とある科学の存在証明   作:かさねtyann

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ヒーローとモブ

 

 質素な外観の教職員用アパート。その二階の隅の部屋のインターホンを、上条は猛連打していた。

 

「先生! 小萌先生! 開けてくれ……ッ!!」

 

 深夜の静寂を破る怒鳴り声。木寺は周囲を警戒して挙動不審ぎみに視線を巡らす。追手が来ている気配はないが……心臓の動悸が落ち着かない。

 

「上条ちゃん? こんな夜更けに何事ですかー……って、ひゃわわあ!?」

 

 ドアが開き、ピンク色のパジャマを着た小萌先生が顔を出した瞬間、彼女の眠気は吹き飛んだようだ。

 無理もない。教え子の男子二人がずぶ濡れで、しかも背中には斬りつけられた血まみれ銀髪少女を背負っているのだから。

 

「説教は後でお願いします! とにかく中へ!」

「救急車は呼べません! 呼んだらこいつ、連れて行かれちまうんです!」

 

 上条が叫びながら土足で部屋に上がり込む。木寺もそれに続いた。

 部屋の中は、ある意味で衝撃的だった。幼い外見の教師の部屋は、酒の空き缶とタバコの吸い殻、そして得体の知れない雑誌やガラクタの山で埋め尽くされていたからだ。

 

「うお、きったなっ……」

 

 木寺は思わず呟いたが、今はそんなことを言っている場合ではない。上条がインデックスを万年床の上に寝かせる。畳が瞬く間に赤く染まっていく。

 

「酷い……これ、刃物傷ですか? とにかく止血を……!」

「先生、こいつ魔術師にやられたんです! 傷だけじゃない、何か別の……!」

 

 上条が必死に説明しようとするが、パニクって言葉がまとまらない。その時、意識がないはずのインデックスが、うわごとのように口を開いた。

 

 

「……かいふく……まじゅつ……」

「インデックス!?」

「……『回復魔術』の、準備を……して……」

 

 

 少女の蒼白な唇が紡ぐ言葉。

 木寺は部屋の隅でタオルを探しながら、その異様な光景に釘付けになった。

 魔術。またその単語だ。ステイルの炎を見た後では、もうそれはファンタジー用語には聞こえなかった。

 

「準備って、何をすればいいんだ!?」

「……」

 

 その時だった。

 

 

 

 

「警告。第二章第六節。出血による生命力の流出が一定量を超えたため、強制的に『自動書記』で目覚めます」

 

 

 

 

「な……!」

 

 木寺が絶句する。インデックスと言う少女の雰囲気が、明らかに変わった。

 

 

「ああ……これ二回目だけどな」

 

 上条は特に驚くことなく、苦い表情を木寺に向ける。

 

 異常性。場の空気が、張り詰めていく錯覚。

 

 そのままインデックスは小萌先生に何か指示を飛ばし、周囲が動き出した。

 

 

 インデックスの指示は、学園都市の教師である小萌の常識を遥かに超えていた。

 部屋の中にあるものを配置し、とある儀式を行うこと。

 上条は『幻想殺し』があるため、魔術を行使できないし、触れれば効果を打ち消してしまう。白羽の矢が立ったのは、この部屋の主である小萌先生だった。

 

「……わかり、ました。やるしかありませんね」

 

 小萌先生は、科学者としての懐疑心を一旦捨て去り、教師としての使命感だけで腹を括ったようだった。彼女はインデックスの指示通りに、部屋の家具を動かし、魔法陣のような配置を作り上げていく。

 

 木寺はその手伝いに駆り出された。鍋に水を汲み、特定の方向へガラクタを置く。

 

「おい上条……これ、本当に意味あんのか? オカルトだろどう見ても!」

「わかんねぇ。でも、やるしかねぇんだよ!」

 

 上条の叫びに、木寺は黙って頷くしかなかった。準備が整う。小萌先生がインデックスの指示を復唱し始めた。

 

 

『水属性の守護……天使の役はヘルワイム……』

 

 

 そして、呪文のようなものを唱え始める。

 

 儀式が進むにつれ、部屋の空気が変わった。エアコンの風ではない。もっと根源的な、肌を粟立たせるような、力の流動。蛍光灯の光が明滅し、影が、揺らめく。

 

 

(なんだ、これ……?)

