

 

 

 

 

 

「……き、み……」

「ね、ね、こんなとこで何してるの、おにーちゃん!?」

 

 距離感が近い。あまりにも。

 少女は無邪気な笑顔で、すぐそばまでやってきた。

 その瞳は、夜空の星を映し込んだようにらんらんと輝いている。

 彼女にとって、目の前の少年は「自分を助けてくれたカッコいい人」……なのだろうか。

 少なくとも、彼女にとっては、木寺一桁は疑いようもない正義の味方なのだろうか。

 

 だが、今の木寺にとって、その純粋度一〇〇%の眼差しは、今、どんな罵倒よりも痛かった。レーザーで焼かれるよりも痛く、その胸を抉った。

 

 

「……あ、あぁ。久しぶり、だな」

 

 木寺は顔を背けた。

 泥だらけの服。擦りむいた腕。そして、情けなく震える体。

 

()()()()()()。今の俺は、そんな綺麗な目で見られるような高尚な人間じゃない。

 吐瀉物にまみれて、恐怖に震えているだけの、ただの負け犬なんだ。

 

 

「…………?」

 六花は、木寺の様子がおかしいことに気づいたようだった。

 彼女は小首をかしげ、木寺の顔を覗き込み、そして、膝の上で小刻みに震えている彼の手を見た。

 

「……おにーちゃん。また、震えてるね」

「え……?」

「あの時もそうだったよ。ロボットのとこに走ってきたおにーちゃん、すっごく震えてたもん。うわぁぁって、わたし、見えてたもん」

 

 六花は、子供特有の残酷なまでの観察眼で、事実を口にした。

 

 

「ねえ。……こんどはなんで、泣きそうな顔してるの??」

 

「……、」

 

「それかー、もしかしておなかすいた? けがしちゃった?」

 

 

 違う。

 そんなんじゃない。

 

 肉体の苦しみなんて、今の心の痛みに比べれば……蚊に刺された程度だ。

 

 

「……、違うよ」

 

 木寺は、干からびた喉から声を搾り出した。

 

 嘘をつきたくなかった。

 

 この純粋な少女に、自分を「頼れるお兄さん」だなんて誤解されたままなのは、あまりにも辛かった。

 アイドルを演じるには、彼の精神はとうに限界を迎えていた。

 

「俺は……ただ、ビビってるだけだ」

 

「ビビってる?」

 

「ああ。怖いんだよ。……さっき、すごく、すごく……怖い目に、遭って…………」

 

 言葉が詰まる。

 友達を見捨てた、とは咄嗟に言えなかった。

 そんなことを言えば、この子は俺を軽蔑するだろう。……だけど。

 

「なーんだ、ひどい人だ」と笑って、去ってくれればいい。そうすれば、俺は一人で惨めに泣いて、このまま学園都市の闇に溶けて、消えてしまえる。

 

 

 だから。だから、木寺は……言葉を続けた。

 

「……俺……怖くて、一人で逃げてきちゃったんだ。友達を置いて、俺一人で……はは、は……逃げてきた」

 木寺は、自分の恥部をさらけ出した。

 

 

 俯いたまま、六花の反応を待つ。

 失望の溜め息か。あるいは無言の立ち去りか。

 どっちでも良かった。罵倒すら望んだ。そうすれば……俺はもう、楽になれるから。

 

 

 だけど。

 

 

 

 

「……そっか。おにーちゃん、だからまた震えてるんだね!!」

 

 

 

 少女の声は、なぜか弾んでいた。まるで、パズルの最後のピースがハマった時のような、得心したかのような声。

 

 

「……え?」

 木寺は顔を上げる。六花は、にぱーっ、と満面の笑みを浮かべていた。

 

 そこには軽蔑の色など微塵もない。あるのは、彼への絶対的な信頼と、彼女なりの「法則」に基づいた確信だけだった。

 

「むふーやっぱり」

 少女はなぜかどや顔で腕を組んで言う。

 

 

「つまりおにーちゃんが震えてるってことは……また、()()()()()()()()()()()()()()!?」

 

 

「…………、は?」

 

 

 木寺の思考が停止する。

 何を言っているんだ? 俺は今……「怖くて逃げた」と言ったんだぞ? 

