不規則な異音が辺りに拡散していく。
古びたレールの油臭さが充満する深夜の操車場。
そこは今、一人の弱者と一人の怪物が繰り広げる、歪な箱庭と化していた。
「死ねよ」
地面に敷設されていた鋼鉄のレールが、まるで生き物のように波打つ。
重力と慣性を無視した数トンの質量が、唸りを上げて木寺一桁へと殺到する。
「ッ、ぁぁあああああッ!!」
木寺は、悲鳴を上げながら地面を蹴った。
走るフォームなど滅茶苦茶だ。
体育の授業なら笑いものになるような、無様で必死な逃走。だが、その予測不能な動きだけが、今の彼の命綱だった。
ドギ、ガァァァァッ!!!
轟音が鼓膜を叩き、平衡感覚を揺さぶる。
木寺がコンマ数秒前まで立っていた場所に、ひしゃげたレールが深々と突き刺さっていた。
硬い地面が粉砕され、コンクリの
「っ、ぐぅッ……!」
背中に走る激痛。鋭利な破片が服を裂き、皮膚を浅く切り裂いた感触。だが、死んではいない。
木寺は衝撃波の余波を利用して転がりながら、積み上げられたコンテナの隙間へと滑り込んだ。
「……はぁ、はぁ、ぐァ……ッ」
木寺一桁は反対側から出てまた走る。養生テープとレジ袋で補強しただけの即席の靴が、砂利を踏むたびに悲鳴を上げる。
靴底はあっという間に磨り減り、足の裏はヤスリのような地面で傷つき、血が滲んで靴下を濡らしている。
一歩踏み出すたびに、皮をえぐりだされるような痛みが走る。だが、その痛みこそが、恐怖で麻痺しかける意識をリアルに繋ぎ止める。
(……考えろ。止まるな。脳みそを回せ、木寺一桁!!)
走りながら、木寺はレジ袋の中身をまさぐった。ホームセンターで店員に土下座して手に入れた、総額数千円のガラクタたち。
最新鋭の兵器でもなければ、魔術的なアーティファクトでもない。ただの日用品。これが俺の武器だ。これで、学園都市第一位の演算を
一方通行の能力は『ベクトル操作』。皮膚付近のあらゆるエネルギーの向きを自在に操る神の御業。その中でも、最強の防御手段が『反射』だ。
意識せずとも、寝ていても発動する絶対防御。核ミサイルだろうが紫外線だろうが、奴に害をなすものは全て、触れた瞬間に逆ベクトルを与えられて弾き返される。
──だが、そこには必ず「穴」があるはずだ。
(思い出せ……!)
木寺は走りながら、かつて小萌先生の補習で聞いた内容を必死に反芻していた。能力開発の授業。脳科学の基礎。
もう明日から廃人になってもいい、だけど今だけは。今だけは、限界まで脳の思考能力を前借りしろ。考えろ、復習しろ、選択しろ。
(まず前提だ……)
『反射』が自動で行われるということは、奴の脳は、無意識下で常に「
有害なものか、無害なものか。弾くべきか、受け入れるべきか。
もし、全てのベクトルを反射していたら? 光、重力、音、空気も。すると奴は完全な暗闇と無音の中で窒息し、重力から解き放たれて空へでも放り出されてしまうはず……
だが、一方通行はそこに立っている。呼吸をしている。重力に従って地面を踏みしめ、こちらに殺意を向けている。
つまり、「必要なもの」はホワイトリストに入れられ、「不要なもの」は自動で弾かれているのだ。
その
銃弾や衝撃波、高熱は「有害」。酸素や可視光線、適度な気圧は「無害」。
では、
(……その『選別基準』を、バグらせる!!)