 

 

 木寺は息を呑んだ。目の前で、小萌先生の小さな体が、ぼんやりとした淡い光に包まれていくように見える。

 それは学園都市の能力や人工の技術の様な数値化された光ではない。もっと神秘的で、どこか恐ろしい、映画やアニメの中にしか存在しないはずの光景。

 

 

「とにかく思い浮かべなさい!」

 

 

 インデックスが何か強い語気で命じている。涙目で従う小萌先生。

 

 

 そして。

 

 小萌先生の詠唱がクライマックスに達した時。インデックスの背中の傷が、目に見える速度で塞がり始めた。赤い肉が盛り上がり、皮膚が再生していく。

 

 

「嘘、だろ……?」

 

 

 木寺は呆然と呟いた。学園都市の医療技術は世界一だ。細胞再生を促進するナノマシン治療などは存在する。だが、これは格が違う。薬も機械も使わず、ただの「言葉」と「配置」だけで、致命傷が癒えていく。物理法則を無視した、奇跡の具象化。

 

 

 ──これが、魔術。

 

 

 木寺一桁の脳内で、今まで信じてきた「世界」の形が音を立てて崩れ去り、そして再修正されていく音がした。学園都市という科学の箱庭の外には、こんなにも広大で、不可解な深淵が広がっていたのだ。

 

「……ふぅ」

 

 やがて、光が収まる。インデックスの呼吸は穏やかな寝息へと変わっていた。小萌先生はその場にぺたりと座り込んだ。

 

「……び、びっくりしましたー。今の、何だったんでしょう? 催眠療法の一種でしょうか?」

「先生、あんたスゲェよ……」

 

 上条が心底安堵したように崩れ落ちる。木寺も壁に背中を預け、ズルズルと滑り落ちた。

 

 

「……助かったん、だな」

「ああ。木寺も……助かった。お前がいなかったら、ここまで運べなかった」

 

 上条が、満身創痍の笑顔を向けてくる。木寺は膝を抱え、小さくかぶりを振った。

 

「俺は、荷物持っただけだ。……なあ、上条」

「ん?」

「お前、こんな世界に関わってたのかよ」

 

 問いかけに、上条は少し考え、苦笑した。

 

「いや、俺も今日知ったばっかだよ。……でもま、放っとけねーだろ。女の子が死にそうなのに、科学だの魔術だの言ってらんねーしな」

 

 その単純明快な答え。

 木寺は、目の前のツンツン頭の少年を、初めて「とんでもない奴だ」と認識した。

 自分は怖くて逃げ出したかった。

 赤髪の化け物が怖かった。

 でもこいつは、訳のわからない恐怖よりも、「目の前の命」を優先した。

 

 それが『ヒーロー』の資質なのかもしれない。

 

 

(俺には、無理だ。あんな無茶、絶対できねえ……)

 

 

 木寺はそう思った。だが同時に、心の奥底で小さな何かが燻るのを感じていた。

「無理だ」と諦めて、安全な場所から見ているだけでいいのか? 

 今日、自分は辞書を投げた。インデックスを運んだ。その結果、少女は助かった。

 落ちこぼれのレベル0でも、確定した計算式の、変数の一つにはなれたのだ。

 

「……とりあえず、今日はここで休ませてもらうしか……」

「ですねー。上条ちゃんも木寺ちゃんも、もう寮の門限過ぎてますし、今日は雑魚寝ですよー」

 

 小萌先生がビール缶を片付けながら笑う。

 こうして、木寺一桁の長い一日は終わった。

 狭いアパートの一室。

 魔術師に追われる少女と、右手に異能を宿す少年と、ただの教師と、ただの臆病者。おかしな四人の夜が更けていく。

 

 

 

 

 

 :

 

 

 そして、翌日。

 

 路地裏にある、昭和の遺物のような銭湯。番台を抜け、脱衣所の暖簾をくぐると、そこには湿気を帯びた空気と、傷んだ風呂桶が床に無造作に転がる安息の地があった。

 

 

「……ふぃー。生き返るな、マジで」

 

 

 湯船に肩まで浸かった木寺一桁は、天井の高い浴室に声を反響させながら、深く息を吐き出した。

 隣では、上条当麻がタオルを頭に乗せ、同じように魂の抜けた顔をしている。

 

「全くだ。昨日は散々だったからな……。寮の風呂は使えないし、小萌先生の家も風呂狭いし」

「つーか、先生の家、なぜか風呂場にビーカーとかフラスコ置いてあって落ち着かねえよ。あれで酒でも飲んでんのか……あそこで身体洗うの、人体実験の前処理みたいで怖えっつの」

 

 二人は力なく笑い合う。

 