 

 

 

「うん。だって、あの時もそうだったもん……!」

 

 六花は、ランドセルの肩紐をぎゅっと握り締めて言った。

 

 

「あの時、おにーちゃんすっごく震えてた。わたしも泣いてたけど、たぶん、もっとすごい顔してたの。……でもね、おにーちゃんは震えながら、わたしの前に立ってくれたの!」

 

 彼女の記憶の中の木寺一桁。

 それは、颯爽としたスーパーヒーローではない。恐怖に顔を引きつらせ、足をガクガクさせながら、それでも一歩も引かなかった「等身大の英雄」だった。

 

「だからわたし、知ってるよ。おにーちゃんが震えてるのは、怖いからじゃないよ。……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!!」

 

「……っ」

 

 

 

 

 衝撃が、走った。

 

 彼女のロジックは、根本から破綻している。震えは恐怖の生理現象だ。使命感の現れなんかじゃない。

 

 だが、その無邪気な「誤解」が、木寺の心の最も柔らかい部分を貫いた。

 

 俺の恐怖は、弱さじゃないのか? この震えは、逃げるための合図じゃなくて……戦うための予備動作だって、彼女は言うのか? 

 

 

 

 

 

 ……でも。

 

 

 

 

 

 

(……やめ、ろ)

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉を聞いて。木寺の中を、黒いものが伸びて、確かに強く縛りつけていく。

 

 

 ふざけるな。

 

 

 そんな綺麗なものじゃない。そんな、物語の主人公みたいな理由じゃない。

 

 

 俺を見ろよ。泥だらけで、鼻水垂らして、友達を見捨てて逃げ出してきた、この無様な姿をよく見ろよ! 

 

 

 

(……違う。違う、俺は……!)

 

 

 否定しようとした。つい、声が荒ぶる。無意識に木寺は、八つ当たりのように彼女に吠えていた。

 

 

 

 

「……うるさいッ!!」

 

 

 木寺は、六花の体を突き飛ばさんばかりの勢いで叫んだ。

 

 

 もう、止まらなかった。

 

 

「勝手なこと言ってんじゃねえよ! お前に俺の何がわかるんだ! 何も知らないくせに、ガキがわかったような口利くんじゃねえ!!」

 

「………………、」

 

「震えてるのは怖いからだよ! 死にたくないからだよ! 助けたいなんてそんなのまったく思ってねえよ、当たり前だろうが!! 俺は……俺は自分の命が惜しくて、友達を置き去りにして逃げてきたんだぞ……!? ああああああ!!!!!!」

 

 

 全否定。

 

 唾を飛ばし、顔を歪め、醜悪な本性をさらけ出す。

 

 幻滅しろ。軽蔑しろ。

「最低な奴だ」と罵って、石を投げてくれ。そうすれば、俺は「可哀想な被害者」ではなく「最低な被害者」として、すぐにでも自己憐憫に浸れるから。

 

 

「ヒーローごっこがしたいなら他所でやれよ! 俺はお前の思ってるような立派な人間じゃない!! ただの、弱くて、卑怯で、口先だけのゴミクズなんだよ……!!」

 

 

 木寺は自分の頭を掻きむしった

「見ろよこの手を! 震えてんだろ!? これは武者震いなんかじゃねえ! ビビってるだけだ! 小便漏らしそうなのを必死で我慢してるだけの、くそ情けねえ震えなんだよ…………!!!」

 

 息が切れる。喉が痛い。

 少女のキラキラした瞳が、今はただ、呪いのように恐ろしかった。

 

 

「何の責任も取れないくせに! 怖い事言うな!! 俺に死ねってのか? ふざけるな!!! これはそんな低次元の話じゃねえんだよ……!!」

 

 その純真さが、俺の汚さを際立たせる。だから、彼女を傷つけてでも遠ざけたい。

 

 

「……だから、黙ってろ! 俺を見るな! 期待するな! 頼むから……お願いだから、俺を一人にしてくれよぉ……ッ!!」

 

 最後は、懇願だった。

 地面にうずくまり、頭を抱える。

 

 最低だ。半分以上も年下の、小さな子供に八つ当たりして。大声で、怒鳴り散らして。

 

 

