「…………、」
ゆっくりと歩を進めながら、
辺りから無茶苦茶な爆音が響き、金属がひしゃげて舞っている。
その視線の先を転げながらチョロチョロと逃げ回る、明らかに弱者である、あの薄汚いネズミの存在。
「また、当たらねェなあ」
彼が漏らした呟きは、夜風に溶けて消えた。だが、その事実は彼の脳髄に、焼印のようにこびりついて、徐々に膨れていく。
一回ならまぐれだ。 だが、これでもう三回目だ。 最初の小石も、さっきのレールも、今まさに仕掛けている数々の攻撃も。
計算上は「必中」の軌道を描いているはずだ。 風向き、空気抵抗、相手の回避速度。すべてのベクトルを計算し、最適解を出力した。
なのに、
一方通行の脳内──学園都市最高の演算能力を持つその場所で、微細なエラーログが蓄積されていく。
『対象座標の特定……完了? 否、揺らぎあり』 『敵対性判定……希薄。背景ノイズと区別不能』 『ベクトル誘導……微細なスリップ現象を確認』
ギチリ、と頭の中で何かが噛み合わない音がする。
視界には捉えている。あそこにいる。泥だらけの背中が見えている。だが、能力を行使しようと意識を集中すると、対象の輪郭がぼやけるのだ。
まるで、精巧なホログラムを見せられているかのように。あるいは、解像度の粗いテクスチャが貼り付けられただけのポリゴンのように。
「……チッ。マジでなんなんだァ、テメェ」
一方通行は、苛立ち紛れに足元の砂利を踏み砕いた。
ほら、まただ。
殺すという明確なベクトルを叩き込もうとしても、脳が無意識に何もないと誤認し、出力を抑制していく。
気持ち悪い。まるで、ゴーストを相手にしているようだ。
『そこには何もない』
『ただの空気が流れているだけだ』
そんな誤った
これは、木寺一桁の持つ「反応なし」という特性が引き起こす、致命的なバグだった。
能力者たちは、無意識に対象の放つ力場を観測することで、その存在を確定させている。
特に一方通行のような、反射を常時展開している高位能力者にとって、それは呼吸をするように当たり前の感覚処理。
だが、木寺にはそれがない。一方通行の演算にとって、木寺一桁は「存在しているのに、数値上は存在していない」という矛盾したデータなのだ。
システムが「敵」として認識しないものを、意識的に「敵」として処理しなければならないストレス。それが、最強の怪物の精神をじわりじわりと蝕んでいく。
「……ムカつくなァ。そういう能力かよ」
一方通行は結論づけた。 相手は確実にレベル0ではない。レベル3の上位か、あるいはレべル4相当かもしれない。
認識を阻害する、何らかの環境干渉系か、もしくは特殊な迷彩能力者だ。
そう定義し直すことで、彼は自身の計算ミスを修正しようとした。
「なら、関係ねェ」
彼は両手を広げた。 精密射撃が通じないなら、面制圧だ。 認識し辛いなら、空間ごと押し潰せばいい。
個別の「点」を狙うから外れるのだ。木寺一桁が存在するであろう「面」そのものを消滅させれば、誤差など関係なくなる
:
「…………、」
その様子を、少し離れたコンテナの上から見下ろしている影があった。
御坂一○○三二号。彼女は、木寺に逃げろと言われた後も、ただ困惑し、その場にとどまっていた。
「……理解不能です」
彼女の無機質な思考回路が、疑問符を吐き出していた。
眼下で繰り広げられる、泥沼の鬼ごっこ。一方的に狩られるはずの弱者が、最強の捕食者を翻弄している。
「キデラの戦闘行動は、逃走と挑発を繰り返すのみ。有効な攻撃手段を一切持たず、どんどん一方的に疲弊しています。……なのに」
なのに、彼は死んでいない。一方通行の攻撃を、紙一重でかわし続けている。そして、一方通行の苛立ちが、加速度的に増しているのがわかる。
「……彼は、勝つつもりなのですか? あの、最強に?」
常識では考えられない。レベル0が、レベル5に勝つ確率など、万に一つもない。だが、目の前で起きている現実は、その常識を否定しているように見えた。
「……なぜ」
なぜ、そこまでするのですか。ミサカなんて、ただのクローンなのに。死んでも、代わりはいくらでもいるのに。
一○○三二号の胸の奥で、小さなノイズが走った。それは、今まで感じたことのない、じわりとする、欠陥の様な痛みだった。
彼女は、無意識のうちに、だらんと下げた両手に力を込めていた。
:
「……おーい、根暗で陰気なドブネズミちゃあん、そろそろ駆除いいかなア?」
一方通行の声が近づいてくる。彼は、コンテナを蹴り飛ばしながら歩いてくる。障害物を避けるのではなく、破壊して進む。もはや冗談のような光景だ。
「こいつで、終わらせてやろうかナァ?」
一方通行が、足を止めた。彼は、逃げ回る木寺を追うのをやめた。その顔から、サディスティックな薄ら笑いが消えている。残ったのは、生理的な不快感と、少しのかったるさ。
ハエを叩き潰す時の、あの感情に似ていた。
一方通行が、手をかざした。風が集まる。ヒュ、ウウウウ……と徐々に低い唸りを上げて、大気が彼の手のひらに収束していく。
圧縮された空気の塊。見えない砲弾。それを、木寺の逃げ込んだコンテナの隙間に向けて放つ。
ドォ、ガアアアアアアァァアア!!!!