 昨夜、小萌先生の部屋で雑魚寝をした二人は、インデックスの容態が安定しているのを見届け、こうして汚れを落としに来ていた。

 湯煙の向こうに見えるペンキ絵の富士山。

 平穏である。

 昨日の炎のマジキチ野郎や、傷口が塞がる奇跡が嘘のように、ここには「普通の男子高校生の日常」がある。

 

 

「……なあ、上条」

 

 木寺がお湯を手ですくいながら、ぽつりと切り出した。

 

「あのシスター……インデックスって言ったか。あいつの話、本当に信じられんのか?」

 

 昼間、目を覚ましたインデックスから聞かされた話。一〇万三〇〇〇冊の魔道書。完全記憶能力。脳の容量が残り一五パーセントしかないという「時限爆弾」のような設定。木寺のレベル0の頭の出来では、処理しきれない情報の奔流だった。

 

 

「……信じるも何も、現に狙われてるからな」

 

 上条は水面を見つめたまま、真剣な視線で答える。

 

「あいつが泣かなくて済むなら、俺は信じるよ。それに、昨日のあの炎を見た後じゃ、『ありえない』なんて言えねーしな」

「……お前、強すぎだろ」

 

 木寺は自嘲気味に失笑した。

 

 自分はどうだ? 恐怖心。正直関わりたくない。

 記憶容量だの魔術結社だの、そんな壮大な話、ただの落ちこぼれには荷が重すぎる。今すぐこのお湯に溶けて排水溝に流れてしまいたい。それが本音だ。

 

「強くなんかねえって。ただ……目の前の子が『死ぬ運命だから』なんて笑ってるのを見るのが、嫌なだけだ」

 

 上条当麻は、拳をぎゅり、と握りしめた。その右手には、異能を打ち消す力がある。だが、木寺の手には何もない。ただのふやけた指先があるだけだ。

 

「……上がるか。のぼせてきた」

「おう。コーヒー牛乳奢ってくれよな」

「なんでだよ! 俺も金欠なんだぞ不幸野郎!」

 

 くだらないやり取りをしつつ湯船を出る。この時の二人はまだ知らなかった。この温かい湯舟が、これからの地獄へ向かう前の、最後の禊であったことを。

 

 

 

 

 銭湯を出ると、外は完全に夜の帳が下りていた。街灯がチラチラと頼りなく明滅している。

 火照った体に夜風が心地よい。濡れた髪を拭きながら、二人は並んで歩いていた。

 

「でさ、小萌先生の補習、マジでヤバくないか? 確かあの課題……」

 

 木寺が他愛のない話を振ろうとした、その時だった。

 

 

 カツ。

 

 

 

 硬質な足音が、静寂な通りに響いた。二人の進行方向。自動販売機の淡い光が照らす先に、一人の人影が立っていた。

 

「……!」

 

 上条が足を止め、木寺の腕を掴んで制止する。その緊張が伝播し、木寺も息を呑んだ。

 

 そこにいたのは、奇妙な服装の女だった。

 片足だけのジーンズを太ももの付け根の位置で切り落とし、上半身はTシャツをまくり上げて結んでいる。

 露出度は高いが、不思議と扇情的には見えない。むしろ、研ぎ澄まされた日本刀のような、冷ややかな美しさを放っていた。長い黒髪をポニーテールに束ね、その背丈は一七五センチ以上はあるだろうか。

 

 そして何より、彼女の腰に差された長大なもの。二メートルを超える、鞘に収まった日本刀の、圧力。

 

 

「……神裂、火織……」

 

 

 上条が、昼間にインデックスから聞いた名前を震える声で紡ぐ。彼女は、ステイルの仲間。つまり、敵だ。

 

 

「……どけよ。そこを通らないと帰れないんだ」

 

 上条が一歩前に出る。だが、神裂火織と呼ばれた女は動かない。ただ静かに、夜の闇よりも深い瞳で二人を見据えていた。

 

「ステイルが敗れたと聞いた時は正直、耳を疑いましたが……なるほど。確かに奇妙な右手のようですね」

 

 声色は穏やかだ。だが、その声が脳髄に届いた瞬間、木寺の膝がガクンと落ちた。

 殺気ではない。

 もっと純粋な「生物としての格」の違い。食物連鎖の頂点に立つ捕食者が、草食動物を見下ろすような圧倒的なプレッシャー。昨日のステイルからは感じなかった、肌が切れるような鋭利な気配。

 

(なんだ、こいつ……。立ってるだけで、空気が重い……!?)