木寺は、迷路の角を曲がった瞬間、足を止めた。ポケットから取り出したのは、二つのスプレー缶。
一つは『シリコンスプレー』。もう一つは『強力瞬間接着剤』のスプレータイプだ。
「……ここだ」
彼は、床にスプレーを撒くのではない。
そんな単純なトラップは、ベクトル操作の前には無意味だ。摩擦係数を無限大にされれば、氷の上でもスパイクシューズのように歩かれてしまうし、逆に極小にされれば粘着紙の上でも平然と足を上げられる。
だから、狙うのは足元ではない。認識だ。
木寺がスプレーを噴射したのは、頭上のコンテナの側面や、足元の瓦礫の隙間、そして何もない空間そのものだった。
シュコーッ、という微かな噴射音と共に、霧状に舞う油分と、速乾性の接着剤が空中で混ざり合い、目に見えない微細な粒子の幕を作る。
「……来やがれ」
木寺は、再び走り出した。
数秒後。背後から、悠然とした足音が聞こえてくる。コンテナを踏み砕く音ではなく、あえて恐怖を煽るように、ゆっくりとした靴音が近づいてくる。
「……チョロチョロと……おもしれえなあ、どこ行きやがったァ」
一方通行の声。微かな興味が入り混じった、なんの危機感も感じていない、絶対強者の響き。
彼は、木寺が通過した「霧」の空間に踏み込んだ。
「……あァ?」
一方通行が、顔をしかめた。何かが反射膜に触れる。ベトつくような、それでいてヌルリとするような、不快極まりない感覚。
反射は発動する。皮膚に触れる直前、気体は逆ベクトルを与えられ、弾き飛ばされるはずだ。
だが、問題はその「処理」だ。
気体や液体は、固体のように単純ではない。弾けば飛散する。霧状の粒子は空気の流れに乗って拡散し、飛散した飛沫が、また別の角度から襲ってくる。
しかも、そこには『
0.00001秒の世界で、彼の無意識下の演算能力が問答を繰り返す。
『弾くべきか? だが弾けば拡散し、再付着のリスクが増大する』『これは攻撃か? いや、ただの汚れだ。だが、呼吸器に入れば有害判定になる』『油膜のベクトルと、硬化しようとする接着剤のベクトルが干渉している。個別に逆算が必要か?』
もちろん、最強の演算性能を持つ彼にとって、それは瞬きする間の遅延にも満たない些事だ。物理的なダメージはゼロ。防御は完璧に行われる。
だが、重要なのは「ダメージ」ではない。「
「……うざってェな、クソが」
一方通行は、不快そうに腕を振った。顔の周りにまとわりつく空気を、ベクトル操作で強引に吹き飛ばす。
生理的な嫌悪感。服や髪が汚れることへの本能的な忌避感。何より、自分の許可なく「何か」がパーソナルスペースに侵入してきたという事実。
それが、彼の脳内リソースを、ほんの0.00パーセントだけ「汚れの回避」……防御へと割かせた。
殺害のための演算領域が、汚れを弾くための演算に食われる。
(……いいぞ。まずはジャブだ)
木寺は、コンテナの陰で息を殺した。心臓の音がうるさい。自分の呼吸音が、爆音のように聞こえる。
攻撃を通すことなんて「まだ」考えていない。狙いは
次は、聴覚だ。
木寺は、レジ袋の中から『防犯ブザー』を取り出した。女子高生や子供がカバンにつけるような、安っぽいプラスチック製のやつだ。
彼は三つのブザーの紐を同時に引き抜き、それを自分とは逆方向のコンテナの隙間、通気口、そして瓦礫の下へと投げ込んだ。
ピリリリリリリリリリリリ!!
ギャリリリリリリリッ!!!