 でも、仕方がないだろ。これはインデックスやアウレオルスの時のような、「魔術」ゆえの何処か、白昼夢のような出来事なんかじゃない。

 

 地続きなんだ。

 俺が今まで暮らしてきた街で、そのすぐ隣で、延長線上で。あまりに強い現実として、確かにある地獄。

 

 どうしようもない。俺と言う男には、救いようも。ない。

 でも、仕方がないんだ。

 

 

 

 

 

 

 

「…………、………………」

 

 

 

 

 

 

 

 そんな木寺の叫び。対する少女の反応は……沈黙だった。

 

 何を言われたかなんて、恐らく、ろくに理解してない筈だ。いや、今にも、もう、泣きだしてしまうかもしれない。

 

 

 

 

 ……終わった。でも、それでよかった。

 

 

 

 

 これで彼女ももう去っていくだろう。

 泣き出して、怖がって、俺から、とっとと逃げ出すに決まっている。

 

 そしたらあの、優しいお母さんにでも言ってやってくれ。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 だから、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、……ってな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしたら、俺はまた……独りぼっちに戻れるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………、」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが。

 

 

 だけど。いつまで経っても。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()。一切、()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……、」

 

 少女は、木寺の弱音などまったく相手になどしなかった。

 

 ただ、彼女は、食べ終わったアイスのゴミをポケットにねじ込むと、ベタベタする小さな手で、木寺の冷たく震える手をぎゅっと握り締めたのだ。

 

 

 

 

 体温が高い。子供特有の、燃えるような生命力。

 

 

 

 

「そっか……わかった! じゃあ、今度はわたしがおにーちゃんを守ってあげる!」

 

「…………、あ?」

 

 

 

 少女は、公園の入り口──木寺が逃げてきた深い闇の方角を、おもむろにキッと睨みつけた。小さな体を精一杯大きく見せるように、両手を広げて仁王立ちになる。

 

 

「どこ!? おにーちゃんをいじめる悪いやつはどこなの!?」

 

「お、おい……」

 

「怖いロボットがいるの!? それともお化け!? 出てきなさい! わたしがおにーちゃんの代わりにやっつけてあげるんだから! ぜったいぜったいに、ゆるさないんだから──────────!!!!!」

 

 六花は、見えない敵に向かって小さな拳を振り回した。空に向かって叫ぶ。

 

 それは、近所迷惑なくらい、本当に、大きな大きな声だった。

 

 

 

「こわくなんて、ないんだから──────!!!!」

 

 

 

 えい、やあ、とう! 

 

 

 

 パンチ。キック。……それに頭突き。

 

 

 

 少女は運動があまり得意ではないのか……必死そうに、不器用に動く彼女のその姿は……

 ただただ、あまりにも滑稽で、あまりにも、無力だった。

 

 

 

 一方通行が指先を振るえば、彼女など塵も残さずに、消滅するだろう。

 

 物理的な戦力差は、もはや数値の目盛りで表せる距離ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………あ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()

 

 

 だけど。

 

 

 

 その小さな背中は、今の木寺には……どんな巨大な壁よりも頼もしく、そして力強く、輝いて見えた。

 

 

 

 

 なんで、そう見えるのか、木寺には、それが……まったく、分かりやしなかった。

 

 

 

 

 

 

「…………ね?」

 

 はあ、はあ、と。

 そして六花はいい汗をかきながら、木寺の方を振り返った。その表情には、変わらず、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「おにーちゃん、大丈夫だよ! だったらわたしがたたかうから! だから泣かないでっ、ね? わたしだってちゃんとお役に立てるよ!」

 

 

 

「……あ…………、う」

 

 

 

 

 

 なぜだろう。

 なぜだかは、全く分からない。

 

 

 

 ただ、あまりに熱い塊が木寺の喉に詰まり、視界が涙でゆがんでいく。

 

 

 

 前が、世界が、ぼやけていく。全てが滲んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

(なんだ、よ。………………、なんなん、だよ、これ…………)

 

 

 

 

 

 

 

 彼は袖で、溢れたものを何度も何度も拭う。

 押さえきれない嗚咽が、こみあげてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 ……俺、は。

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、自分の行動をずっと「無意味」だと思っていた。

 

 

