丸子橋と名の付く大きな鉄橋だった。川面を渡る風が、排ガスを含んで生ぬるく吹き抜けていく。
ここは、学園都市の夜景を遠目に見れる場所でありながら、光の届かない闇が沈殿するエアポケットのような空間だ。
リズミカルな列車の通過音が遠ざかった後、そこには耳鳴りのような静寂だけが残されていた。
欄干にもたれて、一人の少女が立っていた。御坂美琴。常盤台中学のエース。学園都市第三位の
だが、今の彼女の姿に、その称号にふさわしい覇気は微塵もなかった。
彼女はただ、暗い水面を見下ろしていた。その瞳は虚ろで、焦点が合っていない。まるで、魂だけがどこか遠い場所へ剥離してしまったかのような、空っぽの立ち姿。
「……あ、あぁ……」
唇から、吐息のような嗚咽が漏れた。
彼女の脳裏には、今も鮮明な映像が焼き付いていた。一つずつ、着実に増えていく破壊の記憶。そして、止めることのできなかった実験の進行。
(……なん、で)
自問自答は、もう何千回と繰り返した。
始まりは、幼い頃の稚拙な善意だった。
『筋ジストロフィーの患者を救うために、貴方のDNAマップを提供してくれませんか?』
白衣を着た大人たちの言葉。
幼い日の美琴は、それを疑わなかった。自分の力が、自分の遺伝子が、誰かの命を救う役に立つのなら。そんな、絵本のような正義感を胸に、彼女は頷いた。
だが、現実は違った。
そのマップは、難病の治療などには使われなかった。
軍事目的。
大量殺戮兵器の量産。
『
「……私が……」
美琴は、自分の両手を見つめた。薄暗い中で、その手は白く、揺らいでいるように見えた。
この手は汚れていない。血の一滴もついていない。だが、彼女の目には、この手がどす黒い鮮血で濡れているように見えていた。
私がDNAマップなんて提供しなければ。あの子たちは決して生まれなかった。
感情を持つことも許されず、実験動物として番号で呼ばれ、ただ殺されるためだけに産み落とされることなんてなかった。
(一○○三一人……)
とっくに、一万人なんて超えていた。一万人以上の死。一万人以上の痛み。それが、私の罪だ。業の重さだ。
私がのうのうと学校に通い、友達と笑い、ゲコ太グッズを集めている間に、あの子たちは暗い路地裏で、薬品臭い実験室で、次々と肉塊に変えられていった。
「……う、ぐッ……」
美琴は口元を押さえた。胃液が逆流してくる。自分の存在そのものが、おぞましくてたまらない。息をしているだけで、罪を重ねているような気分になる。
「……止め、なきゃ……」
美琴は、欄干を強く叩いた。硬い鉄の感触が、掌に食い込む。
そう。私は止めようとした。必死だった。この事実を知ってから、私はずっと一人で戦ってきた。
実験に関与している研究施設を特定し、襲撃し、データを破壊し、物理的に実験を遂行不可能にしようとした。
テロリストと呼ばれることも厭わなかった。誰にも相談せず、黒子にすら隠し通して、夜の街をずっとずっと走り回った。
でも……無駄だったのだ。
いくら施設を壊しても、実験は止まらない。まるで巨大な怪物が、傷口をすぐに塞いで再生するように、実験場所を変え、機材を補充し、何事もなかったかのようにそれは再開される。
この前の時だってそうだ。私が駆けつけた時には、もう実験は終わっていた。あの子はとっくに、死んでいた。
「……無理、なのよ……」
美琴は、膝から崩れ落ちるように座り込んだ。冷たい地面の感触。
「……施設を壊しても、意味がない……」
根源を断たなければならない。この狂った実験の、根本的な理由を。
『
『
それが、この悪夢のシナリオだ。
(……128回)
でも、レールガンは一人しかいない。だから、2万体のクローンで代用する。そういう理屈だ。
……なら。もし、
「……そうよ」
美琴は、顔を上げた。暗闇の中で、彼女の瞳に、危うい光が宿る。それは希望の光ではない。断崖絶壁に追い詰められた人間が、最後に選ぶ「唯一の逃げ道」を見つけた時の、狂気を孕んだ光だ。
「……
温度のない声が、風に乗って消えた。ツリーダイアグラムの演算は絶対だ。しかし、その計算はあくまで「今の条件」に基づいている。
もし、オリジナルの『超電磁砲』である私が、最初の一回目の戦闘であっさりと殺されたら? 一方通行に挑み、無様に敗北し、さっさと命を落としたら?