爆音。衝撃波が、狭い通路を津波のように駆け抜ける。鉄のコンテナが内側からひしゃげ、塗装が剥がれ飛び、積まれていた荷物が破裂する。
「ぐ、あああぁああッ……!」
木寺は吹き飛ばされた。直撃ではない。衝撃波の余波だ。だが、それでもトラックにはねられたような衝撃が全身を襲う。
背中をコンテナの角に強打し、肺の中の空気が強制的に排出される。視界が明滅し、金色の火花が散る。
「……かはっ、げほっ……お、ぐうう………………」
地面に転がり、血を吐く。口の中が一気に鉄の味で満たされる。痛い。熱い。苦しい。
まずい、もろに食らった。
右足が痺れて感覚がない。肋骨が何本かいったかもしれない。限界か。いや、まだだ。まだ…………、
「ッ…………」
木寺は、霞む視界の中で、一方通行の姿を探した。あいつはまだ、余裕を持っている。苛立ってはいるが、全然疲弊なんてしてはいない。まだ、あいつは「本気」じゃない。
もっと、引きつけなければ。もっと、深い泥沼へ。もっと、もっと、もっと。
木寺は、這いつくばったまま、手元のレジ袋を探った。指先が触れたのは、冷たいスプレー缶と、小さなプラスチックの塊。
『殺虫剤』。
『100円ライター』。
簡易火炎放射器。
そして、さっき逃走経路で拾った、生ゴミの入ったコンビニ袋。
「……食らい、やがれ…………」
木寺は、思い切り生ゴミを空中に投げつけた。放物線を描いて飛んでいくゴミの袋が緩んでいる。
そして、震える指で狙いを定め、ライターを着火する。
ボッ!!
空中で殺虫剤のガスに引火し、オレンジ色の炎が膨れ上がる。爆発的な燃焼。そして、その炎が、一緒に投げられた生ゴミの袋を焼き溶かし、中身を撒き散らす。
腐った弁当の残り。生ぬるいコーヒーの澱。正体不明の粘液。それらが熱で気化し、強烈な悪臭となって周囲に拡散する。
「……ああ?」
一方通行が、とっさに鼻を覆った。臭い。腐敗臭と化学薬品の混ざった、鼻の粘膜を直接焼くような最悪の臭気。
「反射」は、物理的な攻撃は弾ける。
熱も、衝撃も、弾丸も。
だが、気体や光、音といった環境そのものは、完全には遮断できない。呼吸をする以上、空気は取り込まなければならないからだ。
それらをより分ける事自体は可能だが、普段からデフォルトで設定しているわけではない。
ゆえに酸素と一緒に、悪臭分子が彼の肺に侵入する。
「臭ェんだよ、クソがッ!!」
一方通行が、風を操って悪臭を吹き飛ばす。その顔は、不快感で歪んでいた。
彼はナルシストだ。自分を世界で一番だと思っている。
そんな清潔な彼の世界が、ゴミに汚されたことへの憤り。
それが、彼の冷静な演算をまた、少しずつ蝕んでいく。脳のリソースが、「臭いの遮断」と感情的な部分……「怒りの処理」に割かれる。
(……効いてる、ぞ)
木寺は確信した。あいつは、最強の能力者だ。正面からの殴り合いなら、戦車部隊が来ても勝てないだろう。
だが、精神的にはただのガキだ。不快なもの、思い通りにならないもの、汚いものに対する耐性が極端に低い。そこを突く。徹底的に、嫌がらせをする。
神様の座から、泥沼の喧嘩に引きずり下ろしてやる。
「……まだまだ、これからだぞ」
木寺は、よろよろと立ち上がった。足の裏は、もう感覚がない。養生テープで巻いた即席の靴はボロボロに破け、血が滲んで地面に赤い足跡を残している。