 

 

 木寺は本能的に後ずさりそうになった。だが、上条は退かない。

 

「インデックスを連れ戻しに来たのか。あいつは渡さねえぞ」

「渡す渡さないの話ではありません。期限が迫っているのです。彼女を救うためには、我々の元で処置をするしかない」

「救うだと? 記憶を消すことが救いだって言うのかよ!」

 

 会話は平行線だ。神裂が小さく溜息をつき、腰の刀に手を掛けた。

 

「……どいてください、とは言いません。どうせ、退かないのでしょう?」

 

 その動作は、あまりにも自然で、緩慢に見えた。だが。

 

 

「ッ!!」

 

 

 上条が反応するよりも早く、世界が裂けた。

 

七閃(ななせん)

 

 木寺の目には、何も映らなかった。刀を抜く動作も、振るう軌道も、納める残心すらも。ただ、突如として発生した爆風が、木寺の体を紙屑のように吹き飛ばしただけだ。

 

「うおぁっ!?」

 

 木寺は数メートル後ろのガードレールまで吹き飛ばされ、背中を強打した。激痛に呻きながら顔を上げると、そこには信じられない光景があった。

 

「ぐ、ああああああ……ッ!?」

 

 上条当麻が、血飛沫を上げて倒れていた。肩、胸、太腿。同時に七箇所。まるで目に見えないワイヤーで切り裂かれたように、制服が裂け、赤い鮮血が暗い地面に撒き散らされている。

 

「か、上条ッ!?」

 

 木寺の声が裏返る。上条の『幻想殺し』が反応すらしていない。異能の力で斬ったのではない。ただの「抜刀術」。

 だが、その速度が音速を超え、人間の動体視力の限界を遥かに凌駕しているのだ。魔術ですらない、純粋な暴力の極致。

 

「……手加減はしました。腱や神経は避けてあります」

 

 神裂は表情一つ変えずに告げる。その冷徹さに、木寺の歯の根が合わなくなる。かちかち、と震える音が自分の耳に響く。

 

 

(無理だ。勝てない。次元が、違う……)

 

 

 美琴の電撃は「見えた」。だからジュースで逸らせた。

 ステイルの炎は「見えた」。だから辞書を投げられた。

 だが、こいつは「見えない」。

 認識できない攻撃に対して、レベル0の木寺にできることなど何もない。ただ怯えて、友人が肉塊にされるのを見ていることしかできないのか? 

 

「……まだ、だ……!」

 

 血溜まりの中で、上条が立ち上がろうとする。その足は笑って、視点は定まっていない。それでも彼は、神裂を睨みつけていた。

 

「まだ……終わって……ねえ……!」

「無駄です。貴方の右手は確かに異能を殺す。ですが、私の『七閃』はただの物理的な斬撃。魔術で強化した身体能力による速度。それを右手で消すことはできません」

 

 神裂が一歩近づく。その一歩が、死刑執行までの時間を告げるように、重く響く。

 

「や、やめろ……!」

 

 木寺は叫ぼうとした。だが、喉が張り付いて声が出ない。ガードレールにしがみつき、腰が抜けたまま、無様に懇願する視線を送るだけ。

 動け。動けよ俺の体。上条が殺されるぞ。あいつは、俺と一緒に風呂に入って、くだらない話をしてくれた友達だぞ。

 

「木……寺……逃げ、ろ……」

 

 上条が、血を吐きながら木寺の方を向く。自分自身が死に体であるにも関わらず、彼は木寺の身を案じていた。

 

「上、条……」

 

 その言葉が、木寺の心臓を鷲掴みにした。恐怖で凍りついていた思考回路に、熱い何かが流し込まれる。逃げる? ここで? こいつを見捨てて? 

 

「……ふざけん、なよ……」

 

 木寺は震える指で、足元の小石を掴んだ。

 何の役にも立たない、路傍の石ころ。

 今の自分と同じだ。それでも、彼はそれを握りしめ、立ち上がろうと足に力を込めた。

 

 だが、その抵抗すらも、神裂火織という断崖の前では無意味だった。神裂は木寺の方を一瞥すらせず、ただ上条の首元へ手刀を打ち込んだ。

 

 ドス。

 

 間抜けな鈍い音がして、上条当麻の意識が完全に断ち切られる。糸が切れた人形のように崩れ落ちる少年。

 

「……今は、眠っていなさい」

 

 神裂は静かに告げると、踵を返した。トドメは刺さない。彼女の目的は殺戮ではないからだ。だが、その背中は雄弁に語っていた。『貴方たちでは、何も変えられない』と。

 

