「………………、」
丸子橋には、再び重い静寂が戻っていた。
川のせせらぎと、遠くを走る車の走行音だけが、世界がまだ動いていることを教えてくれる。
木寺一桁は、横たわる少女を一度だけ振り返った。
御坂美琴。彼女は、木寺の上着を掛けられ、安らかな寝息を立てている。薬が深く効いているのだろう。泥のように眠っていた。
「……ごめん」
木寺は小声で謝った。
勝手に薬を盛って、勝手に置き去りにして。
目が覚めたら、彼女はきっと激怒するだろう。
あるいは、自分の無力さを嘆いて泣くかもしれない。それでも、死ぬよりはマシだ。生きていれば、いくらでも泣けるし、いくらでも怒れる。
「……あとは、俺の番だ」
木寺は手提げたレジ袋を意識した。中身は、さっき見せた「武器」たちだ。小麦粉。スプレー缶。クラッカー。手持ち花火。ホンキ・ホーテで2850円出して買った、パーティグッズの山。
「全然足りねえな」
木寺は冷静に分析した。これで
これはあくまで「目くらまし」だ。注意を引き、視界を奪い、苛立たせるための小道具に過ぎない。
決定打がない。あいつの反射をかいくぐり、ダメージを与えるための「牙」が。
「金は……」
木寺は財布を開いた。中にあるのは、50円玉二枚と、10円玉二枚。一二〇円。ジュース一本分。
これが、俺の全財産だ。銀行からも降ろしたが、予定外の出費で、今週の食費も来週の生活費も、全部消えた。
「……ははっ」
もはや笑うしかなかった。一二〇円で、最強の超能力者を打ち倒す武器を買えと? RPGの初期装備だって、もう少しマシなものが買えるぞ。
(……でも、行くしかない)
木寺は、美琴の寝顔を目に焼き付けると、踵を返した。
次の実験場は、レポートと照らしてここから一番近い操車場だろう。
だが時間がない。実験開始まで、あとどれくらいだ? 一○○三二号は、もう現場に向かっているかもしれない。
木寺は走った。鉄橋を後にし、深夜の街へと戻る。目指すは、24時間営業のホームセンター。さっきのホンキ・ホーテよりも専門的な道具が揃っている店だ。
そこで、俺の命運を分ける「最後のピース」を探す。
:
深夜のホームセンターは、巨大な倉庫のように静まり返っていた。蛍光灯の白い光が、整然と並ぶ商品棚を照らし出している。
客はまばらだ。作業着姿の職人が数人と、あとは暇つぶしのヤンキーくらいか。
木寺は、カートを押して店内を巡回した。その目は落ち着き無く惑う。商品を吟味する余裕はない。直感と、恐怖に裏打ちされた生存本能だけで、使えるものを探す。
(……一方通行の能力……)
歩きながら、木寺は脳内でシミュレーションを繰り返した。あのレポートに書かれていた情報。美琴が言っていた言葉。
『ベクトル操作』『反射』。
触れたものの運動エネルギーの向きを、自在に変える。銃弾が当たれば跳ね返る。殴れば自分の力で拳が砕ける。攻防一体の、無敵のバリア。
「でも、穴はあるはずだ」
木寺は、塗料コーナーで足を止めた。棚に並ぶ、無数のスプレー缶。
反射は切り替え可能だが、基本は「自動」だと書いてあった。
寝ていても、意識していなくても発動する、と。
ということは、あいつの脳は、24時間365日、常に皮膚に触れるもののベクトルを計算し続けているということだ。
「が……全部を反射してるわけじゃねえ」
もし「全て」を反射していたら? 空気も、光も、音も、重力も。
あいつは窒息し、暗闇の中で、無重力空間を漂うことになる。だが、あいつは地面に立っている。呼吸をしている。事やモノの音を聞いている。
つまり、「
『無害なもの』と『有害なもの』。生活に必要なものを選別し、それ以外のモノは無意識下でフィルタリングしている。
(……そこだ)
木寺は、強力な接着剤のチューブをカゴに放り込んだ。
もし、そのフィルタリングを誤認させることができれば? 「有害」なものを「無害」だと錯覚させれば? あるいは、「無害」なものを送り込んで、内側から破壊すれば?