でも、痛みを感じている暇はない。アドレナリンが脳を焼き、恐怖と興奮が混ざり合った奇妙な高揚感が彼を突き動かしている。
次は、あそこだ。事前に目を付けておいた場所。積み上げられた廃コンテナの迷宮。そして、その奥にある『食品原料』のマークがついたコンテナエリア。そこに、最大の罠を仕掛けてある。
「……こっちだ、クソガリ野郎!!」
木寺は声を張り上げ、挑発した。自分の位置を知らせるように。音を頼りに、怪物を誘導するように。
「殺す……嬲ってやるよカスが……」
一方通行の吐き捨てるような声が、わずかに、地の底から響くように聞こえる。
釣れた。完全に、頭に血が上っている。
計算能力が低下してきているはずだ。
木寺は、廃コンテナエリアへと逃げ込んだ。そこは、迷路のようだった。無造作に積み上げられた錆びた鉄塊が、複雑な影を落としている。
木寺は走りながら、ポケットから『手鏡』を取り出した。安っぽいプラスチックの鏡だ。
彼はそれを割り、破片を地面やコンテナの隙間にばら撒いた。
そして、小型のLEDライトを点灯させ、鏡の破片に向けて転がしておく。
チカ、チカチカ。不規則な光の反射。鏡の破片がライトの光を乱反射させ、暗闇の中に無数の光源を作り出す。
それは一方通行にとって、ただの光ではない。「何らかの兵器の照準かもしれない」「能力による攻撃の予兆かもしれない」。
そんな疑心暗鬼を生むための、光のノイズだ。
木寺は、口元の血を拭いつつ、最後のコーナーを曲がった。
行き止まり。三方を高いコンテナに囲まれた、袋小路。逃げ場のない、処刑場のような空間。
だが、木寺は止まらなかった。袋小路の奥、壁のようにそびえるコンテナの前で、彼は振り返った。
カつり、かつり。
入り口から、処刑人の足音が近づいてくる。一方通行が、逃げ場を塞ぐように現れた。
その顔には、嗜虐的な笑みが戻っていた。獲物を追い詰めた捕食者の、残忍な笑み。
「よー……やく、追い詰めたぜェ」
白い怪物が、ゆっくりと歩み寄ってくる。背後の闇が、彼に従うように揺らめく。
「さァて……どうやって料理してやろうか?」
彼は指を鳴らした。ぱちり、と。
その音だけで、周囲の空気が振動し、木寺の鼓膜を圧迫する。
木寺は、後ずさりした。背中が冷たいコンテナの鉄板にぶつかる。逃げ場はない。
上を見る。コンテナが高く積み上げられ、空は見えない。左右も壁。前には一方通行。どう見てもチェックメイトだ。
「……くは」
木寺は笑った。引きつった、泣きそうな、それでも挑発的な笑顔で。
「……料理されるのは、お前の方だぜ。マッチ棒野郎」
「……ああん?」
木寺は、背中に隠していた手を動かした。その手の中には、壊れたナイトゴーグルのパーツが握られている。バッテリーが残っている基板。コードが剥き出しになっている。
これは、彼がミサカ一○○三二号の前に立ちふさがった時に回収していたものだった。
これをショートさせれば、火花が出る。
ただの小さな火花だ。ライターの火よりも小さい。
だが、場面と状況が整えば、その火花は地獄の業火を呼ぶ呼び水となる。
(くそ、やっぱりリスクを取るしかねえ……この至近距離、確実に当てるには火炎放射の着火じゃダメだ……!!)