「計算に……
128回殺して進化する相手。それが、最初の1回目から、弱すぎてとっとと死んだ。そうなれば、前提条件が覆る。『妹達』を殺しても進化できるという保証がなくなる。実験の根拠が失われる。
「……そうすれば、計画は凍結される」
私が死ねば、あの子たちは助かる。残りの9000人以上の妹たちは、殺されずに済む。
「……ははっ……」
美琴は笑った。
ああ、なんて簡単なことだったんだろう。なんで今まで気づかなかったんだろう。施設を壊して回るなんて、遠回りなことをする必要はなかったんだ。最初から、私が死ねばよかったんだ。
「……そうよ。それしかないわ」
美琴はもたれた欄干から体を離し、立ち上がった。
足元がふらつく。体は限界だった。精神も限界だった。でも、不思議と心は軽かった。「死ぬ」と決めたことで、迷いが消えたからだ。
これから、一方通行の元へ行く。戦うのではない。殺されに行くのだ。あいつを挑発し、私は抵抗せず、そして……一瞬で消滅させられる。それが、私の贖罪。私の人生の、最後の使い道。
「……、」
美琴は、夜空を見上げた。星は見えない。学園都市の機械的な光にかき消されて、何も、見えない。
死ぬ。私が、死ぬ。14歳で。まだ何も成し遂げていないのに。まだ、やりたいこともたくさん、たくさんあったのに。
「……怖いな」
本音が漏れた。体は震えている。死にたくないという本能が、全身で叫んでいる。誰かに止めてほしい。「そんなことしなくていい」と抱きしめてほしい。「一緒に考えよう」と言ってほしい。
その時、脳裏に、一人の少年の顔が浮かんだ。ツンツン頭の、お人好し。不幸体質で、いつもトラブルに巻き込まれて、それでも決して逃げない馬鹿な少年。上条当麻。
……
彼なら……このふざけた実験ごと、そんな悪夢をぶち壊してくれるかもしれない。私の前に立って、「俺が代わりに戦う」とでも言ってくれるかもしれない。
あの不思議な力で、その強さで、私の罪悪感すらも拭い去ってくれるかもしれない。
「……たすけて……」
美琴は、夜空に向かって呟いた。誰にも届かない、か細い声。
「……助けてよ、馬鹿……!」
名前を呼んだ。縋りたかった。一人で死ぬのは、やっぱり寂しくて、怖い。
最後に、あいつの顔が見たかった。馬鹿な話をして、並んでジュースを飲んで、笑い合いたかった。
「……でも、いないのよね」
美琴は、力なく首を振った。彼はいない。ここにはいない。遠い海だかへ行ってしまった。
楽しみにしていた旅行なのかな。今頃、宿題を忘れて友達とはしゃいでいるだろう。
それに、仮に彼がここにいたとして……こんなことに巻き込めるはずがない。
これは私の闇だ。私が蒔いた種だ。あんな、真っ直ぐで光のような彼を、こんな血生臭い泥沼に引きずり込むなんて、できるわけがない。
「……一人よ」
美琴は自分に言い聞かせた。
「最初から、私一人だったんだから」
誰も知らない場所で始まって、誰にも知られずに終わる。それが、この事件の結末だ。ヒーローなんて来ない。奇跡なんて起きない。ただ、残酷な計算式と、それに対する無力な生贄がいるだけだ。
「……さよなら」
美琴は、誰に向けたともしれない別れの言葉を口にした。
黒子。お母さん、お父さん。寮監。常盤台とジャッジメント支部のみんな。そして、ツンツン頭のあいつ。
みんな、ごめんなさい。
そうして。
美琴が一歩、死へと踏み出そうとしたその時、
ざ。
と。
背後で、足音が聞こえた。硬い地面を踏みしめる音。風の音ではない。誰かが、そこにいる。
「……ッ!?」
美琴は弾かれたように振り返った。心臓が揺れる。誰だ? こんな時間にこんな場所に……知り合いか? それとも、何も知らない通行人か? まさか、黒子……?