「いや、難しいな……」
そんな高度な心理的干渉や、微細な環境コントロールは、頭の悪い自分には困難だ。
発想を変えろ。
想定として持っておくが、その前にまず考えるべきは、もっと原始的な方法。あいつの「計算」をパンクさせる方法。
人間が一度に処理できる情報量には限界がある。いくら最強の頭脳を持っていても、想定外の事態が同時に多発すれば、処理には確実に「何らかの穴」が起きうるはずだ。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚。五感全てに過剰な負荷をかけ、ノイズを走らせる。その一瞬の隙に、反射の演算に僅かでもラグが生じれば。
……そして、その上で
(……たった一撃)
一発でいい。あいつの顎を撃ち抜く、渾身の一撃が入れば。
人間は、脳が揺れれば倒れる。能力者だろうが何だろうが、脳みそはただのタンパク質だ。
木寺は、工具コーナーへ向かった。次は打撃武器。
ハンマー? レンチ? いや、重すぎる。振りが遅くなる。それに、こういうのは取り回しに慣れてないとろくに扱えない。
「……これか?」
木寺が手に取ったのは、作業用のゴム手袋だった。
薄手の、滑り止めがついた伸縮性のやつ。これをはめて、掌底部分の隙間に……何か硬いものを仕込む。内部に何かを握りこむ形で……相手の骨を確実に砕くためのプロテクター。
「あとは、潤滑油。テグス。……それと、セメントの粉」
カゴが埋まっていく。どれも数百円の安物だ。だが、積み重なればそれなりの金額になる。
そして木寺はレジに向かった。心臓が嫌な音を立てている。わかっている。金が足りないことは、計算しなくてもわかる。
「いらっしゃいませー」
深夜バイトの、金髪で無気力そうな、大学生くらいの男が対応する。ピッ、ピッ、とバーコードを読み取る音。
モニターに表示される金額が、無情に上がっていく。
「合計、4580円になりまーす」
木寺は、財布を取り出した。120円。消費税分にもなりやしない。幼稚園児でもわかる。
「……あの」
木寺は、震える声で言った。
「……金が、ないんです」
「は?」
店員の手が止まった。怪訝な顔で木寺を見る。
「金ないって……じゃあ買えねえじゃん。戻してきてよ」
「……お願い、します」
木寺はその場に膝をついた。プライドなんて、とっくにドブに捨てた。恥も外聞もない。ここでこの道具を手に入れられなければ、俺は死ぬ。俺だけじゃない。あの子も死ぬ。みんな死ぬ。
「カルネアデスの船板」だ。
万引きも当然選択肢としては考えたが……いかんせん荷物が多すぎる。途中で捕まって拘束されたら詰みだ。結局のところ、正面から行くしかなかった。
「……これ、どうしても今すぐ必要なんです。……後で、絶対払いますから。倍にして払いますから……!」
「はぁ? 何言ってんのあんた」
店員はドン引きしている。当然だ。夜中のホームセンターで、土下座してセメントやら接着剤を乞う高校生。完全にヤバい奴だ。
「ツケとかやってねえから。……帰れよ。警備員呼ぶぞ」
店員がレジの下の通報ボタンに手を伸ばす。
「待ってください!!」
木寺は叫び、床に額を擦り付けた。ゴツン、と鈍い音がする。
「警備員は……ダメだ。警備員じゃどうしようもないんだ……!」
「知らねえよ! 営業妨害だぞオラ!」
「お願いします……! 友達の命がかかってるんです……! 人助けだと思って……!」
「ドラマの見過ぎだろ。……じゃあ、筋肉モリモリの店長でも呼ぶか?」
店員が受話器を取ろうとする。万事休すか。いや、諦めない。諦めるわけにはいかない。
「……これを! これを置いていきます!」
木寺は、ポケットからケータイを取り出し、カウンターに叩きつけた。次の実験場付近の地理や、必要な情報はもう一通り、調べられる範囲は調べた。