彼が狙うのは不意打ちだった。
木寺の背後のコンテナ。そこには、ここに来た段階で目を付けていた『輸入用強力粉』のステッカーが貼られていた。
コンテナの留め具の南京錠はあらかじめ壊し、僅かに開けている。彼が、ミサカ一○○三二号を助けに行く前に準備した、唯一の置きトラップ。
中から大量の白い粉が漏れ出している。そして、さっきの爆風や、一方通行が起こした風によって、この閉鎖的な空間には今、目に見えないほどの微細な粉末が、空気中を漂っている。だが、それは、暗闇に紛れて一方通行の目にも認識されていない。
つまり粉塵爆発。その条件が整っていた。
密閉空間。可燃性粉塵の浮遊。そして、着火源。
(……上条なら、ここでカッコいい啖呵を切るんだろうな)
木寺は口元を歪めた。あいつなら「その幻想をぶち殺す」とかなんとか叫んで、あの右手を果敢に突き出すんだろう。
でも、俺にはそんな右手はない。そんな余裕もない。ただ、いつだって必死なだけだ。
泥水をすすって、ゴミを投げつけて、プライドも何もかも捨てて、ここまで生き延びた。その全てを、この一瞬に賭ける。
爆弾バカから学んだ豆知識だ。自前の小麦粉をあらかじめ散布し導火線に、爆風の通り道から放たれる大雑把な一撃──
「……喰らえ」
木寺は、基板のコードを引きちぎり、ショートさせた。
バジッ。
小さな、本当に小さな青白い火花が散った。それが、空気中を漂う高濃度の粉塵に触れた瞬間。
カッ!!!!
世界が、閃光に包まれた。音が消えた。光が全てを塗りつぶした。
次の瞬間。圧縮されたエネルギーが、出口を求めて暴れだす。
ド、ゴオオオオオォォォオオオオッ!!!!!
爆轟。
空中に浮遊する数億の粉末粒子が、連鎖的に燃焼し、爆発的な膨張を引き起こす現象。その衝撃は、物理的な打撃を超え、空間そのものを焼き尽くす熱波の津波となる。
火炎が渦を巻き、コンテナの壁を舐め尽くし、一方通行の立つ位置までを一瞬で飲み込んだ。
「……が、あああああああぁッ!!」
木寺自身も、爆風を体がかすめていく。計算通りだ。が、ほとんど自爆覚悟の特攻。
だが、小麦粉の入ったコンテナ内部の構造が筒状であり、木寺の撒いた小麦粉にも誘導されているため、爆風のメインストリームは前方──一方通行のいる方向へと指向性を持って噴出される。
木寺はコンテナの隅、起爆の瞬間わずかな死角に身を縮めていたが、それでも余波は大きい。
体が宙を舞い、背中を強打する。熱風が皮膚を焼き、鼓膜が破れそうなほどの圧力がかかる。
全身の骨が悲鳴を上げる。意識が飛びかける。
「ッ、あ、があああ…………」
体が、はじけ飛ぶかと思った。意識を保ててるのは本当にただの幸運だ。まだ、木寺は、五体満足だ。
(……や、った、か……?)
薄れゆく視界の中で、木寺は爆心地を見た。紅蓮の炎。もうもうと立ち込める黒煙。
あれだけの爆発だ。無傷で済むはずがない。反射で熱や衝撃は防げても、この現象の本当の恐ろしさはそこじゃない。
『酸素の消失』だ。
急激な燃焼によって、あいつの周囲の空間の酸素が一瞬にして消費され、真空に近い状態が生まれるはず。
人間は酸素がなければ生きられない。最強の能力者だろうと、呼吸ができなければただの肉塊だ。あいつは今、炎にモロでまかれ、全身の周囲から常に酸素が、燃焼反応で奪われ続けている状態の、はず……
「…………、」
が。
そして。
煙が晴れていく。焦げ臭い匂い。小麦の焼ける匂い。その中心に、白い影が普通に立っていた。
「……ハッ」
笑い声。どこか粘度のある、嘲るような笑い声が聞こえた。
一方通行は、無傷だった。服に煤ひとつついていない。髪の毛一本焦げていない。
彼は、自分の周囲の空間をねめつけ、つまらなそうに言った。
「……粉塵爆発か。理屈はよおく知ってるが……実践するのは初めて見たぜ。てめえ、漫画やアニメの見過ぎじゃねェのかァ?」
「……う、そ……」
「指向性を持たせたのは面白いアイデアだったが、雑すぎんなァ」
木寺の喉が引きつる。なぜだ。酸素は? 真空は?