 夜風が、血の匂いを運んでくる。残されたのは、意識を失った上条と、石くれを握りしめたまま立ち尽くす木寺一桁だけ。

 

 

「……あ、ああ……」

 

 木寺の手から、石がごろりと落ちた。圧倒的な敗北感。そして、自分の無力さへの絶望。

 

 ヒーローになりたい? 成長したい? そんな甘い夢物語を、現実という鋭利な刃物で切り刻まれた気分だった。

 

 

「……くそ、ちくしょう……!」

 

 木寺は這うようにして上条の元へ駆け寄った。脈はある。息もしている。だが、その体は冷たくなり始めている。

 

「死ぬなよ……おい、上条、しっかりしろよ……!」

 

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、木寺は友人の体を抱き起こした。小萌先生の家に戻らなければ。インデックスを守らなければ。上条が命がけで守ろうとしたものを、ここで終わらせるわけにはいかない。

 

 おぼつかない足で、自分より重い上条の体を引きずる。重い。物理的な重さだけではない。リアルという理不尽の重さが、木寺の肩にのしかかっていた。

 

 

 

 :

 

 

 血生臭い匂いがこびりついた夜から、一夜が明けた。

 小萌先生の狭いアパートの一室。床に敷いた布団の上で、上条当麻は泥のように眠り続けている。包帯を巻かれた彼の様子は、痛々しいという言葉では足りないほど破損していた。

 

 

「……とうま。寝心地、わるくない?」

 

 枕元には、安全ピンで留めた白いシスター服の少女──インデックスが座り込んでいる。彼女は濡らしたタオルで上条の額を拭き、返事のない少年に語りかけ続けている。

 その献身的な姿は、宗教芸術のように美しく、そして残酷なほどに「二人の世界」で完結していた。

 

 木寺一桁は、部屋の隅、雑誌が積み上げられた塔の陰で、脱力してその光景を見ていた。

 

 

(……俺は、何をしてるんだ?)

 

 手元には、薬局で買ってきた補充用のスポーツドリンクと、栄養ゼリー。「買い出し係」。それが今の木寺に与えられた、唯一の役割だった。

 

 昨夜、血まみれの上条を背負ってここまで戻ってきた時、小萌先生は悲鳴を上げながらも的確に処置を行った。インデックスは泣きながら回復魔術の知識を提供しようとしたが、上条のイマジンブレイカーが常時発動しているため、彼自身には魔術治療が施せないというジレンマに直面した。結局、そうなると、応急処置的な現代医学に頼るしかない。

 上条が意識を失う直前の言葉は、病院に行くな、だ。行けば、収容されインデックスを助けることが出来ないからだろう。

 ……凄まじい気力だった。

 

『木寺ちゃんも、怪我はないですか?』

 

 先生はそう聞いてくれた。怪我? ああ、吹き飛ばされた時に打った背中が少し痛む。擦りむいた掌が沁みる。けれど、上条の傷に比べれば、こんなものは何もないのと同じだ。

 

 ふと、木寺の視線が上条の右手に吸い寄せられる。包帯から覗く、何の変哲もない右手。昨日の神裂火織の言葉が脳裏に蘇る。

 

 

 

『確かに奇妙な右手のようですね』『貴方の右手は確かに異能を殺す』

 

 

(……ふ、ざけんなよ)

 

 

 どす黒い感情が、木寺の胸の内で小さな渦を作った。

 上条当麻はレベル0だ。自分と同じ、学園都市の底辺。システムスキャンで弾き出された「落ちこぼれ」のはずだ。

 俺たちは、同じ教室で補習を受け、同じように能力者に怯え、同じようにパシリに使われる側の人種だったはずだ。

 

 だが、違うのだ。あいつは「ゼロ」じゃない。あいつの右手には、世界を否定する力が宿っている。聖人と呼ばれる化け物に認識され、警戒され、殺す価値があると判断された存在。

 

 

(俺は、どうだ?)