鼓膜をつんざく高周波音が、狭い通路に鳴り響く。一つではない。三つ。それぞれが微妙に音程の違う不協和音を奏で、鉄の壁に反響し合い、音源の特定を困難にする音の嵐となる。
「……うるせェ!!」
一方通行が叫んだ。彼は、音のベクトルを操作して、自分の周囲だけを静寂にしようとする。
だが、音は空気の振動だ。完全に遮断すれば、周囲の状況がわからなくなる。特に、この暗闇の中で、木寺のように存在感の薄い相手を追う状況だ。足音を聞き逃すリスクは、彼のような捕食者にとっても無視できないはずだ。
「……どっちだ? あァ?」
一方通行が、つらつらと首を巡らせる。軽い苛つきを覚えているのが遠目にもわかる。「反射」の設定を、
最強であるがゆえに、全ての情報を処理できてしまうがゆえに、奴は不要な情報も拾ってしまう。
木寺は、その隙を突いて移動した。足音を忍ばせて。呼吸を止めて。
「俺はここにいない」
「俺はただの背景の一部だ」
自己暗示をかけながら、影から影へと渡り歩く。
(……まだだ。まだ足りねえ!)
あいつの脳は、学園都市一のスパコンだ。この程度のノイズなら、すぐに最適化されて適応してしまうだろう。「音は無視して視覚情報に頼る」とか、「周囲一帯を吹き飛ばす」とか、思考を切り替えられたら面倒になる。
もっと、混沌を。もっと、理不尽を。もっと、「わけのわからないこと」を押し付けろ。
木寺は、次のエリアへと誘い込んだ。そこは、スクラップ寸前の廃コンテナが乱雑に積み上げられた場所。足場が悪く、鉄屑やガラス片が散乱している。
木寺は、走りながらポケットから『テグス』を取り出した。リールから糸を引き出し、コンテナの取っ手や、飛び出した鉄筋に素早く巻きつけていく。
足元ではない。顔の高さ。首の高さ。眼球の位置。闇夜に紛れる、見えにくい透明な糸。
ざ、ざり、ざり。
直後、誘導した通り、一方通行が追ってくる。彼は、足元の障害物を気にも留めず、ベクトル操作で踏み砕いて一直線に進んでくる。
その顔に、テグスが触れた。
ビシィッ!
糸が切れる音。反射が発動し、テグスは千切れる。物理的なダメージはやはりゼロ。皮膚に傷一つつかない。最強の反射の前では、鋼鉄のワイヤーだろうと絹糸と同じだ。
だが、「見えない何かが顔に触れた」という事実は残る。
「……ッ!」
一方通行が、反射的に顔を払った。蜘蛛の巣にかかった時のような、生理的な不快感。
何があるかわからない。見えない罠があるかもしれない。爆発物のトリガーか? 毒か? あるいは能力による攻撃か?
その疑心暗鬼が、彼の「ホワイトリスト」の基準を厳しくさせる。
『正体不明のものは、とりあえず弾く』
そう認識させてしまっても、それはそれでいい。過剰な防御は、演算の無駄遣いを生む。
空気中の塵埃、風の揺らぎ、温度変化。
普段なら無意識に、無害として処理している微細な情報まで、「敵性トラップかもしれない」と疑わせることで、彼の脳に常時フルスキャンを強いるのだ。
「……テメェ。戦う気があんのか? それとも嫌がらせがしたいだけかア!?」
一方通行が立ち止まり、周囲を睨みつける。その赤い瞳には、確かに、徐々に徐々に苛立ちが強く積み上がり始めている。
木寺は、物陰からそっと様子を窺った。心拍数は限界を超えている。まともに対峙したら、確実に殺される。
(……戦う気? あるに決まってんだろボケ)
木寺は心の中で毒づいた。これは、ただの嫌がらせじゃない。お前を倒すための、地味で、陰湿で、気の遠くなるような下準備だ。
(……試すぞ)
木寺は、ポケットから丸めたティッシュペーパーを取り出した。さっき鼻水と冷や汗を拭いた後の、汚くてくしゃくしゃのゴミ。
軽く、柔らかく、殺傷能力など皆無の物体。木寺は、濡れた指先を上げて風を読んだ。この操車場には、コンテナで形成された、不規則な風の流れが吹き込んでいる。
その風に乗せるように、小さく破いたティッシュを放った。
ふわ……。
白いゴミが、闇の中を漂う。殺気はない。速度もない。ただの、風に舞うゴミだ。
一方通行は、木寺の姿を探して視線を巡らせていた。その視界の端を、小さなティッシュ屑が横切る。
彼は、それを気に留めなかった。チラリと一瞥しただけで、視線を外した。
反射の感覚は、今「有害な攻撃」や「未知のトラップ」に向けられている。こんな風に舞うゴミくず、意識する価値もない。無害な背景の一部だ。
ティッシュが、風に乗って一方通行の頬に近づく。反射は……発動しない。弾かれない。風のベクトルをそのまま受け入れて。
ぺたり。
「……あ?」
一方通行が、手でそれを剥がした。一瞬の、呆け。理解が追いつかない空白の時間。
攻撃ですらない。ダメージもない。だが、ただのゴミが、核攻撃すら防ぐ最強の絶対防御をすり抜けて、彼の肌に触れたのだ。
(……通った……!!)