「何もできなかった」「ダサくて、カッコ悪い」「ただ馬鹿が一人で怪我をしただけだ」と嘆いていた。

 

 

 それを甘んじて受け入れていた。それが、俺と言う人間だと思っていた。

 

 

 

 

 

 だが、だけど、ここに……ある。

 

 

 

 

 

 俺がかつて、震えながら踏み出した一歩が繋いだ命が、今、俺を……

 こんなに情けない男を、小さな自分の体を張ってまで、本気で守ろうとしてくれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……………………………………………………………………、

 

 ……………………………………………………………………………………………………………………、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長い……本当に、長い沈黙だった。

 

 

 

 六花は、木寺を守るように、警戒態勢で辺りを睨んでいた。

 彼女は真剣だ。身を挺して、木寺が恐れる何かに、一人で対峙しようとしている。

 

 それを見て、木寺は……ようやく、本当にようやく、絞り出すように、言葉を、紡いだ。

 

 

 

 

 

「はは……あぶない、よ」

 

 

 木寺は、ゆっくりと……考え込むように、言った。

 

 

 

「あいつは……俺が、逃げてきた奴は……すごく、滅茶苦茶強いんだ。強くて、とても、とても……怖い奴なんだ。君じゃ、どうやっても、勝てやしない、よ………………」

「えーっ、そんなぁ」

 

 六花は頬を膨らませた。

 少女はしばらくその場で、うーん、うーん、と悩むそぶりを見せる。そして、やがて弾かれたように笑顔で顔を上げた。

 

 

「でも、でも、大丈夫だよね! わたしが負けそうになったら、やっぱり、おにーちゃんが助けにきてくれるんでしょ?」

 

「……、」

 

「だっておにーちゃんは、震えてるもん! 震えてるおにーちゃんは、すっごく無敵なんだもん!」

 

 

 

 また。全肯定。支離滅裂。根拠のない、けれど、世界で一番強力で熱い信頼。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(……俺は………………何を、やって、やがるんだ………………)

 

 

 

 

 

 

 

 

 く……と木寺の口元が心底可笑しそうにゆがむ。

 

 彼女の小さな手から伝わった熱伝導が、恐怖で凍りついていた木寺の心臓を、内側から、時間差で、確かに、溶かしていく。

 

 

 

 怖い。

 

 怖くて堪らない。

 それは厳然たる事実だ。一方通行は本物の化け物だ。普通なら、どうやっても、俺が勝てるわけがない。

 

 少女の信頼は、ともすれば、俺をこれから本当の地獄に叩き落とす、温かな、残酷さなのかもしれない。

 

 

 でも。

 

 

()()()()()()()()()()()()()…………?)

 

 

 そうだ。

 すごく簡単な話だ。

 

 怖かろうが、恐れようが。

 だからといって、それは「逃げていい理由」にはならない。

 

 本質はそこじゃない、本当に大事なのは、俺がこれから「どこに辿り着きたいか」じゃないのか?

 

 

 あの時、この子を助けた時も……俺は、死ぬほど怖かったはずだ。漏らしそうだった。でも、踏み出した。その結果が、この笑顔だ。

 

 なら、今度は? あの、一緒に黒猫の飼い主を探した少女。猫に嫌われるのを、寂しがっていた、普通の、中学生の……ただの、女の子。

 

 彼女にも、こんな風に笑える未来があったはずなんだ。それを「仕方ない」で終わらせていいのか? 「俺は雑魚だから」と諦めていいのか? 

 

 

 

 

(そんなの……駄目だ)

 

 

 

 

 木寺の手の震え……それは、やっぱり止まらなかった。

 だけど、その代わりに、()()()()()()()()()()()()()()

 

 血を循環させるように、なにかが、木寺の中で決定的に、移り変わっていく。

 

 

 

 俺は、レベル0だ。

 特別な力なんてない。世界を救う主人公には、決してなれないだろう。

 一方通行なんか、この学園都市における「最強」相手なんかには、きっと、逆立ちしたって勝てやしないだろう。

 

 

 でも。それでも。

 

 俺は、この子の前でだけは。

 

 この子が信じてくれている「ビビリのヒーロー」のままでいたい。

 

 そのくらい。

 

 

 逃げ出してしまった自分を、もう一度奮い立たせることくらいは……この負け犬にだって、できるはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