暗闇の向こう。道路の反対側から、誰かが駆け寄ってくる。息を切らしている。必死な形相で、こちらを目指してくる。
美琴の目が、大きく見開かれた。そのシルエットは、常盤台のものではなかった。敵のものでもなかった。
「……はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
荒い呼吸音と共に、その人物は街灯の薄明かりの下に姿を現した。よれよれの服。全身泥にまみれて、汗で乱れた黒髪。
そして、右手にはなぜか、場違いなホンキ・ホーテのレジ袋を提げている。
「……やっと、見つけた……!」
男は、美琴の数メートル手前で立ち止まり、膝に手をついた。肩で息をしている。全身から、疲労と焦燥が立ち上っている。まるで、学園都市中を走り回って、ようやくここに辿り着いたかのような。
辺りを駆けずり回り、
「……
美琴は、呆然とその名前を呼んだ。信じられなかった。なぜ、こいつがここにいる? 木寺一桁。ただのレベル0。影が薄くて、卑屈で、妹にコンプレックスを持っている、冴えない少年。
つい昨日、一緒にジュースを飲んだだけの、通りすがりの一般人。
「……なんで……」
美琴の声が小さくなった。
あまりに、期待外れだった。心のどこかで、あいつが駆けつけてくれる奇跡を、願っていた自分がいた。
でも、現れたのは彼ではなかった。何の力も持たない、ただの「野次馬」だった。
「……はぁ、はぁ……ここに、いたのか……」
木寺は顔を上げた。その顔色は、死人のように蒼白だった。目は泳いでいる。足はがくがくと震えている。何かに怯えている。明らかに、この場の異常な空気と、自分自身の置かれた状況に、ビビりまくっている。
「……探したぞ、御坂」
木寺の声は、情けなく裏返っていた。例えばヒーローのような登場とは程遠い。ただの、迷子の子供のような声。
「……なんで、あんたがここにいるのよ」
美琴の中に、失望と、そして激しい拒絶感が湧き上がった。
見られたくない。今、私は泣いていた。死ぬ決意を固めて、ボロボロになっていた。そんな無様な姿を、よりによってこんな「関係ない奴」に見られるなんて。
「……何しに来たの」
美琴は、涙を乱暴に拭った。冷たい声を作る。彼を遠ざけるために。彼を、この死の領域に踏み込ませないために。
「帰りなさいよ。ここは……あんたみたいなのが来ていい場所じゃないわ」
「……はあ」
木寺は、美琴の拒絶など聞こえていないかのように、呟いた。へなへなと、その場に座り込みそうになるのを、気力だけで堪えている。
「……よかった……生きてて……」
心底、安堵したような声だった。まるで、世界の終わりを回避したかのような。
「……はぁ?」
美琴の眉間に皺が寄る。生きててよかった? 何言ってるの、こいつ。私はこれからすぐ、死にに行くのよ。何も知らないくせに。何もできないくせに。
その場違いな安堵が、美琴の神経を逆撫でした。
ここにいるのは、ヒーローではない。
ただの、野次馬で部外者で臆病者だ。それが、今の美琴にとっての、残酷な現実だった。