木寺は、心の中でガッツポーズをした。心臓が破裂しそうだ。仮説は正しかった。
あいつの反射には、やはり穴がある。「無害」と判断されたもの、あるいは「認識の外にある微弱なもの」は、フィルタリングをすり抜ける。
質量が小さく、速度が遅く、そして何より……敵意が付着していないもの。
「……俺と同じだ」
木寺は、自分の泥だらけの手を見た。俺には能力がない。AIM拡散力場がない。
学園都市のシステムからも、クラスメイトの認識からも、かつて弾き出された「反応なし」。
つまり、俺自身が、あのティッシュと同じ「無害なゴミ」にまでなりきれば。あいつの認識の穴を突いて、懐に入り込めるかもしれない。
「……っ」
笑いがこみ上げてくる。恐怖と、興奮と、そして狂気が混じり合った笑い。
行ける。まだ、可能性はゼロじゃない。俺の弱さが、最強を殺すための鍵になりつつある。
「……なんなんだよ、テメェは……」
一方通行がひく、とその頬を動かした。
彼は、ティッシュを握り潰し、地面に叩きつけた。いい加減、あの男のおふざけにむかっ腹が立ってきていた。
そして、姿を見せない敵に、おちょくられていることに。何より、自分の完璧なはずの演算に、理解できない「綻び」が生じていることに。
彼は自分が意識しないうちに、確かなストレスを感じつつあった。
「出てこいよオラァ! 隠れてコソコソしてんじゃねェぞォ!」
ド、オオオォォオオ!!
一方通行が足を踏み鳴らす。衝撃波が広がり、周囲のコンテナが揺れる。無差別攻撃。焦りが見える。冷静さを欠いた王は、ただの暴君だ。
(……いいぞ。もっと怒れ。もっと冷静さを失え!)
木寺は、距離を取りつつ、次のトラップの準備をした。最後の手持ち花火。これを束にして、一気に点火する。視界を奪い、聴覚を奪い、さらにイラつかせる。
ここからは、泥沼の消耗戦だ。
が。
シュボッとライターの火花が散った瞬間。
「……そこかァ!!」
一方通行が反応した。速い。ライターの音と光に、即座に反応した。
風の弾丸が、木寺の隠れているコンテナの角を削り取る。
「うがぁっ!?」
木寺は転がり出た。花火を放り投げながら、無様に逃走する。
だけど、カッコ悪くてもいい。這いつくばってもいい。生き延びて、あいつの脳みそを焼き切れ。それだけを考えて、木寺は持ち直す。
「よーやく見つけたぜェ」
一方通行が追ってくる。その背後で、花火がパチパチと爆ぜる。煙と閃光。だが、一方通行は止まらない。煙を切り裂き、殺意の塊となって迫ってくる。
(……速え!!)
木寺は必死に足を動かした。
次のポイントへ。あの袋小路へ。