さらに、学生証。そして、自分が履いていたスニーカーを脱いだ。少し高かった、お気に入りの靴だ。
「ケータイと、身分証と、靴! ……これなら、担保になりますよね!?」
「……えぇ……」
店員は、カウンターに置かれた薄汚れたスニーカーを見て、顔をしかめた。
「汚ねえな……。つか、じゃああんた裸足になんの?」
「構いません! 靴なんて要りません!」
木寺は靴下のまま、床に立ち尽くした。必死だった。目は血走り、鼻水を垂らし、なりふり構わない形相で懇願する。
「頼む……! 頼むよ……! 俺にはこれしかねえんだ……!!」
その姿は、あまりにも無様で、滑稽で、そして鬼気迫るものがあった。
店員は、受話器を持ったまま固まった。
こいつ、本気だ。頭がおかしいのか、それとも本当に切羽詰まっているのか。少なくとも、悪ふざけや冷やかしでないことだけは伝わってきた。
「……チッ」
やがて。店員は舌打ちをして……受話器を置いた。
「……わかったよ。持ってけよ」
「……え?」
「その代わり、朝のシフトが終わるまで……6時までに金持ってこなかったら、このケータイと学生証、アンチスキルに突き出すからな。靴はメロカリで売る」
店員は、木寺の荷物をレジ袋に詰め込んだ。乱暴に、突き出すように渡す。
「……ざけんじゃねえぞ、変態が」
「……ありがとうございます……! ありがとうございます……!」
木寺は何度も頭を下げた。涙が出そうだった。世の中、捨てたもんじゃない。あるいは、俺の必死さが、常軌を逸していただけか。
木寺は袋をひったくり、靴下履きのまま店を飛び出した。硬い地面の熱と、砂利の痛みが足裏に伝わる。痛い。でも、その痛みが、俺を生者として繋ぎ止めている。
:
近くの公園の水飲み場。
木寺は、買ってきた道具を広げた。
ここからは工作の時間だ。手先は器用な方ではないが、今は集中力が極限まで高まっている。
まずは、ゴム手袋。一枚目を右手にはめる。指の動きは多少悪くなるが、誤差の範囲だ。そして掌底の部分に、持っていた50円玉と10円玉を仕込む。120円分の硬貨。
手のひら部分にまんべんなく配置する形で、1つずつ硬貨を張りつける。それを、接着剤で固定する。
メリケンサックではない。
己の拳をブラックジャックにする。石を握りこんで拳の強度を上げるようなものだ。
とはいえ、石を持ったままでは指が満足に使えず戦えない。
だから、手を握れば硬貨を固め込んで相手を殴れるような形にする。
あとは、被せるようにもう一枚のゴム手袋を嵌める。これで完成。
わずかな重量アップと、硬度の補強。これが、俺の財産のすべてであり、最強の一撃を放つための核だ。
次に、スプレー缶。
ノズルの部分にライターを養生テープで固定する。
着火機構を工夫して、片手で操作できるように。簡易火炎放射器の完成だ。暴発したら自分の手が吹っ飛ぶかもしれないが、そんなリスクは勘定に入れない。
小麦粉の袋には、カッターで切り込みを入れる。投げつければ、空中で破裂して粉塵を撒き散らし、効率よく散布できるように。
「……よし」
準備完了。足元を見る。靴下はもう真っ黒で、一部が破れて血が滲んでいる。このままじゃ走れない。
木寺は、レジ袋の余った部分を足に巻き付け、養生テープでぐるぐる巻きにした。テープのおかげで、足音は靴を履くより小さくなっている。
即席の靴。見た目は浮浪者そのものだ。でも、これで砂利道も走れる。
「……行くぞ」
木寺は立ち上がった。
全身が痛い。もう丸一日以上寝ていない。疲労でめまいがする。恐怖で胃液が上がってくる。でも、心は不思議と凪いでいた。
やるべきことが決まったからだ。逃げ道はもうない。
後ろには、眠っている美琴がいる。前には、死にゆく一○○三二号がいる。進むしかない。
「……絶対に、ぶん殴る」
木寺は、闇夜に向かって呟いた。
「レベル0の喧嘩、教えてやるよ」