「熱、衝撃、爆風……ベクトルが単純すぎるんだよ。球状に反射して、断熱圧縮で防いだ。酸素? 肺の中の空気を循環させりゃ、数分は持つ。例え辺り一面が火の海になろうとなァ」
一方通行は、一歩踏み出した。その顔には、先ほどまでの苛立ちはなく、冷徹な「観察」だけがあった。
彼は、木寺の小細工を完全に「理解」し、「対応」し、そして「無効化」してしまったのだ。
最強たる所以。どんな奇策も、どんな科学的トラップも、圧倒的な演算能力の前には児戯に等しい。
酸素欠乏さえも、体内の酸素循環効率を操作することでカバーしてしまったのか。
「……悪くねェ花火だったよ。だが……」
彼は、倒れ伏す木寺の前に立った。影が落ちる。死の影だ。
「……俺には届かねェ」
絶望。科学も、知恵も、覚悟も、勇気も。全てが、絶対的な「力」の前に無効化される。
これが、レベル5。これが、第一位。レベル0の浅知恵など、通用するはずがなかったんだ。
「……あ、が……」
木寺は、血を吐きながら後ずさろうとした。だが、体は動かない。手足がさっきより明らかに重い。
まずい。もう、この場で切れる手札がない。立て直さなくては。袋の中も、ポケットの中も、空っぽだ。まだ、まだ、届いていないのに……。
「……なぁ」
一方通行が、木寺の頭を踏みつけた。グリグリと、靴底をこめかみに押し付ける。痛い。骨がきしむ音。
「お前、何なんだ?」
純粋な疑問。怒りでも嘲笑でもなく、理解不能な未知の生物を見る目。
「どー見ても弱っちいただのゴミ。味方もいねェ。力もねェ。……靴すらねェじゃねえか」
彼は、木寺の足元を見た。レジ袋と養生テープの靴は、爆風で吹き飛び、今は裸足だ。泥と血にまみれた、傷だらけの足。
「空っぽだ。テメェの中身は、何一つねェ。……そんな出来損ないが、なんで俺に歯向かう? なんで絶望しねェ?」
一方通行は、木寺の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。泥だらけの顔。恐怖で歪んだ表情。
だが、その目だけは。まだ、死んでいないように見える。
そこにあるのは、諦めではない。空っぽだからこそ抱ける、底なしの渇望。
「……空っぽ、だからだよ……」
本心は、もう、心なんて折れかけていた。
それでも、木寺は、引きつった笑みを浮かべた。
口の中の血を吐き出し、怪物を睨みつける。
「……空っぽだから……詰め込めるんだよ」
「あァ?」
「お前を倒すための……悪意と、殺意と……執念をな……!」
木寺は、隠し持っていた最後の武器──ポケットの底に残っていた、一握りの『セメントの粉』を握り締めた。
これは攻撃ではない。ただの粉だ。だが、その粉には、砕いたガラス片と、激辛唐辛子スプレーの中身が練り込んである。
吸い込めば呼吸器系をやられる。目に入れば激痛が走る。ただの嫌がらせ。だが、今の木寺にできる、命を削った最後の抵抗。
「……ッ!」
木寺はそれを、一方通行の顔めがけて全力で投げつけた。
ぶわ、と灰色の粉塵が舞う。
一方通行は反射的に顔を背け、風で粉を弾き飛ばした。ノーダメージ。粉は彼の肌に触れることさえなく、逆ベクトルで四散した。
だが、その一瞬の隙。彼が顔を背け、意識を防御に向けたコンマ数秒。
木寺は体をよじり、髪を掴んでいた一方通行の手から逃れた。あるいは、一方通行が、本能的に汚れを嫌がって、わざと手を離したか。
「……まだだ……まだ、終わってねえ……!」
這いつくばりながら、距離を取る。みっともない。無様だ。虫けらのように地を這う。でも、生きている限り、勝負は終わっていない。
「……ふん」
一方通行は、自分の手を払った。指先に、わずかにセメントの粉が残っていた。空気の流れに乗って付着しただけの、微細な汚れ。
それに、一方通行はまだ気づいていない。この汚れが、彼の反射の精度を、ミクロ単位で狂わせている証明だということに。
そして、この泥臭い抵抗の積み重ねが、最強の怪物の精神に、取り返しのつかないヒビを入れていることに。
「……いいぜ」
一方通行の声から、感情の色が変わった。それは、彼が次のステージに変わった合図だった。
遊びの続きだ。実験動物としての価値すらない異物として、完全に解体していく。
「認めてやるよ。テメェはただのゴミじゃねェ」
彼は、また両手を広げた。周囲の風が、不穏な音を立てて渦巻き始める。反射ではない。積極的な攻撃への転用。大気を操り、破壊の嵐を呼ぶ準備。
「……ゴミクズだ。……じっくりと、消去してやる」
最強が、演算プロセスを切り替えた。それは、木寺一桁にとって死の確定であり、同時に……彼が待ち望んでいた、たった一つの可能性の訪れでもあった。