 

 神裂火織は、俺を見なかった。俺が石を拾おうが、叫ぼうが、視界の端に映る背景(モブ)として処理した。殺す価値すらない。害虫ですらない。ただの「虚無」。

 

「……ちっ」

 

 木寺は無意識に舌打ちを漏らした。その音に、インデックスが振り返る。

 

「……きでら? どうしたの?」

 

 無垢な翠の瞳。彼女は木寺に感謝している。それはわかる。だが、その瞳の奥には、常に「上条当麻」がいる。彼女にとってのヒーローは、ボロボロになって眠るあの少年だけだ。

 

「……いや、なんでもねえよ。ちょっと、気分入れ替えてくる」

 

 木寺は逃げるように立ち上がり、玄関のドアを開けた。

 

 

 外は、うだるような暑さだった。無駄に平穏な眺めが、木寺の神経を逆撫でする。彼はアパートの廊下の手すりに寄りかかり、目の前に広がる学園都市の街並みをぼんやり見やった。

 

 風力発電のプロペラが回っている。飛行船がニュース映像を流している。高度な科学技術に守られた、平和で残酷なる街。

 

 

「上条……お前、ズりいよな」

 

 独り言が口をついて出る。もしも。もしも俺に、あいつのような「特別な右手」があったなら。

 あの時、野菜ジュースなんて撒き散らさずに、御坂美琴の電撃を片手で打ち消して「不幸だ」なんて言えたのだろうか。

 ステイルの炎を消し去って、インデックスを守れたのだろうか。神裂の抜刀術の前に立ちはだかることができたのだろうか。

 

『逃げろ』

 

 薄れゆく意識の中で、上条は木寺を庇った。あれは優しさだ。純度100%の善意だ。

 だからこそ、惨めだった。

 守られる側。「逃げろ」と言われる側。同じレベル0というレッテルを貼られながら、その中身は「選ばれた主人公(ヒーロー)」と「その他雑魚」に明確に分断されていた。

 

「……才能、かよ」

 

 結局、この街と同じだ。能力(レベル)があるかないか。特別な右手があるかないか。持たざる者は、どれだけあがいても、高みの見物を決め込む連中に蹂躙されるだけ。

 

「……くそッ!!」

 

 木寺は手すりを殴りつけた。ガツッ! と鈍い音が響き、拳に痛みが走る。痛い。この痛みだけが、自分がここに生きているという現実だ。

 

 

「……いや、違う」

 

 痛みに顔を歪めながら、木寺はかぶりを振った。

 嫉妬してどうする。上条を恨んでどうする。

 あいつは今、生死の境を彷徨ってるんだぞ。

 

 俺があいつの代わりになれたか? あの容赦ない斬撃を浴びて、それでも立ち上がろうとする精神力(メンタル)。あれは右手関係ない、上条自身の力だ。俺には無理だ。俺なら最初の一撃で泣いて命乞いをしている。

 

 

「……認めるよ。お前はすげえ……上条」

 

 悔しいが、認めざるを得ない。上条当麻は「特別」だ。だが、だからといって「木寺一桁は無力でいい」という証明にはならない。

 

「計算しろ……考えろ、俺の脳みそ」

 

 木寺は熱を帯びた頭を回転させる。

 腕力もない。異能もない。持っているのは、少しばかりの小賢しさと、小心者ゆえの最悪の事態を想定する力、だけ。

 上条が目覚めた後、何が起きる? 

 あの「期限」とはそもそも何だ? 

 神裂火織は「インデックスを救うために連れ戻す」と言っていた。教会の魔術師たちが、仲間であるはずのインデックスを追い回す理由。

『10万3000冊』『完全記憶能力』『脳の容量』。

 

 

「……、いや、おかしいだろ」

 

 

 木寺の中に、小さな引っかかりがあった。小萌先生の補習で習った脳科学の基礎。人間の脳の記憶容量。魔術というオカルトが実在するとしても、その「前提条件(ロジック)」に穴はないか? 

 

 

「……図書館だ」

 

 木寺は顔を上げた。ここに突っ立っていても、嫉妬で身を焦がすだけだ。上条が体を張って戦うなら、俺は別の領域で戦うしかない。魔術なんて検索しても出てこないだろう。だが、「脳」について、「記憶」について、そして「学園都市の外部にある宗教組織」について。

 知識(データ)を集めることなら、レベル0の自分にもできる。

 

「待ってろ……上条。お前だけにいいとこ取りされて、たまるかよ……」

 

 木寺はアパートの階段を駆け下りた。その背中はまだ頼りない。上条に対するコンプレックスは消えていない。むしろ、その劣等感こそが、今の彼を突き動かす唯一の推進剤だった。

 

 

 俺のゼロは、上条の特異点とは違う、ただ、空っぽなだけなのかもしれない。だが、空っぽなら、そこに何かを詰め込むことはできるはずだ。

 

 木寺一桁の、地味で孤独な戦いが始まろうとしていた。

 

 

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