「……ありがとう」

 

 

 

 

 

 

 木寺は、ゆっくり彼女の手を取った。

 

 そして強く、誰より優しく……少女の手を握りしめる。それが、彼なりの返事だと言わんばかりに。

 

 

「おにーちゃん、もう大丈夫?」

 

「ああ。……君のおかげで、どうしようもない馬鹿野郎の……目が、覚めてくれたみたいだ」

 

 

 木寺は立ち上がった。膝についた泥を払う。足はまだまだ竦んでいる。心臓もうるさいままだ。だが、もう……この膝が折れることは、絶対にない。

 

 

 

「……俺は」

 

 彼は、夜空を見上げた。

 それから、一方通行がいるであろう、そして一○○三二号が今も死に向かって歩んでいるであろう、深い深い、暗闇の方向を見つめる。

 

 

「……俺は、これから、どうしても行かなきゃいけない場所があるんだ」

「また、誰かを助けに行くの?」

「助ける……なんて、そんな大層なもんじゃないけどな」

 

 木寺は、涙を袖で乱暴に拭い、に……、と笑った。

 それは、カッコいい笑顔ではなかった。

 

 ただの意地っ張りで、怖がりで、それでも前に進もうとする一人の人間としての、覚悟に満ちた顔だった。

 

「『忘れ物』を取りにな。……大切な友達を、俺は一人ぼっちにさせちまったから。謝りに行かなきゃなんないんだ」

 

 友達。たった二日やそこら、一緒にいただけの、それだけの関係。

 それでも、彼女は俺に猫を託した。なら、俺も彼女を見捨てちゃいけない。たとえもう死んでいたとしても、その魂だけは、俺が拾いに行かなきゃいけない。

 

 

 それが、生き残った俺の「責任」だ。

 

 少女はそれを聞いて、満足そうに大きく頷いた。

 

 

「いってらっしゃい! おにーちゃんなら、ぜったい大丈夫だよ……!」

「おう! ……あ、そうだ。悪いんだけどさ」

 

 木寺は、足元のダンボールを指さした。

 

「この子猫、ちょっとの間だけ見ててくれないか? エサとか、あげてくれると助かるんだけど……」

「うん! 任せて! ママにお願いして、わたしがお世話してあげる!」

 

 六花はぴしっと敬礼のポーズをした。本当に頼もしい味方だ。この小さな命を守るために、俺は……()()()()()ここに戻ってこなければならない。

 

 木寺一桁は、踵を返した。

 もう、迷いはなかった。恐怖が消えたわけではない。むしろ、近づくほどに鮮明になる死の予感が、胃を締め付ける。

 

 だが、背中を押してくれる小さな手の感触が、彼を悪夢へと向かわせる最強の推進剤となっていた。

 

 

「……待ってろよ、一方通行(クソ野郎)

 

 

 彼は前を向き、小さくつぶやいた。

 

 歩き出した。今度は、逃げるためじゃない。理不尽な死に抗うために。そして、自分自身の存り方を……証明するために。

 

 

「……ね、おにーちゃん!」

 走り出そうとした彼の背中に、少女の声がかかった。

 

 

「……また、すぐ会えるよね?」

 

 不安げな声。小さい子供なりに、なにかしら、約束をしようと思っただけなのか。

 

 あるいは、子供ながらに感じ取った、木寺の背中に漂う「決死」の気配への不安か。

 

 木寺は振り返った。公園の入り口、街灯の下。六花が、期待と不安の入り混じった瞳で、彼を見つめている。

 

 

「またすぐ会える? この公園で」

「…………、」

 

 木寺は、深く息を吸い込んだ。

 

 生き残れる保証なんてない。戻ってこれる確証なんてない。相手は学園都市第一位だ。秒殺され、五体バラバラになる可能性の方がずっと高い。

 

 それでも、彼は笑って答えた。嘘でもいい。約束が必要だった。

 

 

「ああ。……絶対、会える」

「約束だよ!」

「おう、指切りげんまんだ!」

 

 

 木寺は手を振ると、今度こそ走り出した。背中にかかる彼女の「がんばれー!」という声を、確かに受け取って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、昏い深淵へと、木寺一桁はまた独り潜っていった。

 

 

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